日本語の素顔

「日本語の素顔」(外山滋比古 中央公論社 1981)

外山滋比古さんは、本や日本語についてのエセーをたくさん書いているひと。
いちばん有名なのは「思考の整理学」(筑摩書房 1986)だろうか。
本屋で平積みになっているのをよくみかける。
そこにあるポップも、どこの店でも同じなのは、出版社がくばっているせいか。

さて、本書はタイトルどおり、日本語についての本。
さらにいうと、日本語についての小言の本だ。
このなかに、描出話法についてわかりやすく述べてある箇所があったので、メモを。

まず、調節話法と間接話法はこんな風にちがう。

「人の言ったことばを引用句で包み、そのまま伝えるのが直接話法」
「その趣旨をとって自分のことばに直して伝えるのが間接話法」

なるほど。
さらに、この中間にあたるような表現がある。
それが、描出話法。

「1924年、デンマークの言語学者、英語学者オット・イエスペルセンが『文法の原理』の中で「描出話法」という新しい術後を案出して、直接、間接の中間的話法を説明した」

「そのころ、フロイト心理学の影響もあって、意識の流れを描こうという小説家が続出した。その地の文にしばしば直接話法と紙一重という心理的独白があらわれた。それを呼ぶことばとしてこの描出話法は歓迎された」

では、具体的にどういうものが描出話法なのか。
とりあげられている例をまるまる引用してみよう。

「かの女はついにこれぞという男にめぐり会った。しかし、その気持ちをひとに言う必要はないと思った。かれから引きはなされたくなかったからである。このまま結婚するまでこのひとのそばにいましょう

最後の文は、「と思った」という伝達句がついていないから、地の文にみえる。
でも、かの女が心に思ったことをそのままに近い形でつたえているから、直接話法的でもある。
現に、「『このまま結婚するまでこのひとのそばにいましょう』とかの女は考えた」とできなくもない。
ただ、『』と「とかの女は考えた」をとってしまったために、直接話法ではなくなった。
これを描出話法という。

描出話法は情緒的効果が大きい。
わが国では、「源氏物語」をはじめ、昔からこの描出話法はつかわれていると外山さんはいう。
「むしろ、話法はすべてこの描出話法なのではないかと思われるほどだ」

で、ここからは個人的な感想なのだけれど、フィクションの文章のうまい下手は、ひとえにこの描出話法のコントロールにかかってるんじゃないだろうか。
「小説の主脳は人情なり」というくらいだから、小説がクリアすべき最低限の目標は、感情空間をつくることだといっていい。
読者が一喜一憂できるような感情空間をつくるのに(またつくるのに失敗するのに)、描出話法はかなりの威力を発揮しているのではないか。

(エセーにだってコラムにだって、描出話法は盛んにつかわれているよ。それに、そもそも描出話法はとても随筆的。だから、上記のことは小説の文章にかぎらないんじゃないの、という意見もあるかもしれない。それはそうなのだけれど、小説はたいてい登場人物が複数いるから、描出話法のコントロールは、エセーなどにくらべてよりむつかしいのではないかと思う)

(小説の定義はいろいろあるだろうけれど、「随筆化された物語」といういいかたもできるかもしれない)

いままで、「このまま結婚するまでこのひとのそばにいましょう」式の文章がなぜ用いられるのか不思議に思っていた。
今回、謎が解けたようで大変うれしい。

さて、以下は余談。
ことばについて語ると小言が増えるのは、いったいどういうわけだろう?
たとえば、外山さんは新幹線に乗るたびに、こんなアナウンスを聞かされはしないかとヒヤヒヤするそう。

「大阪の△△さん、おりましたら、7号車の車掌室までおいでください」

「どうして、「いらつしゃいましたら…」といえないのか」
と、外山さんは憤っている。

また、若い友人に本をあげたときのこと。
礼状に、「ご本を受け取りました」とあった。

「こちらが好意で贈ったものである。もらったら、「ありがたくいただきました」といってほしい」

長く借りていた本を、催促されて返したときの受けとりだったら、多少のうらみをこめて、「お送りくださった本はたしかに受け取りました」としてもおかしくない――と、外山さんは記している。

こういう、「ことばの小言」本は無数にある。
抜粋して、年代順にならべたら、ことばの変遷がわかって面白いかもしれない。


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翻訳味くらべ「新アラビア夜話」に追加

翻訳味くらべの「新アラビア夜話」の記事に、西村孝次訳(角川文庫)を追加。

「翻訳味くらべ」は手元にある本だけをくらべるのがモットー。
でも、最近、ほかの訳をみつけると、つい買ったり、メモをとったりするようになりつつある。
本を置く場所も、時間も、お金もない身にとって、大変まずい傾向だ。

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ミクロの傑作圏

「ミクロの傑作圏」(浅倉久志/編訳 文源庫 2004)

よく素性がわからない本、というのがある。
「ミクロの傑作圏」もそんな本のひとつ。
手に入れたのは、いつだったかの東京国際ブックフェア。
カバーもなく、ただパラフィン紙だけがかけられて積み重ねられていた本は、「ここでしか手に入らない感」を強く発していた。
このとき買ったのは、もう一冊、「読書相談」(池内紀)がある。
こちらは書評集。

いま、ネットでしらべてみたら、版元の文源庫のサイトがヒットした。
サイトをみると、「ミクロの傑作圏」はオンデマンドブックとして手に入れることができるみたいだ。

ほかの情報もあわせてみると、文源庫では「遊歩人」という冊子をつくっていて、そこで連載していたのが「ミクロの傑作圏」らしい。
で、それを一冊にまとめてブックフェアで売っていたのを、たまたまこちらが買った、ということらしい。

手元の本には、前書きもあとがきもないから、どんな本なのかさっぱりわからない。
浅倉さんが外国人著者の名をかたって、ひとりで全部書いた本だといわれたら、きっと信じてしまったろうと思う。
でも、文源庫のサイトには、この本の紹介文があった。

「アメリカ文学の名翻訳者として、SFからミステリーまで小説 のあらゆるジャンルにわたり、膨大な量の作品を跳梁してきた 浅倉久志さんならではのベスト・セレクション」

やっと素性がわかった!

さて、この本の内容。
収められている短篇と、著者は以下。
イラストは古川タク。

「多幸小説のすすめ」 スティーヴン・リーコック
「おれと九百ドル」 オスカー・シスガル
「最後のユニコーン」 エドワード・D・ホック
「結婚について」 ジージ・ミケシュ
「取引は取引」 アラン・E・ナース
「アメリカほら話」 ルイス・アンターマイアー編
「グランド・セントラル駅にて」 スタンリー・クーパーマン
「人はパンのみにて」 ジョン・オハラ
「最後の饗宴」 D・B・ウィンダム・ルイス
「一夜の宿」 ウォルドー・フランク
「午後四時」 プライス・デイ
「ショー・ビジネス秘話」 アート・バックウォルド
「バス」 アーチボルド・マーシャル
「別れのセリフ」 ウィラード・マーシュ
「ベッドタイム・ストーリー」 リング・ラードナー
「ゲルダ」 イーヴリン・E・スミス
「晩餐会にて」 ガースン・ケニン
「なぜ砂漠には木がないか」 グレン・ラウンズ
「一家の柱」 マリオン・グロス
「サンタを待ちながら」 S・J・ペレルマン
「最高のもてなし」 レスリー・コンガー
「バランスシート」 モートン・ファインマン
「住むならクジラの腹のなか」 リチャード・ヒューズ
「教訓のない物語」 H・F・エリス

ぜんたいにナンセンス味のあるものが多い。
そのなかでもよりナンセンス味が強い、「最後のユニコーン」「アメリカほら話」「なぜ砂漠には木がないか」「住むならクジラの腹のなか」が好み。
ちなみに、「最後のユニコーン」はノアの箱舟もの。
「なぜ砂漠には木がないか」は木こりの巨人、ポール・バニヤンものだ。

ところで、この本、日本書籍総目録(現在入手可能な本を探すのに便利)ではみつからなかった。
国会図書館にもないし、東京都立図書館の横断検索でもみつからない。
せめて国会図書館には納本しておいたほうがいいんじゃないだろうか。


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中公新書の森

「中公新書の森」(中央公論新社 2009)

副題は「2000点のヴィジリアン」。
1962年秋からスタートした中公新書が、めでたく通巻2000点を突破したという。
本書は、その記念につくられた、目録風の冊子。
本の後ろに「非売品」とある。
ブックフェアでくれたのだけれど、大きな本屋にいけばもらえるのだろうか。

内容は、まず、芳賀徹、川上弘美、城戸久枝のエッセー。
奥泉光、渡邉十絲子による対談。
179名の、思い出の中公新書アンケート。
全2000点リスト。
など。

3氏のエッセーのなかでは、川上弘美さんが抜群にうまい。
川上さんが最初に自分で買った新書は、「宦官」(三田村泰助 中公新書 1979)だそう。
当時、中学生だった川上さんは、纏足や宦官に興味津々だった。

「(纏足も、宦官も、なんだか、い、淫靡だ)と、中学生だったわたしは、ときめいたのだった」

妄想をもって、はりきって読みはじめたのだけれど、それはすぐにさめた。
宦官は妄想のなかのひとたちではなく、現実のひとたちだった。
楽しみのためのひとたちではなく、実在の、生身のひとたちだったのだ――。

妄想からさめて、感動へといたる過程を、わずかな記述で記していて、じつにみごと。
中公新書をはなれて、読書についてのエッセーとしても出色のできばえだ。

(ところで、最初に買った本のことはおぼえているけれど、最初に買った新書のことは、川上さんとちがっておぼえていない。いったいなにを買ったんだろう?)

奥泉光、渡邉十絲子による対談は、中公新書の礼賛。
奥泉さんの話す、こんなエピソードが面白い。
大学に入った奥泉さんは、浪人中に衰えた体力をなんとかしようと、部員が9人ぎりぎりの野球部に入団。
ところが、その野球部ではなぜか「資本論」の読書会をしていた。
参加した奥泉さんは、最初はぜんぜんわからなかったけれど、じきその面白さに気づき、研究者を目指すようになったという。
「資本論」の読書会をしている野球部というのが、珍妙でおかしい。

渡邉さんは理系ものが好きで、強くそれを押している。
また、「新書は書店で棚が確保されているから、以前でた名著でも比較的みつかる」という指摘されていて、これはなるほどと思った。
たしかにそのとおりだ。

後半は、各界識者への「思い出の中公新書」アンケート。
アンケート結果のトップは、たぶん「アーロン収容所」(会田雄次)。
「ある明治人の記録」(石光真人編)、「科挙」(宮崎市定)、「教養主義の没落」(竹内洋)あたりが、これに続く。

数ある「アーロン収容所」の評については、平川祐弘さんのものが面白い。
「中公新書で英訳された貴重な一書である。日本人訳者の石黒英子は会田が書いた捕虜体験を事実とし、ルイ・アレンはこのような一方的な見方が日本に流布しているとした」
アンケートで、感想以外の情報がつけ加えられることはめったにない。

こういうアンケートをみると、「自分が好きなあの本はあるかな?」とさがしてしまう。
各界の識者というのは、ようするになにかの専門家だ。
だから、アンケートでは自分の専門分野をとりあげる(「教養主義の没落」を多くのひとがとりあげているのは、回答者に大学関係者が多いということだろう)。

「私の20世紀書店」(長田弘)のような、網羅的な本はとりあげられないかと思っていたら、岡崎武志さんがとりあげていた。
しかも、常備本として4、5冊所持しているそう。
これは、読んでうれしかった。
増補版よりも中公新書版に愛着があるというのも、おなじ気持ちをもつ者としてうれしい。

驚いたのは、「滝田樗陰」
正高信男さんの回答で教えられたのだけれど、この本が現在品切れだという。
古本屋でみつけたら買おうと決意。

それから、こういうアンケートをみると、自分でも本を選びたくなってくる。
このアンケートにとりあげられていない本で、思い出せた本は2冊。
「世界の民話」(小沢俊夫)。引用されている民話を読むだけでも面白い。
「日本の仏典」(武内義範・梅原猛/編)。宗派の本ではなく、仏典についての本。各仏典の来歴と内容がコンパクトにまとめられている。
両方とも現在品切れ。

トリを締めるのは安野光雅さん。
中公新書のマークは、じつはリニューアルされているという。

最初のマークは、建築家の白井晟一さんによる、緑地に白抜きでRCと書かれたマーク。
創刊20年を期に、安野さんがリニューアルしたのが、地の部分が「グーテンベルクの仕事場」になっているもの。
これは、帯にだけつかわれたそう。
そして、今回が3度目のリニューアル。
今回、安野さんは、地の部分に架空の動物たちをあしらった。

「マークは旗印だから、できるだけ変えないほうがいい。変えるなら、第三者が気づかないくらいがいい」

バス停を少しずつうごかしても乗客は気づかないという笑い話があるけれど、それくらいがいいのだ、と安野さんは書いている。
これを読んで、2度のリニューアルがあったことをはじめて知った。
うかつな乗客がいたものだけれど、まんまと安野さんの術中におちいったということだろうか。

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マキァヴェッリの生涯

「マキァヴェッリの生涯」(ロベルト・リドルフィ 岩波書店 2009)
訳・註解、須藤祐考。
協力、G・チプリアーニ。

定価1万8900円。
大変高価な本。
読めたのは図書館のおかげ。

本書は、タイトル通り、「君主論」の作者であるマキァヴェッリの生涯を記したもの。
高価なだけあって分厚い本なのだけれど、本文は厚みの半分だけ。
あとの半分は、原注と訳注と人物解説など。

マキァヴェッリにかんする知識はほとんどないし、「君主論」も読んだことがない。
こんな人間がこの本についてどうこういうのは口はばったいのだけれど、でも、とても面白かった。
著者が、マキァヴェッリに大いに肩入れしているのが好ましい。
私的なことを語っていると思ったら、突然、政治について語りはじめ、皮肉ばかりいうと思ったら、不意に真面目になる、この人間的なマキァヴェッリ像はたいへん魅力的。
本人に会ったんですか? といいたくなるような、著者によるマキァヴェッリの容姿はこんな風だ。

「容姿は、大変、均整がとれていた。中背でやせていて、背を伸ばし、挙動は大胆だった。髪は黒く、肌の色は白かったが、オリーヴ色がかった褐色をかすかにおびていた。頭は小さく、顔は骨ばっていて、おでこは高かった。目は実に生き生きとし、引きしまった薄い唇にはいつも冷たい笑みが浮かんでいるように見えた」

さて、フィレンツェの中流階級に生まれたマキァヴェッリは、サヴォナローナの火刑のわずか五日後に、第二書記局の書記官として任命される。
「才能と自信以外のすべてを欠いている無名の若者」の公的生活のスタート。
マキァヴェッリは書記官として、素晴らしく有能だったよう。
使節として各地に派遣され、その報告書はフィレンツェ政府から高い評価をうける。

使節としては、チェーザレとも交渉。
マキァヴェッリを主人公にすると、チェーザレも脇役のひとりになってしまうところが面白い。

当時の軍事力は傭兵が主だった。
が、マキァヴェッリは市民軍の創設を模索。
テストケースとして、じっさいに徴募をし、訓練をほどこした(このとき訓練にあたったのが、チェーザレの総督にして悪名高きドン・ミケーレだという)。

しかし、マキァヴェッリの公的生活に終わりが訪れる。
フィレンツェでメディチ家が返り咲き、マキァヴェッリは書記官の職を解雇される。
そればかりでなく、枢機卿殺害の陰謀にくわわったという濡れ衣を着せられ、拷問までうける。

その後、復職を願いつづけたけれど、けっきょく願いはたされなかった。
その後半生において、不断の読書とこれまでの体験をもとに、「君主論」を書いた。
また「アリストファネスの全作品以上の価値を有している」とヴォルテールが評したという、喜劇「マンドゥラーゴラ」を執筆した。

マキァヴェッリというと冷笑家というイメージがある。
でも、著者によれば、マキァヴェッリは冷笑家でありつつも情熱家であり、なによりまず詩人だった。
現実から、これまでだれもが見すごしていた意味をとりだして提示するというのは、詩人的感性があってはじめて可能なのだと著者はいいたげだ。

本書では、おびただしい数の手紙や報告書が引用されている。
当時のものがよくこれだけ残っているものだと感心。
でも、それは偶然残ったのではなく、マキァヴェッリのお孫さんのひとりが、資料の収集、保存に尽力したそう。
マキァヴェッリは孫には恵まれていた。

また、マキァヴェッリに対する悪評は、思いもかけないところから起こっていることをこの本は教えてくれる。
マキァヴェッリが「君主論」を献呈したとみられる人物に、メディチ家のロレンツォがいた。
ロレンツォは、豪華公ロレンツォの孫で、フランス王家のマドゥレーヌ・ドゥ・ラ・トゥールと結婚(このとき、祝賀行事の一環として、マキァヴェッリの喜劇「マンドゥラーゴラ」が初演されたという)。

で、ふたりのあいだにできた娘が、聖バーソロミューの虐殺で名高い、カトリーヌ・ド・メディティス。
「虐殺」のあと、その責任はカトリーヌの父に献上された「君主論」の作者、マキァヴェッリにあるという非難が沸き起こり、これがマキァヴェッリの悪評をさらに広めるとになったという。

訳注および訳者解説はたいへんな充実ぶり。
おかげで、本文を少しはなれたところから立体的に味わうことができる。
とくに、本書には宗教改革についての視点が欠けているという訳者の指摘は、示唆に富むものだ。
また、人物解説が非常に充実していて、知識のない者にとってはとてもありがたかった。

素人には読み応えのありすぎる本だったけれど、とても堪能できた。
なにより、マキァヴェッリが好きになった。
知識があるひとなら、さらに堪能できること請けあいの一冊だろうと思う。

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月刊「広報」2009年7月号の記事から

「広報」という月刊誌がある。
財団法人日本広報境界がだしている雑誌で、HPはこちら
自治体の広報担当者にむけた雑誌だ。

この雑誌に、「現代社会に潜むデジタルの「影」を追う―市民のためのサイバーリテラシー」という連載があり、去年から出版界に攻勢をしかけている大日本印刷の経緯が手際よくまとめられていたのでメモを。
書き手はサイバーリテラシー研究所の矢野直明さん。

まず、2008年8月、大日本印刷は書店の丸善への出資比率を51%に引き上げ、丸善を子会社化。
あわせて、図書館への販売を手がける取次、図書館流通センターとも提携を強化。

2009年3月、書店のジュンク堂の株式51%を取得し、業務提携へ。
同年5月、出版社主婦の友の筆頭株主に。
講談社、集英社、小学館などと共同で、ブックオフ株を29%取得(大日本グループは16パーセント)。

以上。
でも、この記事には図書館関係が含まれていないので、すこし追加を。

丸善系列の図書館員派遣会社に「図書館スタッフ」がある。
いままで公立図書館にも派遣していたのだけれど、どうも撤退したよう。
で、図書館流通センターも図書館の業務委託を請け負っている。
だから、去年の8月の時点で、「公共図書館は図書館流通センターが担当、大学図書館などは図書館スタッフが担当」といった市場の仕分けがされたんじゃないかと思う。

ただ、丸善は図書館用の検索システムを公共図書館に販売している。
なので、これからはシステムは丸善、データは図書館流通センターという組み合わせが増えるかも(いまでも多いか?)。
ついでにいうと、オンライン書店bk1は、図書館流通センターの事業部のひとつだ。

ところで、出版業界では、返品率が40%を超えるという異常事態が恒常化している。
この異常事態のなか、大いに成長してきたのがブックオフだと記事では位置づけていて、ブックオフを舞台にした以下のような流通問題を指摘している。

・出版社→ブックオフ(出版社の中古としての直接卸し)
・ブックオフ→書店→出版社(書店がブックオフで買った新品同様の本を返品扱いにして出版元に返す)

あとは、書店で万引きしてブックオフに売る。
これは未見だけれど、日経ビジネスオンラインに、大日本印刷常務、森野鉄治さんのインタビューが載っているそう。
それによれば、大日本印刷では、ICタグを導入し、流通の正常化を図りたいと考えているそうだ。

話はぜんぜんちがうけれど、同じ「広報」7月号には、各自治体の新インフルエンザ対策についての、情報提供の検証がなされていて、とても興味深い(書き手は平能哲也さん)。
発熱相談センターに問い合わせたさいに訊かれることを、あらかじめHPに載せておくいいとか、感染者の数だけでなく、全快した感染者の数も公表したらいいとか、じつに示唆に富む(全快者の人数はWHOで集計していないかもしれない)。

また、話はとぶけれど、この「広報」のように財団法人がだしている冊子はごまんとある。
それらの目次だけでもあつめたサイトが、あればいいのにと思うけれど、もうあるんだろうか。
個人的に、そんな「はしっこ雑誌」の記事で面白いものをみつけたら、メモとっていきたい。


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