味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

礼節いろは言葉 「そ」。

2010-09-30 15:32:35 | ブログ

タイトル---礼節いろは言葉 「そ」。第605号 22.09.30(木)

「そ」 壮健を 誇るは清き 心なり---君子は、その独りを慎むなり。『大学』

 

 「壮健」とは、大きくて勢いがあり、元気で達者なこと、であります。ここで力説したいことは、旺盛なる精神の涵養に努めたいということです。『大学』は、〈君子は必ずその独りを慎むなり〉と訓えてすます。「立派な君子たる者は独りでいる場合、他人がいようがいまいが、言行を慎み自らを欺かないようにする」というのです。

 これは旺盛なる精神の涵養なくしては出来ないと思います。また、『易経』は、〈存すれども亡を忘れず。治まれども乱を忘れず〉と訓えています。「いま存在していても、いつ亡びるかもしれない。泰平であるからといって、いつ乱世になるかわからない。確固たる、強くかつ清き精神で物事に臨まなければならない」というのです。

 若いときには威勢もあり精力もあります。幾ら歳を重ねても、肉体的に、精神的に、行動的に、矍鑠とした人生を過ごしたいものです。八十歳前に旅立つ人は修養と自己錬成が足りないのだ、とは本多静六の言葉です。

 「人間は耄碌するから働けないのではなく、働かないから耄碌するのだ」という本多語録を噛みしめ、壮健を清き心で誇れる人間になりたいものです。


礼節いろは言葉 「れ」。

2010-09-29 16:27:52 | ブログ

タイトル----礼節いろは言葉 「れ」。 第604号 22.09.29(水)

 「れ」 礼節を 尽くすは人の 基なり---礼を学ばざれば、以て立つことなし---『論語』

 『論語』は、〈礼を学ばざれば、以て立つことなし〉と訓えています。「礼は世に立つ根本である。だから、この礼というものを学ばずしては、人間として世に立つ資格がない」と解していいでしょう。また『春秋左氏伝』(左伝ともいう)は、〈己れを修めて人を責めざれば、則ち難より免がる〉と訓えているのです。「自分自身修養を積んで、他人の過失はとがめない。そうすれば危難から免がれることが出来る」というのです。

 こういった訓えは、人間が社会生活を営む上において、人との関係を迅速・円満に処理するために、きわめて大切な要件というべきだと思います。

 ここでいう「礼節」とは、法体系に言う堅ぐるしい法律とは少し次元を異にして考えたいと思います。多くの人と共に棲む社会では、自分勝手な振る舞いをすることは許されません。本人がいいと思っても、そのことが他人に迷惑・被害を及ぼすことは、礼を失する行為として人々から避難され、苦情を受けるでしょう。

 問題が発生した時、如何に円満に解決出来るか否か、礼と節を心得た人は後々支障のなきよう、相手にも名誉を与えながら処理できると思うのです。


本多静六の教え。

2010-09-23 12:33:14 | ブログ

タイトル----本多静六の教え。 第597号 22.09.23(木)

 私が本多静六著を読んだのが約20年前のことでした。世の中には凄い人がいたもんだ、と大変感動しましたが、学歴・能力が異なる私ごとき者とは天地の差があるから、とても私にはできないと思い込み、書棚に置いていました。最近、書棚の本を読み直しをして、これは門人の方々に紹介しなければならないと判断し、読書するよう進めているところでございます。書籍の中から紹介します。『私の生活流儀』の一部です。

………

 一生元気に働き続けるには-----健康法と長寿法は別物

 一口に健康長寿法といっても、いわゆる健康法と、いわゆる長寿法とは、必ずしも同一でないと私は考えている。

 日頃頑健な活動を誇っていた人が、若い働き盛りにコロリといくこともあれば、病気ばかりしてひよひよしてる人が、案外に長生きすることもある。長い間の私の体験と実際調査によると、普通に健康といわれる者は、身体肥大、風采堂々、みるからにエネルギッシュな体躯の所有者を指しているようであるが、それはたいてい、暖衣飽食、酒類をたしなみ、肉類、魚類のごとき脂肪分を多食する贅沢生活の結果であって、中年後は多く心臓病、膵臓炎、糖尿病、脳貧血その他のゼイタク病をおこして短命におわるものである。

 これに反して、いわゆる長寿法は、かえって痩せ型のかたくしまった体格で、早くより、粗衣粗食、勤倹努力の耐乏生活をつづけてき、中年以後も前期のゼイタク病を近づけず、無病息災、長く働きとおしている例が多くみられる。

 われわれが昔からおなじみの七福神の図についてみても、布袋は便々たる腹を抱えた肥満者であるが、寿老人は痩躯鶴のごときほそり方である。また長寿仙人の画像をみても、一人として精力的な肥大漢をみず、いずれも痩身ばかりである。

 これでも十分わかるように、肺病を恐れ過ぎるあまりにか、健康法と長寿法とを混同し、普通のいわゆる健康法が、ただちに長寿法を意味するかのごとく誤解してきていた。いや、むしろ健康と健康法それ自身を、間違った尺度で解釈してきていたといわなければならぬ。すなわち、われわれ素人考えでは、肥った人が健康で、痩せた人が不健康、あぶら切った人が丈夫そうで、そうてない人が病身、かっぷくのいい人が活動家で、貧相な人がその反対のように解し、健康法といえば肥ること、あぶら切ること、体重をふやすことだと早合点してきていた。ことに軽薄な栄養学が行われ、上ッ調子なカロリー説がやかましくいわれ出してからは、健康そのものの誤解と滋養物摂取に対する過信がはなはだしくなった感じがある。

 私は終戦後、食糧問題が窮迫して、国民のすべてが不安と焦燥に駆られているところへ、ことさらおどかすように「栄養失調」の言葉をふりまわし、人間本来の健康増進に誤った指導を行う当局に不満を感じ、NHK並びに厚生大臣宛抗議書を送ったこともあるが、われわれの健康上、真におそるべきは、栄養失調ではなくて、むしろ「精神失調」なのである。粗衣粗食の耐乏生活に打ちひしがれぬことであって、旨い物、滋養のある物をたくさん摂取できぬことではない。それにはまず「本当の健康体とはどんなものであるか」を正しく、誤りなく究めてかからなければならないと思う。

……

 まさしく同感であります。私も腹部に少し脂肪がついている関係上、保健所の姉さんがそれはそれは丁寧に説明してくれた。が、貴方のいうことは理解しますが、私は貴方のいうようにはしませんと、反論し帰ってきたことがある。病院・保健所がいうのは一般論であって、それが全ての人に当てはまるかというとそうではない筈である。

 71歳を過ぎた私は今のところ異常なしである。このまま80歳まで行けた場合は、本多静六氏同様、厚労省あたりに一言発言したいと考えています。

 健康は自らが創りましょう。


礼節いろはことば 「た」

2010-09-22 10:35:50 | ブログ

タイトル----礼節いろはことば 「た」 第596号 22.09.22(水)

 「た」 大学の 道は明徳 明らかに-----大学の道は、明徳を明らかにするにあり。『大学』

 『大学』は、〈大学の道は道は、明徳を明らかにするに在り。民に親しむにあり。至善に止まるに在り〉と訓えています。「明徳を明らかにすとは、天から授けられた立派な徳性である明徳とか峻徳という良心を、人としての修養を通じて明らかにすることが必要である。民に親しむとは、自分の修養を通じて一般の人々を今日は昨日より、明日は今日よりと、一日一日と進歩せしめて行くようにすることである。至善に止まるとは、何事も至上至善をきわめ、その位置から動かぬようにしなければならない」といい、これを「大学の三綱領」といいます。

 この三綱領を実現する細目として、格物、致知、誠意、正心、修身、斉家、治国、平天下をあげ、これらを「大学の八条目」といっています。

 我々も歴史に名を遺している偉人をお手本として、長期的設計図を描き、努力の階段を上りつめたいものだと思います。

 それは他人に優越を感じ、自らを誇るものであってはならないと思うのです。歴史的に読み継がれている古典の教えは、時代がどう変わっても不変のものだということです。そこに努力の妙味も出てくるでしょう。


偉人の紹介「明 恵」。

2010-09-21 09:53:04 | ブログ

タイトル----偉人の紹介「明 恵」。第595号 22.09.21(火)

 高僧。名は高辮、明恵と號した。紀州有田郡の人。建永元年後鳥羽上皇の勅によりて、栂尾山の古寺を賜い、高山寺を創め、華厳興隆の勝地とした。貞永元年寂、年六十。

 

 其の身直ければ影も亦直し。

 栂尾(とがのを)の僧明恵上人(みょうえしょうにん)は、鎌倉時代の一名僧である。北条泰時在京の砌、上人を訪ねて教えを乞うた。曰く、『一人つとめて之を行うも、衆人が従はなかったら如何致しましょう』

高辮静かに説いて曰く、『それはむづかしい事ではありません。貴殿の心にあるのだ。故人も、「其の身直ければ影も亦直し」といっている。其の政(まつりごと)が正しければ、國が乱れるものでは無い。正しいとは無欲のことである。貴殿の心にあるのみだ』

 泰時は深く此の言葉に感じ、よく之を実行して美績を後世に遺したのである。或時武田信光と海野幸氏とが、土地を争って鎌倉に訴え出たことがある。幸氏の方が正しいのだから、泰時は之を裁判して、武田信光の敗訴と決定した。或人曰く、『武田氏は有力家である、恐らくは怨みを抱くかも知れません』

 泰時厳然として曰く、『人の怨みを恐れて曲直を分かたないならば、世に執権は無用であろう』

 誠に痛切なる一言である。或時近侍に語りて曰く、『我不肖の身を以て執権となり、幸いに罪咎を免れ得たるは、高辮が教えの力である』と。