味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

民に視すこと恌からず。

2015-04-30 09:39:25 | ブログ
第2314号 27.04.30(木)
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民に視(しめ)すこと恌(うす)からず。『詩経』(小雅 鹿鳴)
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 客の道徳が明らかであれば、人に重厚な模範を示し、自然その感化が民に及ぶものだ。172
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 【コメント】〈客の道徳〉というよりは、古典の味が分るようになった大人たちが、人々に〈重厚な模範〉を示し続ければ、自然その感化が人々に及び世の中大変よくなると思います。
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『大学味講』(第151回)
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 かくてこの章の説くところは、怒るべき時には怒るが、それをいつまでも留めておいて、心に怒りのシミをつけてしまい、その怒りのシミで汚された心ですべてのものを見て、怒らぬでもよいことまでに怒りを遷して、カンカンブリブリいっているのでは「正しきを得ず」であるというのであります。以下恐懼、好楽、憂患皆同じことであります。
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 これをたとえていえば、最も正確にして敏感な計量機のようなもので、一○キログラムのものを載せると、針がピンと一○キロの目もりの所にいくが、それを取り去ると、直ちに○の所にもどっている。そして二○キロの物を載せると、今度は針が間違いなく二○キロの目もりをさす。そしてそれを去ると、直ちに○の所にもどっている、というようなもので、そこに「正」があるのであります。それをもし、針が二○キロの所を指すと、その物を去っても、なおいつまでも二○キロの所を指しているようでは、正しい計量機とはいわれぬでありましょう。
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『論語』(第251)
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 (い)ぬるに尸(し)せず。居るに容づくらず。斉衰(しさい)の者を見れば、狎れたりと雖も必ず変ず。冕者と瞽者とを見れば、褻と雖も必ず貌を以てす。凶服の者には之に式す。負版の者に式す。盛饌(せいせん)あれば、必ず色を変じて作(た)つ。迅雷風烈には必ず変ず。
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 寝る時は死人のような臥方(ねかた)をしない。普段家におる時は容貌を飾ろうとしない。喪服を着ている人を見れば、狎れ親しんでる人であっても必ず容色を変じてこれを哀しむ。
 有爵者と盲人とを見れば、改まった席でなくても必ず礼儀正しい容貌をして、有爵者を尊び、片輪者を矜れむ。車に乗っておる時、途中で喪服を着ている者に遇うと、俯して車の横木に手をかけて敬意を表する。戸籍簿を負うて朝廷に持って行く者に遇えば敬意を表する。
 前者は喪のあるのを哀しみ、後者は民の数を重んずるのである。立派なご馳走を出された時は必ず色を変じて立つ。主人の手厚い待遇に対してこれを敬し、敢えて当たらない意を表すのである。雷が急に鳴る時風が烈しく吹く時は容貌を変じて敬(つつ)しむ。

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『農士道』(第130回)
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 かくて浮文的状態に陥ると思想的に於いても、経済的に於いてもむだ花が非常に多くなる。随って思想國難、経済國難は当然の結果であって、之を救済する所以の道は實に帰質の一途にある。
 思ふに「明治維新」の精神は實に「王政復古」ではなかったか。日本国家に於ける「維新」は、「復古」を其の本質とする。然し復古とは決して時代の逆行の謂ではない。それは、實に「帰本」の謂であり、「帰質」の謂である。かくて現下の世相を顧みつつ私共は最も真剣に日本国家における史上の文質循環の推移を反省すべき時ではないか。

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百人一首
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見せばやな 雄島のあまの 袖だにも
  濡れにぞ濡れし 色はかはらず 【殷富門院大輔】90

見る所、期する所は、遠く且た大ならざるべからず。

2015-04-29 10:14:08 | ブログ
第2313号 27.04.29(水)
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見る所、期する所は、遠く且(ま)た大ならざるべからず。『近思録』
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 見るところ、すなわち見識、期するところ、すなわち希望や理想は、なるべく遠大でなければならない。(程明道のことば)296
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 【コメント】大変大事な教えだと思います。すなわち出来るか出来ないか、成就するか否か分からないが、やってやってやりまくる、勉強し続けることが肝要だと思います。
 『南洲翁遺訓』と出会った私は、空手道場建設と同時に、とにかく片っ端から読んで筆写してを繰り返してきました。連日、ブログ書きに始まり漢籍等々繙いていますが、これほど楽しいことはございません。
 円心会道場に集う仲間たちは、勤勉な方ばかりで頼もしい限りです。荘内が近ければ、致道館中座敷に坐して、みんなで漢籍を読んでみたいという気持ちでございます。

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『大学味講』(第150回)
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 (六) 菜根譚に「風、疎竹に来る。風過ぎて而して竹、声を留めず、雁、寒潭を度(わた)る。雁去って而して潭(ふち)影を留めず」という一章があるが、これなどは、右の疑問を解くのにねんごろな導きとなるでありましょう。
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 風が吹いて来ても音を発せぬような竹では、生きている竹ではありません。風が吹いて来たらササッという音を出してこそ、生きた疎竹であります。かといって、風が過ぎ去った後でも、まだガサガサ、ザワザワと音を出しているようでは、それは化け物でありましょう。雁と潭(ふち)との関係も同じことです。だから中庸にも
   「喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中といふ。発して皆節に当る、これを和といふ。中は天下の大本なり。
    和は天下の達道なり。中和を致して、天地位し、萬物育す」
といっているではありませんか。喜ぶべき時には心から喜ぶ。怒るべき時には心から怒る。それがあってこそ本当の「和」があるので、「枯木寒厳」のようになってしまったのでは、本当の和は得られぬでありましょう。

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『論語』(第250)
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 朋友死して帰する所なし。曰はく、「我に於いて殯(ひん)せん。」朋友の饋(おくりもの)は車馬と雖も、祭肉に非ざれば拝せず。
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 朋友が死んで、遺骸を引き取るべき親類のない場合は、孔子がこれを引受て、「殯」(ひん・カリモガリ)をしようといって、棺を置かせた。朋友からの贈り物は、朋友の間は財を通じ合うという礼もあるので、車馬なような高価な贈り物でも、朋友のお祭りの供え物であつた肉以外は拝礼しなかった。
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『農士道』(第129回)
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 官、従を盛にし、供を豊かにし、繁文褥節、世態を奔逐して、而も教養を以て迂儒となす。世道為に傷心すべし。」といってゐるが、これ正しく浮文的生活の相であらう。然も世の凡楽は之を以て「文化人」「粋な人」「開けた人」「都人」の文化的生活として誇り、只管に感覚的享楽生活に耽る時、質的生活者は、簡素質樸な生活に甘んじつつ、實は裏に深く強き活力を潜蔵しつつあるのである。史上に一例を取れば、平安末期に於ける京都の公卿と、鎌倉の武士との対象がその適例であろう。泰時が夜半生味噌を嘗めて冷酒を飲みつつ国事を論ぜしが如き、些事ではあるが見逃すことの出来ぬ一事ではあるまいか。
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百人一首
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玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば
 忍ぶることの 弱りもぞする 【式子内親王】89

真人あって、而る後に真知あり。

2015-04-28 15:25:38 | ブログ
第2312号 27.04.28(火)
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真人あって、而る後に真知あり。『荘子』
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 真人があって、はじめて真知が出てくる。「真人」とは、すべてを自然に任せて無為に生活し、成否に得意とならず、また後悔もせず、高所を忘れず、水火に災いされず、利害得失を脱却して道に達した人。「真知」は、このような真人のもつ知恵である。351
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 【コメント】解説を読んで、どういう修養と学問をすればこのような人間になれるものだろうか、と唸っています。
 「教えの國・荘内」の風土を全身に受け学問一筋に努力しなければならないのかなと思いつつ、荘内南洲会の先生方のお導きを賜りながら少しでも前進したいと思考しています。

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『大学味講』(第149回)
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 (五) ところで、ここに一つの大きい問題が出てくるのであります。それは、それでは心を正しくするということは、忿りもせず、恐れもせず、好みもせず、憂いもせず、まるで枯れた木の根っこのようになることか、というのがそれであります。もしもそうだとするならば「正心」ということは、あまりにも味気ないことではないのか、哀しい時でも泣きもせず、笑いもせず、本当に怒るべき時でも怒りもせず、ということが、果して正しい人間の在り方だろうか、という疑問が湧いてくるでありましょう。しかし本当の「正心」とは決してそんなことではありません。
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『論語』(第249)
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 大廟に入って、事毎に問ふ。
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 孔子が参拝し又祭りに携わるとき、これをどう致すのですか、と細々と聞いたのを、大廟に入る時一々物を聞いているではないか、とある人が陰口を言った。
 孔子がそれを伝え聞いて、いうには、「それが禮なのじゃ」と。

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『農士道』(第128回)
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 文質両状態に於ける世相の特徴は以上の表解によって大体良知し得ることと思うので、解説的叙述はこれを省略する。要するに人間に旺盛なる理想精神が失はれて来ると、外的享楽に耽る様になる處から、其処におのづと浮文的世相が現出して来るのである。故に浮文的時相は必ず世紀末的時代に随伴する現象である。呻吟語に「士、鮮衣美食浮談快説して、日を玩び、時を愒(むさぼ)り、而して農工を以て村鄙となす。女、紛を傳け、花をかざし、冶容学態袖手楽遊して、而して勤倹を以て羞辱となす。(辱の前の「羞」にりっしんべんがあるのですが、文字が出てきません。どなたか教えてくださいませんか。)
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百人一首
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難波江の 蘆のかり寝の ひとよゆえ
  みをつくしてや 恋ひわたるべき 【皇嘉門院別当】88

一国は一人を以て興り、一人を以て亡ぶ。

2015-04-27 13:33:08 | ブログ
第2311号 27.4.27(月)
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一国は一人を以て興り、一人を以て亡ぶ。『文章規範』
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 一国は、一人の賢者が存在することによって興隆し、また、一人の賢者を失うことによって、衰亡する。(蘇老泉「管仲論)505
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 【コメント】遠く孔子が生きていた頃の群雄割拠した時代の頃のことでしようから、一人の賢者によって興亡はあったのでしょう。安岡正篤先生の著書を100冊位書棚に整理していますが、安岡先生も〈一人の賢者によって〉と書いてあります。
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 ただ、一国を預かる総理大臣が、金まみれの事をすると、それを真似る人も多く出て来て、衰亡の方へ行くでしょう。

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 『南洲翁遺訓』とご縁を戴いている私はその点、大変有難く思っています。詩吟道の師匠であった竹下一雄先生は、西郷先生、菅臥牛先生、菅原兵治先生方同様、清廉潔白の人生であったと思っています。
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 『臥牛菅実秀』を拝読・筆写しながら、若い頃菅先生が、釣りなどに夢中になっているのを読み、この先どうなるのか、とも思いましたが、長い人生では若干の無鉄砲さもあっていいのではないかと思います。
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 ただ真面目一筋に勉強ばかりしてきた人は、荒くれ人間を真っ当に育て導くことは出気ないと思います。

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『大学味講』(第148回)
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 (4) 「憂患する所あれば則ちその正しきを得ず」と。憂いわずらうことがあると、それに引きずられて、心が正しい状態にあることが出来なくなることは、誰しも経験するところでありましょう。憂患が病的になると神経衰弱となるでありましょうが、杞憂の故事などもそこから出たものでありましょう。
 昔、中国の杞という国に、一人の男があった。その男がある日、天を仰いで見入っていたが、「もしあの天が落ちてきたら、おれはどこに逃げればよいのか。どこにいっても皆天の下なのだから、どこにも逃げようがないではないか」と、ついに食を廃するに至ったというのであります。
 ある医師から、患者に対しては「必ず治る---」という信念をもたせることが第一だ、ということを聞いたことがあるが、それほどでない病でも、不治の病だと思い込んで憂慮すると、治る病も、治らぬようになるといわれますが、こういうことは何事にもあることではないでしょうか。

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 私は天風師の本を60時間位録音し聞いてきたのですが、医師から言われる前に、自分で「俺は病にはかからないのだ」という強い信念を持てと教えています。
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『論語』(第248)
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君、食を賜へば、必ず席を正しくして先ず之を嘗む。君、睲を賜へば、必ず熟して之を薦む。君、生を賜へば必ず之を畜(やしな)ふ。君に侍食するに、君祭れば先づ飯す。疾むに、君之を視れば、東首して朝服を加へ紳を拖(ひ)く。君命じて召せば、駕を俟たずして行く。
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 君が御料理を下さると、必ず席を正しくしてさっそく頂戴する。君が生肉を下さると、必ず煮て先づ祖先の霊に供える。君が生きた動物を下さると、必ず飼って置く。君の御相伴をするとき、君が食前の祭をされる間に、まづ御毒味をする。病気のとき君が見舞いに来られると、東枕に寝て君が南面なさるようにし、禮服を寝具の上にかけ、束帯を其上に引く。家に在るとき君の御召しがあると、馬車の用意の出来るのも待たないで直ぐに歩いて出掛ける。
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『農士道』(第127回)
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    文質両状態の特徴
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文(浮文)的特徴----根本的特徴----理想精神委微沈滞----従って内的感激薄らぎ、其の無感激の生活を補ふべく外的享楽に趨る。
質的特徴----根本的特徴----理想精神旺盛活発----従って向上心強く、内的感激旺にして外的享楽に関心する遑なし。
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文(浮文)的特徴----個人的生活----一、生活が奢侈遊惰になり、唯物的享楽的となる。二、功利に趨り、理智を誇る。
質的特徴----個人的生活----一、生活が簡素剛健なり。二、義理人情を重んず。
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文(浮文)7的特徴----国家的政教----一、法制設備徒に繁鎖となるも、民心は弛緩す。華麗なる殿堂建築、土木工事が盛に誇り行はるるに至る。(経済国維)
 二、末梢的文化の贅積に狂ひ、国体の本質を忘れ、国民精神の昏睡を来す。(思想国維)

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精神的特徴----国家的政教----一、法制施設簡素にして、しかも上下緊張せる進取的気象を有す。
 二、国民的精神勃興し、国民的活動が活発となる。
 
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百人一首
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村雨の 露もまだひぬ まきの葉に
 霧たちのぼる 秋の夕暮 【寂蓮法師】87

君見ずや、管鮑貧時の交わり、此の道今人棄てて土の如し。

2015-04-26 11:13:53 | ブログ
第2310号 27.04.26(日)
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君見ずや、管鮑貧時の交わり、此の道今人棄てて土の如し。『古文真宝』
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 君は、管仲と鮑叔(ほうしゅく)が、貧乏時代の交わりを一生涯保ったということを、知らないだろうか。ところが今日の人々は、あのような交わりの道などは、まるで土くれのように棄て去っている。(杜子美「貧交行」)550
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 【コメント】名誉を与える、財宝・金を与えると言えば、多くの人がそれ欲しさに殺到するでしょうが、〈貧乏時代の交わりを一生涯保つ〉ということは、余程の学問と修行をし達観しないと出来ないと思います。西郷南洲翁なら出来るでしょうが。
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 如何に貧しくても、その精神の気韻の高さ、至誠、高潔等々が人々の範たりうるものであれば、金持ちよりか遥かに素晴らしいと私は思います。私自身、金儲けをする技術を心得ていないから、そちらに与したいのかも知れませんが。
 昨日は動画配信を手掛けた人が数十億の収入が入るということを聞き、学問館で話題になりました。英邁な参加者皆、アブクゼニに魅力を持つべきではない、という統一した見解でした。

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 ブログを書こうと思って立ち上げたら、「便失禁患者500万人」と紹介されています。これの解決方法のひとつ。天風師が推奨するクンバハカをやったら効果があると私は思います。そのためには、天風著『運命を拓く』を御読みになられたらと思います。
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 昨夜の稽古も賑わいました。3月1日、荘内南洲会の皆様が味園道場をご訪問くださった訳ですが、『南洲翁遺訓』序文を拝誦した子どもたち6人に中澤今日子先生が、お葉書を出して激励してくださったとのことを承りました。行き届いたお心に責任者として御礼を申し上げます。
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 とにかく根の浅いコマーシャル宣伝等々に振り回されないことだと私は思います。

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『大学味講』(第147回)
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 (3) 「好楽(こうごう)する所あれば、則ちその正しきを得ず」と。俗諺にも「好けばあばたもえくぼに見える」というのがそれでありましょう。とかく世の流行というものには、こうしたものがあるではないでしょうか。よく「流行とは無批判の肯定を強いるものなり」といわれるが、流行だというと、どんなものでも無批判的に好きにさせてしまうものであります。それはスカートの長短に見られるようなもので、過ぎ去ってみれば、正気の産」沙汰でないようなことも、平気で----いや大張り切りで---やっているものであります。何々主義とか、何々運動とかいわれるものに対しても、こうしたものがあるではないでしょうか。
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『論語』(第247)
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 厩焚けたり。子、朝より退く。曰はく、「人を傷へるか。」と。馬を問わず。
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 孔子の家の厩が焚けた。孔子が朝廷から退出して初めてこれを知って、「負傷した者はなかったか。」と曰って馬のことは問わなかった。
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『農士道』(第126回)
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 猶本論に入って本邦の史的変遷を見るに先立ち、次の予備的考察をして置くこととする。
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     一、造化の本質
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 造化の本質とは要するに、其のものをして其のものたらしむる本質的生命力である。我国に於ける造化の本質は尊王の大義である。このものなかりせば日本は既に日本ならざる国家となる。我が国史に於て尊王の大義を忘るるに至る時は、如何なる文明も文化も、要するに浮文浮華である。
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     二、文質両態度の特徴
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 文質両態度に就いては、前章に於て既に其の本質を説明したけれども、猶本章に於て史的立場より之を見んとするに当たり、特に明らかになし置くを必要とする事項に就き次に表示することとする。
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百人一首
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嘆きとて 月やは物を 思はする
 かこち顔なる わが涙かな 【西行法師】86