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味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

物来りて順応す。

2015-09-30 10:39:09 | ブログ
第2467号 27.09.30(水)
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物来りて順応す。『近思録』
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 無心にして外物に順応する。あたかも鏡にものが映るように、外物をそのままわが心に正しくうつす。そしてこれに順応して適当に処置をとればよい。余分のかんぐりなどを入れて心を動揺させてはいけない。
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 【コメント】〈無心にして外物を取り入れた場合〉思うように行かなかったらどうするのでしょう。大変面白い言葉ですが、こういう境地に達するということは難解だと思います。余程の人生経験と学問の集積と、確固とした哲学を持たなければならないでしょう。
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 ブログを書こうと思ってインターネトを立ち上げたら、面白い記事が一杯あります。
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 政治家を落選させるために、Aという政治家に嫌いな人を当該選挙区に移動させるとか、面白い考えを思いつく人がいるものだと苦笑いした次第です。そういったシナリオとか作戦が、人の道に反した場合、立案者は大変な目にあうことでしょう。
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 連日、菅原兵治先生のご著書をご紹介しながら、菅原先生、菅先生ならどうするであろうか、と考えることにしています。
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 安保法案のことで世の中大変賑わっていますが、反対する人々が、世論を喚起して次の選挙で過半数を取り、法案を廃案にしたとします。その後、周辺諸国に日本の国家が蹂躙されたら誰が責任をとるのでしょう。

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『臥牛菅実秀』(第6回)
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 一、少年時代
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 志立たざれば経書も用をなさず、志立てば小説も益をなすなり。
                        菅 実秀

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 (一)
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 明治維新の開始期を、いつごろに置くかということが、歴史学上の一つの問題になっているが、最近では大塩平八郎の乱(一八三七)や、水野忠邦の天保の改革(一八四一~)などのあった天保期に置く見方が一般化している。
この見方に立てば、天保元年(一八三○)に生れ、明治三十六年(一九○三)に七十四歳(数え年)で没した菅実秀の生涯は、明治維新の開始期から、その成熟期にわたる大きな変革の時代を、強烈な意志と豪骨をもって貫き通したものといえよう。
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菅実秀は荘内藩(山形県)酒井氏十四万石の城下町鶴ケ岡で百五十石の藩士、九十郎実則の子として生れた。天保元年一月八日が誕生の日であった。生れた家は、鶴ケ岡の町を貫流する内川の西、鶴ケ岡城からいえば南に当る元曲師町にあって、実秀とは竹馬の友であった田辺儀兵衛(柔嘉)の家とは隣り合せであった。実秀の通称は秀三郎、のちに善太右衛門と改めた。

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『論語』(第404)
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 子曰はく、巧言は徳を乱る。小を忍ばざれば則ち大謀を乱る。
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 孔子が言うには、口だけでうまいことを言うのは、内容がこれに伴はないから、徳義を乱し害うことになる。小さいことは耐え忍んで我慢しないと大事業は成功はしない。
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『農士道』(第283回)
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 武士の戦場に出でて野にふし山にふし、君の馬前に命を捨るも、一心決定すればこそ、出来るなれ。されば人は天命を弁え、天命に安んじ、我を去て一心決定して、動かざるを尊しとす。」
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 要するにかくの如く明暗苦楽の両者が並存して渦く處に吾等人間の現実がある。吾々は此の人生の現実に直面して、之を突破して「 驀直去」(まくじくこ)するの志操、勇奮を有たねばならぬ。。「大事到来す、如何か廻避せん」とたじろろいたり、苦を怯れて観念の世界や、嘆美の世界に「志」を麻痺せしめて、独りよがりの甘美の酒に陶酔している事は、断じて「士」たる者の取るべき勇風ではない。

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書いて更新したら消えて、を五回くりかえしました。それでもあきらめず書き続けたいと思います。4時間かかりました。

老成人を侮る無れ。

2015-09-29 12:07:28 | ブログ
第2466号 27.09.29(火)
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老成人を侮る無れ。『書経』
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 多くの人生経験をつんだ老人をあなどってはならない。206
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 【コメント】基本的にはよいことだと思います。だが、老人のいうことが正しいかというと、疑問符です。老人といえども、明鏡止水の人ばかりではないからです。
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 老人が采配した後、多くの人々が認めるものならいいのですが。
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 連日、親を子が殺す、恋人同士の殺し合い、孫が祖父を殺すといった事件があまりにも多いと思いますが、ブログを御覧の皆様、そのようにお考えになりませんか。何時の時代でもそういった事件はあったのですが。だから『南洲翁遺訓』を普及させなければならないと考えているのです。
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 私が『南洲翁遺訓』を子供たちに40年間教えてきたのは、『南洲翁遺訓』の生成の過程を踏まえ、「人民の標準」たる西郷先生の精神思想を現代に符合させながら、指導して来たつもりです。
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 これを今すぐ、学校教育で実践せよ、といっても、絶対うまく行かないと思います。学校の先生方はただでさえ、カリキュラムが多くてキリキリマイなのです。そしてあの難解な『南洲翁遺訓』を先生方が直ぐに咀嚼できないと思います。このことについて私は、多くの教諭の方々と永年議論をしてきたのです。
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 だが、現実は先の大戦後、日本の美質としてきたものが、蔑ろにされてきた結果の事件の多発だと考えます。そういう視点に立って議論をするのならお話合いに参加してみたいものだと思っています。ただし権力で以て俺のいうとおりにせよ、と言っても私は絶対に行かないことにしています。地元の方々のやり方を長年観察してきて、私がすごいなぁとして唸らせてくれた人々は皆無です。
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 私が感服するのは荘内南洲会の先生方だけなのです。そこに精神の穢れがないからです。だから小野寺先生と意気投合してきたのです。
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『臥牛 菅実秀』(第5回)
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 よって此の度、同人相はかって先生の生涯を伝えるものを「臥牛菅実秀」と題して出版すべく、その計画をすすめて来たのであった。
 憶えば、先生没して六十有三年、今此の「臥牛菅実秀」の一書が刊行せられて、先生の生涯を通じての大精神を、身近に窺われることに心からの歓びを禁じ得ない。そしてこれは又直ちに、あの苦難に満ちた維新前後の荘内の歴史とも云えるであろう。
 此の一書は、「臥牛先生行状」と、「臥牛先生遺教」を骨子とし、更にあらゆる関係資料や当時の文献を渉猟して整理統一し、集成執筆した加藤省一郎君の努力によって完成されたものである。
 昭和四十ニ年は維新百年に当る年である。かかる秋に際して、此の一書に貫かれている臥牛先生の燃えるが如き愛郷心、愛国心を学び、その偉大なる徳量を仰ぐことこそ、我々の大事というべきであると思う。
 茲に「臥牛菅実秀」の刊行に当り、いささか所感を述べて序とする。
    昭和四十年初冬

                 酒井忠明
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『論語』(第403)
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 子曰はく、吾は猶史の文を闕くに及び、馬ある者は人に借して之に乗らしむ。今は亡きかな。
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 孔子が言うには、「昔は記録を掌っている史官が、少しでも疑点があれば空白にして置いてなお十分調査した上補ったものであり、又馬の所有者は惜しげもなく人に貸して乗らせたもので、わしの若い頃にはまだ其風がのこっていて見聞きもしたが、今では其風習もなくなってしまった。」一事が万事で、道義の低下、風俗の頽廃、なげかわしい事じゃ。

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『農士道』(第282回)
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 此時其身に天命ある事を弁へ、天命の安ずべき理を悟り、養家は我家なりと決定して、心動さざる事、不動尊の像の如く、猛火背を焼くといへども動かじと決し、養家の為に心力を盡す時は、実家へ来らんとするとも其暇あらざるべし。斯の如く励む時は心力勤労も苦にはならぬ物なり。是只我を去ると、一心の覚悟決定の徹底とにあり。夫れ農夫の暑寒に田畑を耕し、風雨に山野を奔走する。車力の車を押し米搗きの米を搗くが如き、田の慈眼を以て見る時は、其勤苦云べからず。気の毒な至なりといへども、其身に於ては兼て決定して労働に安ずるなれば、苦には思わぬなり。
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 書いたら消えて、書いたら消えてと、三回繰り返しました。全く意味がわかりません。

天道は盈つるを虧いて謙に益す。

2015-09-28 10:01:45 | ブログ
第2465号 27.09.28(月)
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天道は盈(み)つるを虧(か)いて謙に益す。『易経』
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 天の道は、満ちたものがあれば、必ずそれを欠き、不足にあって謙遜の態度を守っている者に対しては、それを補い益すものだ。
 満ちれば欠け、欠くれば満ちる月の道理である。224

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 【コメント】森信三先生のご著書に、戦争で男の兵士が数多く戦死したら、その翌年から男子の出生率が増えるということを書いてあります。上の易経が訓戒する事と同じ道理なのでしょうか。
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『臥牛 菅実秀』(第4回)
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     憶昔恩栄在武州   春風雙馬四方遊
      天時一変難同返   腸断雨声愁裡秋

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 この詩は、祖父忠篤が戊辰の役後、東京芝清光寺に於て謹慎を仰せ付けられたその当時の詩である。当時わずか十六才であった。賊軍の汚名を蒙り、しかも帰順降服という最も苦難の多かった時代に、祖父たちは、如何にその苦難に堪え、荘内の再建をめざして生きぬいたことであろうか、今日の我々の想像に絶するものがあったろう。祖父は私が生れる前に世を去ったが、私の幼心に残る赤沢経言、加藤景重など、御維新当時からの古老のおもかげが、今はなつかしく思い出される、それらの古老や父忠良がよく話してくれたのは、菅臥牛先生のことであった。
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 あの維新前後の苦難に立った荘内を一身に担って再建の方途を確立した臥牛菅実秀先生は、西郷南洲翁と共に、我々荘内人が永遠の師と仰慕する賢哲である。
 臥牛先生と南洲翁との交わりは、正に「賢、賢を知る」の古言そのままのものであったかと信ずる。
 臥牛先生に関しては、高弟赤沢経言の執筆による「臥牛先生行状」があり、又その教を門弟たちが書きとどめておいたものを、同高弟加藤景重が苦心編集した「臥牛先生遺教」があるが、何れも世に公にされているわけでは無く、その他諸般の記録、文献はあってもこれらを集成統一したものではなかった。(二回にわけてご紹介致します。酒井忠明)

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 (上に忠篤公が〈苦難に堪え〉と書いてありますが、そこの所を読み想像を絶する御苦労を知り得たものですから、昨年忠篤公の墓前に額づいたのでした。)
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『南洲翁遺訓』を誘い文句にいろいろ事を進めている人々がいるらしいですが、荘内の先達の先生方の御苦労を、本当に分かろうとしているのでしょうか。我が日本空手道少林流円心会の師範・仲間たちは、臥牛先生、赤沢先生方の本当の心を知りたくて、真剣に学んでいるのです。『臥牛菅実秀』『名君忠徳公』『教えの國・荘内』『臥牛先生遺教』等々をです。 
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『論語』(第402)
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 子曰はく、吾の人に於ける、誰をか毀(そし)り誰をか誉めん。如し誉むる所の者あらば、其れ試みる所あるなり。斯の民や三代の直道にして行ふ所以なり。
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 孔子がいうには、「わしは人に対して、誰をそしり誰を褒めようぞ。無責任に誉めたりそしったりはしない。もしわしが褒めたならば、それは実際に其の行いをためした上のことじゃ。今日の人民は、ずいぶん悪い事もするが、元来昔の夏殷周三代の純朴の民と同じく真っ直ぐな一本道を行く徳性をもってゐるのであって、それが横道にずれこむのは、必ずしも彼等の罪ばかりではなく、教育や政治にも責任があるのだから、めったに誉めもそしりも出来ぬではないか。」
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 今日の事象と似ているようです。今日、学校では「正座」をさせることは体罰になるのだそうです。長年、禅の世界も研究してきましたが、正座は精神生活をおくる上からも大変善い事なのです。だから私は、道場では子供たちに正座・黙想を進めていす。40年前・平井先生は静坐道を学んだといって、終日座って居ても平気でした。お心の素晴らしい先生でした。

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『農士道』(第281回)
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 「翁又曰、茶師利休が歌に『寒熱の地獄に通ふ茶柄杓も、心なければ苦しみもなし』と云へり。此歌未だ盡さず、如何となれば、其心無心を尊ぶといへども、人は無心なるのみにては、国家の用をなさず。夫れ心とは我心の事なり。只我を去りしのみにては未だ足らず、我を去て其上に一心を決定し毫末も心を動さざるに到らざれば尊ぶにたらず。故に我常に云ふ此歌未だ盡さずと。
 今試みに詠み直さば『茶柄杓の様に心を定めなば、湯水の中も苦しみはなし』とせば可ならんか。夫れ人は一心に決定し動かざるを尊ぶなり。夫れ富貴安楽を好み貧賤勤労を厭ふは、凡情の常なり。婿嫁たる者、養家に居るは、夏火宅に居るが如く、冬寒野に出づるが如く、又実家に来る時は、夏氷室に入るが如く、冬火宅に寄るが如き思ひなるものなり。

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君為ること難く、臣為ること易からず。

2015-09-27 11:22:47 | ブログ
第2464号 27.09.27(日)
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君為(た)ること難く、臣為ること易し。『論語』
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 君となって天職を果たすことはむつかしく、また、臣となってその職責を果たすことも容易ではない。(孔子の引用したことば)63
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 【コメント】人間が生きていくためには、何事も容易ではないということだと思います。そういった中で、誠心誠意人様のためにも尽くし、自分だけの利を求めることでもなく、調和よく日々を過ごすのが大事ではないでしょうか。
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 今朝のNHK討論「安保法成立」は大変良かったと思います。出席者は、国家基本問題研究所・桜井よし子氏、慶応大学教授・小熊英二氏、京都大学教授・待島聡史氏、上智大学教授・中野晃一氏の方々でした。
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 賛否の立場から、意見を主張する訳ですが、冷静に論理的に討論が進められたことは、気持ちよく拝見出来ました。出席者の方々の品格がみてとれました。政治家の若い諸君も見習ってほしいものです。これは修養という人生体験を経なければならないことでもありますが。
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 安保法は成立した訳ですが、その過程で詳しく説明する必要があったという指摘もありましたが、ことはマル秘にしなければならないこともあるのです。成熟した大人なら当然理解出来る筈なのてす。桜井氏はNHKを含めたメディアにもクレームにも似た発言をしましたが、司会者は断じてそれはないと即座に否定しました。私は首を傾げた次第でした。
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 ここで問題を提起致します。日本という国家が地図上からなくなったとします。それで是でしょうか。日本という国は天から戴いたものだと思います。ならば、後々の人のために、これは残さな向ければならないと思うのですが。
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 連日菅原兵治先生の『大学味講』をご紹介しながら、菅原先生の英邁にして見識の高さに圧倒されているのです。戦争はしてはならないのですが、しかし国は守り抜かなければなないと思います。ホーキング博士がいみじも指摘した国家滅亡への道は防がなければならないと考えます。
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 昨夜の空手道指導は、大変和やかな中にも規律ただしくできました。小学一年の子供が、途中でツバをペッとはいたということでした。そこで、その吐いたツバを本人の口元につけてやりました。
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 その訳は、そういうことをしてはならないことと併せ、そういうツバは忌み嫌うものでもないことを教えてあげました。出来れば、何を食べてもゲリをしない体力を作って欲しいとお話しました。
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 そして学校でいじめらしきことを言われても、自殺をしてはならないということです。こんなに日本の国の子供たちは弱弱しくなったのでしょうか。
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 終盤に西郷隆盛の漢詩「示子弟」「外甥政直に示す」を詳しく解説してあげました。「あやまちをおなじぅしては これを己にかひ」「功をおなじうしては 是を人にうれ」という一節をお話しました。
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 こういう漢詩を創れと言われれば、創れる人はいるのです。ところがそのとおりに実践できるかと言えば出来ないのです。何故か。名誉がほしいからです。現に末裔は真逆を驀進しているのですから。
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 そしてそういう局面で煽り立てるボケ老人がいるからです。西郷隆盛の漢詩にあるとおりの実践をすれば、永遠の美名が付されるという意味がわからず、将来を展望する見識がないのです。

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『臥牛 菅実秀』(第3回)
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 明治の新政になった時、彼は未だ四十の壮年であった。彼と肝胆相照した西郷等が健在であったならば、彼の運命にもどういふ変化があったか分からない。然しさういうことを考へるのは道ではない。そんなことより彼が後半生の淡々たる成格を欽慕する。「淡」は東洋精神の一妙境である。老子に云ふ、「淡乎として其れ無味」と。無味とは偏味(甘いとか苦いとか)に非ざるを云ふと註にも説いている。「大味は必ず淡」である。(漢書楊雄伝)。君子淡以て成る(礼記・表記)のである。
 君子の道は淡にして厭かず(中庸)。私は之を臥牛先生に就いても感得する。特に彼が後年致道館に於て、敬慕して集まる青年たちと経書を学び、詩経や書経に心を潜めたことを実にゆかしく思ふ。書経など彼にとっては魂に響く感があったのではあるまいか。この致道館から今日此の書が出ることも私は人生或は人間世の深い因縁の理趣に想ひ到るものである。
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   昭和四十一年二月三日節分の朝
 
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                       安岡正篤 
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『論語』(第401)
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 子貢問うて曰はく、「一言にして以て修身之を行ふべき者あるか。」子曰はく、「其れ恕か。己の欲せざる所人に施す勿れ。」
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 子貢が問うて曰には、ただ一言で修身行うことのできるものがありますか。」とお尋ねしたら、孔子が言うには、「それは恕という一言であろう。恕は結局、自分がされたくないことを人にしてはならない、ということだ。」
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『農士道』(第280回)
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 「自ら反みて縮(なお)くんば千万人と雖も吾往かん。自ら反みて縮からずんば、褐寛博と雖も怕(おそ)れざらんや」と季子もいうているが、天下の人悉く之を罵るも自ら勤むる者の田は稔り、天下の人悉く之を褒むるも自ら勤めざる者の田は稔らない。ここに農民の尊い「天爵」がある。
  散る時は浮ぶ時なり蓮の花
 労働量の大なること。名利的報酬の少ないこと。----この二つの散るべきものを散らすが故に、又洋々たる大海に尊い生活の永安と自慊といふ功徳の花が浮ぶのである。かかる心で二宮翁夜話中の次の一節を讀んで見れば、また一入の感激を覚えることである。

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湯武は諤諤を以て昌えたり。

2015-09-26 13:17:26 | ブログ
第2463号 27.0926(土)
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湯武は諤諤を以て昌えたり。『孔子家語』
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 殷の湯王と周の武王とは、よく人の極諫を容れたから、その国が大いに盛んになった。「諤諤」は正論の烈しいさま。671 
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 【コメント】今朝の「暁の学問館」は、第1087回となりました。指宿の大先生も、4歳児・カナコ嬢もお見えになられました。
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 教材は、
 1.皇后宮美智子様の御歌に思う
 2.『易経』が説く人生の四季を生きる心得
 3.非連続の連続こそが人生
 4.着眼大局 着手小局
 5.人生の四季を生きる
 6.心学のすすめ
 7.心願に生きる---等々でした。 

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 皇后宮美智子様の御歌
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  語らざる 悲しみもてる 人あらむ
       母国は青き 梅実る頃

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 終盤に小学4年生・中島理瑚様に、学問館の感想を述べて戴きました。曰はく「心願に生きる」がよかったと申しました。その中の一部をご紹介致します。
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 木村ひろ子さんは生後間もなく脳性マヒになった。手足は左足が少し動くだけ。ものも言えない。しかも三歳で父が、十三歳で母が亡くなった。小学校にも中学校にも行けなくなった。わずかに動く左足に鉛筆を挟んで、母に字を習った。彼女の詠んだ短歌がある。

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 不就学 なげかず左 足に辞書めくり
         漢字暗記す 雨の一日を

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 中島理瑚様は、多くの子供たちは五体満足であるにもかかわらず、平和と繁栄に浸りながら贅沢に溺れ、何と不毛な日々に生きているではないかと、人の心の弱さを歎いたのではなかったのでしょうか。
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 そして西郷隆盛の漢詩「子弟に示す」「外甥政直に示す」を解説し、大きな声で諳んじて戴きました。

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『臥牛菅実秀』(第2回)
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 臥牛先生は幕末の動乱に方って、死活の岐路に立った荘内藩の運命を決する重責に当り、文字通り心血を尽し、肝胆を砕いて、社稷民人を救った偉人である。過般の大戦に敗れて、国危く亡びようとした実情をつぶさに知る我々は、此の伝記を読んで、到る処感慨に堪へぬものがある。此の書の出たことも何ぞ晩かりしやの感を抱いたが、一読して又此の人を知ることも何ぞ晩かりしやといふ感も深い。
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 此の人は英傑によくある型破りの人物で、その気魄・才幹の非凡なことばかり頭にあったが、本書を読んで私は又改めて此の人を知り、教えられることが実に多い。時局の悲運に際会して、主家の破滅をいかに救ふかの至難な責任を双肩に荷なった此の人の苦心と知略とは過般の大戦に於ける降伏前後の日本当局についても限りない連想・反省・悔悟を誘ふものがある。その人物についても、多くの感興を新たにした。彼が孔門の重厚な君子人であった曾参を敬慕したことなどにも、感じ入った。彼が西郷南洲や副島蒼海らと心交を結んだ次第も意義が深い。臥牛といふ号もその志趣を想望される。郷里より望む鳥海山の「突兀万仭」の超格よりも、「屈蟠・嶙岣・蘊藉有る」月山を愛したのである。その三容がさながら臥牛の感があるので、自ら採ってその号としたのであると云ふ。臥牛と謂えば、私は同じく東北(但盛岡即ち荘内とは反対側)の生んだ武人宰相の米内光政を連想するが、菅臥牛の方がどうも精悍の様である。

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『論語』(第400)
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 子曰はく、君子は言を以て人を挙げず、人を以て言を廃せず。
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 孔子が言うには、「君子は人を用いるのに、言うことが善いからといって遽にその人を用いはしない。又人の言を聞くのに、人が善くないからといって、その言うことまであわせて棄てることはしない。
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『農士道』(第279回)
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 然し天上天下唯我独尊底の無官の帝王、白衣の宰相たるの生活をなし得るのである。大学に「其の意を誠にすとは自ら欺くことなきなり。好色を好むが如く、悪臭を悪むが如し。此れを是れ自慊と謂ふ。」と説いてゐるが、実に此の意味に於いて「自ら慊る」の生活を楽しみ得るのである。
 農生活者には官位・勲等・俸禄等の人爵はないが、其の代り、これ無きが故に、其等の為に拘束せらるる何等の束縛も窮屈もない自由自慊の別天地があるのである。