翻訳味くらべ「新アラビア夜話」 2007.12.31〈再掲〉

「自殺クラブ」(スティーヴンスン 河田智雄訳 福武書房 1989)。

《ロンドンに滞在中、才芸に秀でたボヘミアのフロリゼル王子は、人を惹きつけるものごしと思いやりのある寛大さで、あらゆる階層の人々に好かれていた。世間に知られている面だけでもすばらしい人物だったが、それは実際の行いのほんの一部分にすぎない。ふだんは性質も穏やかで、どんな農夫にも負けないくらい冷静に世に処するのを常としていた。とはいえ、このボヘミアの王子は、生まれつき決められた生き方より、もっと冒険的で、より変わった生き方を好まないわけではなかった。気分がふさいでいる時や、ロンドンのどの劇場にも面白い芝居がかかっていない時など、腹心の主馬官ジェラルディーン大佐をしばしば呼び出して、夜の散歩の用意を命じるのだった。》

「新アラビア夜話」(スティーヴンスン 南條竹則・坂本あおい訳 光文社 2007)。

《ロンドンに滞在中、才芸並びなきボヘミアのフロリゼル王子は、その人柄の魅力と思慮深い気前の良さとで、上下(しょうか)あらゆる階層の人々の人気をあつめた。世に知られていることだけをとっても、王子は非凡な人物だったが、それは彼が実際にしている事のほんの一部分にすぎなかった。常日頃はいたって穏やかな気性で、耕夫のごとき諦観をもって世間に処すことを習いとしていたが、このボヘミアの王子は、高貴の生まれによって運命(さだめ)られた生活以上の、冒険に満ちた型破りな人生に憧れを抱かぬわけではなかった。 時たま気が鬱(ふさ)いだり、ロンドンの劇場のどこも愉快な芝居を演(や)っていなかったり、王子が無双の腕前を発揮する野外球戯に季節が合わなかったりすると、彼は股肱(ここう)の臣にして主馬頭(しゅめのかみ)であるジェラルディーン大佐を呼びつけ夜の外出の支度を命じた。 》

引用箇所は、冒頭。
「自殺クラブ」 の最初の章は、「クリーム・パイを持った若い男の話」。
「新アラビア夜話」では、「クリームタルトを持った若者の話」。
パイとタルトのちがいが、訳出された年代のちがいを感じさせる。

訳は、「自殺クラブ」のほうがこなれているように思う。
「新アラビア夜話」のほうが、むつかしいことばづかいが多く、いささか古風な感じをだそうとしているようだ。
〈彼〉という代名詞が、「新アラビア夜話」でだけつかわれていることも興味深い。

つづいて会話をみてみよう。
まずは「自殺クラブ」。

《最後に、彼はフロリゼル王子に話しかけた。「あのう」彼は最敬礼をしながら、親指と人さし指でパイをつまんで差し出した。「初対面で失礼ですが、受け取っていただけないでしょうか? 菓子の質はうけあいますよ。なにしろ、五時過ぎてから、ぼくはもう二十七個も食べたんですからね」「わたしは贈り物の質よりも、むしろ贈る人の気持ちを考慮することにしてるんでね」と王子は答えた。「気持ちはですね」と若い男はもう一度おじぎをしながら答えた。「つまり、からかおうとしてるんですよ」》

つぎは「新アラビア夜話」。

《ついに若者は、フロリゼル王子のところにやって来た。「貴方」と言って、深々とお辞儀をしながら、親指と人差し指でタルトをつまんで、差し出した。「お初にお目にかかりますが、召し上がってはいただけませんでしょうか? この菓子の味は保証します。夕方の五時から、もう二十七個も自分で食べているんですから」「わたしは常々」と王子は答えた。「品物よりも、それを贈る人の心柄を気にする性質(たち)でしてね」「心ですか」若者は、もう一度お辞儀をして、言った。「それは嘲弄(からか)いの心です」》

やはり、「新アラビア夜話」のほうが、ぜんたいに大仰で、芝居がかっているよう。
あと、細かい話だけれど、「自殺クラブ」では、2つのセリフがひとつにまとめられている箇所がある。
これは多分、「新アラビア夜話」のほうが原文に近いんじゃないだろうか。
(この《「ナントカ」と王子は答えた。「ナントカ」》式の会話を「ブリッジ」というのではなかったっけ)。

物語は、クリームタルトを配り歩いている若者という魅力的な導入部から、「自殺クラブ」という謎のクラブの存在まで急展開。
「~の話」と言う具合に、オムニバスの連作形式で語られる物語は、 抜群の面白さだ。

さて、以下は余談。
「新アラビア夜話」を読むと、いつも久生十蘭の「魔都」(朝日新聞社 1995)を思い出す。

「新アラビア夜話」には、「自殺クラブ」のほかにもう一篇、「ラージャのダイヤモンド」という話が収録されている。
インドのラージャ(「自殺クラブ」では「太守」、「新アラビア夜話」では「藩王」)から英国の一軍人に送られたダイヤモンドを巡る物語だ。

いっぽう、「魔都」には、その名も〈帝王〉(ラジャー)という宝石がでてくる。
来日した安南国の皇帝が持参したもので、この〈帝王〉をめぐり、大晦日から元旦にかけて、東京は大混乱におちいる。

「新アラビア夜話」の主役が、舞台であるロンドンだといえるなら、「魔都」の主役は戦前の東京。
久生十蘭は、アイデアのいくつかを「新アラビア夜話」からいただいたのではないだろうか。

「新アラビア夜話」には、続編があるのだそう。
これまで日本語には訳されていないけれど、南條竹則さんがいうには、「読み物としてはかなり面白い」とのこと。
なんとか翻訳がでないものかと思う。

-追記-

「新アラビア夜話」(西村孝次訳 1952 角川文庫)を手に入れたので、訳文を並べてみたい。

《「饅頭をもった青年の話」
 ロンドンに逗留中、文武の道にひいでたボヘミヤの王子フロリゼルは、その魅力ある様子や、さきざきのことまで考えての思いやりによって、上下のひとびとから親しまれていた。評判だけでも大した人物であったが、それとて殿下の行跡のほんの一部分にすぎなかった。不断(ママ)は穏やかな性質で、いつも百姓のような悟りで世の中というものを考えておられたものの、国王として暮らすよりも、冒険的な奇矯な生活を好む気持がこのボヘミヤの王子にはなくもなかったのである。ときおり、気分がふさいだり、ロンドンではどの小屋にもおもしろい芝居がかかっていなかったり、万能選手ぶりを発揮される戸外の運動に時季が適していなかったりすると、殿下は腹心の友で主馬頭でもある大佐ヂェラルディンを召して、夜のそぞろ歩きの支度を命じるのを常としていた。》

元は旧かな旧漢字だけれど、それは直した。
章題が「クリーム・タルト」から「饅頭」に!
続いて会話。

《とうとうフロリゼル殿下のところにやってきて言葉をかけた。
「あの――」かれは、うやうやしく一礼して、そういいながら、親指と人さし指で饅頭をつまんでさし出した、「初めてお目にかかりますが、ひとついかがでございましょう。この饅頭菓子、召しあがっていただけませんでしょうか? ものは請合いです、現にわたくし、五時からもう二十七も食べておりますから」
「いつもわたしはね」殿下は答えた、「贈りものの品質も品質だが、むしろ贈りものをするその気持のほうを考えるたちでね」
「その気持というのはね」もういちどお辞儀をして、青年は答えた、「ひとをばかにすることなんですよ」》

さすがに、要所要所のことばづかいや行文の古さは否めない。
おかげで、立ち止まって考えながら読むはめになってしまう。
それにしても、クリーム・タルトの代わりに饅頭をもっていると、なにやらコントをみているみたいな気分になるなあ。

-さらに追記-

「新アラビアンナイト」(「世界文学全集 41巻」所収 集英社 1970)。
訳者は平井正穂。

《「クリーム・パイをもった青年の話」
 ボヘミアの王子フロリゼルは、ロンドンに滞在中、その魅力あふれた態度や深い思いやりのせいで、あらゆる階層の人々に愛されていた。世間に知られていた面からいっても、とにかく素晴らしい人間であったが、実はそれも彼の現実の行動のごく一小部分にすぎなかった。普通の場合は、性質も穏やかで、農夫にでもみられるような平静な気持ちで世間に素直に従う、というのがそのならわしであった。ところが、このボヘミアの王子は、生まれつき定められた生き方より、もっと冒険的な、もっと奇妙な生き方を好む性癖がないわけではなかった。しばしば、たとえば気が滅入っているときとか、ロンドンのどの劇場にも愉快な芝居がかかっていないときとか、どんな相手にも負けない野外スポーツもシーズンはずれでどうにもならないときとか、そんなとき彼は腹心の臣下で主馬頭(しゅめのかみ)であるジェラルディーン大佐を呼びつけて、夜の散歩の準備を命じたものであった。》

《とうとう、青年はフロリゼル王子の所にきて話しかけた。
 「ところで」と、彼はひどくていねいに頭をさげながら、同時にまた拇指(おやゆび)と人指し指でパイの一つをつまんで差し出しながら、いった。「見ず知らずのぼくのような人間がおすすめするのは失礼だと思いますが、ひとつ召し上がってくださいませんか。味の方は保証します。なにしろ、五時からずっと二ダースと三個も食べつづけてきたんですからね」
 「ところが、私は」と、王子は答えた、「贈物の品質よりも、ものを贈るときのその気持ちの方が知りたいという性質の持主でしてね」
 「気持ちですか」と、青年はまた一礼して答えた。「それは、つまり、からかおうというわけです」》

…というわけで、平井正穂訳を追加。
青年が食べたクリーム・パイが、「27個」ではなくて、「二ダースと三個」という表記になっている。
同じテキストを用いたとして、こういうところに訳のちがいがでてくるものだろうか。
ふしぎだ。

個人的には、平井訳は読みにくい。
最初に自分にむいていた河田智雄訳を読めたのは、じつに運がよかった。

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