タナカの読書メモです。
一冊たちブログ
本はそのうち手に入るという話 2006.7.17〈再掲〉
吉田健一さんの本で最初に読んだのは「怪奇な話」(中公文庫 1982)だった。
これは短編集。
怖い話かと思って手にとったのだ。
この本は吉田さんの最晩年の本だった。
べつに代表作でもない。
でも、このあと吉田さんの本をたくさん読むことになるのだから、読書というのは、思いがけないきっかけではじまるものだと思う。
「怪奇な話」は怖い話ではなかった。
ふしぎな話があたりまえの感じで起こる、綺譚集といったおもむきの本だった。
また、この本は、読むとじつに気持ちよく眠れた。
吉田さんは句読点の少ない、だらだらした文章を書く。
それが読んでいて気持ちがいい。
すぐウトウトしてしまう。
で、寝覚めも快適。
こういう徳のある本もあるのかと思った。
なにしろすぐ眠ってしまうので、なかなかページがはかどらない。
けっきょく半年以上かかって読み終えたと思う。
これがきっかけで吉田さんの本をいろいろ読むようになった。
吉田さんはもともと批評家だったので、本に関する文章が多い。
小説だとすぐ眠ってしまうけれど、批評だと眠れない。
目がさえる。
なかでも「大衆文学時評」には興奮した。
自分が思っていたことが、みんなここに書いてあると思った。
学校図書館にあった著作集で読んだのだけれど、読んでいると興奮のあまりからだをうごかしたくなる。
でも、図書館のなかなので、あまり妙なまねはできない。
そこで一度書棚に本をしまい、トイレなどにいって、だれもいないのを見計らうと、サッカーでゴールがきまったときの観客のように、ガッツポーズをとって、また閲覧室にもどり続きを読んだりした。
吉田さんがいったことをひとことでまとめると、
「小説はことばでできている」
ということだった。
ことばは生きているものだから、ことばによって書かれたものも生きていなければならないし、たしかにそこにあるという感じがなければならない。
「何小説だろうと、読者がそのどの一部をとっても堪能することができなければ、それは小説ではない」
という小説観。
この時評は昭和36年からはじまる。
まだ大家になるまえの、池波正太郎や司馬遼太郎がさかんにほめられている。
その選択眼には、まったく感心してしまう。
当時、山田風太郎も活躍していたはずだけれど、こちらは一顧だにされていない。
吉田さんの趣味じゃなかったのだろう。
「大衆文学時評」はぜひ手に入れたいと思ったのだけれど、どこにも見当たらなかった。
著作集は古本屋で、全巻セット20万くらいで売られていたけれど、さすがにそんなにはだせない。
それがこのあいだ、たまたまのぞいた古本屋においてあった。
「大衆文学時評」(吉田健一 垂水書房 1965年)。
値段は1500円。
「本は見つけたら名乗りをあげて買わなければならない」
と、だれかがいったけれど、見つけたときはまさにそんな気分。
最初にこの本を読んでから、10年くらいたっていたか。
べつの話。
ミステリ評論集、「深夜の散歩」(福永武彦 中村真一郎 丸谷才一 早川書房 1997年)を読んだら、「死は熱いのがお好き」(エドガー・ボックス 早川書房 1960年)という本が読みたくなった。
「こんなに面白く、こんなに云うことのない作品というものはあるものではない」
と、中村真一郎さんがえらく持ち上げている。
これまた、読みたいなーと思っていたら、このあいだ手に入れることができた。
ミステリやら映画やら落語やらの本がたくさんおいてある、小柄で初老のご主人が店番をしながら手づくり弁当を食べているという、いかにも古本屋らしい古本屋においてあった。
で、さっそく 読んでみる。
軽ハードボイルド風探偵小説。
海岸沿いの、パーティーばかりしている保養地に招待された主人公が、女の子と逢引しながら、そこで起こった殺人事件を解決する――といった内容。
「探偵小説においては、何も残らないというのは、最高の後味だということになる」
と、中村さんはいうけれど、もうひと声ほしいと思ってしまう。
まだ、中村さんの境地には至れない。
それはともかく、本というのは、読みたいと思っていればそのうち読めるものだと思ったしだい。
これは短編集。
怖い話かと思って手にとったのだ。
この本は吉田さんの最晩年の本だった。
べつに代表作でもない。
でも、このあと吉田さんの本をたくさん読むことになるのだから、読書というのは、思いがけないきっかけではじまるものだと思う。
「怪奇な話」は怖い話ではなかった。
ふしぎな話があたりまえの感じで起こる、綺譚集といったおもむきの本だった。
また、この本は、読むとじつに気持ちよく眠れた。
吉田さんは句読点の少ない、だらだらした文章を書く。
それが読んでいて気持ちがいい。
すぐウトウトしてしまう。
で、寝覚めも快適。
こういう徳のある本もあるのかと思った。
なにしろすぐ眠ってしまうので、なかなかページがはかどらない。
けっきょく半年以上かかって読み終えたと思う。
これがきっかけで吉田さんの本をいろいろ読むようになった。
吉田さんはもともと批評家だったので、本に関する文章が多い。
小説だとすぐ眠ってしまうけれど、批評だと眠れない。
目がさえる。
なかでも「大衆文学時評」には興奮した。
自分が思っていたことが、みんなここに書いてあると思った。
学校図書館にあった著作集で読んだのだけれど、読んでいると興奮のあまりからだをうごかしたくなる。
でも、図書館のなかなので、あまり妙なまねはできない。
そこで一度書棚に本をしまい、トイレなどにいって、だれもいないのを見計らうと、サッカーでゴールがきまったときの観客のように、ガッツポーズをとって、また閲覧室にもどり続きを読んだりした。
吉田さんがいったことをひとことでまとめると、
「小説はことばでできている」
ということだった。
ことばは生きているものだから、ことばによって書かれたものも生きていなければならないし、たしかにそこにあるという感じがなければならない。
「何小説だろうと、読者がそのどの一部をとっても堪能することができなければ、それは小説ではない」
という小説観。
この時評は昭和36年からはじまる。
まだ大家になるまえの、池波正太郎や司馬遼太郎がさかんにほめられている。
その選択眼には、まったく感心してしまう。
当時、山田風太郎も活躍していたはずだけれど、こちらは一顧だにされていない。
吉田さんの趣味じゃなかったのだろう。
「大衆文学時評」はぜひ手に入れたいと思ったのだけれど、どこにも見当たらなかった。
著作集は古本屋で、全巻セット20万くらいで売られていたけれど、さすがにそんなにはだせない。
それがこのあいだ、たまたまのぞいた古本屋においてあった。
「大衆文学時評」(吉田健一 垂水書房 1965年)。
値段は1500円。
「本は見つけたら名乗りをあげて買わなければならない」
と、だれかがいったけれど、見つけたときはまさにそんな気分。
最初にこの本を読んでから、10年くらいたっていたか。
べつの話。
ミステリ評論集、「深夜の散歩」(福永武彦 中村真一郎 丸谷才一 早川書房 1997年)を読んだら、「死は熱いのがお好き」(エドガー・ボックス 早川書房 1960年)という本が読みたくなった。
「こんなに面白く、こんなに云うことのない作品というものはあるものではない」
と、中村真一郎さんがえらく持ち上げている。
これまた、読みたいなーと思っていたら、このあいだ手に入れることができた。
ミステリやら映画やら落語やらの本がたくさんおいてある、小柄で初老のご主人が店番をしながら手づくり弁当を食べているという、いかにも古本屋らしい古本屋においてあった。
で、さっそく 読んでみる。
軽ハードボイルド風探偵小説。
海岸沿いの、パーティーばかりしている保養地に招待された主人公が、女の子と逢引しながら、そこで起こった殺人事件を解決する――といった内容。
「探偵小説においては、何も残らないというのは、最高の後味だということになる」
と、中村さんはいうけれど、もうひと声ほしいと思ってしまう。
まだ、中村さんの境地には至れない。
それはともかく、本というのは、読みたいと思っていればそのうち読めるものだと思ったしだい。
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