分ればこっちが教えてほしい・・

2008-12-19 10:35:17 | 塾あれこれ
自分の行っていることを検証するのは難しい
と昨日書きました。

そこで私は歴史に頼るのです。
INSPIRED BY THE PAST ってやつかな。

昔から受け継がれてきた教育法は、長い時間をかけて
検証されてきた宝の山なのです。(数千年!)

以前にも書いているハズですが
現在よりも昔のほうが教育は切実な課題でした。

経済が成熟した社会より発展途上のほうが教育熱心
ですよね。似ています。

現代日本は「子に頼らない老後」が流行でしょ。
昔はそうは言っておられませんでした。
自分のため、家のため、社会のため、子供を立派に
育てなければ未来は悲惨なものになるのです。

そこで現在より真剣に育てなければなりません。

「寺子屋に学べ」というのはその事情を思うから。

歴史が保証する教育に学ぼうという事でもあります。


とはいえ寺子屋式教育も完璧な保証があるわけでは
ありません。

昔と違い、今では社会の本質や人間の姿が変化して
しまったかもしれません。

また現代日本の子供達の教育環境は、寺子屋式の
やりかたを受けつけない子供達に育ててしまって
いるかもしれません。
少なくともそのような子供がある程度の数存在する
可能性があります。

であれば、そういう子には私の接し方は正しくない、
ということになります。
(いくら現代風にアレンジして徐々に導入しても)


つまり、全ての子に当てはまる寺子屋ではないので、
学校ではダメ、塾でしかできない、一斉授業は難しい、
個別指導がよい、・・という考えになったわけです。

自由に選べるところで、強制されることなくというのが
大事ですね。=いつでもやめられる。

もちろん部分的には厳しさも強制も必要ですけれど。


歴史に頼る私でありますが、少なくとも全ての子に
正しいとまでは言えないようです。

であれば他のやり方と同じ地平に立っていることで
威張れたものではありません。

結局「私の信念」でしかないのでしょう。


ただですねえ・・
「信念」は危ない。

一種の判断停止を招くのです。
万一、戦前の軍国教育と同じことをするオソレだって
あるわけです。

結局、えらそうなことを言っても煎じ詰めれば(信念)
理屈ではファッショと同じところに立つのです。

情けない結論ですね。


居直れば

「それでも他よりはマシじゃろう」
「そんなにスッキリと分るものなら本でも書いて
老後の蓄えにするわい」
・・なのであります。

居直らなくても自分の最善だけは尽くそうという
程度の半端なお話でした。

自分は正しい塾か?

2008-12-18 14:55:34 | 塾あれこれ
昨日の続きです。

自分の塾がよいことをしている、という前提で書き
ましたが、それはいかにも(お気楽)です。

実際は疑ってみないといけません。

相反する教え方が存在することもあります。
その場合、片方が正しければ、片方は間違っています。

いや、とある時期のとある生徒にとっての話。

どちらも正しい時だってありますし、単純には言えま
せんが、「ともかく自分は正しいのだ」では不安ですね。


追跡調査をしてみればどうでしょう。

やめた人間の追跡調査がどれほど可能か問題ですが。

しかも調査できたとして何が分るでしょう?

数字は得られても分析が大変難しいのです。
私は、ほぼ不可能だと思いますね。

やめた後、成績が上がったとします。
前の塾が悪くて、今の塾がよいか?
そうかもしれませんし、そうでないかもしれません。
前の塾の財産が効いていることだってありますから。

反対に下がっても同様です。
今の塾が悪いのか、前の塾が壊してしまってたのか。

役立つ財産を持たせてやったのに、後の塾がブチ壊す
なんてことだってありえます。

研究機関が大量に長期間調査するのならば別ですが
自分で行う追跡調査に効果が期待できるか・・・??


追跡調査が難しいとなると、他に比較できるのは
続けた子とやめた子の集団同士ならばできそうです。

入試の実績などならば割合と確認しやすいでしょう。

でも、これも間接的な推測ですよね。

たとえ続けた方に結果が出ても、続くということに
力があったのかもしれません。

何らかの不幸で変わらざるを得なかったことそのもの
に成績が上がり難い原因があるかもしれず、塾で持た
せてやるものの是非とどれほどの関連があるか、
不明でしょう。

A塾→B塾でもB塾→A塾でも同じ結果かもしれず
塾で行っていることの是非は分りません。


「教えている限り手ごたえで分るだろう」という人も
おられます。

まったく分らないというのも問題ですが、100%
分るのは神様しかいないでしょう。
私は怖くて神様のマネはできません。


どこでもやっていることを同じようにやっている
従って危険は小さいはずだ、という塾もあるでしょう。
他の塾に移っても生徒は迷わない利点もあると。

でも、それは正しいという保証にはなりません。
自分が行うことに無自覚であるオソレもあります。
だいいち、本当に同じことが出来ているのかしら?

また「これしかできん」という居直りに近い塾も
ありそうです。

ひとさまの人生に関わることですから、それは無責任だ
と思いますが、どうでしょう。


受験を請け負うだけだから、という(逃げ)の塾も
進学塾には多いようです。
皮肉っぽく「アナタのような立派な教育は
とうていできません」と言う人もおられます。

保護者の方も(塾は受験でいい)と言われます。

でも、受験と勉強=教育と切り離せるものかどうか
私には常識以前のことのように思われます。

受験のテクニックだけが伝わるものではないのに
教える側にテクにしか意識がいってないとすれば。。

(もう一回続けます)

塾を中途でやめる

2008-12-17 15:02:32 | 塾あれこれ
避けてきた話ですがネタ切れで登場?

塾を途中でやめる生徒がいます。
転勤などやむをえない場合もあるでしょう。
塾の力不足ということもあります。
誰が悪いわけでなくたまたま相性が悪かった
だけかもしれません。
より複雑な人間関係かもしれません。
原因も相対的かつ流動的なことがあります。

原因はいろいろです。
塾としては残念なことで、当然そうならないよう
最大の努力をするわけです。

しかしそれでも現実には起きうることです。
「そんなことない」塾も少しはあるでしょうが。

普通の塾は中途で別れることも覚悟しておかねば
なりません。
それを念頭において仕事を進めねば。

たとえ途中で別れようとも、塾に来ていただいた
効果はあるような仕事にしておくべきです。
辞めるんならあとは知らないよ、というわけには
いきません。

知識を切り売りするだけで月謝を頂いているのでは
よろしくないでしょう。

あと別の塾に行かれても、自分で勉強されても
ナニガシか教育上価値あるものを与えられたか、が
大切です。
次の塾で役立つ技術、姿勢なども身につけてもらう
必要がありますね。

勿論、辞められるとなった塾がやめる当人にとって
良いことを提出しているという前提での話しです。
悪いことならさっさと捨てる必要がありますから。

丁寧に書くと話がヤヤコシクなりますから
おおむね役立つことをしている、として続けますね。

さて「後に続く」ように考えてやっていることですが
ジツはそれはこちらの願望であって本当に役立つか
どうかはまた別問題です。
塾の自己満足では申し訳ありませんよね。

なぜこう書くかというとまったく自信がもてない
からなのです。

少し話しをずらします。

普段、教えている勉強がどれだけ伝わっているか
こちらが思うほどは伝わっていないのです。

え?テストで確認している、大丈夫ですって?
(お幸せな方だと心よりお喜び申し上げます)

まあかく言う私だって初めはそうでした。
それこそ、自分が教えればバッチリ、ってね。

ところが、ヨソから来た子に
「え?何も習ってないの」と思うときを過ぎ
ひるがえって自分は大丈夫かと見直したら・・

ええ?! それは何度も言ってるでしょう
なんてしばしばですよね。

余談ですが、私の塾を中途でやめて別の塾に
行かれたとき、そこではきっと
「井上は何にもしてない」くらいに思われていそうで
辛いものがあります。

なかなか伝わるものではないのです。

細かな勉強ですらそうですから、もっと大きな教育
に関わることは中々伝わらないに違いありません・・

辞めてゆく子ならなおさら、かもしれません。

それでも、あとは知らない!といえません。

(時間切れ、スミマセン)

新ブックマーク

2008-12-16 22:13:27 | 塾あれこれ

ブックマークを一つ増やしました。
あのDAYSJAPANのブログです。

日本では貴重な雑誌の一つですね。


著名な写真家の石川文洋さんがどこかで
尾道の清水食堂について書いておられました。
DAYSJAPANで思い出しました。

雁木のすぐ上にあった、先の食堂です。
(みっちゃん、元気ですか?)

甘い、醤油辛い味は尾道の懐かしさがあります。


「すし常」の椎茸煮も甘くて辛くてなかなか良い
ものでした。
太巻きが美味しかったですね。
少し味が変わってしまったけれど。

あらら、また尾道・・

ロボットの進歩

2008-12-16 11:40:19 | 塾あれこれ
シェークスピアなら、魔女が怪しげな致死性の液体
煮えたぎる壷を操る場面がありそうですが、
最近まで日本の工場はまるで、それでしたね。

70年代初めに研修で工場見習いをしましたが
それはそれは怖ろしいところでした。

たとえば流石にプレス機には安全装置がついていた
ようですが、同工場内にはついていないのもあった
のではないか?

旋盤、熔接、焼き入れ、などなどちょっとの不注意で
大怪我どころか命まで危ない場所でしたね。
もしも零細企業であればさらに厳しかったでしょう。

ぼんやりした性格の私は「ホワイトカラーで良かった」
とつくづく思いました。
命が大切だという正直な感想ですが、ヒトサマの危険は
思い及ばぬ情けない発想でもありました。


そのころマツダ(東洋工業)は広島近辺で最も進んだ
工場でした。
今なら3Kと言われる仕事の多くにロボットが組み込
まれたラインが出来てたのです。
コンピューター制御も進んでいましたね。

スポット熔接などもロボットアームが火花を散らして
こなしてゆく、そんな(よく見た光景)です。

私が研修をうけた中小工場の危険度からみれば
ロボットとはなんて役立つ存在だったことでしょう。


そもそもロボットってそういう存在ですから
形態は人間とはまるで違うものでした。

今でも千葉工大の古田貴之さんなどは災害救助とか
人間に役立つものを形にとらわれないで研究する、
というお立場だそうです。
人間に似せる必然性はないので機能優先。

人型のロボットはアシモみたいにお遊びの延長と
思っていたら、さにあらず。
もちろんただのお遊びでないとは分かっていますが
「夢がある」というイメージが強いでしょ?

阪大の浅田稔教授によると人型のロボットを研究し
それが人間を知ることに繋がるのだそうです。

進歩しているものですね。

ロボットという存在から人間を考えるのは
フィクションの世界だけではなかった。

ちなみに浦沢直樹の『PLUTO』は彼の作品でもNo1
になりそうですね。
マンガ世界でもロボットから人間を考えるという
手塚治虫を発展させていて秀逸です。
続きが待ち遠しいですね。


今から大人になる人達には更になしうる世界が
広がっています。

現在でもこれだけ夢があります。
これからも無限に可能性が広がります。
何でも出来そうですね。

ただコゴト幸兵衛は一言加えますよ。

楽しいということと楽をするということは別
楽をして大人に、という発想は持たないほうが
よいと思いますが、ね。

尾道デベラ

2008-12-15 14:12:57 | 塾あれこれ


でびら、とも言いいますね。

カレイを寒風に干したものでこれからが美味です。
最近は年中手に入らないわけではないようですが
季節感も重要です。
縄につるす気分は残してあるのですから。

春の訪れが予感されるころには旬が過ぎ
「あぶらがまわった(劣化した)」状態になります。
これはいただけません(売ってますがね)
でべらも終わりか、これも季節感でした。

およそ、茶色が濃くなったものはパス。
魚の色が残り、一種透明感があるのがよろしい。

大型のものは多分山陰もので硬い。
中型の小、くらいが美味しいですね。

別に尾道だけで作られるわけではないようですが
昔は尾道が海産物加工で有名でしたから。

金槌でトントンしてからさっと炭火であぶります。
焦がすなんて乱暴です。ほんのちょっとあぶると
骨と身が分かれますから。

醤油と砂糖を半々にしたタレで頂きます。
もちろん酒にも合います。

最後に一言。
本来、結構値段が張るものです。
お安いものは避けたほうがよいですね。

縄一連で千円なんてのは買ってはいけません。



写真は尾道銘菓のパッケージです。

淡いと言うか、頼りないと言うか
田舎くさいと言うか、懐かしいというか

大林宣彦監督ご推薦の尾道の味。
尾道は別名(玉之浦)といったそうです。

小麦粉、塩、砂糖、塩化Mgなど
うすく焼いた菓子でほんのりと甘いのが
なんともよろしい。。。


少しディープなご紹介までいったところで
暫く続いた尾道シリーズを切り上げます。

明日からは、またコゴト幸兵衛です。

育つ環境

2008-12-13 14:20:16 | 塾あれこれ


一年前の写真です。
電話機もPCも変わってしまいました。

この家しか知らないネコは機械音は平気です。
掃除機をかけていてもまったく逃げません。
鼻先をガーガーしても微動だにしないのです。
可愛くないでしょ?

印刷機も最初の一日だけ気になるようですが
あとは寝ているときに急に音がしても大丈夫。


暫く前、雪が舞うような日が続きました。
薄日がさす公園の、さほど太くない立ち木の根元に
風を避けるふうにネコが丸まっています。

人の拳数個分くらいの大きさの石に沿うような姿。
まるでその石が暖かいように見えました。
ネコって何かに寄り添いたいようですね。

寒くても何とか少しでも耐えられる場所を探して
生きています。

我が家の娘どもに言い聞かせます。
「あんたたちは幸せだよ」
ニャンとも反応がありません。


将棋の加藤九段が野良ネコにエサをやるというので
ご近所から訴えられているそうです。

どちらの気持ちも分るように思います。
加藤九段は敬虔なクリスチャンだそうですし。

小さなネコが震えているとエサの一つもやるのが人情
ですが、また難しい話も出てきます。

ネコ一匹生きづらい世の中はヘンですね。
人工の空間もバブルがはじける前兆かもしれません。

カミサンと私、ネコ二匹。
そんな予感の中、そっと生きています。

尾道幼稚園

2008-12-12 10:52:54 | 塾あれこれ


画面左下側は別のお家です。
東西に長い木造建築がわが尾道幼稚園。
手前に見える部分は一階ではなく二階です。
従って奥は木造三階建てになります。

建物の基本は半世紀前と変わっていないでしょう。
周りの景色は変わり運動場の木の向こうに海が
少しだけ見えています。写真じゃ分りませんか?

写真手前の二階部分から一階へ長いスベリ台があり
雨の日でも遊べます。
50年以上前にそんな建物って余りなかったのでは
ないでしょうか。

サイトで見ると大林宣彦監督がこの幼稚園から
土堂小学校だったとか。
私はその後輩にあたります。


12月発売の写真集があります。

昔の尾道駅が写っていますが、その向こうに土堂小
が見えるのです。

なんと戦前にコンクリートビルディングで校舎を
作っていたのですね。
ここも変わっていません。

でも、耐震など大丈夫かなあ?

西に向いた建物が戦前のもので、もう一棟は戦後。
南面するビルは私も建築工事を記憶しています。
あそこは小2の時まで木造2階建てでした。

ビルに立て替えるとき一階部分を教室にせず
グランドのままにして雨天体操場としました。
これも田舎にしては新しいことではなかったか?

小4のときだったか給食が食パンと牛乳に変わり
とても美味しかったことを思い出します。
全国的にはコッペパンと脱し粉乳でしたからね。


という風に「進んだ」公立小学校だったわけです。
まだ尾道も活気があったのでしょう。

その伝統が蔭山氏招聘にも生きたのかなあ。
すっかり有名になってしまいました。

百マス、その他方法論としては良いトライなので
しょうが「政治利用」っぽくてどうも、ね。
結局誰が得したの?って感じです。
子供も成績が上がったのだからよいか?

あと半世紀の追跡調査が望まれるでしょう。
教育とはそういう単位で見るべきものです。


土堂小の下の跨線橋を降りて前が「うずしお小路」
林芙美子が暮らしていたところです。

海岸通の角を曲がった辺りに我が家がありました。
以前の清水食堂の前です。
オバチャンが鉄板でキンツバを焼いてた。

運動靴は贅沢でみんな下駄で遊んでいましたね。
町には歌が流れ明るかった。


先ごろ八栄亭がなくなり、今回自由軒も姿を消して
いました。

何かが無くなった後のおぼろげな空気が尾道。

いまに無くなってしまいそうなはかなさが尾道。

それでも明るい陽射しの町。

学校は風邪を拡散する所らしい

2008-12-11 14:00:51 | 塾あれこれ
以前にも書きましたが学校は風邪を流行らせる場に
間違いないでしょう。

空気が悪い!
温度管理はずいぶんと進んでいるようですが
クリーンな空気、適度な湿度まではとても手が
回らない処が多いでしょう。
塾でも怪しい処がまだまだありそうです。

そして風邪引きを休ませない、これが学校が風邪を
広める一番の原因です。

昔はヒトサマに伝染さないように学校を休んだ
ものですが今は無理をしてでも行っておかないと
内申に響きます。

この仕組み自体がおかしいのですね。

学級閉鎖になる事態までは無理して行かねば
なりません。
たとえインフルエンザと混同する危険があっても
学校で皆でゴホンゴホンやっています。

「耐久訓練」で根性を養おうとしているのか?
医者や薬屋に頼まれているのか???

私はいつも乱暴に言います。
「あとで振替をするから風邪ひきは塾に来るな。
 私は一人しか居ないから風邪をうつさんでくれ」

風邪を伝染さないのは人としてのマナーですよね。
教育機関がマナーを放棄しているように見えます・・


学校にむけ上記のようなことを言う親がいると、まず
モンスターペアレントというレッテルを貼られるに
違いありません。

確かに、問題のある人間もいるでしょう。
すごい話も聞きます。
また、最近ぐんと増えているかもしれない。

でもね、レッテルを貼り付けるとそこで思考停止に
なってしまうのです。
「あ、いわゆるモンスターペアレントだ」ってね。
相手に真剣に向き合わなくなります。
場合によれば差別的な心情に繋がります。

教育者たるものそれぐらい分るでしょうに、ねえ。

一人ひとりに対して真摯に向き合うことが教育機関
としての責務だと思うのですが。

万一、塾でモンスター何々という発想をする処が
あれば、将来性はないと信じたいですね。


ところで上記のような自明の話、学校はヘンな処が
あるとか発想が疑問であるとか、を塾が明言している
のかについては少々疑問が残ります。
分っていても言わない塾が多いのでは・・

なぜなんだろう?

学校から嫌われる、何か損をする、それを恐れての
態度に違いありません。

突き詰めれば自分の利益です。

自分の利益や都合を、生徒のため社会のためよりも
優先させているのですね。

そうだとすると情けないことです。


こんな憎まれ口は小さい塾だから言えるのでしょう。

小さければ経営上では心配ばかりですが、気楽に言い
たい放題ができるので、なかなか良いものですよ。

プリント管理はトヨタ式

2008-12-10 18:24:45 | 塾あれこれ
またもや昔話ですが80年代から90年代にかけて
勤めていた塾は生徒数が千を越える規模でした。
かといって大手ではありませんからプリント制作も
小さな印刷機をフル稼働です。
それを各教室に配りストックをしておきました。

よく手伝いました。
昔は原稿を取り替える時にインクが手や着衣について
困ったものでしたね。

必要最低限量よりも少し多めに印刷しておきます。
人数が増えたり、無くしたなどという子が出た場合
コピーするのは勿体ないですから。

すると必然的に余りが出てきますよね。
やむをえません。
それらは回収して、場合により廃棄になります。
塾の裏に中型の焼却炉を持っていましたよ。

今から見るとエコではないですよね。
ロスも結構発生していました。

あるときトヨタのカンバン方式に思い当たりました。
出来るならば必要なときに印刷すればロスが出にくい
またストックしておく手間もありません。

マジメな先生は来年も使えるものは整理し残しておき
ますから、空間や時間を取られてしまいます。

トヨタをまねて、今日使うプリントは今日刷る。
その割合を増やして行きました。

これは他分野のことを自分野に取り込むことで
実社会ではよく使われる有効な手法です。
新しい「着想」の多くがこの手法です。

このやり方はアナロジーの一種ですね。
(アナロジーとは例えだけとは限りません)

ただし、気をつけなければならないことは
アナロジーが成立することかどうかの検討を
きちんとしているかどうか、です。

また適応できる範囲の見極めも大切です。


数学で物理を考える。
これもアナロジーです。

初めて知ったときには驚きました。
数学を使うと有効とばかり思い込んでいましたので。

そうすると経済学で数式を使うことがどうも怪しい
面があるのも首肯できます。
アナロジーなので、本当にその式が当てはまるのか
どこまで適応できるのか、検討が必要なのですね。

このたび壊れてしまった米国のバブル経済を支えた
のも高等数学だったそうです。

一種のアナロジーと気をつけていれば・・ねえ。