味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

徳は理を為すの本なり。

2015-01-07 09:37:40 | ブログ
第2202号 27.01.07(水)
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徳は理を為すの本なり。『忠経』
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 道徳が治道の根本である。291
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 【コメント】この『忠経』の言葉は、一人政治のことばかりでなく、人が社会生活を営む上においてひとりひとりが守るべき行為の規準とみていいのではないでしょうか。
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 人という「字」は人が支え合うという意味でもありますが、お互い穏やかに意見を述べ相手のいい分も聞き、意義ある人生にしたいものだと思います。その為には、自らが学び人格を高めなければならないと思うのです。その為に『南洲翁遺訓』とか漢籍を学びましょう、と呼びかけています。

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『大学味講』(第40回)
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 (三) 「脩身」と「修身」
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 なおここで「脩身」と「修身」について一言しておきたいと思います。
 「身をおさむ」というと、現在では「身を脩む」と「修」の字を用いているが、「修」と「脩」と、一体どうなのか。「脩」の「月」は「肉」で、この字は「乾し肉」とという字である。「束脩」(そくしゅう)とは、乾肉を束ねたもので、弟子が入門する時に、師に対して持っていく贈り物をいうのであります。
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 これに対して「修」は「おさめる」で「修正」「修理」「修養」等の熟語として用いられている。だから「身をおさむ」という場合は「修身」の方がよいと思うのだが、大学では「脩身」の字を用いているのであります。昔は音が同じな場合は共通して用いた例が少なくないので、あるいはそれなのかも知れぬ。
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 しかし佐藤一斎の「大学古本旁釈」には「修身」と書いてあるのを見ると、やはり「修身」という書き方は昔からあつたものと思われ、その意味で、日常においては必ずしも「脩身」にとらわれずに、「修身」としてよいであろうと思いますので、こ書の講解においては「修」の字を用いることに致しました。

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『論語』(第140)
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 子曰はく、知者は水を楽(この)み、仁者は山を楽む。知者は動き、仁者は静なり。知者は楽しみ、仁者は寿(いのちなが)し。
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 知者は事物の道理に通じてその心は水の流れて滞ることのないように働くから、その好む所は水に在る。仁者は道理の上に安住してその心は山がどっしりと落ち着いているようであるから、その好む所は山に在る。知者は物に渋滞することがなくて心が活動し、仁者は内からも外からも物に煩わされることがなくて心が安静である。その結果、知者は絶えず活動するから楽しみが尽きることなく、仁者はあくせくせぬから長寿を保ち得る。
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 40年前、鹿児島の南洲会に入会した時、『南洲翁遺訓』と併せ『論語』を懸命に読んだものです。その時、岳父から紹介された平井政明先生に、「先生は『論語』のごとく、仁者は寿ですね」といいましたら殊の外喜んでくださいました。
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『農士道』(第24回)
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       第一章 農の哲学的考察
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 我、何処に行くべきか?
 南せんと欲するか、将た北せんと欲するか。これがはっきりと定まらずに、汽車に乗った方がよい、電車に乗った方がよい、いや自動車を飛ばした方がよい、自転車を踏んだ方がよいと、乗物の研究だけに血迷ってゐるのが、従来の農村問題研究の状態ではなかったか。換言すれば、農村指導の方法論的研究には相当熱心に努力した来たが、目的論的研究に欠けてゐた。
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 経済的乃至は政策的研究はあったが、哲学的道義的研究が無かった。だから其の指導し奨励する處も、殆ど方便的・功利的で、目先の金になることのみを目的としてなされつつあった観がする。かくて一體農村を何処に連れて行くのか。

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 私は農村問題はわかりませんが、今の時代にこそ、真剣に考えなければならないような気がするのですが、どうなのでしょう。
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