ここのところ、落語を聞いていない。
以前はよく、新宿や浅草の寄席で聞いたものだったが、いつの間にか、行かなくなってしまった。
今はもっぱら、車の運転中に、CDで聞いている。
外国のことは知らないが、落語は日本独特の芸能で、身振り手振りや表情があって成り立っている。
私がCDで楽しめているのも、幾度も高座で聞いていたから成り立っているにちがいない。
ああ、ここの場面ではこんなだったなあ、と思い描きながら、音の世界に入っている。したがって、以前に高座で聞いた人のものでないと、どこか納得できない。
音を聞きながら、具体的な映像を思い浮かべるのは、かなり脳を使うらしい。ボケ防止にいいかもしれない。
勝手に映像を描くので、私にとって好ましい雰囲気が出てくる。
これはいいですよ。
古今亭志ん生、古今亭志ん朝、三遊亭園生、立川談志、柳家小さん……
このような名人のCDに、私の運転の安全がかかっている。
「文七元結」は、志ん朝と談志を聞いているが、それぞれ個性が出ていて面白い。どちらがいいかとなると、これはもう好きずきの話になる。
私は、志ん朝の「文七元結」がダントツだと思っている。じっくりと聞かすところが、なんとも言えない。幾度聞いても、涙が出そうになる。事実、涙が出たこともあった。
談志のほうも面白いが、泣けない。あまりじっくり聞かせない。ポンポンとやってくる。だから、私には、「面白いけど、泣けない」となる。
このようになると、聞く側の好みと、演者の演出哲学がマッチングするかどうかの問題だ。上手や下手の問題ではない。
近頃のテレビで見る演芸は、なんとも軽薄だ。芸ではない。
ひどいのになると、笑いを強要している。
「ここで笑わないと、笑うところがなくなりますよ」なんて言っている。ところが、それがまた受けている。変なギャグもギャグなら喜ぶのだから、客も変だ。
高座はよかった。今は行っていないからわからない。今もきっと同じなのだろう。
なにしろ客は、笑うために木戸銭を払っている。笑いたくて、笑いたくて……ってヤツが集まっているのだから、笑いは盛大だ。
連れがいた方が笑いやすい。その連れも、盛大に笑ってくれる人がいい。
私の家内は「笑い虫」だ。ちょっとしたことで盛大に笑う。
それでいて、先ほどの、「 ここで笑わないと、笑うところがなくなりますよ」といったギャグには、反応しない。
ちょっとした仕草で笑う。眼の動き一つで反応する。しかも大声なのだ。
一緒に行った私も、ついついつられて笑ってしまう。
笑いは伝搬するので、笑いの輪が広がったりする。
演者にとっては、とっても好ましい客らしい。小さい席だと、落語家と家内の掛け合いになったりする。
「そこの奥さん、まだ笑う場合じゃないですよ!」と、高座から声がかかる。
「だってえ……」と、家内。
「だってもさってもないの!お陰で、私は話の筋がわかんなくなっちゃった」
それを聞いた家内が、また大笑い。
「しょうがねえなあ、今夜は奥さんだけが相手だ。みなさん、ごめんなさいねっ。こんなに笑われちゃあ落語にならねえ」
笑わせる落語家のとぼけた話術が、みんなの大笑いを誘う。
笑い上戸の家内と行く高座は、時にはハプニングがあって楽しかった。
しかしながら、このごろは出不精になってしまい、そんな楽しみもなくなっている。
あなたのブログへ来るまでは、ひよどりさんは
女性の方と芯から思っていました・・・・?
落語に疎い私も、興味を引かれました。早速お勧めの
志ん朝の「文七元結」を聞いてみます。
「漂流にストップ!」と銘打って、政治を切り世相を
切って下さい。ワクワクして訪問致します。
また参ります……!