第2345号 27.05.31(日)
.
厚くすべき所の者に於て薄くするは、薄くせざる所なし。『孟子』
.
人倫関係において、当然厚くしなければならないもの、たとえば父子の関係、夫婦の関係などにおいて薄く取り扱うような人は、いかなる場合にも必ず人情の薄い仕打ちをするであろう。138
.
【コメント】〈人倫関係において、当然厚くしなければならないもの、たとえば父子の関係、夫婦の関係〉と解説にありますが、私も当然厚くしなければならないものであると思います。
.
今朝の読売新聞広告もありましたが、元NHKアナウンサーのオバサマが「家族の絆」について、厳しい所見・偏見を述べておられますが、何時の時代でも幾らかは事象としてあったでしょうが、ここ半世紀の間に様変わりしたのではないでしょうか。それらは権利意識の問題から派生したのではないかと私は思うのです。その制裁が教諭になって七割が退職するという事象にも表れていると私は思うのです。
.
同じ両親から生まれて、子供は母親の同じお乳を飲んで育ったのに、何故こういう結果になったのか。そこを掘り下げて昔から伝統的に存在してきた日本的美風を取り戻す必要があるのではないでしょうか。
.
今日、ものづくり、食べ物等々、外国からの旅行者が日本の生活文化に大変興味を示されています。それらと歩調を同じくし、昔ながらの日本的美風まで取り戻したら、世界中の至る処で発生している争いごを緩和する意味で参考になるのではないかと思うのです。
.
そういうこともあり、私は『南洲翁遺訓』に勝るものはないと力説しているのです。
昨夜の空手道指導の際もそういうことを背景にして子供たちと『南洲翁遺訓』を拝誦しました。
特別支援学級在籍で会話が出来ないN君も昨夜はきてくれました。入門した当時は、キャーキャー言って道場内を走り廻っていたのですが、きれいに静坐ができるようになりました。この指導には、体罰にも似た厳しさが必要なのです。そういう指導をしなかったら、何時まで経ってもわからないのです。憎しみを交えた体罰はいけないけれども、人格を尊重し、万一不幸な事態になった時、自分を守る術を教えなければならないのです。
----------------
『大学味講』(第182回)
.
(三) 以上は育児の事であるが、これを家政や国政の事についていえばどうなるか。私は現下の時運に即してこのことを考える時、古人のこの把握に、今更ながら新たなる敬仰の念を禁じ難いものを覚えるのであります。というのは、現下の激動の世相には、従来の経験や知識だけではどうにもならぬものが生じて来つつあるからであります。
.
例えば、米の過剰からくる米作の大規模減産の問題にしても、または円高からくる、予想もしなかつた通商産業上の難題にしても、官民共に「未だ子を養ふことを学びて、而る后に嫁する者はあらざるなり」で、いまだかつてその経験のなかったことなのであります。
--------
『論語』(第282)
.
司馬牛仁を問ふ。子曰はく、「仁者は其の言や(しの)ぶ。」曰はく「其の言やぶ、斯れ之を仁と謂ふか。」子曰はく、「之を為すこと難し。之を言ふことぶ無きを得んや。」
.
〔訳〕司馬牛が仁を行う方法を問うた。孔子「仁を行おうとするならば、仁者の行いを観るがよい。仁者は言を発するのに発し難いようであって決して軽々に言を発することはない。このようにするのが、仁を行う道である。」司馬牛はこれだけでは至大の仁道を尽すには足りないと思ったから、反問していうよう、「口を閉じて軽々しく言を発しなければそれで仁と謂われますか。」孔子「言語と実行とは一致すべきものである。実行の難いことを思えば言語を軽々に発しないようにしないわけにはゆかないではないか。」
-----------------
『農士道』(第161回)
.
山澤健兒の歌
一 渾沌死して幾年か 世は軽薄の都ぶり
日々にあまねく蔓りて わが国民をみだるとき
やまと心のやみがたく 起てり山野の益荒男ら
二 わが世を永久に望月の 圓(まど)けきものとひたすらに
思ひ上がれる公卿輩を 鎧の袖の一ゆりに
うち亡ぼせし鎌倉の 武士こそわれ等の相なれ
三 すめらぎの代の安けくは 身は花もりとなりけむを
みことかしこみ大君の へにこそ死なめと争ひて
死せし維新の志士の後 進むぞわれ等の覚悟なる
四 いざなぎの神いざなみの 神の末なる我等いざ
天の瓊矛(ぬぼこ)をふりかざし 国の礎いやかため
世界の民をさしまねく わが皇道を翼けなん
.
厚くすべき所の者に於て薄くするは、薄くせざる所なし。『孟子』
.
人倫関係において、当然厚くしなければならないもの、たとえば父子の関係、夫婦の関係などにおいて薄く取り扱うような人は、いかなる場合にも必ず人情の薄い仕打ちをするであろう。138
.
【コメント】〈人倫関係において、当然厚くしなければならないもの、たとえば父子の関係、夫婦の関係〉と解説にありますが、私も当然厚くしなければならないものであると思います。
.
今朝の読売新聞広告もありましたが、元NHKアナウンサーのオバサマが「家族の絆」について、厳しい所見・偏見を述べておられますが、何時の時代でも幾らかは事象としてあったでしょうが、ここ半世紀の間に様変わりしたのではないでしょうか。それらは権利意識の問題から派生したのではないかと私は思うのです。その制裁が教諭になって七割が退職するという事象にも表れていると私は思うのです。
.
同じ両親から生まれて、子供は母親の同じお乳を飲んで育ったのに、何故こういう結果になったのか。そこを掘り下げて昔から伝統的に存在してきた日本的美風を取り戻す必要があるのではないでしょうか。
.
今日、ものづくり、食べ物等々、外国からの旅行者が日本の生活文化に大変興味を示されています。それらと歩調を同じくし、昔ながらの日本的美風まで取り戻したら、世界中の至る処で発生している争いごを緩和する意味で参考になるのではないかと思うのです。
.
そういうこともあり、私は『南洲翁遺訓』に勝るものはないと力説しているのです。
昨夜の空手道指導の際もそういうことを背景にして子供たちと『南洲翁遺訓』を拝誦しました。
特別支援学級在籍で会話が出来ないN君も昨夜はきてくれました。入門した当時は、キャーキャー言って道場内を走り廻っていたのですが、きれいに静坐ができるようになりました。この指導には、体罰にも似た厳しさが必要なのです。そういう指導をしなかったら、何時まで経ってもわからないのです。憎しみを交えた体罰はいけないけれども、人格を尊重し、万一不幸な事態になった時、自分を守る術を教えなければならないのです。
----------------
『大学味講』(第182回)
.
(三) 以上は育児の事であるが、これを家政や国政の事についていえばどうなるか。私は現下の時運に即してこのことを考える時、古人のこの把握に、今更ながら新たなる敬仰の念を禁じ難いものを覚えるのであります。というのは、現下の激動の世相には、従来の経験や知識だけではどうにもならぬものが生じて来つつあるからであります。
.
例えば、米の過剰からくる米作の大規模減産の問題にしても、または円高からくる、予想もしなかつた通商産業上の難題にしても、官民共に「未だ子を養ふことを学びて、而る后に嫁する者はあらざるなり」で、いまだかつてその経験のなかったことなのであります。
--------
『論語』(第282)
.
司馬牛仁を問ふ。子曰はく、「仁者は其の言や(しの)ぶ。」曰はく「其の言やぶ、斯れ之を仁と謂ふか。」子曰はく、「之を為すこと難し。之を言ふことぶ無きを得んや。」
.
〔訳〕司馬牛が仁を行う方法を問うた。孔子「仁を行おうとするならば、仁者の行いを観るがよい。仁者は言を発するのに発し難いようであって決して軽々に言を発することはない。このようにするのが、仁を行う道である。」司馬牛はこれだけでは至大の仁道を尽すには足りないと思ったから、反問していうよう、「口を閉じて軽々しく言を発しなければそれで仁と謂われますか。」孔子「言語と実行とは一致すべきものである。実行の難いことを思えば言語を軽々に発しないようにしないわけにはゆかないではないか。」
-----------------
『農士道』(第161回)
.
山澤健兒の歌
一 渾沌死して幾年か 世は軽薄の都ぶり
日々にあまねく蔓りて わが国民をみだるとき
やまと心のやみがたく 起てり山野の益荒男ら
二 わが世を永久に望月の 圓(まど)けきものとひたすらに
思ひ上がれる公卿輩を 鎧の袖の一ゆりに
うち亡ぼせし鎌倉の 武士こそわれ等の相なれ
三 すめらぎの代の安けくは 身は花もりとなりけむを
みことかしこみ大君の へにこそ死なめと争ひて
死せし維新の志士の後 進むぞわれ等の覚悟なる
四 いざなぎの神いざなみの 神の末なる我等いざ
天の瓊矛(ぬぼこ)をふりかざし 国の礎いやかため
世界の民をさしまねく わが皇道を翼けなん