味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

有徳に授くれば、則ち国は安し。

2015-01-26 10:15:04 | ブログ
第2221号 27.0126(月)
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有徳に授くれば、則ち国は安し。五穀に努むれば、則ち食は足る。『管子』
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 徳の備わっている人に位を授くれば、国家は安泰になり、五穀の増産に務めていけば、民の食料は十分になる。397
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 【コメント】上の『管子』の言葉を聞いて、そうだよなぁと頷かない人はないでありましょう。
 現在、日本から遠く離れた国で、人質をたてに身代金を要求している人たちがいて政府もキリキリマイをしているようですが、お互いが冷静に話し合い、そして働き協力しあって行けばどうにかなるのではないかと思うのですが、甘い考えなのでしょうか。
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『大学味講』(第59回)
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 〇そこを、詳しく説明して下さい。私どもには、そういうことについての素養がないのですから----。
 ”はい、では少しくどくなるかも知れぬが申しましょう。人間形成の要素として大事なものに、「才」と「徳」との二つがあります。「才」というのは、私どもが仕事をしていくに必要な才能でありまして、その内容を分析すれば、「知識」と「技術」の二つになるでしょう。

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 今これを自動車の運転に例を取って申しますと、そのためには、学科試験に合格するだけの「知識」をもたねばならず、そして実地試験に合格するたけの技術をもたねばなりません。こと「知識」と「技術」があれば、それで一応は自動車の運転が出来るのでありまして、これが自動車運転についての「才」なのであります。
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『論語』(第159)
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 子の慎む所は斉・戦・疾。
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 孔子が特に意を用いて慎むことが三つある。それは斎(ものいみ)と戦争と病気とである。
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『農士道』(第43回)
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 然し其の汗は、苟くも人間の汗たる以上、肥料に関してはやがて必ず窒素、燐酸、加里の三要素の研究位は出来て来る筈であって、「汗」から自然に発現して来る「文」である。而してそれが「浮文」になると、只管肥料学の理論的研究を誇って、「田に落す汗」を忘れ、肥料屋に命じて金肥を田に運搬されて置けば、それで米は穫れるものと考ふるに至るやうな状態になるのである。
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 そこで其の反動として、農業をするのに面倒な学問や知識は要らぬ。唯「汗」を惜まぬ労働さへあればよいといふ聲を聴くやうになる。然しそれでは畢竟牛馬の汗の強要であって、「瀆武」「頑迷」の識を免れない。人間の努力は矢張り汗より離れざる三要素の研究であり、三要素の研究を忘れざる汗の努力であらねばならぬ。換言すれば文質彬彬たる努力であらねばならぬ。
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小人を防ぐの道は、己れを正すを先と為す。

2015-01-25 11:11:25 | ブログ
第2220号 27.01.25(日)
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小人を防ぐの道は、己れを正すを先と為す。『近思録』
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 一般の人々に過ちの無い生活をさせるには、上に立つ人がまずみずからの行いをただすことが第一である。(易小過卦の程伝)301
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 【コメント】たしかに上に立つ人、指導的立場にある人が〈みずからの行いをただすこと〉をするなど、お手本を示すことが出来れば、善い事だと思います。が、同時に相手を蔑むことなく、それとなく教え諭すことも大事ではないでしょうか。
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 昨晩の空手道の稽古も南洲翁遺訓発表を主に実施しました。特に木曜日にハッスルしてくれている正田宗一郎くん、かなこちゃんのことをお話し競争をするように煽りました。
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 英邁なご両親のもとに誕生し、さらに高学歴をお持ちの母親さまにそれとなく導かれ、日常の遊びの一貫として古典を暗記する、なんて素的なことなのでしょう。
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 こういったことは幼児の時にやらなければならないのです。それが習性化してくるからです。そして男の子は併せて性教育もしなければならないと思います。 
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『南洲翁遺訓』序文に出てくる文言は本当に素晴らしいと思います。文言は大人が読んでも難解でありますが、要は、言葉を暗記していれば、精神がその言葉と呼応し、将来大変な精神文化を構築してくれると信じます。
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 学歴も能力もない私は、数多の月刊誌を20年以上購入し、片っ端から書き写してきました。お蔭でこれは正解であったと総括しています。
 今朝のテレビ報道で、パチンコ等ギャンブルに興じている人の脳は、異常を来しているとの専門医の説明がありました。意志を強くもっていう類の助言は効果は薄いとのことでした。
 でも、強い意志を持つことによって脳の異常性は好転することだってある筈です。天風師の著書を数多拝読してきて言えることなのです。
気が狂ったみたいに『南洲翁遺訓』を半年書き続けてみませんか。ご自分が驚く成果が期待できる筈です。
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『大学味講』(第58回)
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  〇「自分の足りない所」というと、例えばどういうことでしょうか。
 ”「足りない所」といっても、物もあれば、金もあれば、知識もあれば、技術もあれば、いろいろの面での足りない所がありましょうが、「我づくり」において「足りない所」というのは、主としてその奥の、人間形成の根幹をなす「人がら」の面においてのことであります”

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『論語』(第158)
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 子曰はく、富にして求むべくば、執鞭の士と雖も吾亦之を為さん。如し求むべからずば、吾が好む所に従はん。
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 孔子がいうには、『人として富を欲しない者はない。富なるものがこちらから求むべきものならば、「下に下に」の足軽役でもわしは務めるが、もし求むべきでないならば、わしはわしの好む聖人の道を楽しみたい。』
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『農士道』(第42回)
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 かくの如く、現下の社会の現状を見るに、「質」より「文」、「文」より更に「浮文」と走って何時しか生命の本質より逸脱せる相の多きに憤り、其反動として一部に已に瀆武的傾向の出現を見つつあるが、是れ孔子の所謂「史」と「野」との對立であって、共に君子の道を去ることが遠い。
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 以下更に二三の事例を挙げることにするが、それらを見れば、一層現下の世紀末的状態が察知せられるであろう。
 農耕の事に就いて之を見よう。曾て私は或る地方の稲田の間を通った時に、「田に落す汗は金肥に勝る」と記した標柱を見たことがある。汗----即ち勤労は農耕の質である。

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順にして之れを安んず。

2015-01-24 13:35:47 | ブログ
第2219号 27.01.24(土)
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順にして之れを安んず。『忠経』
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 安らかということは万人の望むところではあるが、君子は、その安きを求めるために、まず道に順い、それによって安きを得る。290
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 【コメント】今日の学問館は吉野からもおいでくださいました。荘内南洲会の先生方を御迎えするための資料づくりに大わらわです。お蔭で元気なのだと思います。
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『大学味講』(第57回)
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 〇「我づくり」の意味はわかりましたが、では、どうすればその「我づくり」が出来るのでしょうか。
 ”「我づくり」は「我知り」だけでは出来るものではありませんから、単に知識的にそれを知っただけではいけません。自分で実行し、努力して、よりよき我をつくっていかねばならないのです。そのために大事なことをしぼれば、次の四項目となるでありましょう。
 一、自分の足りない所を自覚する。
 二、それを改めようと努力する。
 三、よき師友を求める。
 四、継続的努力をする。
まあ、この四つを行うことでしょうね”

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『論語』(第157)
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 子顔淵に謂って曰はく、「之を用ふれば則ち行ひ、之を舎つれば則ち蔵(かく)る。惟我と爾と是あるか。」子路曰はく、「子三軍を行らば則ち誰と与にする。」子曰はく、「暴虎馮河、死して悔なき者は、吾与にせざるなり。必ずや事に臨んで懼れ、謀を好んで成さん者なり。」
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 孔子が顔淵に向って、「自分を認めて用いてくれるものがあれば、出でて我が道を行い、世の中から見捨てられた場合は、抱負を心の中にひそめて、じっと隠れる。かく、出処処進退の宜しきを得るのは、まず、わしとお前ぐらいのものかなぁ」といった。
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 すると、子路がやきもち気味で、進み出て、「もし先生が大軍を動かす場合は、いったい誰と一緒にこれをなさいますか」と、尋ねた。(すなわち、子路の心中では、道を行う場合は顔淵でも、軍事の場合は、この武勇の力のある子路でなくてはなるまいという気持ちがあった。)
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 孔子が子路をたしなめて言うには、「虎を素手で打ったり、黄河のような大川を徒歩で渡ろうとしたりして、死んでも後悔しないような者とは、私は行動を友にしない。軍の事に臨んでは、おそれている如く慎重にやり、十分計画をめぐらして、それを遂行し、成功させるような思慮深い者と、事を共にしたいと思う。匹夫の勇は私の友ではないよ」と。

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『農士道』(第41回)
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 次に私共の生活様式を見るに、衣食住に就いて生活必用線的な素朴なる生活が「質」であり、それが人智の進歩と共に向上し発達して、相當に文明の利器の活用も出来るやうになれば、其処に所謂文化生活を生じて来る。是れ即ち「文」である。然し人間の欲望には際限が無く「隴を得て復た蜀を望む」もので、遂に己が身分や境遇の如何も忘れて贅沢三昧の生活に耽けるやうになれば、そは已に浮文である。
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 今日一度都会の百貨店等に入って見れば如何にこの浮華な贅沢物の多いかを見て一驚することであらう。之に對して、其の反動的現象として起って来る生活が「人間らしき生活」を没却してまでも素略な生活を強いんとする、寧ろ「粗野」とも謂ふべき瀆武頑固な行き方である。例えば婚礼は夫婦の契りを誓ふ精神的の儀式である。其の儀式さえ行へば三々九度の盃を始め、披露の宴でも水を飲んで結構だ。飲食などいふことは意味の無いこと、全然行る必要がない。着物も之と同様だ。礼服などいうは皆虚礼である。土の附いた野良着で結構だ----といふ類である。

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赤心を推して、人の腹中に置く。

2015-01-23 10:22:16 | ブログ
第2218号 27.01.23(金)
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赤心を推して、人の腹中に置く。『十八史略』
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 自分の真心を押し出して、他人の腹の中にいれる。真心を持って人に接し、信じて疑わない。後漢の光武帝の人柄を評した諸将のことば。604
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 【コメント】『十八史略』の上の言葉は、私ごときものにはできませんが味わうべき言葉だと思います。〈他人の腹中の中にいれ〉なくても、誠心誠意人様の為に尽くせばいいのではないでしょうか。私はそのように考え行動しています。
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 昨夜は第二道場でおけいこを致しました。小一年1の正田宗一郎君と三歳児・かなこちゃんの『南洲翁遺訓』に挑む情熱には圧倒されます。『南洲翁遺訓』冒頭にある「抑も西郷南洲翁は筑紫の一隅に生れ」の半分を2人で声高らかに発表しました。
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 この文言は西郷南洲翁の人格を評した言葉ですが、併せて荘内人士の精神を吐露した言葉でもあるのです。私の詩吟道のお師匠様であった竹下一雄先生は、「味園さん、南洲翁遺訓は西郷さんの言葉であると言うが、荘内精神じゃったっど」と何時も私に話していたものです。
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 宗一郎君の傍で応援してくださるご両親様の英邁さに心から感謝申し上げます。ゲーム機もいいでしょうが、『南洲翁遺訓』の随所に出てくる言葉・用語を頭に叩き込むことは大変な財産になると信じます。
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 荘内南洲会の先生方、この文言は誰の立案でしょうか。とにかく素晴らしいの一言です。こんな素晴らしい『南洲翁遺訓』があるのですから、ご霊前でお経を唱えるような感じで、ご自宅で毎晩全員で拝誦してみたら如何でしょう。
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 多くの人々は眼の前にのみ拘泥しているきらいがあるようです。もう少し長期的視野に立脚して子育て及び人間育成論に臨んだら如何でしょう。

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『大学味講』(第56回)
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 〇東洋学的のものといいますと?
 ”儒教でも、仏教でも、物心一如とか、自他一体とかいって、すべて物事を一体的に見て、その根本となるものを確立し、把握することに努めるものであります。その代表的のものとして、「大学」の次の一節をあげることが出来るでありましょう。
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「天子より庶人に至るまで、壱是に皆身を修むるを以て本となす。その本乱れて末治まるものはあらず。」というのがそれであります。天子というのは、現在の日本でいえば、総理大臣ですが、総理大臣から庶民に至るまで、皆一様にその立場立場にしたがって、>「身を修むる」ことが、斉家、治国、平天下の一切活動の「本」であるというのであります。東洋的政教原論といわれる「大学」の一書を一貫する原理は、この一語に尽きるといっても過言でなく、随って私どもの「我づくり」の学的根拠はここに在ると申してもよいでありましょう”

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 私が「大学」と出会ったのは30年まえですが、10回以上通読し後、テープに録音して何回も聞いてきました。ところが講談社の『大学』と『大学味講』とでは大変な相違があります。小野寺時雄先生が、菅原先生は日本一の学者だといった言葉を思い出しています。
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 私の所で学んでいる子どもたちは、私同様、『大学味講』を座右の書にしてくださるものと確信しています。
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『論語』(第156)
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 子喪ある者の側らに食すれば、未だ嘗て飽かず。子是の日に於て哭すれば則ち歌はず。
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 孔子は、喪中の人と同席の場合には、腹一杯にめしあがられなかった。又孔子は、葬式や法事に行って泣いて来られた日には、歌など歌うことはなかった。
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『農士道』(第40回)
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 次に人間の性格に就いて之を見るも、矢張り四つの範疇より之を考え得る。即ち腹の中に誠を十分蔵しながらも軽々しく之を口にせぬといふ朴訥型が「質」で、之に對して十の思ふてゐることを、十二にも十三にも花を咲かせて上手にお喋べりするといふ巧言型が「文」である。
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 巧言はまだよい。然し腹にないことを唯口先きのみで蝶々としゃべって得々としてゐる侫侫に至っては、もう生命の本質より逸脱せる「浮文」であり、之に對して物言ふことは一切ならぬ。朝夕隣人と顔を見合はしても口を聴かぬといふに至っては瀆武の頑固に堕するものである。

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身は父母の遺体なり。

2015-01-22 09:43:00 | ブログ
第2217号 27.01.22(木)
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身は父母の遺体なり。父母の遺体を行う、敢えて敬せざらんや。『礼記』
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 われわれのからだは父母の遺された体である。その遺体をもって行動する者としては、どうして自分のからだを敬わないでおられようか。281(曾子のことば)
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 【コメント】現代の日本人には理解し難い論理ではないでしょうか。元気があり、健康であり、飛び跳ねている者には理解できないし、理解しようともしないと思います。
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 今朝のテレビ報道で、雪山のコース外を勝手気ままに滑る人が増えて、取り締まる警察署では、手を焼いているということです。注意されても注意されてもいう事を聞かないのだそうです。
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 こういった人々が、万一大事故を起した場合、その時初めて目が覚めるのです。片腕、片足、両足切断しなければならなくなった時にはもう遅いのです。人間が自由気ままに生きることは大変大事なのですが、そこには、厳しいルールが必要だと思います。
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 尤も思想で締め付ける体制ではよくないと思います。私たちが幼少の頃は近所のおじさん、おにいさんのいう事はよく聞くものでした。そういった地域ぐるみで面倒をみてあげることはいいことだと思うのですが、如何でしょう。
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『大学味講』(第55回) 
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 〇とすると、「我づくり」という言葉はあなた方がつくった言葉ですか。
 ”さあ、それはわかりません。しかし、この言葉を使うことになったのは、決して一時の思いつき程度のものだけでないことは確かです。それにはもちろん、池田首相の「国づくり」「人づくり」政策に刺激されて、曰く「村づくり」曰く「町づくり」曰く「家づくり」曰く「職場づくり」曰く「環境づくり」等々ということが盛んにいわれ、そしてその実際を見ると、「規則づくり」であり、「予算づくり」であり、「設備づくり」であり、「物づくり」であるのを見て、こういう外的のものだけでなく、もっと一人一人の内面的の「我づくり」が行われなければならぬことを痛感したのがその一つであります。しかしその根底に、私どもの教養の基礎として、以上のような東洋学的なものがあったからだと思います”

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『論語』(第155)
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 子曰はく、憤せずんば啓せず、悱せずんば発せず。一隅を挙ぐるに、三遇を以てせずんば、則ち復せず。
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 孔子がいうには、教えを受けんとする者で、自ら心に求め、疑問の解決に向かって情熱が燃え上がるようにならなければ、これを教えてやろうとはしない。言うべき内容も出来て、言いたくても、上手く言えなくて、口をモグモグさせる程度にまで進まないと導いてやらない。
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 たとえば、四角なものを教えるにしても、一隅を持ち上げてみせると、他の三つの隅を自分から類推して反応を示すようでなければ、重ねて教えることはしない。相手の成熟さをまつほかはないのである。

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『農士道』(第39回)
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   第二節  文質関係より見たる諸相 
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 私どもが或る事に従ってそれにいそしむに当たって、其の事の使命が重ければ重いほど、大なればなるほど、それほど其の事に對して高き感激と強き努力とを伴ふものである。農の事も亦然りで、農が今日の世相より見て果して何れほどの重き使命を有するか、はた歴史的に見て何れほどの大なる使命を有するかといふことを深く自覚するに至れば、之に對する感激も、矜持も、発憤も、亦自ら異って来るものである。
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 かかる意味に於て、本節に於ては、前述の陰陽文質の四範疇より現下社会の世相を観察批判して、之に對する「農」の使命の如何に重大なるかといふことを明かにしたいと思ふ。然しそれは要するに「農」の使命の重きを知る所以の為なので、徒に社会批判に興ずる為ではないから、成るべく冗説を避けて、要点のみを略述することとする。

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