味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

『孝経』の紹介。---孝道著わる。

2011-08-31 13:12:25 | ブログ

タイイトル---『孝経』の紹介。---孝道著わる。第958号 23.08.31(水)

 

〈天地人民有りて自(よ)以来、而うして孝道著(あらわる)。上に明王あれば、則ち大化滂流(ほうりゅう)して、六合に充塞す。若(も)し其無ければ、則ち斯の道滅息(めっそく)せん〉

「この世に天地や人民が出現してからこのかた、聖なる先王や聖人が現れて、人として最も大切な道を教えたので、子が父母に善く事える孝道が明らかに示された。上に聖王があって、孝行の手本を示されたから、その広大な徳が自然に人民を感化し、すみずみまで下人民にゆきわてって上下四方、天地間にみちふさがった。もしも、そのような聖王がおられなかったら、このような大切な孝道は滅んでなくなっていたかも知れない。」

〈夫子、先王の教えを魯の洙泗(しゅし)に敷く。門徒三千[人]にして、達する者七十有二(いうに)なり。〉

「孔子は先王の教えをせめて孔子の膝下である魯の洙水や泗水のあたりに孝道の気風を推し広めることに努力していた。孔子の学風を慕い、孔門に在って孔子の教えを受けた門人の数は、三千人もの多きに上っており、その中に在って一芸に秀でた高弟は、七十有二人を算するに至る。」

〈曾子喟然として孝の大為(た)るを知るなり。遂に集めて之を録し、名づけて孝經と曰う。五經と竝びて世に行はる。〉

「曾子は感慨深げに始めて孝がこれほどまでに偉大であるということの実感を知ることができたという喜びを体得している。この貴重な体験を後世に伝えるべきであるとして、孔子の得難い言を集めて記録して、その書を『孝経』と名付けた。この書(孝経)が五経(易・書・詩・礼・春秋)と並んで世に貴ばれ、世に行われるに至ったのである。」

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 紹介するためこうして書きながら、書の偉大さを痛感しています。独学で訳は分からないまま、筆写し、録音し、聞いてきました。その奥義にふれ喜びに浸っています。

 昨日は民主党・野田氏が総理大臣に選出されました。そしてまた芸能会の島田伸介引退でマスコミは大賑わいです。多くの人々が、こういった漢籍を繙きその世界を逍遥すれば、多くの確執は解消され、世の指弾を受けるのも減少するのにと思えてなりません。

 漢籍はただ読み継がれているのではない、素晴らしいから永遠の教科書として読み継がれてきたのだと思います、安岡先生も、『孝経』は偉大だ、素晴らしいと絶賛しています。折角、この世に生を得たのですから、為し得た業績が、後世の人々から最低であったと低い評価をされるとしたら、これほど残念なことはないと思います。歴代内閣総理大臣で最低だったといわれるのならしない方がましというものでしょう。

  より意義ある人生を歩きたいものです。


『孝経』とは何ぞや。

2011-08-28 18:01:09 | ブログ

タイトル---『孝経』とは何ぞや。第955号 23.08.27(日)

 孝経についてはブログを書き始めた平成21年8月10日、29日と2年前書いています。これからも紹介をして参りたいと思います。人間一生、生を閉じるまで何かするわけですが、その間、精神的充足感を味わいたいと思っているでしょう。そこで、是非、読書のお薦めをしたいと思います。それも、およろしかったら、漢籍か教養書をお読みになるようお薦めしたいと思います。

 人間お迎えがくれば、例外なく旅立つことになります。その前に精神的充足・満足感を味わえば人生を全うしたと思えるのではないでしょうか。私の詩吟道の師匠であった竹下一雄氏とは古典を交え談論風発したものです。師匠は、人格高潔にして頭脳明晰な方でした。今の私には師匠のある部分が投影しているような気がするのです。パチンコなどに時間を潰すり、より意義がある筈です。

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〈孝経とは何ぞや。孝とは、人の高行なり。經は常(じょう)なり。〉(新釈漢文大系・明治書院『孝経』参照)

「『孝経』という書物は何について書いた本かというと、子として父母に事えるのに、善の心をもって事え、同時に祖先を敬い、人としての最も高尚な行いをいう。それが孝である。「経」とは、いつまでも変わることのない道理をいう。「経」は聖なる先王や聖人によって発明せられた秩序や礼法の基本をいう。」(前掲書) P49.50

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 日本国では過去、漢文教育を学校教育から除外したことがあります。つい最近から漢文の良さがより認識され、取り入れるようになったとのことであります。30年以上、独学で漢籍を読み続けてきましたが、人間の精神文化に寄与するという意味では、これほどいいものはないと確信しています。是非、繙くことをお薦め致します。

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 島田伸介氏の引退問題に際して、賛否両論華やかであるようですが、彼がそれほど注目された部分があったということでしょう。賞賛する人もいれば批判する人もいるのは世の常であります。だから、華やかな舞台で脚光を浴びるような仕事をする人は、それ以外の人よりこういった書籍を読んでほしいものです。そして、叶うものなら人物を修めて欲しいのです。世の中はメディアに映る人だけの世界ではないのです。注目されるということはそれなりの自覚もいるということでしょう。件のことについて知人の方に聞いた感想では批判的な意見が多かったようです。


心照古教録(十二)の----2.

2011-08-27 14:08:31 | ブログ

タイトル---心照古教録(十二)の-----2. 第954号 23.08.27(土)

 昨日は枕崎へ墓参りに行って参りました。往路は川辺経由、復路は知覧経由、そしてスカイラインを一年ぶりに走りました。スカイラインを走っていると大分のヤマナミハイウェイを走っている錯覚にとらわれました。とても素敵なドライブでした。第951号に続きます。

 

 安岡正篤先生は、『孝経入門』の序に次のように述べています。

 今春父を亡うて、日々墓参りの野路、久しぶりにしみじみ深省の機を得、少年の頃読まされた古典などをなつかしく披いて見た。ある夜ふと孝経をとり出して心静かに読みゆく裡、非常に感動させられることが多かった。

 我々年輩の若者は大抵孝経なんて何の面白味もない形式張った教訓書の様に頭からきめこんでしまってまるで読もうともしない。いや、それよりも孝ということをもはや真面目に考えない者が頗る多い。はずかしながら私も亦親のある間、殊に学生時代などしみじみ孝の理を考え、孝経を読んだりしなかった。ところが世に出て、段々切実に人世を体験し始めて、始めてぽつりぽつり考も深まり出した。(中略)孝経も今日読んでみれば、実に味のある本だ。そして実に大きな本だと思う。

 善い花や実を得ようと思えば、根本を培養せねばならぬ様に、造化の発展は同時に本原に返ることでなければならぬ。本に返ることを知らぬ発展は散漫である。破滅である。手近な我々の生活を考えてみると、三本がある。天地である。父母である。良心である。我々は始終此れに返ってこそ能く健やかに生長することが出来る。父母は我々に取って直接の造化である。天地である。我々は本原に返るところに感恩報謝の心が湧く。詳しく言えば、感恩はその返る心であり、報謝は因って伸びる心である。

 父母に対する感恩報謝、即ち孝の裡に偉大なる陰陽造花の全体が渾然として約取されて居る。人格の完成から国家の政治に至る一切をこの孝から説與した聖人の教はいかにも親切で偉大であると思う。

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 ご紹介しておりますように私も漢籍を紐解く中から、父母への孝の思いがいつも頭をよぎります。72年間にいろいろなことがありました。父の借金返済のために、寝る間もないくらい働きました。そして空手道を稽古し、日本舞踊にも首を突っ込み、その他書きませんが数多ありました。そして現在、終日、学問に没頭しています。

 振り返って、何が大事かということです。青少年に学問の尊さを教え、肌身にしみつくようにさせねばならないと空手道を通じて奮励努力しています。

 昨夜、大学卒業を予定している青年たちの就職内定へ至るところがテレビ報道されました。能力がある人が、良い会社へ入ることは当然だとは思います。が、どこかしら、判然・釈然としない現代若者たちの性を見せつけられました。思うに、そこには純粋さがないのです。『新・堕落論』が言う、我欲・私欲が先行されているような感じを受けました。そこには高給であるかなどなどの、表面的な選択しか感じられませんでした。

 この子たちは大事なことをしらないな、と感じました。このくだりは別項で書きたいと思います。


心照古教録(十二)

2011-08-24 11:04:08 | ブログ

タイトル---心照古教録(十二)。第951号 2308.24(水)

 『郷學』 平成23年 春 第75号に掲載された、安岡正篤先生 心照古教録(十二)をブログでご紹介致します。発行は(財)郷学研修所・安岡正篤記念館ですので、入会希望の方は、お申込みされますようお薦め致します。私は長年購読していましたが、ひとまずお休みさせて戴いています。

 安岡先生の教宣については、個人としては私が全国で一番だと自負しています。安岡先生関係の著書等を300冊程度関係者に贈呈したきたのですから。それは、国家の将来と、個人が人生を謳歌するための処方箋が随所に導かれており、これほど素晴らしい教えはないと確信しているからです。

子曰く、夫れ孝は徳の本なり。教えの由って生ずる所なり。---身體髪膚これを父母に受く。敢て毀傷せざるは、孝の始めなり。身を立て道を行い、名を後世に掲げ、以て父母を顕すは、孝の終りなり。(孝経 開宗明義章)

 (大意) 孔子が言われた。孝(行)こそは、あらゆる道徳の根本となるものであり、教育の根源となるものである。自分の身体は、毛髪・皮膚に至るまで、すべて父母からさずかったものである。その大切な身体を、わけもなく、痛め傷つけないよう心がけ務めるのが、まず孝行の基本である。 

 人として立派に成長し、正しい人の道を実践して、それによって父母の名を世間に広く顕彰するまでに到れば、孝行をなし遂げたことになる。

 

 『小学校唱歌集』に作詞・作曲未詳の「仰げば尊し」が収録されたのは、明治十七年のことですから、127年前のことです。以来、卒業式の歌として歌い続けられ、私たちも小学生の頃は、一所懸命に歌っていたものです。

 後に孝経を読むようになって、「身を立て名を揚げ」という歌詞が、割愛された孝経の言文だと気づきました。歌詞だから割愛されるのは仕方ないとしても、「道を行い」や「後世に」は肝心な個所です。これが割愛されたために、この歌詞は、「立身出世」を強調したものとされていました。

 近頃、教師自身が「わか師の恩」を教えるのはおかしいということや、「身を立て名を揚げ」はいかがなものかということもあって、卒業式では「巣立ちの歌」にとってかわられたようです。

 この歌詞の出典となった孝経では、人類の徳目の第一に孝を挙げ、人格陶冶の根源に孝を位置づけていることは、右掲の言葉で明白です。

 孝経や論語の「素読」がされた時代には、「身を立て名を揚げ」は、さほど誤解されませんでした。その素読がいかに大切であるかを思うと、現今流行している「読み聞かせ」等、時間の浪費に過ぎないといえます。

---次回に続きます。


小学6年女児の豪快な突き。

2011-08-23 11:38:31 | ブログ

タイトル---小学6年女児の豪快な突き。第950号 23.08.23(火)

 先の土曜日は鹿児島市内で花火大会があり、見学に行ったのでしょうか、子供さんの出席が少なかったようです。その中で宇都師範のご令嬢歩美さん、小6年の突きに吃驚しました。4名の各師範の腹部を目指して、交替交替刻み突きをさせるのです。腹部を叩かせたら、それはそれは凄く重い突きでした。私に強く感じるのだから、小学6年男子がその突きを受けたら内臓破裂を起こすだろうと思いました。子供たちは、瞬時に腹筋をしめることが出来ないからです。危険なこともあるので、人に突きをしてはならないと、いつも言い聞かせています。

 その女児は、どちらかというと、体になじみにくい感じがあるのでした。ところが当日の突きのさまは最高でした。あ、これを修行と言うのだ、と思った次第です。この女児のお爺さんが経営する会社は、見事な繁栄を誇っています。私は、この女児の内面に潜んでいる情熱・根性が、お爺さんを陵駕する存在になると確信しています。お婆様のDNAを受け継いでいるからです。

 稽古を始めてすぐうまくなる人もいれば、なかなかうまくならない人もいます。学校の成績だって、できる子もいればなかなか点数が上がらない子もいる筈です。

 事業にしても、すぐ業績を上げる会社もあれば、四苦八苦する会社もある筈です。そこで学校の先生方も、目の前だけ見ないで、遠い将来も合わせ考える度量を持ってほしいものです。そういった意味では安岡先生のご著書を繙くこともあっていいのではないかと思います。そこからまた、素晴らしい教育の在り方が展望できると思うからです。

 私の道場に長年通った原田君は、入門したての頃は気の入らない人でした。ところが、十年過ぎてからの人間は見違える程の成長を見せてくれました。大学入試の関係で当分休ませてほしいと母親様と道場を訪問してくれました。空手道の技術と物の考え方が抜群に成長したと思います。

 学校の先生方も、人様の子供をお預かりしているのだ、という責任感と謙虚さを持って欲しいものだと思います。国旗、国歌問題にしても然りです。日本の国に生まれた子供たちの純粋な感情を逆なでするような、教育委員会から指摘するような行動は慎むべきだと私は思います。やがて子供たちは、その成長に比例して、自分で考えるのです。人様の子供に対して、教諭という権力者の立場で封じるということは好ましいことではないと思います。

 勉強もしない、成績もよくない、ドンジリの私は、人との出会い、文献との出会いのお蔭で、自分が驚くような日々を送っています。毎日、漢籍を読む、教養書を読む、安岡先生の本を読む、へたくそながらブログを書く、という日々を過ごしています。お蔭で大変元気です。

 とにかく、勤勉にして、謙虚にして、節義があり、至誠の情があり、継続心があり、人と物を大切にする優しい人間でありたいものです。そのために教育、社会教育も含めてあるのです。

 子供はすぐ成長します。子供が成長してから、あの先生の人格はよくなかったといわれることがあってはならないのです。学校の先生だけが偉いのではないのです。おる中学校の校長先生は、授業が始まってから、各教室の入り口にある下駄箱付近に不揃いになっている靴を黙って揃えて回ったとお聞きしたことがあります。そういう先生であってほしいものだと思います。人の行為は、人が、天が必ず観ているのです。

 漢籍を読みましょう。『南洲翁遺訓』を読みましょう。