味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

詩に云ふ、於戯、前王忘れられず、と。

2019-01-30 17:13:58 | ブログ
第3673号 31.01.31(木)

詩に云ふ、於戯、前王忘れられず、と。君子は其の賢を賢として其の親に親しみ、小人は其の楽しみを楽しみて楽しみて其の利を利とす。此を以てよを没するも忘られざるなり。『大学』56

 詩には「ああ、先生を忘れることができない」とある。これは、その治世には、盛徳の君子はそのうちの賢者を尊び用いて礼儀をさかんにして親族のものたちを和合させ、庶民はその礼儀に安んじて、その楽しむべき本業に楽しんで精を出して、その正当な利益をうけ、上下よく治まった。さればその君子が世を去った後も永く人民に追慕されて忘れられないことをいっているのである。

 【コメント】解説にあるように生きている時も、死去した後も人々に慕われるようりありたいものです。その為には表面だをつくろうようなことはいけません。出来れば南洲先生みたいにありたいものです。そのお手本が荘内南洲会の先生方です。日々に語らい、日々に学び、人々の範たる存在をお手本にして、生きて行きたいものです。

 余を見渡せば、ワルのし放題ですが、兎に角天が観ているのです。只今、31日、午前11時30分、行方不明になっていた19歳の女子が殺された後、遺棄されていたとの由、可哀想なことだと思います。
 思うに教育内容に『南洲翁遺訓』の精神を浸透すべくお願いしたいものですが、どうにかならないのでしょうか。これを書いている間も三面記事のオンパレードです。

 兎に角政治家がワルスギルと思います。

 私が3500回以上にブログ発信した漢籍の訓戒を参考にしたら参考になると思うのですが、手っ取り速くは『南洲翁遺訓』を題材とすべきだと思います。

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『善の研究』第138回

 我々が個人なる者があって喜怒愛欲の情意を起すと思うが故に、情意が純個人的であるという考も起る。しかし人が情意を有するのでなく、情意が個人を作るのである、情意は直接経験の事実である。
万象の擬人的説明ということは太古人間の説明法であって、また今日でも純白無邪気なる小児童の説明法である。
 
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『菜根譚』153

 節義は青雲に傲り、文章は白雲より高きも、若し徳性を以てこれを陶鎔せざれば、終に血気の私、技能の末とならん。

 〔訳〕その主義主張は高位高官の人々をはるかにしのぎ、その文章教養は白雲の名曲よりも高尚であっても、道義的な徳性で練り上げていなければ、結局は、その主義主張も血気にはやった私行となり、その文章も手先の小細工になってしまうのである。

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子曰く、隠れたるを素め怪しきを行なふは、

2019-01-30 10:59:58 | ブログ
第3672号 31.01.30(水)

子曰く、隠れたるを素め怪しきを行ふは、後世述ぷる有らんも、吾は之を為さず。君子は道に随ひて行ふ。半塗にして廃するも、吾は已む能はず。君子は中庸に依る。世を遁れて知られざるも悔みざるは、唯聖者のみ之を能くす、と。『中庸』220

 孔子はなみなみの人には知れない道理をざぐり出したり、人には行い難い甚だ風変りなことをしたりするのは、後の世になっても、それをほめそやして、ひきつぐかも知れないが、わたくしはそんなことをしない。
 君子というものは常に道を守って行動するのである。途中で倒れようとも、わたくしは道を守ってやめることができない。君子というものは常に中庸をよりどころにするのである。たとい世間から身をかくして、人々に知られないということがあっても、人を咎めず運命をうらまずにいるのは、ただ聖者だけが行うことができる。


 【コメント】君子でない我々凡人も、常に道を守って人々のお役に立つよう配意したいものです。多くの人と協力しあい処世に臨むことができれば、これほどの幸運はないと思います。

 昨日は先の土曜日にハプニングが発生し空手道教室を休んだことについて、山田先生から電話があり、老体の悲しさを報国しました。

 元気万全の身が年を重ねると異常になるということ知り、自覚しなければと思っています。

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『善の研究』第137回

 個人的と見れば個人的である。これに反し情意ということも、外界にかくの如き情意を起す性質があるとすれば客観的根拠をもってくる。情意が全く個人的であるというのは誤りである。我々の情意は互に相通じ相感ずることができる。即ち超個人的要素を含んでいるのである。

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琢するが如く磨するが如しとは、

2019-01-29 11:33:08 | ブログ
第3671号 31.01.29(火)

琢するが如く磨するが如しとは、自ら脩むるなり。瑟たり僩たりとは、恂慄するなり。赫たり喧たりとは、威儀なり。斐たる有る君子は、終に誼る可からずとは、盛徳至善にして、民の忘るる能はざるを道ふなり。『大学』56

 「あらけずりをしては磨きをかけるようにする」とあるのは、君子が自分自身をまごころをもって修めていることをいっているのである。「うやうやしさにみち、みやびやかに整う」とあるのは、君子が修めた徳を行うにあたってつつしみ深くすることをいっているのである。「輝き出、照りわたる」とあるのは尊厳な法度に合った徳行となったことをいうのである。「徳のあやに美しい君子は、いつまでも忘れられない」とあるのは、盛大な徳を備えもっとも完全な善をもとにしてものごとに処するので、人民が君子を慕って忘れることができないことをいっているのである。

 【コメント】自分自身を修め、徳を行なうに当たって慎み深くし、人々の範たりうる人間となるべく努力し、人世に努めたいものです。
 世の中には荘内南洲会の先生方みたいに、素晴らしい人もいるかと思うと、反社会的な人間もおります。どういう生き方であれ、人々が認めるものでなければ、いつの日か水泡に帰してしまうでしょう。

 新しい年が始まりいろいろ議論をしていますが、先ずはトップに立つ安倍総理が範を示すべきです。総理が微塵も不正をしないと高言すれば、国会は良くなるのです。
 総理が範を示して後、おかしい側近がいたら、人の前で叱りつけることが出来るのですが、新宿の夜の女と変わらない昭江おばさんをつれて、あちこち行くようでは決して良くはなりません。

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故に君子は和して流せず、

2019-01-28 12:04:23 | ブログ
第3670号 31.01.28(月)

故に君子は和して流せず、強なるかな嬌たり。中立してかたよらず、強なるかな嬌たり。國に道有るも、塞を變ぜず、強なるかに嬌たり。国に道無きも、死に至るまで變ぜず、強なるかな嬌たり、と。『中庸』215

 君子は心ひろくおだやかでよく人々と和合するのであって、自分の守りを失って人々の意見に押し流されることがない。この強さこそまことの強さである。中央にすっくと立って傾かないように、自分から毅然として中庸を守っている、この強さこそまことの強さである。されば、国に道が行われて、平生の深く期する思いをかえるというようなことはしない。この強さこそまことの強さである。また国に道が行われず、死ぬ時まで守り抜いてかえない。この強さこそまことの強さであるといって、さとされた。

 【コメント】我々も心を広く持ち、おだやかに人々と和合しながら、決めたことはやり通す決断力と責任感を持ちたいものです。

 昨日は体調不良のため、ブログ発信を止めさせて戴きました。土曜日夕刻、自宅隣の駐車場に自家用車を移動させた時、少しくハプニングが起きました。昨年9月1日、救急車で搬送された時は、意識不明でしたが、今回は鮮明に記憶しています。

 私は学ぶことと空手道指導はたおれてもやるといっていますので、その通りなったのかも知れません。

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瑟たり僩たり、赫たり喧たり。

2019-01-26 10:08:17 | ブログ
第3669号 31.01.26(土)

瑟たり僩たり、赫たり喧たり。斐たる有る君子は、終に誼る可からず、と。切するが如く磋する如しとは、學ぶを道ふなり。『大学』56

 されば、その徳はうやうやしさにみち、みやびやかに整い、耀き出、照りわたる。徳のあやに美しい君子は、いつまでも忘れられないとある。ここに「あら細工をしてはやすりをかけるようになさる」とあるのは、君子かつとめて善を学んでいることをいっているのである。


 【コメント】昨日は伯母の葬儀のため、枕崎へ行ってきましだ、道々中村天風氏の『成功の実現』を録音したものを聞きながら往復しました。

 成功の実現一冊目は、平成7年5月31日に録音していました。現在80歳ですから、55歳の時に録音したことになります。55歳の時であるので、やはり元気があります。続いて『盛大な人生』『心に成功の炎を』と録音しています。そして『西郷隆盛主唱言志録』も録音しています。

 当時は気が狂ったように、テープへの録音、書き写し等々勢力的に作業をしてきました。今でもそうですが、そういう時は楽しくてたまらないのでした。

 若い兄ちゃんちが窃盗まがいのことをしていますが、こういうことをするよりか『南洲翁遺訓』を読み書きするよう提案します。

 私は荘内南洲会の先生方を存じあげてから、『南洲翁遺訓』に取りつかれたように学んできました。これほど素晴らしいものはないと思っています。

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『善の研究』第136回

 我々は主観客観の区別を根本的であると考える処から、知識の中にのみ客観的要素を含み、情意は全く我々の個人的主観的出来事であると考えている。この考は已にその根本的手の仮定において過っている。しかし仮に主客相合の作用に由って現象が生ずるものとしても、色彩などいう如き知識の内容も、主観的と見れば主観的である。

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