第2467号 27.09.30(水)
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物来りて順応す。『近思録』
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無心にして外物に順応する。あたかも鏡にものが映るように、外物をそのままわが心に正しくうつす。そしてこれに順応して適当に処置をとればよい。余分のかんぐりなどを入れて心を動揺させてはいけない。
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【コメント】〈無心にして外物を取り入れた場合〉思うように行かなかったらどうするのでしょう。大変面白い言葉ですが、こういう境地に達するということは難解だと思います。余程の人生経験と学問の集積と、確固とした哲学を持たなければならないでしょう。
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ブログを書こうと思ってインターネトを立ち上げたら、面白い記事が一杯あります。
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政治家を落選させるために、Aという政治家に嫌いな人を当該選挙区に移動させるとか、面白い考えを思いつく人がいるものだと苦笑いした次第です。そういったシナリオとか作戦が、人の道に反した場合、立案者は大変な目にあうことでしょう。
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連日、菅原兵治先生のご著書をご紹介しながら、菅原先生、菅先生ならどうするであろうか、と考えることにしています。
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安保法案のことで世の中大変賑わっていますが、反対する人々が、世論を喚起して次の選挙で過半数を取り、法案を廃案にしたとします。その後、周辺諸国に日本の国家が蹂躙されたら誰が責任をとるのでしょう。
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『臥牛菅実秀』(第6回)
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一、少年時代
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志立たざれば経書も用をなさず、志立てば小説も益をなすなり。
菅 実秀
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(一)
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明治維新の開始期を、いつごろに置くかということが、歴史学上の一つの問題になっているが、最近では大塩平八郎の乱(一八三七)や、水野忠邦の天保の改革(一八四一~)などのあった天保期に置く見方が一般化している。
この見方に立てば、天保元年(一八三○)に生れ、明治三十六年(一九○三)に七十四歳(数え年)で没した菅実秀の生涯は、明治維新の開始期から、その成熟期にわたる大きな変革の時代を、強烈な意志と豪骨をもって貫き通したものといえよう。
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菅実秀は荘内藩(山形県)酒井氏十四万石の城下町鶴ケ岡で百五十石の藩士、九十郎実則の子として生れた。天保元年一月八日が誕生の日であった。生れた家は、鶴ケ岡の町を貫流する内川の西、鶴ケ岡城からいえば南に当る元曲師町にあって、実秀とは竹馬の友であった田辺儀兵衛(柔嘉)の家とは隣り合せであった。実秀の通称は秀三郎、のちに善太右衛門と改めた。
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『論語』(第404)
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子曰はく、巧言は徳を乱る。小を忍ばざれば則ち大謀を乱る。
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孔子が言うには、口だけでうまいことを言うのは、内容がこれに伴はないから、徳義を乱し害うことになる。小さいことは耐え忍んで我慢しないと大事業は成功はしない。
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『農士道』(第283回)
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武士の戦場に出でて野にふし山にふし、君の馬前に命を捨るも、一心決定すればこそ、出来るなれ。されば人は天命を弁え、天命に安んじ、我を去て一心決定して、動かざるを尊しとす。」
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要するにかくの如く明暗苦楽の両者が並存して渦く處に吾等人間の現実がある。吾々は此の人生の現実に直面して、之を突破して「 驀直去」(まくじくこ)するの志操、勇奮を有たねばならぬ。。「大事到来す、如何か廻避せん」とたじろろいたり、苦を怯れて観念の世界や、嘆美の世界に「志」を麻痺せしめて、独りよがりの甘美の酒に陶酔している事は、断じて「士」たる者の取るべき勇風ではない。
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書いて更新したら消えて、を五回くりかえしました。それでもあきらめず書き続けたいと思います。4時間かかりました。
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物来りて順応す。『近思録』
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無心にして外物に順応する。あたかも鏡にものが映るように、外物をそのままわが心に正しくうつす。そしてこれに順応して適当に処置をとればよい。余分のかんぐりなどを入れて心を動揺させてはいけない。
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【コメント】〈無心にして外物を取り入れた場合〉思うように行かなかったらどうするのでしょう。大変面白い言葉ですが、こういう境地に達するということは難解だと思います。余程の人生経験と学問の集積と、確固とした哲学を持たなければならないでしょう。
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ブログを書こうと思ってインターネトを立ち上げたら、面白い記事が一杯あります。
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政治家を落選させるために、Aという政治家に嫌いな人を当該選挙区に移動させるとか、面白い考えを思いつく人がいるものだと苦笑いした次第です。そういったシナリオとか作戦が、人の道に反した場合、立案者は大変な目にあうことでしょう。
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連日、菅原兵治先生のご著書をご紹介しながら、菅原先生、菅先生ならどうするであろうか、と考えることにしています。
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安保法案のことで世の中大変賑わっていますが、反対する人々が、世論を喚起して次の選挙で過半数を取り、法案を廃案にしたとします。その後、周辺諸国に日本の国家が蹂躙されたら誰が責任をとるのでしょう。
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『臥牛菅実秀』(第6回)
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一、少年時代
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志立たざれば経書も用をなさず、志立てば小説も益をなすなり。
菅 実秀
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(一)
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明治維新の開始期を、いつごろに置くかということが、歴史学上の一つの問題になっているが、最近では大塩平八郎の乱(一八三七)や、水野忠邦の天保の改革(一八四一~)などのあった天保期に置く見方が一般化している。
この見方に立てば、天保元年(一八三○)に生れ、明治三十六年(一九○三)に七十四歳(数え年)で没した菅実秀の生涯は、明治維新の開始期から、その成熟期にわたる大きな変革の時代を、強烈な意志と豪骨をもって貫き通したものといえよう。
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菅実秀は荘内藩(山形県)酒井氏十四万石の城下町鶴ケ岡で百五十石の藩士、九十郎実則の子として生れた。天保元年一月八日が誕生の日であった。生れた家は、鶴ケ岡の町を貫流する内川の西、鶴ケ岡城からいえば南に当る元曲師町にあって、実秀とは竹馬の友であった田辺儀兵衛(柔嘉)の家とは隣り合せであった。実秀の通称は秀三郎、のちに善太右衛門と改めた。
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『論語』(第404)
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子曰はく、巧言は徳を乱る。小を忍ばざれば則ち大謀を乱る。
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孔子が言うには、口だけでうまいことを言うのは、内容がこれに伴はないから、徳義を乱し害うことになる。小さいことは耐え忍んで我慢しないと大事業は成功はしない。
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『農士道』(第283回)
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武士の戦場に出でて野にふし山にふし、君の馬前に命を捨るも、一心決定すればこそ、出来るなれ。されば人は天命を弁え、天命に安んじ、我を去て一心決定して、動かざるを尊しとす。」
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要するにかくの如く明暗苦楽の両者が並存して渦く處に吾等人間の現実がある。吾々は此の人生の現実に直面して、之を突破して「 驀直去」(まくじくこ)するの志操、勇奮を有たねばならぬ。。「大事到来す、如何か廻避せん」とたじろろいたり、苦を怯れて観念の世界や、嘆美の世界に「志」を麻痺せしめて、独りよがりの甘美の酒に陶酔している事は、断じて「士」たる者の取るべき勇風ではない。
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書いて更新したら消えて、を五回くりかえしました。それでもあきらめず書き続けたいと思います。4時間かかりました。