味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

無事を以て天下を取る。

2015-01-31 13:00:05 | ブログ
第2226号 27.01.31(土)
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無事を以て天下を取る。『老子』
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 国を治めるには正をもってするが、もっと大きい天下は、無事、無為でなければ取ることできない。意図をもたずにすることが最上の政治である。332
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 【コメント】数日前、「無為」という用語が出てきましたので、私の稚拙な漢詩にその言葉を使用しましたと書きました。
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 それは学問によって裏付けられている荘内人士、所謂、小野寺先生方のご人格を拝見して、荘内という風土で培われてきた人格美だとかねがね拝見し、薩摩の私どもが漢籍を学修し、出来るものならそういう人間像を創りたいものだという羨望の思いで日々を過ごしているからでございます。
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 75歳の私には迚も叶わないことですが、円心会道場に集う子ども、そして保護者には、そういう夢を抱いていきましょうとお話しているのです。
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 私の書棚には日本の碩学として名声を博している安岡先生のご著書も数多ありますし、荘内南洲会様にあるご著書もありますので、これからの空手道修行者たちが学ぶには、幾らかお役に立つと思います。
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 今朝の学問館には、吉野分校の方もお見えになりました。意義ある楽しい勉強会でした。吉野分校の師範と連突きの競争をしたら、私の突きが早かったように思いました。私75歳、吉野の師範は45歳で30歳の差があるのですが。やってみて、当分はこのジジイもイイナと思った次第でした。

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『大学味講』(第64回)
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 〇といいますと、実際にはどうすればよいのでしょうか。
 ”集団の訓辞や行事だけでなく、もっと一対一の----マン・ツー・マン的の間において、その人の「我づくり」をすることを、もっと重んじたらどうでしょうか。工場をまわっていく時に、もっと一人一人に目をつけて、その人の耳もとに口をよせて、
 「大事な身(からだ)だから、大事にしてくれよ」----良寛のことば----
と、心をこめてささやく。またある人には、
「これでは危ないから、ここはこうした方がよいではないか」
とかと、本当にそのことを思って、その人のためにする個人的指導を、もって重んずべきではないでしょうか。私は、明治以後の日本の教育は集団教育だけに走って、個人的教育が忘れられてきたではないかと思いますがね。

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『論語』(第164)
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 子の雅(つね)に言ふ所は、詩書執礼皆雅に言ふなり。
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 孔子が常に言ってお教えになるのは、詩と書と礼とであって、これらはみな常に言って棄ておかれぬ事柄である。詩は人の情性を正し、書は二帝三王の大小の政事を述べてあり、礼は人が執り守るべき法度であって、人の日日の実生活に適切なものであるから常にこれを言うのである。
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『農士道』(第48回)
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 以上造化運行の法則たる陰陽文質の関係に基いて現代社会人生の諸相を一瞥したが、現在の世相は其の何れの方面を見るも、其の多くは已に造化の本質より遊離せる「浮文」的状態に彷徨してゐる。而して之に對して一部の人々は何れの世にもあることながら、慷慨の余り「瀆武」とも称すべき反動的状態に走りつつあることに気付くであろう。(此事は單に政治的問題のみに非ず、日常の家庭生活の問題に至るまで然りである。)然し此処で深思せねばならぬことは、「瀆武」も「浮文」も共に「眞」にして「新」なるべき道ではないことである。
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百人一首
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あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の
 長々し夜を ひとりかも寝む 【柿本人麿】

射は仁の道なり。

2015-01-30 10:17:09 | ブログ
第2225号 27.01.30(金)
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射は仁の道なり。『礼記』
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 弓を射ることは、仁の道と似ている。まずおのれを正しくして、しかるのちに当たることを望む。当たらなければ人をうらむことなく、自分を反省する。286
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 【コメント】上に紹介した『礼記』の言葉のように、日々の生き方を反省しながら進めば物事は上手くいくのではないでしょうか。かくありたいものです。
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 昨日は円心会に入門したいが、先ずは見学させてくださいという方がみえました。小学2年生の橋口葵さんという子どもさんでしたが、迚もお利口さんに見えました。お婆さんと一緒に見えましたが、心身の鍛錬を目的としたいということでした。
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 3歳児・まさだかなこちゃんが午後5時50分にみえましたので、ハッスルぶりを見てもらいました。さて、ご縁があるか、どうか。思うに、多くの子どもたちに『南洲翁遺訓』を学んで欲しいのです。荘内の英傑の先生方が命に代えて世に出したものだからです。そのこともお話しました。

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『大学味講』(第63回)
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 〇それでは、人から使われる立場の者の「我づくり」はどういうことになりましょうか。
 ”よい実例がありますよ。木工関係の工場のことですが、そこではは傷害防止が大きい問題となっている。そこで危険防止の設備を整え、危険防止の管理を行い、危険防止のポスターをはる、というように、いろいろの努力をしたので次第に改善されてきているが、しかしそれでも、ちょっとの油断で怪我人を出すことがあるが、何かよい方法がないものかというのであります。
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 そこで、この工場の危険防止の対策を分析してみると、それは「設備づくり」や、教育や管理の「方法づくり」等の対策を講じてはいるが、内面的の一人一人の「我づくり」にも力を用うべきではないだろうか、と反省することです。”

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『論語』(第163)
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 子曰はく、我に數年を加し、五十にして以て易を學ばしめば、以て大過無かるべし。
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 孔子がいうには、もし私にもう数年の寿命が與えられ、五十歳までに易を学び得たならば、吉凶の理を知り存亡の道を明らかにすることが出来て、人事に通じて天命を知って、私の一生に、おそらく大きな過失がないものになり得るであろう。 
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 易学を学ぶことも大切だと思います。そして中村天風師の『運命を拓く』『成功の実現』『心に成功の炎を』をお読みになるようお勧め致します。
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『農士道』(第47回)
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 其の為には政治の實質といふことは第二第三として民衆への宣伝が第一である。かくて近来の政治は遂に宣伝政治、選挙第一主義的政治に堕しつつある。こり實に政治の浮文状態でなくて何であらう。
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 而して之が反動として起り来りつつあるものが、所謂独裁政治の謳歌であり、若しくは更に瀆武的なる暴力革命的傾向の出現である。然し政治の本體は為政者其人の生ける人格であり、而してこれよりおのづからに発展せる必要なる限りに於ける法制組織である。換言すれば「徳」と「法」との間の彬彬たる文質の調和を失はぬ處にあらねばならぬ。

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百人一首2
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春過ぎて 夏来にけらし 白妙の
  衣ほすてふ 天(あま)の香具山【持統天皇】

仕うるは貧の為めに非ず。

2015-01-29 10:06:39 | ブログ
第2224号 27.01.29(木)
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仕うるは貧の為に非ず。而も時ありてか貧の為めにす。『孟子』 
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 士官するのは、本来は衣食の資を得るためではない。しかし、親を養うためとか、家庭を保持するためとかいうように、ときによっては貧のために仕えることもある。126
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 【コメント】例えば公務員になるとか、教員になることも一種の士官と捉えていいでしょう。その教員という士官先で、人々がびっくりするような個人のいびつな論理が罷り通っているということを聞いたことがあります。
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 受け持っている子どもたちが勉強が出来るようになるとか、資質がよくなるというのは知ったこっちゃないという先生が増えているのだというのです。御聞きしてあいた口がふさがらないという思いを抱きました。
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 そういう先生には、その後どういう裁きがあるでしょう。
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『大学味講』(第62回)
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 〇しかし、実際になると、その事についての知識と技術の「才」があれば、それで仕事が出来るのですから、「徳」などとむずかしいことをいわなくても、仕事をやっていけるではないでしょうか。
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 ”そうでしょうね。しかし今申しました自動車の運転手の場合を見てもわかるように、長い目でみると、よい徳がある人が栄えていくでしょうね。
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 そしてまた、人から使われて、部分的の仕事をしている場合は「才」だけでもよいかも知れませんが、二人でも三人でもの部下や同僚をもって、それと共に仕事をしていくようになると、その人の「人がら」---即ち「徳」---というものが大きくひびいてくるものでしてね。だから平社員として使われていた時には、他の人をしのいでも成績をあげてきた「働き者」が、係長とか課長とかという管理職になって、人の上に立つようになっても、その「人がら」が変わらず、ただただ自分の成績をあげることだけを考えて、同僚や部下のことを考えないことでは、その「才」が却ってマイナスとなり、人々から嫌われ者になることがあるものです。
 ですから、、「才」だけでも仕事は出来るでしょうが、その「才」が、よい「徳」----よい「人がら」----の上に運用される時に、はじめて最善の力を発揮し、最高の効果をあげることが出来るではないでしょうか。「我づくり」が必要だということは、こういう面からもわかるでしょう”

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『論語』(第162)
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 子曰はく、疎食を飯ひ、水を飲み、肱を曲げて之を枕とす。楽しみ亦其の中に在り、不義にして富み且つ貴きは、我に於いて浮雲の如し。
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 粗末な飯を食べ、水を飲み、肱を曲げて枕とするような貧乏暮らしでも、道を志す眞の楽しみはおのずからその中に在るものである。不正不義をして得た富貴などは、わしから見れば浮雲の如く定めないのに似ている。どうしてこのようなものに心を動かされることがあろう。
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『農士道』(第46回)
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 かくて政治とは畢竟人間が法の番人となって法の運用をなすことであるといふ考えすら生じて来るに至り、其の最も顕著なる事例として議会政治に伴ふ選挙至上主義的なる弊害を見るに至ったのである。
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 或る政治理想を実現するには議会に於いて多数を得ねばならぬ。其の為には選挙に於て多数の当選者を得るを必要とする。当選いするためには選挙区民の歓心を買はねばならぬ。

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百人一首
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秋の田の かりほの庵(いほ)の 苫を荒(あら)
     わが衣手は 露にぬれつつ 【天智天皇】

道は自然に法る。

2015-01-28 10:01:25 | ブログ
第2223号 27.0128(水)
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道は自然に法(のっと)る。『老子』
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 すべては自然にのっとっている。草木の生えるのも自然であり、春夏秋冬の移り変わるのも自然である。人間の踏み行うべき道も、やはりこの自然にのっとるのが最もいい。323
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 【コメント】またまた人を殺してみたいとして殺し、女子大生が逮捕されるという痛ましい事件が起きました。そしてネットには、その昔大事件を起した人々の誕生日等々が書かれ、それなりに話題を呼んでいるようです。
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 なぜこういう事件が立て続けに起きるのでしょうか。

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『大学味講』(第61回)
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 〇では、その「徳」を形成する要因は何でしょうか。
 ”「才」の要因を「知識」と「技術」としたように分析的にいうならば、「徳」の要因は「体質」と「性質」ということになるでありましょう。”

 〇その「体質」とか「性質」とかいうものは先天的のもので、なかなか改まらないものではないでしょうか。
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 ”それは確かにその通りです。しかし絶対に変化しないというものではありません。けれどもそれは、読んだり聴いたりして、それを大脳の表皮細胞に記憶しさえすれば、それであぼえるというような「知識」の収得とは違って、「体質」の変化「性質」の変化となると、全身の全細胞の全変化を来さねばならぬので、試験勉強の一夜漬けのようには参らぬのでありまして、そこに「我づくり」のむずかしさがあるのであります。
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 しかし、だからといって、それが出来ないということはありません。現に若い時は弱い体質の人が、摂生と鍛錬とで中年以後に健康になり、長生きしている人もあり、また、生来短気者で、ちょっとのことでもすぐカンカンとなるような人でも、努力の結果落着いた人になっている人もあるのでありまして、「我づくり」の努力の結果は、その人の「人がら」を変化させるものであります”

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『論語』(第161)
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 冉有曰はく、「夫子衛の君を為(たす)くるか。」子貢曰はく、「諾、吾将に之を問はんとす。」入りて曰はく、「伯井叔斉は何人ぞや。」曰はく、「古の賢人なり。」曰はく、「怨みたりや。」曰はく、「仁を求めて仁を得たり。又何ぞ怨みん。」出でて曰はく、「夫子は為けじ。」
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 冉有が「先生は衛の君の出公輒をお助けになるだろうか」と言った。子貢が「よし、わしがひとつお尋ねしてみよう」といって、部屋へ入って、「伯井・叔斉はどういう人でございますか」と問うた。孔子は「昔の賢人だよ」と答えた。
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 子貢は「伯井・叔斉は、互いに国を譲りあって父の後を継がなかったのみでなく、後には餓死さえしたのであるが------後で悔い怨んだのでございましょうか」と尋ねた。すると、孔子は「共に仁を求めて仁を得た----すなわち、人たるの道を求めて、人たるの道を行い得たのだ。心に何の悔い怨むことがあろうや、何も遺憾としなかっただろう」と答えた。
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 子貢はこの孔子の言葉を聞いて、部屋から出て来ていうには、「先生は衛の君、出公輒をお助けにならないよ」と答えた。

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『農士道』(第45回)
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 更に政治に於て之を見んか。政治に於ける「質」は為政者の人格を中心とせる徳治政治たることは明瞭である。だから政治の本質に於ては、士階三等茆茨剪らざる堯舜の政治を以て理想とする。然しさればといって全然法律制度を必要とせぬということではない。其の徳治政治の結果、必要に応じて其処に次第に法律も制度も生じて来るであらう。然し外部より見ゆるは「文」たる法律制度である。
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学を好むは知に近く、----恥を知るは勇に近し、

2015-01-27 10:12:00 | ブログ
第2222号 27.01.27(火)
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学を好むは知に近く、力行は仁に近く、恥じを知るは勇に近し。『中庸』
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 「知、仁、勇」の三つは人間の達徳であるが、学問を好む者は知に近く、なすべきことを力行していくことは仁に近く、恥を知る心がけを保っていれば、いつかはこの三徳を実現しうるのである。(孔子のことば)159
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 【コメント】勤勉であること、決めたことを継続していくこと、恥を知る心がけをもつことは大事なことであると思います。
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 現職警察官がお付き合いしていた女性を殺害するという事件が発生しました。大変悲しいことです。こういった事象を防止するためにも、コメントの冒頭に書いた「恥を知る心がけ」を警察学校でも徹底して教育して欲しいものだと思います。
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 思うに、西郷南洲翁の足跡としての処世を研究することも大事ですが、その以前に『南洲翁遺訓』こそを徹底して教えるべきだと思います。西郷さんの若い頃はヨバイもあったやに記されています。可愛岳を突破する際も「ヨバイノゴトアル」と言ったとか。
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 今は男女同権、個人情報等々世の中がうるさく様変わりしています。私の同級生であった男が逐一情報提供に訪れましたが、その凄まじさを今も鮮明に記憶しています。半世紀前のことです。その男は殆ど読み・書きはしていなかったようです。
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 私はあるキッカケで「文字を書き写す」ということを聞き、その道を選択してきたから幸運でした。真の生きがいとは、出来る物ならも森信三先生の世界観に学び、その真似をし続けることだと思います。道場に集う幼児たちとその保護者に、精神的負担にならないよう、お話をしているのです。

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『大学味講』(第60回)
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 ところがここに一つの問題があるのであります。それは自動車を運転する人は、誰でも皆一応は、試験に合格するだけの知識と技術をもっているわけですが、さてその車に乗ってみると、その乗り心地は必ずしも全部一様ではないのであります。
 私はタクシーに乗りますが、同じ会社の車ですから、車種も同じであり、運転手も大体同じ服装をしているので、どの車も同じ乗り心地なはずですが、それが違うのです。
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 ドアをあけて入って、「やあ、ご苦労さま」と挨拶すると、その返事の調子、そして顔つき、からだつき等から発するふんいきが、皆違うのです。明るくて気持ちのよいのもあれば、何かしら暗い気持ちのするのもある。そしてスーッとやわらかに発車するのもあれば、ガタッ、ピシャと発車するのもある。
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 車体は同じであるが、その中の乗り心地は一台一台違うものでありまして、中には、こういう運転手さんなら、少し位料金が高くてもと思うのもあれば、中には、タダで乗せるといわれても、こりごりだというのもあるのですが、一体この相違はどこからくるのかでしょうか。それは運転手の「人がら」からにじみ出てくるものでありまして、この「人がら」のことを、東洋学では「徳」というのであります”

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『論語』(第160)
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 子斉に在りて韶を聞く。三月肉の味はひを知らず。曰はく、「図らざりき、楽を為すの斯に至らんとは。」
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 孔子が斉の国におられた時、斉の国に伝わっていた舜の楽の韶を聞き、スッカリ感激して、『これほど大した音楽があらうとは思いもよらなかった。』と讃美され、当分は肉を食べても、味も覚えぬくらいであった。
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『農士道』(第44回)
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 次に教育の事に就て此の関係を反省して見たいと思ふ。教育の質は教育者其人の人格であらねばならぬ。更に詳しく云へば教はる者が教ふる者の人格を慕って其の門下に学び、教ふる者と学ぶ者との間に一體的なる人格の交流のあることである。而して此の教育の「質」が発展して此処に自づから知育、徳育、體育(教授、訓練、養護)の三育の分化が現われて来る。
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 然し此の三育は畢竟教育者と被教育者との人格的交流の間から自然の間に発展して来るものであることを忘れてはならぬ。然るに現代の教育は、何時しか「浮文」の状態に逸脱し、徒に施設経営の末に走り、更に教科目の羅列となり、其の各教科目担任の教師が知識技能の分割的教授をなし、其の結果を試験といふ圧搾機によって圧搾して得たる点数の合計によって人格価値を評価せんとするもので、かくては正しく花瓶の中に唯無暗矢鱈に種々の美しい花を挿し入れた様なもので、仲仲に善き實を結ぶものではない。其處で一方に「瀆武」的主張として学校教育否定論さへ起り来るに至るのである。

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最初の方に警察官の不祥事のことを書きました。こういう方は、卑近な例をとり、「万一の時は家庭崩壊になり、刑務所行きですよ、最愛の家族は悲しみますよ」と懇切に指導したら、事前に防止できたのではと思います。
 一方、イスラム国の危険極まりない所へ行く人は、心の病のような気がしてならないのです。自分の責任で処理する、との映像が配信されていましたが、最終的には国家がかかわることになると思います。今回のように。
 とにかく学問をすることこそが、人生を誤らない方法だと私は思います。それにしても菅原兵治先生の論説は難解ですが、素晴らしいと思います。小野寺先生が日本一の教育者ですと言った言葉が耳にこびりついています。