翻訳味くらべ「クリスマス・キャロル」

「大いなる遺産」を読んでから、にわかにディケンズファンになった。
で、ディケンズの作品を目につくたびに買っていたら、なぜか手元に「クリスマス・キャロル」が3冊もある(なぜだ!)。
そこで、せっかくなので、訳文を並べてみたい。

「クリスマス・カロル」(村岡花子訳 新潮社文庫 1952)
《第一にマーレイは生きていない。それについてはいささかの疑いもない。彼の埋葬登録簿には牧師も書記も葬儀屋も、喪主も署名している。スクルージも署名した。スクルージの名は取引関係ではいかなる書つけの上にもききめがあった。
 老マーレイはドアの上の釘のように死にきっていた。
 よく聞いていただきたい。私は何も自分の知識をひけらかして、ドアの釘を死んだものの見本として出しているのではない。私一個人の考えとしては、商品として店に出ている金物のうちでは棺桶の釘こそは一番完全に死んでいるものだと言いたいところである。しかし、元来この比喩は我々の祖先の知恵から生まれ出たものである以上、私の不浄の手でこれを変えるべきではない。そんなことをしたら、この国の秩序が乱れてしまう。それゆえに、みなさんも、私が語気を強めて、マーレイは戸の釘のごとくに死にきっていると繰返すのをお許し願いたい。》


「クリスマス・カロル」(神山妙子訳 旺文社文庫 1969)
《最初にお断りしておきたいのは、マーレイという人間はもうこの世にいないということだ。この点についてはまったく疑う余地がない。マーレイの埋葬記録簿には、牧師、書記、葬儀屋、喪主などが名をつらねていた。スクルージが署名したのである。しかもスクルージの署名は、取引関係では署名した書類の如何を問わず、あらゆる場合に効果があるものとされていた。
 老マーレイは扉のびょう釘のように正真正銘死んでしまったのだ。
 とはいうものの、私は扉のびょう釘がとくに死とのかかわりが深いのを経験上知っているなどというつもりはない。むしろ私としては、棺に打ち込む釘こそ、売られている金物のなかでもいちばん確実に死んでいるものといいたいところだ。しかし我々の祖先の知恵は、こうした比喩のなかにもみられるものである。いたらぬ私がこれに手を加えるようなことをすべきではない。またそうなったら国が亡びるということにもなりかねない。それ故私がもう一度声を大にして、マーレイは扉のびょう釘のようにまちがいなく死んでしまったと繰りかえすのをお許しいただきたい。》


「クリスマス・ブックス」(ちくま文庫 1991)より、「クリスマス・キャロル」(小池滋訳)
《エー、あい変わらずバカバカしいお噂で。
 イの一番に申し上げておきますが、マーレーは死んでいます。こりゃまったくの間違いのないことでして。埋葬証明書には牧師さん、書記、葬儀屋、喪主のサインがちゃんとありました。スクルージのサインもあります。何にせよ、この男がサインをしようと考えたことなら、取引所で信用されること疑いなしです。だから、マーレー爺さんは間違いなく死んでいます。「ドア釘みたいにおっちんでる」って、よく言いますな。
 おっと待った! ドア釘のどこが死んでるんだ、っておっしゃるんですか。あたしだってこの目で見て知ってるわけじゃござんせん。棺桶の釘なら、金物屋の品物ん中でいちばんおっちんでる親方だ、と言ってもようがしょうがねえ。でもまあ、昔の人はいいことを言ったもんで、もののたとえが上手なもんですからね、あたしみたいな学のない者がとやかく言うこたぁありませんや。そんなことしたら、お国の一大事ですから。
 というわけで、もう一度ダメ押しに大声で言わせて頂きやしょう。マーレーはドア釘みたいにおっちんでるんです。》

以上、訳された年代順にならべてみた。
3番目の訳は、小池滋さんが落語調で訳した意欲作(ちなみにこの本にはもう一編、松村昌家訳の「鐘の音」というクリスマス・ストーリーが併録されている)。
けっきょく、村岡花子訳で読んだのだけれど、落語訳で読み返してみるのも面白そう。

訳文は、みな2段落目(3番目の小池訳では3段落目)の、ドアくぎと棺桶くぎのところで苦労されている。
《私は扉のびょう釘がとくに死とのかかわりが深いのを経験上知っているなどというつもりはない。》
なんて、いかにも苦しい。
わかりにくい箇所も、こうやって訳文をならべると、なんとなく飲みこめてくる。
これも、訳文をくらべる楽しさのひとつ。

さて、つぎは会話。
不屈の陽気さのもち主であるスクルージの甥っ子フレッドと、スクルージの会話をならべてみよう。

村岡花子訳
《「クリスマスがばかばかしいなんて、伯父さん!」とスクルージの甥は言った。「まさか、本気でおっしゃったんじゃないでしょうね?」
「ああ、本気だともさ。何がクリスマスおめでとうだ! 何の権利があってお前がめでたがるのかってことよ。貧乏人のくせに」
「さあ機嫌を直して」と甥は元気よく言った。「伯父さんが機嫌をわるくしている権利はどこにあるんですか? 機嫌をわるくするわけがどこにあるかっていうんですよ? それだけの金持ちだったら不足はないでしょうにさ」
 スクルージはうまい返事ができなかったので、とりあえず、また、
「ばかばかしい!」と言った。
「伯父さん、そうぷりぷりするんじゃありませんよ」と甥が言った。
「ぷりぷりせずにいられるかい」と伯父がやり返した。
「こんなばかものばかり世の中にいてさ、クリスマスおめでとうだとよ。クリスマスおめでとうはやめてくれ! お前なんかにとっては、クリスマスはな、金もありもしないのに勘定書きが来る季節じゃないか。年こそ一つふえるけれど、その一時間分だって金がふえるわけじゃないじゃないか。帳簿を全部引合わせたところで、十二ヵ月のどこをどう押しても損ばっかりだということがはっきり分かる時じゃないか。俺の思う通りになるんだったら」とスクルージはますます憤然として、「おれの思う通りになるんだったら、クリスマスおめでとうなんて寝言を並べるのろまどもは、そいつらの家でこしらえているプティングの中へ一緒に煮込んで、心臓にひいらぎの枝をぶっとおして、地面の中へ埋めちまいたいよ。ぜひともそうしてやりたいよ」》


神山妙子訳
《「クリスマスが馬鹿馬鹿しいですって、おじさん! まさか本気でおっしゃっているのではないでしょう?」とスクルージの甥は言った。
「本気さ。クリスマスおめでとうだって! おまえにめでたがる権利があるのかい? 一体全体どういうわけでめでたいのかね? 金もないくせに」
「まあいいじゃありませんか」とスクルージの甥は陽気に言った。「じゃ、あなたにはふさいでいる権利があるとでもおっしゃるのですか? どういうわけで気難しい顔をしていらっしゃるのです? お金持ちのくせに」
 スクルージはとっさに適当な答えが浮かばなかったので、ふたたび「ふん」と言った。そしてつづいて「馬鹿馬鹿しい」とつけくわえた。
「まあおじさん、そう機嫌を悪くなさらないでください」と甥は言った。
「ほかに何ができるというのかね」とスクルージはやりかえした。「こんな馬鹿者ぞろいの世の中で生きてゆかなきゃならないというのに! クリスマスおめでとうだなんてまったくけしからん! おまえにとってクリスマスとはいったい何だというのかね? 金もないのに勘定を払わなければならないし、一つ年をとりこそすれ、一時間だって余分に金がはいるわけじゃない。また帳簿の清算をしてそのうちのどの項目をつついてみても一年を通じて大損ということがわかる季節というだけじゃないか。おれの思い通りになるとすれば」とスクルージは憤然として言った。「クリスマスおめでとうなんて言ってまわる馬鹿者は一人のこらずプティングといっしょに火にかけて、胸にひいらぎの枝をつきさして埋葬してやる。本当にそうすべきた」》


小池滋訳
《「クリスマスがくだらんですって! おじさん本気で言ってるんですか」
「ああ本気だよ。クリスマスがめでたいだと? 何がめでたいんだよ。何がめでたいんだよ。金がなくてぴいぴいしてるくせに」
「おじさん、そんなこと言うならね、おじさんこそ何が不景気なのさ。何で不景気づらしてるのさ。金があり余ってごろごろしているくせに」
 スクルージはとっさにうまくやり返すことができないもんですから、もう一度「ふん」と言ってから「何をくだらん」のおまけをつけました。
「おじさん、怒っちゃいけませんよ」
「怒らずにいられるかってんだ! こんな大馬鹿野郎ぞろいの世の中に住んでるんじゃ。クリスマスおめでとう、だと! クリスマスおめでとうなんて、くそっ喰らえ! クリスマスってなあ、金もねえのに勘定を払わにゃならん時節、それだけのこった。一つ年をとって、一文も金が増えねえ時節、帳簿をしめて、一年十二ヵ月赤字だらけだとわかる時節、それだけのこった。もし、このおれが好きなようにできるんだったら、『クリスマスおめでとう』なんてほざく馬鹿ったれ野郎は、一人残らずプティングと一緒に釜茹でにしてやる。心臓にトゲトゲのひいらぎの枝を突き刺して埋めてやる」》

ディケンズのパワフルな、いささかクドい饒舌で、スクルージの偏屈ぶりがほとんどギャグになっているのが面白い。
落語訳なんて思いつくのは、きっとこの饒舌ぶりのためだろう。
ただ、神山訳では、スクルージと甥のフレッドの対立は、少々深刻なもののように読みとれる。
それは、たぶんフレッドがスクルージのことを「あなた」なんて呼ぶからだ。

ところで最近、坂田靖子さんが「クリスマス・キャロル」を漫画化された(光文社 2009)。
この本、本屋のどこに置いてあるかわからず、ずいぶんさがしまわった。
「古典新訳コミック」と銘打っているから、かってに文庫だと思っていたら、まさかハードカバーだったとは。

それはともかく。
坂田漫画版では、上記のやりとりのあと、フレッドがこういう。
「おじさん。クリスマス・プティングとドラキュラの退治法がごった煮になってますよ」

落語訳よりさらにくだけた、坂田さん創作のツッコミ。
漫画版は、こんな軽妙なやりとりが随所にあり、大変楽しかった。

=追記=

「クリスマス・キャロル」(池央耿訳 光文社古典新訳文庫 2006)
《マーリーは故人である。何はさておき、まずこのことを言っておかなくてはならない。これについては、いかなる疑いもさしはさむ余地がない。マーリーの埋葬届けには、牧師、教会書記、葬儀屋、それに、会葬者代表が署名している。スクルージの記名がある。スクルージの名はロンドンの商品取引所で、何であれ、かかわりのあるすべてに通用する。かのマーリーは鋲釘(びょうくぎ)のように、間違いなく死んでいる。
 断っておくが、だいたい、ドアの飾りに用いる頭の大きな釘の、どこがどうして死んでいることになるのか、正直、筆者は知らないし、知ったふりをするつもりもない。世に出まわっている金物で、何よりも死と縁が深いのは棺の蓋を閉ざす釘ではないかと思うのだが、人の死を鋲釘にたとえたのは先人の知恵である。筆者ごとき数ならぬ分際で異を唱えてはならない。そんなことがまかり通ったら、この国は立ちゆかなくなる。それゆえ今ここに、マーリーは鋲釘のように、間違いなく死んでいる、と力を込めて繰り返すことをお許しいただきたい。》

この池央耿訳はなぜか簡潔にみえる。
ほかの訳よりも落ち着いていて、格調が高く、意味がとりやすい。
感嘆に値すると思う。
さて、つぎはフレッドとスクルージの会話。

《「クリスマスがくだらないって、伯父さん、まさか本気じゃあないでしょうね」
「ああ、本気だとも」スクルージは吐き捨てるように言った。「クリスマスおめでとうだ? めでたがる権利がお前にあるのか? めでたい理由がどこにある? 年が年中、素寒貧のくせして」
「じゃあ、こっちも言いますがね」甥は勢いづいた。「そうやって塞ぎ込む権利が伯父さんにありますか? 不機嫌になる理由がどこにあるんです? うなるほどの金持ちだっていうのに」
 とっさに返す気のきいた言葉もなく、スクルージは重ねて鼻で笑った。「へっ! くだらない」
「そう、つんけんしないでくださいよ、伯父さん」
「ほかにどうしろっていうんだ?」スクルージは突っかかった。「この馬鹿馬鹿しい世の中で。クリスマスおめでとうだ? クリスマスなんぞは願い下げにしてもらいたい。お前のために、クリスマスはどういう時期だ? 金もないのに溜まった付けを払わされて、一つ年を取って、これぱっかりも豊かになりゃあしない。帳簿を締めてみれば、ほとんど何もかも、一年中、取りっぱぐれだろうが。俺に言わせればだな……」スクルージは息巻いた。「クリスマスおめでとうなんどと戯けたことを口にする脳足りんは、どいつもこいつも、プティングとごった煮にして、心臓にヒイラギの杭を打ち込んで埋めてやりゃあいいんだ。ああ、そうだとも!」》

ほかの訳とくらべると、一語一語の差は微妙。
なのに、全体としてみると清新な感じがするのは、じつに不思議だ。

池央耿訳は解説や訳者あとがきも充実。
少年スクルージの孤独は、ディケンズの境遇がそのまま反映されているという。
スクルージが孤独を紛らわす本は、みなディケンズ自身の愛読書だそう。

また池央耿さんによれば、「スクルージは断じて悪人ではない」。

「甥のフレッドが言うとおり、私利私欲は頭にない証拠に、金にあかして贅沢するでもない。金を稼ぐのは、ひたすら、まっとうに、生真面目に働くことを天職と心得ているからである」

「スクルージは嫌われるというより、まわりにとっていささか煙たい存在であったと想像する。付き合いにくいのは事実としても、ずるはせず、人に迷惑をかけないから、信用があって商売は成り立っていたはずである」

このスクルージ像は魅力的。
それに、池さんがスクルージに肩入れしているような感じがして、なにやら嬉しい。

編集は光文社出版編集部の駒井稔編集長と、担当の大橋由香子さん。
編集者は、この訳者に頼んだら、こんな訳文ができてくるだろうと、あがりが予測できているのだろうか。
だとしたら、すごい。

=さらに追記=

「バスカビルの魔物」(坂田靖子 早川書房 2006)を読んだ。
雑誌「ミステリマガジン」に連載されたショートショート漫画を一冊にまとめたもの。
坂田靖子さん独特の軽妙さが横溢していて、大変楽しい一冊。

この本のなかに、「スクルージ・ビフォア・クリスマス」という一編が。
スクルージから借りた金を返せないでいる男が、スクルージを殺そうと家に忍びこんだところ、亡霊たちに出くわすという話。
亡霊たちは、すっかり男をスクルージと勘ちがいしてしまう。

「クリスマスここに訪ねてくるヤツなんかいない」

という、亡霊たちのいいぐさが可笑しい。
後味がいいのもよかった。



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