タイトル----新渡戸稲造著『武士道』の紹介----8 第274号 21.11.30(月)
〈我が国礼法によって定められている習慣の中「おそろしくおかしい」例を、も一つ挙げよう。日本についての多くの皮相なる著者は、これをば日本国民に一般的なる何でも倒(さか)さまの習性に帰して、簡単に片付けている。この慣習に接したる外国人は誰でも、その場合適当なる返答をなすに当惑を感ずることを告白するであろう。他でもない。アメリカで贈物をする時には、受取る人に向ってその品物を賞(ほ)めそやすが、日本ではこれを軽んじ賎しめる。アメリカ人の底意はこうである、「これは善い贈物です。善いものでなければ、私はあえてこれを君に贈りません。善き物以外の物を君に贈るのは侮辱ですから」。
これに反し日本人の論理はこうである、「君は善い方です、いかなる善き物も君には適(ふさ)わしくありません。君の足下にいかなる物を置いても、私の好意の記として以外にはそれを受取りたまわないでしょう。この品物をば物自身の価値の故にでなく、記として受取ってください。最善の贈物でも、それをば君に適わしきほどに善いと呼ぶことは、君の価値に対する侮辱であります」。
この二つの思想を対照すれば、窮極の思想は同一である。どちらも「おそろしくおかしい」ものではない。アメリカ人は贈物の物質について言い、日本人は贈物を差しだす精神について言うのである。
我が国民の礼儀の感覚が挙止のあらゆる枝葉末節にまで現わるるが故に、その中最も軽微なるものを取りて典型なりとし、これに基づきて原理そのものに批判を下すは、顚倒せる推理の法である。食事と食事の礼法を守ることと、いずれが重きか。中国の賢人〔孟子〕答えて曰く、「食の重き者と礼の軽き者とを取りてこれを比せば、なんぞ翅(ただ)に食の重きのみならんや」と。(礼は食色より重いと言われるが、時によっては食色が礼より重いこともあるのである。)
人或いは言う、「真実を語ることと礼儀を守ることと、いずれがより重要であるか」との問いに対し、日本人はアメリカ人と正反対の答えをなすであろうと。P64
私見----「日本ではこれを軽んじ賤しめる」、「いかなる善き物も君には適しくありません」とは訳者の解釈論であり、「軽んじ賤しめ」て言っているのではなく、「君に適しくありません」と言うのも、社交上の礼儀として言うのであって、相手に礼を失するため態々言及しているのではないと思うのである。この後半にある「精神について言う」のであるが、あくまでも、謙虚なる姿勢と解釈した方がいいと思う次第である。
それは大上段に言うのではなく、「三歩下がって師の影踏まず」という言葉と意味するところは同じ部分があり、あくまでも控え目という気持ちの現れではないかと思うのであるが、如何であろうか。そういう謙虚なる姿勢こそが、日々の営みを円滑ならしめていると思ってならないのである。