味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

君子は文を以て友を會し、友を以て仁を輔く。『論語』

2009-07-30 11:18:21 | 論語

タイトル--君子は文を以て友を會し、友を以て仁を輔く。『論語』 302 21.07.30 第47号

 曾子曰く、君子は文を以て友を會し、友を以て仁を輔く。『論語』

 君子は、学問を修めると同時に、仁徳修養に努める。

 「立派な人間になろうとする君子は、友との交際を通じて学問に勤しむ。そして誠実にして謙虚な人間になるよう研鑽し、仁徳修養の輔けとするのである。」

 二千数百年前の論語が、今日もなお脚光を浴びているということは、観念では理解し得たとしても人間の邪な心、怠惰な心、弱い心、したい放題な心を抑制し、調和ある社会建設をするための訓戒と捉えてもいいでしょう。

 特に、人が人を力でねじ伏せるということは、グロ―バル社会の今日では陳腐な論理であると思います。

 私たちも、自らを高めるために、こういった人間学に親しむと同時にかつ勤しみ、幸せな人生を創造し、共に立つという互助の精神を構築することが、より求められるでありましょう。


君子は上達し、小人は下達す。『論語』

2009-07-29 12:30:07 | 論語

タイトル--君子は上達し、小人(しょうじん)は下達(かたつ)す。『論語』  第46号 21.7.29水

 君子といわれる人は、平生道義に従って日夜勉学修養するから、玉成の人格が構築され、名声愈愈高まるが、小人は安楽をむさぼり、かつ、利欲にのみ拘泥して私をほしいままにするから、人々からも忌み嫌われ折角の人生を無意義にし、堕落の極みに達する。

 人間は顔かたちも違うように、心のありようをはじめとした性格も異なります。しかしながらどんな人も、出来れば幸せになりたい、衆目を集めたいという願望を持っています。

 ではどんな人が幸せになれるのでしょうか。『論語』憲門は、「君子は上達し、小人は下達す」と教えています。先に解説したように、君子といわれる人になるためには、常に前向きに日夜勉学修養することであります。日々の小さな積み重ねが累積されて、本人も驚く程の境地に達するのです。小人とは、君子の逆の人だと考えればいいでしょう。

 人間は、生来、その能力をより高め、より深めて人生を謳歌すると同時に、人々のお役に立つように生まれてきているのであります。

 本来のそういった使命を具現するために、学ぶことと働くことに喜びを感じるように率先垂範すれば、精神的意義は表現出来ない程の境地に達するでありましょう。

 そのためには、目標を定めて、諦めることなく日々実践することです。とかく学問というと、若い時代のことだと思いがちですが、学ぶということは、生を得てから終えるまで、やり続けることが大事なのです。そのことが、健康と長寿にも功を奏するのです。


教え有りて類無し。『論語』

2009-07-28 11:39:10 | 論語

タイトル---教え有りて類無し。『論語』  21.07.28 第45号

 人間は本来、穢れ無き純な存在として生まれてきた。が、周囲の環境・習慣等々によって、能力・性格も善悪賢愚の隔たりが出て来る。いわゆる、「教え育てる方法によって善くもなる」場合もあれば、「悪くもなる」場合もある。

 そこで善い教育をしてしれる師匠・先生を「良き書」に求めようではありませんか。歴史的に長年読み継がれ、人々に生きる指針を与えてきた書は、時代を経ても燦然と光輝いています。そういった書を人生の師として行けば成果が表れると思います。

 併せて、私たちが学ぶべきは「人の道」であります。人それぞれに、私のやり方は間違いないと喧伝しています。それを証明するのは、そこに教育性があるか、社会性があるか、経済性があるか、ということです。

 世の人々が認めない「人の道」は、我田引水的であり、歴史的には断罪されるか、忘却されるかの悲劇的な運命を辿ることになります。宗教の世界であっても同様のことが言えるでしょう。多くの信者を随えて君臨している現王様の五十年後に、どのような審判が降されるでありましょう。

 そういったことも含めて、人の世を永遠性たらしめるには、天に恥じない日々の研鑽がより大切であろうと思います。学問を深め、調和的で、平和的で、共存共栄出来るようお互い努力したいものです。

 そういう心の豊かさが顕現されてはじめて、「有教無類」の教えが生きたということでしょう。


講学の道は敬天愛人を目的とす(『南洲翁遺訓』)

2009-07-27 11:37:33 | 南洲翁遺訓

タイトル---講学の道は敬天愛人を目的とす  処世の金言 4  21.7.27月 第43号

 道は天地自然の道なるゆえ、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を脩するに克己を以て終始せよ。己に克つの極功は、「意なし、必なし、固なし、我なし」と云えり。『南洲翁遺訓』

 人間の進む道というものは、天地自然のおのずからなる道理であるから、学問を究めるには道理をつつしみ守り、仁の心でもって人々を愛するという敬天愛人を目指すことが涵養である。そして自らを修養するためには、己れに克つということを目標としなければならない。己れに克つという真の目標は、『論語』にある「あて推量をしない、無理押しをしない、固執しない、我を通さない」ということである。

 上は、『南洲翁遺訓』第二十一章の言葉である。『南洲翁遺訓』は、西郷隆盛が生前、荘内の有志に、人生論を吐露したものを記録保存し、年月をかけ練りに練って醗酵させてきた。

 その南洲翁の精神を、荘内藩家老・菅実秀翁を中心とする英邁な先達の方々の荘内魂が受精し、かつ叡智を結集し、人間の知的文化として結実させたものである。まさしく処世の要諦としての歴史的遺産でもある。

 その内容は、あるいは人倫を説き、あるいは学問の進むべき道を示し、あるいは政治のあるべき姿を明快率直に教えている。

 「敬天愛人」は南洲翁の信条とされる。南洲翁を学べば敬天愛人が理解できる。愈愈学べば東洋思想が理解でき、そして儒教にも、仏教にも、キリスト教にも相通じることがわかる。この天地自然の道とは、人間が長い間に天地自然から学んだもので、まさに天地の道理そのものであり、人間の本性に根ざした人の道である。

 自分さえ良ければ、自分の国さえよければという小市民的な思想が蔓延した場合、宇宙船地球号は取り返しのつかない事態に追い込まれ、修復不能となる危険性大である。

 多くの人々は能力を競い、偏差値向上のみを追い求めているように見受けられるが、競うことはよしとしても、そこに共存共栄の豊かな思想がなければ、折角の努力も水泡に帰すような気がしてならない。

 南洲翁は至誠一筋の達観、透徹の士と言われる。外国の制度は取り入れても日本精神は変えてはならない、という士道精神が骨髄にある。そして人類の進みいく先を洞察し、一息入れた節がある。

 一方、破壊や建設という対極の領域である仕事を導入すると同時に、西洋文明に見られる目を見張る技術文明の導入を性急に図り、国家の発展至上主義一徹に奔走した大久保とは、そこが違う。

 『南洲翁遺訓』を学び思うことは、永久に磐石たりうる人世を模索し、実践への道程としなければならない、と南洲翁が語りかけているような気がするのである。


文芸春秋八月号を読んで

2009-07-14 18:28:46 | ブログ

  ※「社会保障」こそ 最良の投資だ----「安心社会」を実現するために必要な方策とは? 読売新聞グル-プ本社 代表取締役会長・渡辺恒雄氏と北海道大学大学院法学研究科教授・宮本太郎氏の対談記事より抜粋して記載します。なお、当該記事は、かねがね私が提唱している意見と全く符合するということで、紹介するものです。

 渡辺 ----医療や介護に政府が予算をつけることで、他分野への生産波及効果が生まれ、雇用や消費も拡大する。アニメの殿堂などといったハコモノを作るより、よっぽど投資効果があります。

 宮本 ----雇用を軸とした安心社会を作るためには、サプライサイド(供給側)とディマンドサイド(需要側)の両方を強化する必要があります。サプライサイドには、働く人の能力を高めていく就労支援や働きやすい環境を作る保育サ-ビスなどの施策があり、----ディマンドサイドには、持続可能な雇用を創出する施策、つまり新しい産業を興して仕事を作っていくような施策が求められます。

 渡辺 大恐慌下のアメリカのニュ-ディ-ル政策で、ル-ズベルト大統領は十八歳から二十五歳までの青年失業者を動員して二十億本もの植林をやらせたんですよ。---先見の明があったんです。

 渡辺 ---雇用創出のために、従来のように安易にハコモノを作るような公共事業にカネをつけるのは愚の骨頂なんです。僕は麻生さんに、日本の森林の多くが間伐されずに荒れているんだから、失業者を動員して間伐させたらどうかと提案したんです。

 宮本 本当に介護労働者の賃金水準は低い。例えば、八十万人の介護労働者の賃金を一人二、三万円上げても、年間二千億円ですむ。定額給付金で二兆円の予算が使われましたが、その十分の一のコストで労働条件がずいぶん改善され、雇用を創出できる。政府は単なるバラマキではなく、投資効果のあるものに予算を使うべきなんです。

 渡辺 医療と介護はまさしくその代表格です。

 宮本 ----朝日新聞の社説(六月十七日付)が、「道筋見えねば託せない」と題し、「立派なメニュ-だけを並べられても、値段が分からないのでは、有権者は注文のしようがない」と書いている。---朝日の比喩を借りれば、国民は栄養価が高い料理、つまりよい社会保障であれば、多少高くても注文したいと思っているんです。でも、注文しても、コックがちゃんとメニュ-どおりの料理をつくってくれるか、仮にコックが上手に調理しても、ウエイタ-が途中でつまみ食いなどせずに席までちゃんと料理を届けてくれるのか、信用できない。ここで、コックは政治でウエイタ-は行政です。そこへの不信が生半可なものではないから、国民は注文したくても注文ができない。

 渡辺 信用できないから税金を払いたくないというわけですね。

 このあと渡辺氏は〈僕はずっと消費税を上げるべきだと主張しています。〉と書いている。  が、今日の、官僚の天下り、公益法人等々の無駄遣いを見たら多くは賛成しないであろう。前国土交通大臣は〈一円の無駄遣いもさせない〉というような発言をしたやに記憶しているが、大臣は交替したら知らぬ顔である。無駄遣いの事実があったら私の全財産を拠出します、というような発言をした大臣はいないだろう。

 それでは国民は、消費税アップには納得すまい。上に立つ人々が徳がないし、正直でないからである。