第2207号 27.01.12(月)
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暴を以て暴に易え、其の非を知らず。『十八史略』
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乱暴の人をせめるために、同じように乱暴を行い、しかもかれはその非なることを知らない。
周の武王は殷の紂王を乱暴であるといって討ったが、その武王の討伐も同じく乱暴である。それにもかかわらずかれはその非を悟らずにいる。(伯夷、叔斉の作った詩)
そのような周の人民たることを恥じるといって、伯夷、叔斉は武王の扶持米をしりぞけ、ついに首陽山に隠れて餓死した。586
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【コメント】土曜日に開催した日本空手道少林流円心会新春の宴の後始末を昨日5時間かかって終了しました。疲れを癒す為健康ランドに行き帰宅し身体を休めたお蔭ですっかり元通りとなりました。
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今テレビ(0時10分)では新成人の式典の風景を放映しています。
新成人になられた皆様、おめでとうごさざいます。長い人生では漢籍の訓戒が大変役に立つと思われますので、漢籍と出会うことを希望致します。
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日本空手道少林流円心会の新春の宴では、「日本空手道少林流円心会を詠ず」を合吟し、『南洲翁遺訓』第25章を全員で朗誦しました。そして3歳児・まさだかなこ氏が一人で『南洲翁遺訓』第一章を朗誦しました。
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その準備に大わらわでしたが、お慶び下さった方々の声が届き、開催してよかったと思っています。
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『大学味講』(第45回)
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(三) 以上の事例によって、「何々せんと欲する者は」という思惟過程と、「而る後に」という体得過程との違いがわかるでありましょうが、このことを一層明瞭にするために、もう一つ「修身斉家」について申してみましょう。
思惟過程においてこれをいえば「家を斉えんと欲する者は、先づ其の身を修む」となりまして、実際についてこれを申せば、親の死去によって、子がその家を相続して、その主人となるという場合の如きがそれでありましょう。
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そういう場合、「其の家を斉へんと欲する」願望は、相続の当初において最も強いでありましょう。けれども、家族、親族等一同を相手に、その家を斉えていくということは、昨日まで「部屋ずまい」の「むすこ」としてきた者にとっては、そう簡単ににわかに出来るものではありません。そこで、「一家の主人」になるための難行苦行が始まるわけですが、その修行の結果として「主人としての実力」が身につくようになり、自然に家が斉ってくるようになるのでありまして、これが「家斉ふ」----家が自然に斉ってくる----なのであります。
この事は、町の町長の場合でも、会社の社長の場合でも、さては一国の総理の場合でも、同じことで、国を治めんと欲すという「治国」の願望と、国治まるという「国治」の実現との間には実際の上では相当に大きい距離のあることに気付かねばならぬでありましょう。
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『論語』(第145)
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子、南子に見ゆ。子路説ばず。夫子之に矢(ちか)うて曰はく、「予がすまじき所の者あらば、天之を厭たん。天之を厭たん。」
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孔子が衛の霊公の夫人南子に面会した。子路はこれを潔しとせず、極めて不愉快な顔をした。孔子が子路に誓っていうには、「もし私の態度によくない点があれば、お前が咎めるまでもなく、天の神が棄て去るだろう。神々が私を見捨てることだろう」と。
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『農士道』(第29回)
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今此の間に於ける生命力の推移を見るに、秋になって花が散り、莖葉が枯れるといふも、それは決して其等のものが全然無くなってしまふのではなくして、其等の養分が實の中に移動して行くといふことなのである。即ち「一」なる種子より其の生命力が発現して、数多の莖葉に分化し、それが再び「一」になる種子に統一収蔵せられて、再び来る春を待つものである。この作用は自然薯の如き多年生のものに於いては、地中の根と地上の莖葉との関係に於て之を明らかに見得るであろう。
春夏の侯には地中の薯の中の養分を悉く発現して地上の莖葉を繁茂せしめるが、一たび秋冬の侯になると今度は全く反対に、地上の莖葉が枯れ盡して、其の中の養分がすっかり地中の薯に収蔵せられて行く。造化の妙用は眞に驚嘆せざるを得ぬものがある。
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暴を以て暴に易え、其の非を知らず。『十八史略』
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乱暴の人をせめるために、同じように乱暴を行い、しかもかれはその非なることを知らない。
周の武王は殷の紂王を乱暴であるといって討ったが、その武王の討伐も同じく乱暴である。それにもかかわらずかれはその非を悟らずにいる。(伯夷、叔斉の作った詩)
そのような周の人民たることを恥じるといって、伯夷、叔斉は武王の扶持米をしりぞけ、ついに首陽山に隠れて餓死した。586
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【コメント】土曜日に開催した日本空手道少林流円心会新春の宴の後始末を昨日5時間かかって終了しました。疲れを癒す為健康ランドに行き帰宅し身体を休めたお蔭ですっかり元通りとなりました。
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今テレビ(0時10分)では新成人の式典の風景を放映しています。
新成人になられた皆様、おめでとうごさざいます。長い人生では漢籍の訓戒が大変役に立つと思われますので、漢籍と出会うことを希望致します。
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日本空手道少林流円心会の新春の宴では、「日本空手道少林流円心会を詠ず」を合吟し、『南洲翁遺訓』第25章を全員で朗誦しました。そして3歳児・まさだかなこ氏が一人で『南洲翁遺訓』第一章を朗誦しました。
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その準備に大わらわでしたが、お慶び下さった方々の声が届き、開催してよかったと思っています。
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『大学味講』(第45回)
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(三) 以上の事例によって、「何々せんと欲する者は」という思惟過程と、「而る後に」という体得過程との違いがわかるでありましょうが、このことを一層明瞭にするために、もう一つ「修身斉家」について申してみましょう。
思惟過程においてこれをいえば「家を斉えんと欲する者は、先づ其の身を修む」となりまして、実際についてこれを申せば、親の死去によって、子がその家を相続して、その主人となるという場合の如きがそれでありましょう。
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そういう場合、「其の家を斉へんと欲する」願望は、相続の当初において最も強いでありましょう。けれども、家族、親族等一同を相手に、その家を斉えていくということは、昨日まで「部屋ずまい」の「むすこ」としてきた者にとっては、そう簡単ににわかに出来るものではありません。そこで、「一家の主人」になるための難行苦行が始まるわけですが、その修行の結果として「主人としての実力」が身につくようになり、自然に家が斉ってくるようになるのでありまして、これが「家斉ふ」----家が自然に斉ってくる----なのであります。
この事は、町の町長の場合でも、会社の社長の場合でも、さては一国の総理の場合でも、同じことで、国を治めんと欲すという「治国」の願望と、国治まるという「国治」の実現との間には実際の上では相当に大きい距離のあることに気付かねばならぬでありましょう。
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『論語』(第145)
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子、南子に見ゆ。子路説ばず。夫子之に矢(ちか)うて曰はく、「予がすまじき所の者あらば、天之を厭たん。天之を厭たん。」
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孔子が衛の霊公の夫人南子に面会した。子路はこれを潔しとせず、極めて不愉快な顔をした。孔子が子路に誓っていうには、「もし私の態度によくない点があれば、お前が咎めるまでもなく、天の神が棄て去るだろう。神々が私を見捨てることだろう」と。
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『農士道』(第29回)
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今此の間に於ける生命力の推移を見るに、秋になって花が散り、莖葉が枯れるといふも、それは決して其等のものが全然無くなってしまふのではなくして、其等の養分が實の中に移動して行くといふことなのである。即ち「一」なる種子より其の生命力が発現して、数多の莖葉に分化し、それが再び「一」になる種子に統一収蔵せられて、再び来る春を待つものである。この作用は自然薯の如き多年生のものに於いては、地中の根と地上の莖葉との関係に於て之を明らかに見得るであろう。
春夏の侯には地中の薯の中の養分を悉く発現して地上の莖葉を繁茂せしめるが、一たび秋冬の侯になると今度は全く反対に、地上の莖葉が枯れ盡して、其の中の養分がすっかり地中の薯に収蔵せられて行く。造化の妙用は眞に驚嘆せざるを得ぬものがある。
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