露伴/ロス・トーマス/ウェストレイク

「幸田露伴」(斉藤礎英 講談社 2009)
「露伴は時間を止めてうたいだす」
と、いうことが書かれている長編評論。
この「うたいだす」ことを、著者は「エピファニー」と呼んでいる。

「露伴の小説がなんらかのエピファニー(ある種の宗教的な悟り、日常とは異なる時間が流れる仕事への没頭、全存在をかけた感情の奔出、いままでとは異なる認識の枠組みを得ること、など)をめぐるものであることは既に述べた。デビューしてから死までの60年間の作家生活は、このテーマの千篇一律の繰り返しだったと言ってもいい」

エピファニーの訪れる瞬間は、たとえば初期では「五重塔」の暴風雨。
後期では「運命」暴風雨。
「幻談」「観画談」「連環記」などにも、この瞬間がある。

物語の叙述を止め、うたいだす露伴作品には、ストーリーにしたがい、登場人物たちの関係性が変わったり、ちがう側面をみせたりなどということがない。
だから、露伴の歴史小説は、小説というより、語りたいことだけ語った講談のようなものになる。

以前から露伴が好きで、あの文章に歯が立たないながらに(「運命」は一度も通読できたためしがない)読んできたのだけれど、この本を読んで、自分がなぜ露伴が好きかようやくわかった気がする。
露伴はエピファニー作家だからだ。
この発見は大変うれしい。

おなじエピファニー作家として、開高健がすぐに思い浮かぶ。
自分が好きな作家のラインに、エピファニー作家の系譜があるんだとわかったのは大収穫だ。

「暗殺のジャムセッション」(ロス・トーマス 早川書房 2009)
「冷戦交感ゲーム」(1985 早川書房)の続編だそう。
まさか、いまごろ出版されるとは。

「冷戦交換ゲーム」は読んだけれど、ストーリーはまるきり忘れてしまった。
ロス・トーマスの作品は、どれも話がややこしくておぼえていられない。
あるとき、風邪で寝こんだとき、「黄昏にマックの店で」(ハヤカワ・ミステリアスプレス文庫 1997)を読んだら、なにが進行しているのかちっともわからなくてびっくりした。
にもかかわらず、面白かったという気分だけは残った。

ロス・トーマス作品でいちばん有名なのは、たぶん「女刑事の死」(ハヤカワ文庫 2005)だろう。
読んだなかでは、「モルディダ・マン」(ハヤカワ・ミステリアスプレス文庫 1989)が好みだ。
この作品は、比較的わかりやすいと思う。

ロス・トーマスは、導入を書くのが猛烈にうまい。
「暗殺のジャムセッション」は、主人公マッコークル(マック)の一人称。
「冷戦交換ゲーム」のあと、ワシントンに「マックの店」をかまえ、恋人フレドルと結婚したマック。
そこに、かつての相棒パディロが転がりこんでくる。
某国の首相暗殺を依頼されたパディロは、それを断って逃げ出してきたのだったが、依頼者たちはなんとしてもパディロにやらせようと、マックの妻を誘拐して――。

このあと、ストーリーは2転3転どころじゃない展開をみせる。
ロス・トーマスのほかの作品もそうだけれど、ほとんどナンセンス小説ぎりぎり。
でも、1人称のおかげか、ロス・トーマス作品にしてはわかりやすい。
ラストも切れ味よく終わっていて、とても楽しめた。

ただ、タイトルだけはいただけない。
これでは、ウェストレイクの「悪党たちのジャムセッション」(ドナルド・E・ウエストレイク 角川文庫 1999)と間違えてしまう。

「欺かれた男」(ロス・トーマス 早川書房 1996)
「暗殺のジャムセッション」が面白かったので、まだ読んでいなかったこの本も読んでみた。
ロス・トーマス最後の作品だ。

元陸軍少佐で、現在はとある銃砲店につとめるエド・パーテイン。
そこに、元上官である大佐があらわれる。
以前、エルサルバドルで起きた事件の口止めにやってきたのだ。
大佐のために仕事を失ったバーテインは、とある人物から、ミリセント・アルフードという婦人の、ボディガードの仕事を得る。
政治資金調達のエキスパートである彼女は、最近、自宅に保管していた120万ドルを盗まれていて――。

この作品はややこしかった。
途中、どのへんが伏線なのかもよくわからないほどのややこしさ。
でも、最初と最後はさすがの上手さだ。

あと、この作品では、年老いた男たちの痛々しさが印象的だった。
作者の年齢を反映したものだろうか。

「忙しい死体」(ドナルド・E.ウェストレイク 論創社 2009)
ウェストレイクの新刊もでた。
じつにうれしい。
本書は、ハードボイルド作家として出発したウェストレイクがはじめて手がけたユーモア・ミステリだそう。

3人称1視点。
主人公はギャングのエンジエル。
ヘロインの運び屋だった仲間が死に、盛大な葬式が。
しかし、仲間は大量のヘロインを身につけたまま埋葬されてしまった。
そこで、エンジェルはボスに命じられ、仲間の死体を掘り返すことに。

ところが、いざ掘り返してみると、仲間の死体がない。
警官や謎の美女、世話焼きの母親などの妨害をうけながら、エンジエルは死体をもとめて奔走する。

ストーリーというより、プロットがうまい。
カードの出しかたがうまい、といいたくなる。
でも、ウェストレイクのほかのユーモア・ミステリ作品とくらべると、もうひと声と思ってしまう。
なにかがものたりない。
でも、それがなんなのか、正直よくわからない。

ドートマンダー物のケルプのような、とぼけたキャラクターがいないせいだろうか。
シチュエーションの荒唐無稽さがたりないのか。
それとも、語り口の滑稽味がいささかとぼしいのか。
理由をさぐるために、「我輩はカモである」(ハヤカワ文庫 2005)を再読しないといけないか。

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