第2285号 27.03.31(火)
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仁を求めて仁を得たり、又た何をか怨まんや。『文章規範』
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伯夷、叔斉は首陽山に餓死したとはいえ、かれらは(自分の信ずる仁道)を求めて、その仁道を全うしえたのであるから、べつに怨むところはなかろう。
人間は所信に満足を求むべきだ。(司馬遷「伯夷伝」)孔子のことば。520
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【コメント】上にある〈自分の信ずる仁道〉とは、伯夷・叔斉のように、歴史的に見て誰もが納得するものでなければならないと思います。自分の名誉慾から生じたものは、歴史的に汚名をきるということです。
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かく申す私は、これからの子どもたちに『南洲翁遺訓』を教えることだけに専心したいと考えています。
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今朝のテレビ報道によると、霊感商法で多額の収入がありながら、脱税で起訴されたとか。身体に出てくる諸々は、天の理とも思われるようなこともありましたが、それらで金を貰ったらいけません。無料で親切心でやれば、結果的に功徳があるのにと思うことでした。
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『大学味講』(第122回)
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これに対して、日日夜夜、たえず新しい生長を続けていけば、常に生新な若さを保って、「其の命維れ新たなり」となっているのであるから、「革命」などということを行わなくてすむのであります。このことは私ども個人の場合においても見ることが出来るのでありまして、常に注意を怠らず、「其の命維れ新たなり」という健全な生活をしている人ならば、にわかに違和をきたして、革命的の大手術をしなくてもよいでありましょう。
こういう意味で、中国を始め諸外国においては、武力によって主権を替える「革命」ということがしばしば行われておるのですが、わが日本國においてはそうした事を必用とせず、明治維新の如き大変革でも、これを「革命」といわずに「維新」といったことは、世界に誇るべき国体の致すところであります。
かくて願わくは、個人も、家も、団体も、常に日新の維新的の存在であって、敢えて革命を必要とせぬような「其の命維れ新たなり」というものでありたいものであります。
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『論語』(第222)
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子曰はく、吾未だ徳を好むこと色を好むが如き者を見ず。
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孔子がいうには、私はまだ、色を好む如く熱烈に徳を好む者を、みたことがない。遺憾なことじゃ。
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『農士道』(第102回)
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試みに歳末に搗く餅にしても然うである。其の餅米も、餡の材料の小豆も、雑煮の中の野菜も、皆家族が入念して作ったものである。そしてそれを料理するのも、家内中心を合せてする仕事である。従って同じく餅の料理でも都会の人々が賃餅屋に頼んで、一升何十銭の金で購ったものとは違って一つ一つに皆作った人、料理してた人の生きた「心」が籠っている。
同じ一杯の餅を食ふにしても、田植から収穫までの間のお互いの苦楽の追憶までを喫し得るのである。かくて農村の料理は単なる物の咀嚼ではなくして、實に物と興に「心」の玩味である。
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百人一首
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いにしえの 奈良の都の 八重桜
けふ九重に にほひぬるかな 【伊勢大輔】61
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仁を求めて仁を得たり、又た何をか怨まんや。『文章規範』
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伯夷、叔斉は首陽山に餓死したとはいえ、かれらは(自分の信ずる仁道)を求めて、その仁道を全うしえたのであるから、べつに怨むところはなかろう。
人間は所信に満足を求むべきだ。(司馬遷「伯夷伝」)孔子のことば。520
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【コメント】上にある〈自分の信ずる仁道〉とは、伯夷・叔斉のように、歴史的に見て誰もが納得するものでなければならないと思います。自分の名誉慾から生じたものは、歴史的に汚名をきるということです。
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かく申す私は、これからの子どもたちに『南洲翁遺訓』を教えることだけに専心したいと考えています。
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今朝のテレビ報道によると、霊感商法で多額の収入がありながら、脱税で起訴されたとか。身体に出てくる諸々は、天の理とも思われるようなこともありましたが、それらで金を貰ったらいけません。無料で親切心でやれば、結果的に功徳があるのにと思うことでした。
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『大学味講』(第122回)
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これに対して、日日夜夜、たえず新しい生長を続けていけば、常に生新な若さを保って、「其の命維れ新たなり」となっているのであるから、「革命」などということを行わなくてすむのであります。このことは私ども個人の場合においても見ることが出来るのでありまして、常に注意を怠らず、「其の命維れ新たなり」という健全な生活をしている人ならば、にわかに違和をきたして、革命的の大手術をしなくてもよいでありましょう。
こういう意味で、中国を始め諸外国においては、武力によって主権を替える「革命」ということがしばしば行われておるのですが、わが日本國においてはそうした事を必用とせず、明治維新の如き大変革でも、これを「革命」といわずに「維新」といったことは、世界に誇るべき国体の致すところであります。
かくて願わくは、個人も、家も、団体も、常に日新の維新的の存在であって、敢えて革命を必要とせぬような「其の命維れ新たなり」というものでありたいものであります。
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『論語』(第222)
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子曰はく、吾未だ徳を好むこと色を好むが如き者を見ず。
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孔子がいうには、私はまだ、色を好む如く熱烈に徳を好む者を、みたことがない。遺憾なことじゃ。
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『農士道』(第102回)
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試みに歳末に搗く餅にしても然うである。其の餅米も、餡の材料の小豆も、雑煮の中の野菜も、皆家族が入念して作ったものである。そしてそれを料理するのも、家内中心を合せてする仕事である。従って同じく餅の料理でも都会の人々が賃餅屋に頼んで、一升何十銭の金で購ったものとは違って一つ一つに皆作った人、料理してた人の生きた「心」が籠っている。
同じ一杯の餅を食ふにしても、田植から収穫までの間のお互いの苦楽の追憶までを喫し得るのである。かくて農村の料理は単なる物の咀嚼ではなくして、實に物と興に「心」の玩味である。
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百人一首
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いにしえの 奈良の都の 八重桜
けふ九重に にほひぬるかな 【伊勢大輔】61