ウインク

「ウインク」(小松左京 角川書店 1972)

短編集。
収録作は以下。

「ウインク」
「イワンの馬鹿作戦」
「おえらびください」
「手おくれ」
「TDSとSDの不吉な夜」
「おちてきた男」
「地球になった男」
「時魔神」
「日本漂流」
「彼方へ」
「*◎~▲は殺しの番号」(~は本来二重線)
「ヤクトピア」

針が振り切れたような作品がならんでいる。
どれも奔放でエネルギッシュで、かつ憂いを帯びている。
なかでもすごいのは、「ウインク」「地球になった男」だ。
でも、まずは順番にメモをとっていこう。

「ウインク」
連続テレビドラマ収録中のスター女優が突如失踪。
原因は、全身に「眼」があらわれたため。
この現象は全世界に。
人間だけではなく、生物無生物を問わずこの現象に覆いつくされ、ついに地球は一個の「眼」と化す。
…という、たいへん気色の悪い一編。
発想も気色悪いけれど、それをこれでもかといわんばかりに展開していく文章が気色悪さを増幅させている。

「イワンの馬鹿作戦」
一億総白痴化現象を憂い、政府はメディアの取り締まりにのぞもうとするが、与野党の対立によりうやむやに。
そうこうするうちに、白痴化現象は日本中をおおいつくす。
諸外国は治安維持を目的に軍隊を派遣するが、てんで効果はなく、白痴化現象は世界をおおいつくす。
…赤塚不二夫の漫画みたいな一編。
それにしても、当初の登場人物をほったらかしにして、どんどん話をすすめる「大状況コント」とでもいいたくなるような作風は、作者の独壇場だ。

「おえらびください」
未来からやってきたと称する男が、客に3つの未来をみせ、どれかひとつをえらばせるという話。
3つの未来は、科学が発達した未来都、芸術が発達した調和的未来、荒廃した破滅的未来の3つ。
この作品は大状況コントにならず、当初の話の枠組みのなかで終始する。

「手おくれ」
いきなり、モンゴル軍の講釈からスタート。
ユーラシア大陸を暴れまわったモンゴル軍のことを、当時のヨーロッパ諸国は皆目知らなかった。
同じように、たびかさなる前兆にも人類は気づかなかった。
22世紀のなかば近く、宇宙人との交信が可能になったとき、宇宙人にこんなことをいわれる。
「われわれが銀河系内知的生命集団にむかって、発しつづけていた警告をうけとらなかったんですか?」
…これまた地球滅亡作品。
数々の前兆をウンチクによって成り立たせていて、そのウンチクを読むだけでも楽しい。

「TDSとSDの不吉な夜」
自動車に征服された世界の話。
ヒトはH族と呼ばれ、話の最後にTDSとSDが自動車であることが明かされる。

「おちてきた男」
白昼突然あらわれた、おびえきった金髪の男性。
車にひかれて怪我もしないが、ともかく病院にはこばれて手術。
献身的な看護をうけるものの、いったいかれはどこからきたのか?
…オチはとくに斬新というわけではない。
ただ、語り口が面白い。
最初、突然あらわれた金髪の男性をめぐる、2人の男の会話からはじまり、金髪男性が車にひかれてからは、金髪男性の受難に話がうつり、最後はまた2人の男の会話でしめくくる。
語り口が変化するのは、作者の短篇の定番なのだけれど、これはおそらく語り口の維持よりも、アイデアを吐き出すことが優先されるからじゃないだろうか。

「地球になった男」
なぜか、なんにでも姿を変えられるようになった男。
最初は、満員電車で女に化けて、乗りあわせた男をだましたりしていたのだったが、だんだんたががはずれはじめ――。
本作でも日本は滅亡するのだけれど、それは男が長さ3千キロ、直径250キロの巨大な糞に変身したため。
「その重みのために、日本列島は半ば海中に沈んだ」
糞のために滅亡するというのは、空前絶後じゃないだろうか。
そのくせ、この作品は「イワンの馬鹿作戦」とちがい、躁狂的ではなく悲哀がある。
なんだか、とんでもない作品だ。

「時魔神」
「時魔神」で、タイムマジンと読むそう。
「ジンマシン」と読んではいけませんと、著者の断り書きがついている。
技術の発展により、どんどん効率が上がる社会。
ついに、上がった効率に人類がついていけなくなる。
そこで、生産も消費も機械にやらせて、人間はそれとは別に暮らすことに。
人間の反応も、新興宗教が生まれたりと(その名も拝時教)一様でないところが面白い。

「日本漂流」
「長篇のためのプロット。デテイルを想像してお読み下さい」と断り書きがついている。
長野県M市で、ひっきりなしに地震が。
震源地が浅いので、ボーリングしてみたところ、日本全土に烈震が走る。
なんと、北海道をのぞいた、本州、四国、九州がうごきだした。
じつは、日本はほんとうにナマズの背中にのっていたのだ!
ちなみに、北海道はこのニッポン・ナマズ竜の排泄物。
…以降、漂流する日本の顛末が語られる。
読んだことはないけれど、「白い闇」を書いたジョセフ・サマラーゴには、イベリア半島が漂流しはじめる作品があるそう。
小松左京とおんなじことを考えるひとがいるんだなあと思った。

「彼方へ」
人類が宇宙を征服つくした遠い未来。
倦怠感にさいなまれる若者たちが、空間の奔流を抜け、宇宙の外側にでようとこころみる。
のちに、若者たちの声だけが聞こえてくるようになり、同じく空間の奔流に身を投じる者たちが続出。
若者たちの行為を意味づけするのは、パトロールの隊長と部下。
ひょっとすると、宇宙は巨大な睾丸なのではないか…。
ものすごいスケールの話をしているのに、そこに話を落とすかという一編。

「*◎~▲は殺しの番号」(~は本来二重線)」
立て続けにさまざまな事故を引き起こし、犠牲者をだしている〈ぼく〉。
指令は本部から降り、本部は依頼者から依頼を受けている。
依頼者の要求は上がり、10年間で15億ないし20億という途方もないものに。
本部が依頼者の要求を受け入れるのは、親善のため。
いったい〈ぼく〉とは何者で、依頼者とはだれなのか。
…謎は、〈ぼく〉を追ってきた探偵との会話によって示される。
短篇SFらしい作品。

「ヤクトピア」
〈ぼく〉の一人称で、薬物まみれになった社会をえがいた作品。
この社会では、本も薬物を服用することで読む。
視覚や聴覚などという効率の悪いものはよし、「化学的情報」によりいきなり脳に作用させるのだ。
…この作品はタイトルがすごい。

さて、以上。
小松左京作品を読むと、大状況コントではない普通の作品が物足りなくなってくるから妙だ。
やはり印象が強いのは「ウインク」「地球になった男」の2編。
当分、忘れられそうにない。

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「無限がいっぱい」と「宇宙のかけら」

「無限がいっぱい」(ロバート・シェクリイ 早川書房 1976)
異色作家短編集(改訂版)第10巻。
訳は、宇野利泰。
装丁、畑農照雄。

内容は以下。

「グレイのフラノを身につけて」
「ひる」
「監視鳥」
「風起る」
「一夜明けて」
「原住民の問題」
「給餌の時間」
「パラダイス第2」
「倍額保険」
「乗船拒否」
「暁の侵略者」
「愛の語学」

「宇宙のかけら」(ロバートシェクリイ 早川書房 1967)

「探鉱者の饗宴」高橋豊訳
「男ひとりと女たち」小倉多加志訳
「共感」高橋豊訳
「ポテンシャル」小尾芙佐訳
「千日手」稲葉明雄訳
「自語自話」高橋豊訳
「不景気」常盤新平訳
「やっと独りになれた!」高橋豊訳
「永遠」高橋豊訳
「掃除夫ローレイの」高橋豊訳
「特別陳列品」高橋豊訳

シェクリイは幻想的な作家だと、なぜか勝手に思っていたのだけれど、読んでみたらちがった。
もっと、なんというか、せちがらい感じの作品を書くひとだった。
題材や作風はバラエティに富んでいて、そこは感心するのだけど、どうしてもラストを皮肉に終わらせたがるところがあるように思う。
そんななか、面白かった作品は以下。

「ひる」
宇宙から飛来した謎の生命体が、触れるものをみな食らって、どんどん大きくなるという話。
エスカレートする展開が素晴らしい。
古きよきSFという感じがする。
きっと、作者の代表作ではないだろうか。

「風起る」
2人の惑星観測員が、強風吹きすさぶ惑星で大変な目に遭うという話。
この話はストーリーではなく、描写力による力わざで読ませる。
シェクリイはこんな作品も書けるんだとびっくりした。

「倍額保険」
保険金を題材にとった時間SF。
玩具会社の販売部長をしているエヴァレット・バースオールドは、まず生命保険に加入。
そして、販売促進のためと称して、無限時空飛行機(フリッパー)をつかい過去へ。
(このフリッパーを買うとき、店員が時空マイル数により連邦税がかかることなどを説明する。こういうところがせちがらい)

エヴァレットは、秘密時間探偵社に依頼してかき集めた資料をもとに、自分と同じくらいの年齢で、独身で、失踪してもだれも気にしないような人物を過去からえらびだし、その人物に会いにいく。
いったい、エヴァレットはどんな保険金詐欺をたくらんでいるのか?
その保険金詐欺は、はたして成功するのか?

つぎつぎと意想外のことが起こる、トライアル&エラー型のプロット。
じつに面白い。
ひねりの効いたラストにも感心。

「探鉱者の饗宴」
金星のさそり砂漠で金鉱をさがすモリソン。
車はこわれ、水はなく、狼に襲われながらも、ひたすら金鉱を追いもとめる。
モリソンは危機的な状況にあるのだけれど、テレビ電話は通じるし、配達ロボットが荷物を届けてくれる。
ただ、モリソンには金がない。
そのため、どんなサービスも受けられない。
作者の描写力とせちがらさが一体となった作品。
ラストはハッピーエンドでほっとした。

「ポテンシャル」
宇宙船のなかでひとり目覚めた記憶喪失の男。
男はエリスという自分の名前を、そして精神科医という職業を思い出したものの、ほかのことは思い出せない。
いっぽう、宇宙船はとある惑星に到着。
クレルド人という、地球的な文明をもつ住民と接触し、ついにその使命を思い出す。

これはアイデア・ストーリー。
読んでいて、梶尾真治さんのエマノン・シリーズを思い出した。
でも、シェクリイはまったく叙情的にならないけれど。

「自語自話」
小惑星に住む、開拓者ダークとその妻アメリアの物語。
SF西部劇風家庭小説とでもいえばいいのだろうか。
ロボットが扱いにくいといった開拓生活の苦労、ダークがまた別の新天地にいきたがるのではないかという不安、巡回販売店がもってくる小ぎれいな商品への憧れなどが、アメリアの視点で語られる。
この話をわざわざSF風の舞台でやるのか、といったところが面白かった。
それに、アメリアの心情がよく書けている。
あと、この作品、タイトルがよくわからない。

というわけで、シェクリイを2冊読んでみたけれど、印象は「せちがらい作家」に決定。
やっぱり、自分で読んでみなければわからないものだ。



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だいたい3周年

このブログはgooブログで書いている。
先日、そのgooブログの編集ページがリニューアルされて、ブログの開始日から現在の日付までの日数が表示されるようになった。
そこで、計算してみると、おお、もう3年もやっている!
で、今回は当ブログの3年間を振り返ってみたい。

まず、もともとこのブログをはじめるまえに、「一冊たち」というHPをつくつていたのだった。
なぜ、このHPをつくったかというと、理由は2つある。
ひとつは、つくってみたかったから。
もうひとつは、仕事の都合だ。

当時から現在にいたるまで、ある図書館ではたらいているのだけれど、職場でHP担当になり、それまであったHPのリニューアルを命じられたのだ。
(いや、担当になるまえに、この仕事をすることになるだろうと思って、あらかじめ自分のHPをつくってみたんだっけ。このあたり、記憶があいまいだ)

いきなり、職場のHPをいじるのは物騒なので、まず個人でHPをつくってみることにした。
それが、「一冊たち」。

「一冊たち」というタイトルは、プレヴェールの刺繍「ことばたち」(ぴあ 2004)からとった。
刺繍のタイトルで「ことばたち」というのは、完璧なんじゃないかと思う。
この、「一冊たち」ということばは、世間にはあまりないようで、グーグルで検索するとトップに表示されるようになった。
タイトル運はあったなあと思う。

職場のHPも、「一冊たち」をつくった経験をもとにして、ぶじリニューアルすることができた。
といっても、素人なのでたいしたことはできない。
それまでのHPがいささか煩雑なものだったので、極力シンプルなものにしただけだ。
このシンプルHPは、たぶんそのシンプルさのために、お年寄りと電算関係の業者に評判がよかった。
現在このHPは、さらにリニューアルされて、CMSという記事を入力して投稿する、ブログタイプの洗練されたものになっている。

当ブログをはじめたのは、たしかHPをつくって半年くらいたったころだと思う。
HPよりもブログをつくったほうが楽らしいと、遅ればせながら耳にして、じゃあこれも自分でやってみようかとはじめたのだった。
gooブログにしたのは、職場にたまたまハウツー本があったからだ。

じっさいやってみたら、HPよりもはるかに楽だった。
とくに記事のアップが楽なのが素晴らしい。
間違いをすぐ訂正できる。

ことしの春ごろに、HPはもう閉めてもいいかと思って、記事をブログに移しはじめたのだけれど、現在まだ引越し作業はすんでいない。
作業がすんだら、HPは閉じる予定。

さて、内容の話。
HPやブログをつくるにあたって、「本」というテーマは決まっていた。
でも、「本」をとりあげるにしたって、いろいろある。
おすすめの本を紹介するひともいれば、書評を書くひともいるし、買った本を公開するひともいる。

これについては、ただもうひたすら読んだ本についての個人的なメモをとることにした。
紹介文は、すごく労力がかかるのでやらない。
短編集の収録作を書いたりするのもメモのうち(古い文庫の短編集の収録作などは、ネットでしらべてもわからないことが多いので、ひょっとすると人様の役に立つかもしれない)。
表紙の絵を描くのもメモのうちだ(これはスキャナーで表紙をとりこむより、描いたほうが楽だからそうしている。あ、でも、スキャンしたほうが人様の役に立つかも)。

つまり、自分以外のひとのことはまるで考えないという方針。
3年も続けることができたのは、この方針のおかげだ。

こんな愛想なしのブログでも、だんだんに訪れるひとが増えてきた。
これは、ひとえにkazuouさんに声をかけてもらったことと、「たら本」に参加したおかげだろう。
kazuouさんのブログ「奇妙な世界の片隅で」は、ものすごい充実ぶりなので、あなたがもし幻想文学好きなら、ぜひ訪れたほうがいい。

たら本」も、ここのところ忙しくてずいぶんごぶさたしてしまった。
と思って、いまサイトにいってみたら、あれれ、最近はとまってしまったのかな。
機会があれば、また参加したいと思っていたのだけれど。

で、じっさいこんな方針で3年間やってみてどうだったか。
まず、やっているうちに、どんどん文章が長くなってきた。
あるていどの長さを書かないと、気がおさまらないようになってしまった。
そのぶん書くのに時間がかかる。
これは、書くのがやたらと遅い身にとって、大変まずい傾向だ。

それから、書いたことを案外おぼえている、ということに気がついた。
これはメモをとったかいがあったというものだけれど、そうともいえない。
たとえば、小松左京について一度書いたら、ほかの小松作品も読まなくてはいけないような気がして、古本屋でみつけるたびに買ってしまうようになった。
おかげで、メモをとればとるほど、気になる作家が増え、買う本が増え、読む本が増えてしまう。
これは困った。
どこかで割り切らなくてはきりがない。

よかったことは、自分にとって興味のないことはひとつも書かなかったことだ。
おかげで、自分のことが多少わかってきたような気がする。

ところで、忙しくなったのは、春からはじめた「一冊たち絵本」のせい。
これは、当ブログとはちがい、紹介に徹したサイトだ。
土日・祝日をのぞき毎日更新という方針でやっている(ときどき祝日なのにアップしてしまい一日損したと後悔する)。

絵本なら、1日1冊紹介文を書くのは余裕だろうと思ったのだけれど、これが甘かった。
毎日ヒーヒーいうはめになっている。
紹介した絵本はついに100冊に到達。
でも、100冊じゃ、ぜんぜん少ししか紹介できないなあというのが、やってみた実感。。
やっぱり、1000冊くらいやらないと紹介した気にはならないか(だから紹介は大変)。

…とまあ、3年間続けた経過報告はこんな感じ。
今後どうなるかわからないけれど、続けられるだけ続けてみようと思っています。


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創造者/続審問/ボルヘスとの対話

ボルヘスは、引用するとなんとなく頭が良さそうにみえるので引用はするのだけれど、そんなにちゃんと読んだことがない。
だから、なんとなく借金ばかりが増えていくような気がしていた。
ところが、最近岩波文庫で立て続けに22冊本がでた。
で、これを機会に読んでみることに。

「創造者」(J.L.ボルヘス 岩波文庫 2009)
訳は鼓直。

これは寓話的詩文集と呼べばいいのか。
前半は、ほとんど散文詩のような、幻想的かつ超高密度の、非常に短い作品がいくつもおさめられている。
後半は詩。
どの作品も、密度が高く、硬く、しかし軽く、幻想的で、飛躍があり、かつ真率さがある。
読んでいると、じつに楽しい。
おさめられた作品のうち、どれがいちばんいいかなんて、面倒なことを考える気にならないくらい楽しい。
自分はこういうたぐいの作品がよくよく好きなんだなと思った次第。
読んでよかった。

「続審問」(J.L.ボルヘス 岩波文庫 2009)
訳は中村健二。

これは評論集というか、文学的エセー集。
〈続〉ということは、その前の本があると思うのが自然だけれど、本書の場合はない。
いや、じつはあったのだけれど、前の本は、作者が出版後すぐ回収し、生前には出版しなかったとのこと。

評論集とはいっても、とりあげられている作家たちは有名なひとたちが多いので接しやすい。
それに、一編一編はたいした長さではないので読みやすい。
また、注釈が充実しているので助かる。

ボルヘスが世界文学のなかから自分の好きな作品を選んで編集した「バベルの図書館には、各巻に序文がつけられていて、それを読むとボルヘスの序文のうまさに感服する。
同じように、短い文章のなかで作家の本質を一挙に把握してみせる手際には目を見張る。
たとえば、「オスカー・ワイルドについて」で、チェスタトンとワイルドくらべてみたところはこうだ。

「彼(ワイルド)の作品の基本的な味わいは幸福である」

「他方、肉体的精神的健全さの範例とも言うべき力強いチェスタトンの作品は、つねに悪夢と紙一重の世界である」

「チェスタトンは幼年時代を取り戻そうとしている大人であり、ワイルドは悪徳と不運にまみれながら、侵すべからざる無垢を保ちつづけた大人である」

面白いのは、ボルヘスの手にかかると、とりあげられる文学者たちがみな、ボルヘス作品の登場人物のようになってしまうこと。
ボルヘスは文学者たちをあまりにも自分に引き寄せすぎているのかもしれない。
でも、そこが面白いところだし、それに創作者の評論というのは、いつでも自作の注釈になってしまうものだろう。

(白状すると、この本はまだ半分くらいしか読み終えていない。体調をくずしたので放置していたのだ。これは個人的なくせだけれど、疲れたり、具合が悪くなったりすると小説が読みたくなる。評論のたぐいは元気がないと読めない。ほかのひともそうなんだろうか。もう半分はこれから読むつもり)

「ボルヘスとの対話」(リチャード・バーギン 晶文社 1973)
訳は柳瀬尚紀。

これは、タイトル通り対談集。
1967年、ボルヘス69歳のときになされたもの。
インタビュイーであるバーギンは、もとめられたときだけ意見をいい、あとは極力ボルヘスの話を聞こうとしていて、とても好感がもてる。
質問に答えるボルヘスは、慇懃かつ誠実。

この本のなかで、出版した本のなかでどれか気に入っているかという質問に対して、ボルヘスは「創造者」だと答えている。
「創造者」に対する自己評価は高い。
それに対するバーギンの返事はこう。
「(あの本には)あなたの本質的なテーマやモチーフがすべてあって、しかも重要なことに、あなたの声があります」

対談は、哲学や政治や文学以外の芸術についてもおよぶのだけれど、やはり文学についての話が面白い。
「続審問」を読んだときもそう思ったけれど、ボルヘスは個々の文学作品と同じくらい、それを書いた、文学というものに人生をからみとられた文学者たちに強い興味があったよう。
また、こんな読書の巨人が、文学を読むことについて「ぐっとくることがあって当然」なんていっているのは、とてもうれしい。
そう、文学を読むのが楽しいのは、「ぐっとくる」ことがあるからだ。

以下、面白いと思った発言を抜書きしてみたい。
抜書きの都合上、いいまわしを多少変更したりしているのでご注意のほどを。

《「オデュッセイア」は好きですが、「イーリアス」は嫌いです。「イーリアス」は、要するに、中心人物が愚か者です。つまり、アキレスのような男に感心ではないでしょう? いつもすねていて、人々がそれぞれ自分に不当をはたらくといって腹を立て、ついには自分の殺した男の死体を父のもとへ送る男です」》

《作家がひとりの人物で小説を、非常に長い小説を書く場合、その小説と主人公に生気を保たせる唯一の方法は自分と一体化することです》

《だから私の思うのには、セルバンデスもいくぶんそういうところがありました。「ドン・キホーテ」を書きはじめたとき、彼は主人公のことがほとんどなにもわからなかった。それで書きすすむにつれて、自分自身をドン・キホーテと一体化しなければならなかった。彼はそれを感じていたはずです。つまり主人公からかなり距離をおいて、その主人公をたえず茶化し、道化者あつかいしたりすれば、作品がばらばらになってしまうということをです》

《だからしまいに彼はドン・キホーテになったのです。彼はドン・キホーテに共感をいだいて、ほかの登場人物、たとえば旅籠の亭主や公爵、床屋や牧師などに退校したのです》

《私たちが何でも創り出せるとか、何でも創り出す必要があるとか考えるのは、ほとんど世界の神秘に対する侮辱です》

《(「不思議の国のアリス」について)すばらしい本です!》

《(どんな小説化が登場人物を創造できたかという質問に対して)コンラッド、それにディケンズです。コンラッドは確かです。というのはコンラッドの場合、すべてが現実的で、しかも同時に詩的であるという感じがするからです》

《ドストエフスキーの作品では、登場人物がやたらと大声で説明をする。人間というのはそんなふうなことをしないと思いますが、でもたぶんロシアではそうなのでしょう》

《私はヘンリー・シジェイムズをカフカよりずっと複雑だと考えるのです。しかしそれがひとつの弱点かもしれない。おそらくカフカの強みは複雑性の欠如にあるのでしょう》

《(作品があたえてくれる楽しみとは何だとお考えでしょう)それにはふたつの正反対の説明ができるでしょう。個人が自分自身の環境から逃れて、別の世界へはいっていこうとする、しかし同時に、その別の世界が周りの環境よりも自分の内面の自我にちかいために、それに興味をもつこともある。でもこういう説明は相伴うものですね。一方を受け入れて、他方を退ける必要はない》

《(楽しみというものが文学の主な目的だとお考えでしょうか)さあ、楽しみ、何ともいえませんが、しかしぐっとくることがあって当然でしょうね》

《私がセルバンデスに惹かれる理由のひとつは、彼を作家として、最大の小説家のひとりとして考えているだけではなく、一個の人間として考えているということです。ホイットマンのいうように、「友よ、これは書物ではない、これにふれる者は人間にふれる」》

《私が関心があるのは文学そのもののための文学だけではなく、人間に数多い宿命のひとつとしての文学でもあるということです。つまり、ひとりの人間が自己の夢に身をささげ、それからその夢を完成しようとする事実にです。そしてほかの人々にそれを共有させようと最善をつくすことにです》

《あの物語(「刀の形」)を書いたのはごく若い頃でして、当時は如才ないのがいいと思っていました。いまでは器用なのは障害だと思っています。作家は起用であるべきではない》

《不幸はなにかに変形しなければならない。あらゆる作品は不幸から生まれると思います》

《幸福な気持ちになったとしたら、それを受けとるだけで、せんさくしないほうがいいでしょう。せんさくしたなら、私には不幸であるための理由がずっと数多くあるということがわかってしまうからです。ただ自然と、無心に幸福になっているのなら、それでまったくいいのです。もちろん、そういうことはあまりないのですが》

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