タイトル---講学の道は敬天愛人を目的とす 処世の金言 4 21.7.27月 第43号
道は天地自然の道なるゆえ、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を脩するに克己を以て終始せよ。己に克つの極功は、「意なし、必なし、固なし、我なし」と云えり。『南洲翁遺訓』
人間の進む道というものは、天地自然のおのずからなる道理であるから、学問を究めるには道理をつつしみ守り、仁の心でもって人々を愛するという敬天愛人を目指すことが涵養である。そして自らを修養するためには、己れに克つということを目標としなければならない。己れに克つという真の目標は、『論語』にある「あて推量をしない、無理押しをしない、固執しない、我を通さない」ということである。
上は、『南洲翁遺訓』第二十一章の言葉である。『南洲翁遺訓』は、西郷隆盛が生前、荘内の有志に、人生論を吐露したものを記録保存し、年月をかけ練りに練って醗酵させてきた。
その南洲翁の精神を、荘内藩家老・菅実秀翁を中心とする英邁な先達の方々の荘内魂が受精し、かつ叡智を結集し、人間の知的文化として結実させたものである。まさしく処世の要諦としての歴史的遺産でもある。
その内容は、あるいは人倫を説き、あるいは学問の進むべき道を示し、あるいは政治のあるべき姿を明快率直に教えている。
「敬天愛人」は南洲翁の信条とされる。南洲翁を学べば敬天愛人が理解できる。愈愈学べば東洋思想が理解でき、そして儒教にも、仏教にも、キリスト教にも相通じることがわかる。この天地自然の道とは、人間が長い間に天地自然から学んだもので、まさに天地の道理そのものであり、人間の本性に根ざした人の道である。
自分さえ良ければ、自分の国さえよければという小市民的な思想が蔓延した場合、宇宙船地球号は取り返しのつかない事態に追い込まれ、修復不能となる危険性大である。
多くの人々は能力を競い、偏差値向上のみを追い求めているように見受けられるが、競うことはよしとしても、そこに共存共栄の豊かな思想がなければ、折角の努力も水泡に帰すような気がしてならない。
南洲翁は至誠一筋の達観、透徹の士と言われる。外国の制度は取り入れても日本精神は変えてはならない、という士道精神が骨髄にある。そして人類の進みいく先を洞察し、一息入れた節がある。
一方、破壊や建設という対極の領域である仕事を導入すると同時に、西洋文明に見られる目を見張る技術文明の導入を性急に図り、国家の発展至上主義一徹に奔走した大久保とは、そこが違う。
『南洲翁遺訓』を学び思うことは、永久に磐石たりうる人世を模索し、実践への道程としなければならない、と南洲翁が語りかけているような気がするのである。