言葉を守りましょう、というとご親切に教えて下さる方がおられます。
「アノネ、言葉というのは時とともに変わるの。
だから自然に任せていれば消えて行くものも
あるし、残るものもあるし。強制はいかん。」
言葉における自然淘汰説ですね。
自然淘汰でうまくいく、というのも一種の信仰とは
気付かないようです。
信仰で表現がきつければ信念と言い換えましょうか。
思い込むという意味では同じようなことで、それほど
科学的といえることではありません。
「考える」ときにアナロジーを使うと間違えることが
あるという好例です。
学者ではないので、最後は正否を専門家にお任せする
しかありません。
そもそも自然淘汰はあるのかないのか。
あるとして人間にとって幸福な方向か。
一つだけ明白なことは、言葉の環境が激変している
ということです。
少し前と違い、高速、広範囲、大容量、低コストで
行なえ、発信の主体も驚くほどに増加しています。
変化が速くなるということですね。
私達が長谷川時雨を読んで「ああ、こんな日本語も
あったのか」と変化に驚くのは仕方ありません。
また実害も非常に少ないでしょう。そういう日本語
を使う人がいないのですから。
ところが現代は
「まず素材に塩を振ります。マンベンに。
いえ、満遍なくじゃありませんよ、マンベンに!」
同じ空間に正反対の表現をする人間がいて混乱しない
とは思えないですよね。
「おばーちゃん、ナニゲニ窓を見たの。なにげなく
じゃないよ。」
◎
今風の言葉について行けないので年寄(私)が嘆くので
はありません。
記号を使うと言う意味では言葉と同じ数学でこのよう
なことがあったらどうなるでしょう。
そのようなことがおこらないように強制力が働きます
ね。
病院で若い看護士が「この薬はマンベンなく塗っては
いけません」とか口走ったら、ど~よ?
何時の時代にも流行り言葉や符牒はあります。
若いうちは使ってしまうものです。
「パチンコでゲーマンすっちゃったよ」
なんて言ってたアホが職場にいました。
それと現代の言葉のあやうさとは少し違います。
間違っていることを知らないオソレがある。
おとーさん、おかーさんが日本語を間違っていて
学校での国語教育に注文をつけても無理があります。
天下のNHKで看板のアナウンサーがヒドイ言葉を
しゃべるのです。
それどころか教科書に載る売れっ子作家にもヘンな
日本語が・・
こんなのも自然淘汰でうまくゆくのでしょうか?
「アノネ、言葉というのは時とともに変わるの。
だから自然に任せていれば消えて行くものも
あるし、残るものもあるし。強制はいかん。」
言葉における自然淘汰説ですね。
自然淘汰でうまくいく、というのも一種の信仰とは
気付かないようです。
信仰で表現がきつければ信念と言い換えましょうか。
思い込むという意味では同じようなことで、それほど
科学的といえることではありません。
「考える」ときにアナロジーを使うと間違えることが
あるという好例です。
学者ではないので、最後は正否を専門家にお任せする
しかありません。
そもそも自然淘汰はあるのかないのか。
あるとして人間にとって幸福な方向か。
一つだけ明白なことは、言葉の環境が激変している
ということです。
少し前と違い、高速、広範囲、大容量、低コストで
行なえ、発信の主体も驚くほどに増加しています。
変化が速くなるということですね。
私達が長谷川時雨を読んで「ああ、こんな日本語も
あったのか」と変化に驚くのは仕方ありません。
また実害も非常に少ないでしょう。そういう日本語
を使う人がいないのですから。
ところが現代は
「まず素材に塩を振ります。マンベンに。
いえ、満遍なくじゃありませんよ、マンベンに!」
同じ空間に正反対の表現をする人間がいて混乱しない
とは思えないですよね。
「おばーちゃん、ナニゲニ窓を見たの。なにげなく
じゃないよ。」
◎
今風の言葉について行けないので年寄(私)が嘆くので
はありません。
記号を使うと言う意味では言葉と同じ数学でこのよう
なことがあったらどうなるでしょう。
そのようなことがおこらないように強制力が働きます
ね。
病院で若い看護士が「この薬はマンベンなく塗っては
いけません」とか口走ったら、ど~よ?
何時の時代にも流行り言葉や符牒はあります。
若いうちは使ってしまうものです。
「パチンコでゲーマンすっちゃったよ」
なんて言ってたアホが職場にいました。
それと現代の言葉のあやうさとは少し違います。
間違っていることを知らないオソレがある。
おとーさん、おかーさんが日本語を間違っていて
学校での国語教育に注文をつけても無理があります。
天下のNHKで看板のアナウンサーがヒドイ言葉を
しゃべるのです。
それどころか教科書に載る売れっ子作家にもヘンな
日本語が・・
こんなのも自然淘汰でうまくゆくのでしょうか?