画面左下側は別のお家です。
東西に長い木造建築がわが尾道幼稚園。
手前に見える部分は一階ではなく二階です。
従って奥は木造三階建てになります。
建物の基本は半世紀前と変わっていないでしょう。
周りの景色は変わり運動場の木の向こうに海が
少しだけ見えています。写真じゃ分りませんか?
写真手前の二階部分から一階へ長いスベリ台があり
雨の日でも遊べます。
50年以上前にそんな建物って余りなかったのでは
ないでしょうか。
サイトで見ると大林宣彦監督がこの幼稚園から
土堂小学校だったとか。
私はその後輩にあたります。
○
12月発売の写真集があります。
昔の尾道駅が写っていますが、その向こうに土堂小
が見えるのです。
なんと戦前にコンクリートビルディングで校舎を
作っていたのですね。
ここも変わっていません。
でも、耐震など大丈夫かなあ?
西に向いた建物が戦前のもので、もう一棟は戦後。
南面するビルは私も建築工事を記憶しています。
あそこは小2の時まで木造2階建てでした。
ビルに立て替えるとき一階部分を教室にせず
グランドのままにして雨天体操場としました。
これも田舎にしては新しいことではなかったか?
小4のときだったか給食が食パンと牛乳に変わり
とても美味しかったことを思い出します。
全国的にはコッペパンと脱し粉乳でしたからね。
○
という風に「進んだ」公立小学校だったわけです。
まだ尾道も活気があったのでしょう。
その伝統が蔭山氏招聘にも生きたのかなあ。
すっかり有名になってしまいました。
百マス、その他方法論としては良いトライなので
しょうが「政治利用」っぽくてどうも、ね。
結局誰が得したの?って感じです。
子供も成績が上がったのだからよいか?
あと半世紀の追跡調査が望まれるでしょう。
教育とはそういう単位で見るべきものです。
○
土堂小の下の跨線橋を降りて前が「うずしお小路」
林芙美子が暮らしていたところです。
海岸通の角を曲がった辺りに我が家がありました。
以前の清水食堂の前です。
オバチャンが鉄板でキンツバを焼いてた。
運動靴は贅沢でみんな下駄で遊んでいましたね。
町には歌が流れ明るかった。
○
先ごろ八栄亭がなくなり、今回自由軒も姿を消して
いました。
何かが無くなった後のおぼろげな空気が尾道。
いまに無くなってしまいそうなはかなさが尾道。
それでも明るい陽射しの町。