2023/11/25放送
「世の光」の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。今週は聖書の創世記の中からご一緒に人生を考えてきました。旧約聖書の創世記という書物は、すべてのものの始まり・ルーツが記されています。最初の書き出しは、「はじめに神が天と地を創造された」という一文から始まります。
この世界が形造られたとき、そこは闇に覆われた混沌(※)としていた世界でした。しかし神様が「光、あれ」と仰せられると、光がもたらされたのです。
そしてこう記されています。
「神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日」
この「第一日」ということばを今と同じ24時間と考えるのか、それともある一定の期間を表すのか、様々な説があります。
しかし大切なのは、神様がこの世界を創造られたということです。
この「夕があり、朝があった」と書かれていますが、なぜ「朝があり、夕があった」ではないのでしょう。
私たちにとって一日の「はじめ」のイメージは朝ですよね ♪新しい朝が来た 希望の朝が~ とですね、ラジオ体操でもよく歌いました。朝というのは新鮮ですし、朝日はとても心地よいものです。
一方、夕方は黄昏時です。日が沈み暗くなっていくわけですから、終わりのイメージがあります。
ところが、創世記の天地創造の記事では、最初に夕を迎えてから朝が訪れるのです。
この書き方に私たちは自分の人生を重ね合わせて考えることができるのではないかと思うんです。私たちはいつも、朝のようにさわやかな人生を求めます。しかしそれは決して長く続くわけではありません。
でも聖書は、夕のあとに朝が来ると教えています。
詩篇30篇5節には
「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある」
と書かれています。
私たちの人生には、夕暮れに涙する時があります。しかしその後に朝が来るのです。涙のあとには喜びが来るのです。しかしまた夕になります。
神様は朝だけでなく夜も創造なさいました。神様は私たちに喜びだけではなく苦しみや涙もお与えになります。
しかし、それは神様が冷たい方だからではなく、夕があり朝があるからこそ、私たちは人として大切なことを学びながら、生きていくことが出来るのではないかと思うんです。
夕があり朝が来る、ということは、私たちはいつでも希望を持って生きていくことができる、ということでもあるんですね。
( PBA制作「世の光」 2023.11.25でのお話しより )
※ 「地は混沌としていた」と訳されていることばは、「そこにあるものはぐちゃぐちゃだった」というのではなくて、「あるべきものがなくてがらんとしていた」ということ
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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
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