対人関係での距離感。
物理的な距離もあります。
人と人との間は一定の距離がないと落ち着きません。
文化により遠い近いがあるとも聞きます。
欧米より日本は距離が必要でしょう。
同じ日本でも戦前と今とでは違うでしょうね。
心理的な距離もあります。
これが遠いと、話す内容が紋切り型になります。
◎
ある程度混んだ電車内で子供を座らせるか。
私は個人的には座らせるのは好みません。
日本は古来、子供に甘いようです。
幕末に日本を訪れた外国人が等しく述べていますね。
日本は子供天国であると。
(モース『日本その日その日』ほか)
それでも今ほどではなかったはずで最近は躾のなって
いないご家族をしばしば見うけます。
大騒ぎをしていれば注意をしても変ではありません。
ただ、座らせているくらいで見知らぬ人に言えるか?
「子供は立たせましょう」と。
ちょっと言えませんよね。
ところが心理的に近ければ言えます。
いとこになら「子供を立たさんニャ」と。
もちろん、同じイトコでも心理的な距離によるでしょう。
○
お店で惣菜を買いました。
外食はしないけれどタマに買うことはあります。
硝子ケースの中に大皿があり、そこにあるものを
パックしてもらうのです。
その時、店の人が皿の外へ商品を落としました。
落ちた所は別に汚くはないのですが、それとは別の
ものをパックして下さる。
件の品は大皿の手前、店側にちょっと仮置してレジへ。
そこへ別のお客が来て同じ商品を頼まれました。
(お買い得品だった・・)
すると、別の店員さんが先の仮置したのをパックへ。
ここで「言うか、言わないか」
これも心理的な距離感です。
お客が私の知った人ならば、当然言います。
あるいは馴染みの店なら言えます。
そうでなければ言いづらいかナ?
◎
子供のころ我侭だったのは繰り返し書いてきました。
つまりモノゴトが見えていなかった。
距離感が悪いといいましょうか、
たいした友達でもないのに人の真似をして気安く
あだ名で呼んで「お前にゃ言われたかあなー」
と尾道弁で言われておりました。
人と人の間にはグラデーションが掛かっており
更には時間とともに移ろいます。
この把握ができてなかったのですね。
◎
同じことを異なる人間から言われこちらの反応が違う
ということはよくあります。
苦手の体育で、先生から「何をしてる」とか言われた
事は半世紀経った今でも不愉快な記憶です。
正しい事を言っても名誉毀損ということがあります。
私が体育のM氏に「お前に言われたかねえ」でした。
◎
本来「~について述べる」という場合、主題の定義
から書くのが普通でしょう。
ただし、連続して変化が続き、無限の微妙な差があり
条件によって動くような事象を、ひとつの定義で括る
ことは余り意味がないと思います。
学校で仕事をする場合は必要でしょう。
「~を体罰とする」とかね。
でも、必要だからと線引きすることが却って複雑な
現実を混乱させているのではないでしょうか。
罰、強制や排除、イジメ、えこひいき、冷たい対応
相手の心を傷つけるという意味では「地続き」で
あるようなことを定義してどうしますか?
もっと有効な手を打つためには、アプローチを変え
る必要があるのです。
◎
私は「心理的な距離」がキーだと思います。
「お前に言われたくない」の反対。
心理的に近ければ誤解は減り、意思が通じ合い
殺伐たる人間関係は生まれません。
どのようにして近い心理関係を作るか
信頼される大人がいいのか、
仲間のような教師がいいのか、
「教育とは」という考え方をしっかりさせて
仕事のありかたを決めるべきでしょう。
物理的な距離もあります。
人と人との間は一定の距離がないと落ち着きません。
文化により遠い近いがあるとも聞きます。
欧米より日本は距離が必要でしょう。
同じ日本でも戦前と今とでは違うでしょうね。
心理的な距離もあります。
これが遠いと、話す内容が紋切り型になります。
◎
ある程度混んだ電車内で子供を座らせるか。
私は個人的には座らせるのは好みません。
日本は古来、子供に甘いようです。
幕末に日本を訪れた外国人が等しく述べていますね。
日本は子供天国であると。
(モース『日本その日その日』ほか)
それでも今ほどではなかったはずで最近は躾のなって
いないご家族をしばしば見うけます。
大騒ぎをしていれば注意をしても変ではありません。
ただ、座らせているくらいで見知らぬ人に言えるか?
「子供は立たせましょう」と。
ちょっと言えませんよね。
ところが心理的に近ければ言えます。
いとこになら「子供を立たさんニャ」と。
もちろん、同じイトコでも心理的な距離によるでしょう。
○
お店で惣菜を買いました。
外食はしないけれどタマに買うことはあります。
硝子ケースの中に大皿があり、そこにあるものを
パックしてもらうのです。
その時、店の人が皿の外へ商品を落としました。
落ちた所は別に汚くはないのですが、それとは別の
ものをパックして下さる。
件の品は大皿の手前、店側にちょっと仮置してレジへ。
そこへ別のお客が来て同じ商品を頼まれました。
(お買い得品だった・・)
すると、別の店員さんが先の仮置したのをパックへ。
ここで「言うか、言わないか」
これも心理的な距離感です。
お客が私の知った人ならば、当然言います。
あるいは馴染みの店なら言えます。
そうでなければ言いづらいかナ?
◎
子供のころ我侭だったのは繰り返し書いてきました。
つまりモノゴトが見えていなかった。
距離感が悪いといいましょうか、
たいした友達でもないのに人の真似をして気安く
あだ名で呼んで「お前にゃ言われたかあなー」
と尾道弁で言われておりました。
人と人の間にはグラデーションが掛かっており
更には時間とともに移ろいます。
この把握ができてなかったのですね。
◎
同じことを異なる人間から言われこちらの反応が違う
ということはよくあります。
苦手の体育で、先生から「何をしてる」とか言われた
事は半世紀経った今でも不愉快な記憶です。
正しい事を言っても名誉毀損ということがあります。
私が体育のM氏に「お前に言われたかねえ」でした。
◎
本来「~について述べる」という場合、主題の定義
から書くのが普通でしょう。
ただし、連続して変化が続き、無限の微妙な差があり
条件によって動くような事象を、ひとつの定義で括る
ことは余り意味がないと思います。
学校で仕事をする場合は必要でしょう。
「~を体罰とする」とかね。
でも、必要だからと線引きすることが却って複雑な
現実を混乱させているのではないでしょうか。
罰、強制や排除、イジメ、えこひいき、冷たい対応
相手の心を傷つけるという意味では「地続き」で
あるようなことを定義してどうしますか?
もっと有効な手を打つためには、アプローチを変え
る必要があるのです。
◎
私は「心理的な距離」がキーだと思います。
「お前に言われたくない」の反対。
心理的に近ければ誤解は減り、意思が通じ合い
殺伐たる人間関係は生まれません。
どのようにして近い心理関係を作るか
信頼される大人がいいのか、
仲間のような教師がいいのか、
「教育とは」という考え方をしっかりさせて
仕事のありかたを決めるべきでしょう。