味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

高明を極めて中庸に道る。

2015-02-28 11:05:15 | ブログ
第2254号 27.02.28(土)
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高明を極めて中庸に道(よ)る。『中庸』
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 学問でも行為でも、高い明らかな研究を極めることはよいが、いざそれを実行し発表する場合には、平凡な形によるべきだ。まして高明を極めたものであれば、言行ともに、かえって平凡に中庸になるものである。162
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 【コメナント】今日は、公益財団法人荘内南洲会旅行団の皆様をお迎えして、城山観光ホテルで交流会を開催致します。明日は、味園道場で空手道と『南洲翁遺訓』の発表等々を行うことにしています。
 その準備のため、大わらわです。昨夜10時半に寝て、今朝午前零時半に目がさめました。
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 第二道場から椅子を20脚借用してきました。そして帖佐師範、木場師範の約束組手の最終仕上げを致しました。
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 旅行団の皆様の旅のご安全を祈っています。


道は、須臾も離るべからず。離るべきは道に非ざるなり。

2015-02-27 10:38:53 | ブログ
第2253号 27.02.27(金)
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道は須臾も離るべからず。離るべきは道に非ざるなり。『中庸』
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 人の性に従うのが人の道であるから、道はもともと人間から離れて存在するものではない。否、人間の性から離れたものは、もはや本当の道ではないのである。154
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 【コメント】昨夜の空手道のおけいこは、明日に迫った『南洲翁遺訓』発表のリハーサルで盛会でした。それにしても我が道場で修行する門下生に敬意と謝意を表しました。
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『大学味講』(第91号)
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 では「切磋琢磨」とは何か。それは人間形成(我づくり)のために絶えざる修養を積むことをいうのですが、その本来の意味は次のようなことであります。
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 「切磋」とは、骨や角の細工をする時の工程でありまして、鹿の角とか、象牙とかを細工する時には、まず彫刻するものの形を切り出し----それが「切」である----、次にそれを磋いて滑らかにする。その「切る」にも「磋く」にも次から次といろいろの段階を経て、そうして後に立派な作品が出来るのであります。

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『論語』(第191)
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 曾子曰はく、士は以て弘毅ならざるべからず。任重くして道遠し。仁以て己が任となす。亦重からずや。死して後已む。亦遠からずや。
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 曾子が言うには、『士たる者は、度量が大きくして意志が強くなければならぬ。負担すべき責任が甚だ重くして前途が極めて遠いからである。その任ずる処は至高最大の徳たる仁である。実に重いことではないか。そして其重任は死ぬまで続く。まことに遠いことではないか。』
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百人一首
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有明の つれなく見えし 別れより
  暁ばかり 憂きものはなし 【壬生忠岑】30

民は常に懐く罔し、仁あるに懐く。

2015-02-26 10:10:51 | ブログ
第2252号 27.02.26(木)
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民は常に懐く罔し、仁あるに懐く。『書経』 
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 民は特定の君になつくというものではない。ただ、仁徳のある君にだけなつくものである。(太甲に訓えた伊尹のことば)204
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 【コメント】一般論として言えることは、仁徳のある人間になりたいものです。国民がそういう視点に立ち、そして人生を長年生きてきた大人が、先行き分からない子どもたちを導くことができたら、子どもたちの不幸な事件が減少するものと思われます。
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 子供たちを含めた交通事故の多発、そして殺人事件等々どうにかならないものでしょうか。私の同窓生にも大変なワルがいましたが、それらより性質が悪くなっているようです。
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 荘内南洲会の先生方を迎える準備に大わらわです。先ほど前田先生のご協力を戴き、道場南側にブルーのシートを張りました。荘内の皆様は今日出発します。道中のご安全を願っています。

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『大学味講』(第90回)
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  味 講
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 この章は、衛の武公の徳をたたえた詩であるが、この詩を以て、どうすれば明徳を明らかにして誠の人となることが出来るか、そしてまた、その誠が外に発すればどういうはたらきをするものか、ということを説いたものでありますが、こうしてあらゆる面から「意を誠にする」ことを探究していくのであります。
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 (一) 切磋琢磨 詩経の衛風淇澳の篇に次の一節があります。
 「かの淇の川の岸辺をみれば、緑の竹が勢いよく美しく茂っている。その緑の竹にもたとえたいような、洗練された立派な君子がある。しかし、その人となりは決して一朝一夕に出来たものではない。実に「切するが如く、磋するが如く、琢するが如く、磨するが如し」という、いわゆる「切磋琢磨」の大努力によって完成されたものである。

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『論語』(第190)
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 曾子曰はく、以て六尺の孤を託すべく、以て百里の命を寄すべく、大節に臨んで奪ふべからず。君子人か。君子人なり。
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 曾子がいうには、『安心して幼弱のみなしごの将来を頼める人、心配なく一國の運命をまかせ得る人、そして危急存亡の大事に當って心を動かさず度を失はぬ人、さういう人こそ君子人ではあるまいか、当に君子人である。』
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 曾子の訓戒は大変大事な要件であります。私はとるに足りない人間ですが、曾子が言うような人間になりたいとして、ただ只管今日まで実践してきました。
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 28日には城山観光ホテルで荘内南洲会の皆様をお迎えして、交流会を実施致しますが、ここまで来るには、小野寺先生をはじめとする荘内南洲会の先生方と胸襟を開いて交流してきました。ただ、荘内南洲会の人々が来るからといって、滑り込みでその座をかき回すことがあってはならないと思います。
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 十年前に単身荘内に行った際は、前事務長・佐藤昭夫先生と深夜に肩くんで酒田の町を飲み歩いたものです。まさしく徳の交わりだと思っています。
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 それは『南洲翁遺訓』という国家の宝典を学ぶ君子の交わりだからです。金と勢力にものいわせていたらそれは長続きはしないでしょう。

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『農士道』(第74回)
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 此の頃聞いた面白い話がある。
 子供が川に這入って遊んでゐるのを見た母親が、
 「あんよを冷やすと、夜おしっこが出るから上がりなさい。」
といった。すると現代的のインテリ娘が側から威猛高に、
 「そんな舊式な物のいひ方をするから、古き女性は駄目です。」
ときめつけた。母親はびっくりして、それでは何んと言うのが新しい物の言ひ方かと尋ねると、
 「一對の歩行機関を、冷却せしむれば、腎臓の排泄機能に障害を来して、夜間放尿するが故に上がりなさい!----かういはねばなりません。」と言ったと。笑へぬ笑い話である。
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 近代の学問の弊に陥った私共には、不知不識の間に、この「一對の歩行機関」流の物の言ひ振りがあるではなかろうか。

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百人一首
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心あてに 折らばや折らむ 初霜の
  おきまどはせる 白菊の花 【凡河内躬恒】29

内に省みて疚しからず、志に悪むことなし。

2015-02-25 14:35:56 | ブログ
第2251号 27.02.25(水)
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内に省みて疚しからず、志に悪(にく)むことなし。『中庸』
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 反省して、わが心にやましいことはしない。また、自分に問うて、気分の悪いようなことはしない。それが君子である。
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 【コメント】ブログを書きながら、自分を戒めています。後期高齢者で老い先短いわけですが、道場に集う子どもたちに、より意義ある人生を歩いて貰いたいために書いているのです。
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『大学味講』(第89回)
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  第四節 彼の淇澳(きいく)を膽(み)れば、菉竹猗猗(りょくちくいい)たり。斐たる君子あり。切するが如く磋するが如く、琢するが如く磨するが如し。瑟たりたり。赫たり喧たり、斐たる君子あり。終に誼(わす)るべからずと。切するが如く磋するが如しとは、学を道(い)ふなり。琢するが如く磨するが如しとは、自ら修むるなり。瑟たりたりとは恂慄なり。赫たり喧たりとは威儀なり。斐たる君子あり、終に誼るべからざるとは、成徳至善、民の忘るる能わざるを道ふなり。
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『論語』(第189) 
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 曾子曰はく、能を以て不能に問ひ、多きを以て寡なきに問ひ、有れども無きが若く、実つれども虚しきが若ぐ、犯せども校(はか)らず、むかし、吾が友、嘗て事に斯に従へり。
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 己は才能がありながら、まだ足りないと思って才能のない人に問うてこれを補おうとし、己は見聞が多いのに、まだ足りないと思って見聞の少ない人に問うてこれを補おうとし、道理を悟っていながら、何も知らない者のように思い、徳が充実していながら、空虚であるように思い、他人から道に外れた事をされても、彼我の曲直を比べてこれを争うようなことはない。
 このわようなことは外物と我との差別を忘れてその徳が広大の人でなければできないことであるが、昔わが友にこのような事を勉め行った人があった。

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『農士道』(第73回)
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 農村に於ては演説が上手だとか、議論が達者だとか言うよりは、もっと情に篤いといふことが肝要である。「彼岸の牡丹餅やったりとったり」という古諺があるが、共存同栄を筆舌で宣伝するよりは、この親切の籠った情愛の交際が農本生活の本来なのである。然も近来の農村生活の実際を見るに、憾むらくはかかる昔ながらの理屈抜きの温かい情愛が失われつつあるではあるまいか。
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百人一首
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山里は 冬ぞさびしさ まさりける
  人目も草も かれぬと思へば 【源宗干朝臣】28

親を愛する者は敢えて人を悪まず。

2015-02-24 15:43:48 | ブログ
第2250号 27.02.24(火)
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親を愛する者は敢えて人を悪(にく)まず。親を敬する者は敢えて人を慢(あなど)らず。『孝経』
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 親を愛する人は、他人を憎むことはしない。人を憎めば、その結果、必ず親にまで禍いの及ぶことを惧れるからである。また親を愛する情の深い人は、自然他人を憎む心になりえないからである。敬親の場合も同様である。そして愛と敬とは孝道の根本である。283
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 【コメント】荘内南洲会前理事長・小野寺先生が大好きな『孝経』が私も大好きになりました。ご紹介した上の言葉は本来そうあるべきだとして訓戒していることだと思います。
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 不幸にしてかその真逆な人を何回も見てきました。親を愛する心のある人は、他人様をも愛する心になって欲しいものです。どんな人にも優しく接し、そして助け合いながら競争をしたいものです。
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 今日は指宿の大坪先生と城山観光ホテルへ看板等を届けに行きました。帰宅後、道場の看板も設置しました。あと協力者のために少しく作業を残しております。
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 先先日、木場学都君の挨拶・作文を電話で聞きました。大変上手でしたので、お父上様にその通り申上げました。素晴らしい門下生の諸君に敬意を表しています。

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『大学味講』(第88回)
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    余 談
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 私はこの正月に「古典落語名作選」を読んでみました。落語については、以前から興味をもっていたのであるが、今回またこの書を読んで強く感じたことは、「潤い」ということについてであります。この書に収められてあるような正統派的古典落語には---言葉だけでなく師匠のしぐさまで克明に記しているのだが、----深い修行からにじみ出る「潤い」がある。
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 これに対して新派落語とでもいおうか、「高座は今や、客に媚び安直な笑いのみをさそおうとする囃家で、また客席は、愛想よくそれに応える観客で埋め尽くされた観さえある」と同書のまえがきにあるが、くすぐって無理矢理笑わせるようなものには、どうもカサカサして、しっとりした「潤い」がない。それは漫才や喜劇等にも感じられることであるが、あるいはそれが現代人そのもののすがたなのかも知れぬのだが----。

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『論語』(第188)
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 曾子疾あり。孟敬子之を問ふ。曾子言ひて曰はく、「鳥の将に死せんとする、其の鳴くや哀し。人の将に死せんとする、其の言ふや善し。君子の道に貴ぶ所の者三。容貌を動かして斯に暴慢に遠ざかり、顔色を正して斯に信に近づき、辞気を出して斯に鄙倍に遠ざかる。籩豆の事は則ち有司存す。」
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 曾子の病が危篤なので、大夫孟敬子が見舞いに来た處、曾子がこれに向って言うには、『古語に、鳥のマサニ死ナントスルヤソノ鳴くコト哀シ、ヒトノマサニ死ナントスルヤソノ言フコト善し。』とありますが、これは私の最後の言葉でございますので、どうかそのおつもりでお聞きくださいませ。
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 およそ人の上に立つ者が道を行って國を治めるにつき尊ぶべき事が三つあります。態度挙動が荒々しさや自堕落さから遠ざかるよう、心の誠を顔色にあらわして裏表のないよう、言葉遣いが野卑不合理にならぬよう、この三つが大切でございます。祭りの供物臺の並べ方などは、それぞれ係の役人がありますから、さやうな事務的な事はまかせて置かれて宜しかろうと存じます。

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『農士道』(第72回)
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 現行の村まではさう行かなくとも、(これが真個の日本的の自然村落である。)の生活では確かにさうした親しさがあるのである。其の村の生活に於て、理論的な單なるイデオロギーや何々イズムの宣伝だけでは事は運ばない。
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百人一首
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みかの原 わきて流れる いづみ川
  いつみきとてか 恋しかるらむ 【中納言兼輔】