味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

新渡戸稲造著『武士道』の紹介---8

2009-11-30 19:51:48 | ブログ

タイトル----新渡戸稲造著『武士道』の紹介----8 第274号 21.11.30(月)

〈我が国礼法によって定められている習慣の中「おそろしくおかしい」例を、も一つ挙げよう。日本についての多くの皮相なる著者は、これをば日本国民に一般的なる何でも倒(さか)さまの習性に帰して、簡単に片付けている。この慣習に接したる外国人は誰でも、その場合適当なる返答をなすに当惑を感ずることを告白するであろう。他でもない。アメリカで贈物をする時には、受取る人に向ってその品物を賞(ほ)めそやすが、日本ではこれを軽んじ賎しめる。アメリカ人の底意はこうである、「これは善い贈物です。善いものでなければ、私はあえてこれを君に贈りません。善き物以外の物を君に贈るのは侮辱ですから」。

 これに反し日本人の論理はこうである、「君は善い方です、いかなる善き物も君には適(ふさ)わしくありません。君の足下にいかなる物を置いても、私の好意の記として以外にはそれを受取りたまわないでしょう。この品物をば物自身の価値の故にでなく、記として受取ってください。最善の贈物でも、それをば君に適わしきほどに善いと呼ぶことは、君の価値に対する侮辱であります」。

 この二つの思想を対照すれば、窮極の思想は同一である。どちらも「おそろしくおかしい」ものではない。アメリカ人は贈物の物質について言い、日本人は贈物を差しだす精神について言うのである。

 我が国民の礼儀の感覚が挙止のあらゆる枝葉末節にまで現わるるが故に、その中最も軽微なるものを取りて典型なりとし、これに基づきて原理そのものに批判を下すは、顚倒せる推理の法である。食事と食事の礼法を守ることと、いずれが重きか。中国の賢人〔孟子〕答えて曰く、「食の重き者と礼の軽き者とを取りてこれを比せば、なんぞ翅(ただ)に食の重きのみならんや」と。(礼は食色より重いと言われるが、時によっては食色が礼より重いこともあるのである。)

 人或いは言う、「真実を語ることと礼儀を守ることと、いずれがより重要であるか」との問いに対し、日本人はアメリカ人と正反対の答えをなすであろうと。P64

 私見----「日本ではこれを軽んじ賤しめる」、「いかなる善き物も君には適しくありません」とは訳者の解釈論であり、「軽んじ賤しめ」て言っているのではなく、「君に適しくありません」と言うのも、社交上の礼儀として言うのであって、相手に礼を失するため態々言及しているのではないと思うのである。この後半にある「精神について言う」のであるが、あくまでも、謙虚なる姿勢と解釈した方がいいと思う次第である。

 それは大上段に言うのではなく、「三歩下がって師の影踏まず」という言葉と意味するところは同じ部分があり、あくまでも控え目という気持ちの現れではないかと思うのであるが、如何であろうか。そういう謙虚なる姿勢こそが、日々の営みを円滑ならしめていると思ってならないのである。


真実を貴び、質朴純粋を世に広めよう。『伝習録』

2009-11-28 13:59:17 | ブログ

タイトル----真実を貴び、質朴純粋を世に広めよう。『伝習録』 第271号 21.11.28(土)

 時代の急激な変転により、世の中めまぐるしく変化している。人力車から車へ、飛行機へと。そしてまた知識を深めるための書籍が、映像を送るテレビへと著しい代わりようである。

 ここで紹介するくだりは、「文」を「映像・テレビ」と置き換えたら、今日の事象がはっきりとわかるような気がする。解説もそういう位置づけとしてみたい。つい先日、識者の方々が、テレビのワイドショ-の下劣さについて、各放送局へ一言申し入れたということを耳にした。

〈天下の治(おさ)まらざる所以(ゆえん)は、只だ、文盛んにして實(じつ)衰え、人己の見(けん)出(いだ)して、新奇(しんき)を相高(あいたか)ぶり、---(新釈漢文大系・近藤康信著『伝習録』明治書院)

 通訳「世の中が乱れている原因は、要するにテレビ等の内容がおかしく、人々の範とすべき誠実な内容が衰え、人びとは自分で想像した新しくてめずらしそうなものを誇り、----(前掲書)参照。

〈以て俗を眩(くら)まして譽(ほまれ)を取り、徒(いたづ)らに以て天下の聰明を乱し、天下の耳目を塗り、---

 通訳「大衆の目をくらませ自分の名を売り、徒らに世の中の視聴率のみに走り、衆人の感覚として受け取る耳や目をごまかし、----

〈天下をして蘼然(びぜん)として、争い務めて文詞(ぶんし)を修飾し、以て世に知られんことを求めて、----〉

 通訳「世の人々の関心をそこに向け、競って表面的に偽善的な美しさを演出し、それによって世の人々に知れわたることのみを求めるだけで、----

〈復(ま)た本(もと)を敦(あつ)くし實を尚(たっと)び、朴に返り淳に還るの行(こう)有るを知らざらしむるに因る。是れ皆著述する者の以て之れを啓く有るなり、と。〉(新釈漢文大系・近藤康信著『伝習録』明治書院) 

 通訳「根元の姿に力を注いだり、真実を貴んだりして、天下を誠実で純粋にかえすべき仕事のあることを知らせないようにしたことにある。これらは皆、担当する演出が悪例を開いたのである。」(前掲書)参照。

 少しく手厳しい解説となった感が否めないが、ここ20年間に急速に、その質が低下してきたように私には思えてならないのである。私は、20年間にわたり映像文化を録画し、勉強の材料にしてきたのである。内容が多様に存在するということは、一面においてよいことではある。でも、理解力のない青少年に与える影響は大なるものがあると思う。

 テレビを見て、ただ、おもしろ可笑しく笑っていればいいというものでもあるまい。そこには、万物の霊長としての品格もなければなるまい。食をして、交尾して、遊んで、笑ってだけでは今日まで先人が育んで来た品位というものが喪失していくばかりであるような気がするのである。

 どんな几帳面で、厳格なタイプであっても、リラックスする時は必要であるとは思うが、各企業の経済優先ばかりでは、世の中、おかしくなって行くばかりだと思うのは、老人のいびつな感覚なのであろうか。こういう私も、ユ-モアとジョ-クが大好きではある。が、それは子供たちの心をリラックスさせて、まともな人間へと誘い込む過程でのヒトコマなのである。ユ-モアで心を和ませ、文武両道の指導を実践しているのである。そういうやり方が効果大であるからである。

 先般、テレビのアイドルだったという御仁が、覚醒剤で逮捕された事件があったが、これらも映像文化に翻弄された一例ではないのだろうか。

 少しでもいいと思う。古典を読みましょう。今まで知らなかった素晴らしい世界があることを書籍は紹介しています。


自己を修養して、青少年に学の尊さを教える。『伝習録』

2009-11-26 15:17:05 | ブログ

タイトル----自己を修養して、青少年に学の尊さを教える。『伝習録』 第268号 21.11.26(木)

〈君子は其の賢を賢として、其の親(しん)を親しみ、小人は其の楽しみを楽しんで、其の利を利とす。〉(新釈漢文大系・近藤康信著『伝習録』明治書院)

 通訳「四書の一つである大学に、次のようにある。〔君子は学びを深める賢人を尊敬し、同様に一族が親しみ敬愛する姿を愛するが、小人は自己の享楽を喜び、かつ安逸を貪(むさぼ)り、自己の利益のみを求めるものだ。〕」(前掲書)参照。

〈赤子を保(やすん)ずるが如し、民の好む所は之を好み、民の悪む所は之を悪む。此れを之れ民の父母と謂う、と云うが如きの類(るい)は、皆是れ親(した)しむの字の意なり。之れを親しむは即ち之れを仁するなり。〉(前掲書)参照。

 通訳「〔名君は赤ん坊を可愛がるように、人民を大切にして、人民の好むことは共に好み、人民の悪(にく)むことは悪むのである。これを人民の父母という。〕などとあるのは、すべて民を親しむという意味である。これを親しむとは仁愛することを言うのである。」(前掲書)参照。

〈又孔子の、己を修めて以て百姓(ひゃくせい)を安んず、と言うが如きも、己を修むとは、便(すなわ)ち是れ明徳を明らかにするなり。〉(前掲書)参照。

 通訳「また孔子が、〔自己を修養してやがて人民を安楽にする。〕と言った〔自己を修養する。〕とは明徳を明らかにすることであり、〔人民を安楽にする。〕とは民を親しむことである。民を親しむとは、人々を教化することと人々の生活を健康的なことにする、というふうに考えた方が適切であると思う。」(前掲書)参照。

 学力もない私が、恥を承知で書いているが、それでもよしとしょう。それは、学んだ人が、その学びの喜びと意義を、人々に伝える義務があると思うからである。特に青少年には、今こそ伝えなければならないと思えてならないのである。それはIT技術文明の急速な普及により、過去のよしとしたものが、喪失してきていると思えてならないからである。

 定時制高校に進学した私は、高校三年の11月に会社に採用になった。そこで見たものは、仕事と大人の遊びの世界が同居している部分がかなりあった。お世辞にも、世の人々に誇れるような学問的なものはひとかけらもなかった。それらは労働組合のトップにいる人間の、品性の欠如から生じる未成熟とも云える姿であった。

 たまたま空手道を青少年に教えたいという一念で、空手道場を建設したことが、私の人生を大きく展開してくれた。それは『南洲翁遺訓』との出会いであった。その後多くの古典を繙いてきた。それが生きる源泉となったのである。高度な事は分からないが、コツコツ続けて行くとそれなりの成果が出て来るものだというを、未熟ながら理解出来るようになったのである。

 社会で、会社で、若い青年達を、後輩を指導する立場の人にお願いしたいのである。先輩は、仕事にしても、社会的にもそれなりのことを肌で学び修得している筈なのである。修得した知識・技術・社会性ある人間のあり方を、後輩に指導して戴きたいと思うのである。いわゆる生きた学問である。仕事をする社員が専門書を学ぶのは当然である。だが、それらに記されていない社会人としての生き方の、お手本を示して欲しいと念願するのである。

 〔----赤ん坊を可愛がるように、人民を大切にして---〕とあるように、中堅の位置にいる先輩が後輩を指導し、お手本を示してくれれば、後輩も意義ある社会生活を営むことが出来ると思う。そのことも「民を親しむ」ということに繋がると思うし、古典が教える意義がそこにあると思うのである。

 荘内の賢士が、命にかえて『南洲翁遺訓』を刊行し、今日も尚人々に配布しているのも実は、「民を親し」み、世の為人々のため実践していると理解したいのである。


学びて、真心と思いやりの道を行おう。『孟子』

2009-11-21 13:58:10 | インポート

タイトル----学びて、真心と思いやりの道を行おう。『孟子』 第261号 21.11.21(土)

〈万物皆我に備わる。身に反りて誠あらば、楽(たのしみ)、焉(これ)大なるは莫(な)し。恕を強(勉・つと)めて行う、仁を求むること焉より近きは莫し、と。〉(新釈漢文大系・内野熊一郎著『孟子』明治書院)参照。

 通訳「天地間の理法は、生まれながらに自分の本性の中に備わっている。だから、わが身を反省してみて、偽りもなく真心に欠けるところがないような境地になれば、人生これより大きな楽しみはない。また、そこまで到達していない人でも、大いに努力して思いやり(忠恕)の真心を他人に及ぼしてゆけば、やがて私心は消え公平になり、道理も弁え、仁の徳は完成されて行くものである。」(前掲書)参照。

 この章を紹介するにあたって、私ごときがと、至らぬ身を叱咤しながら書いている。思いやり(忠恕)という言葉と同時に脳裏に浮かぶのが、住友生命保険会社・新井正明元名誉会長のお顔である。

 新井元名誉会長のことは、拙著『礼節のすすめ』でも紹介した。存じ上げたのは、『古郷、心を照らす』を拝読した感想文をお送りしたのがきっかけであった。拙著で紹介している部分から引いてみよう。

〈私が、新井正明・元名誉会長へ手紙を出したのは、平成六年八月十六日でした。永年、購読していた月刊誌『致知』で紹介された新井元名誉会長が執筆された『古教、心を照らす』を購入し、拝読した後、感想文を送付したのがきっかけでした。

 それまで新井元名誉会長のことは『致知』で時折紹介されていたので、若干のことは承知していたが、著書を拝見し、その人物に魅了されたのでした。新井元名誉会長は世にノモンハン事件として知られる日本軍とソ連軍との衝突で、砲弾破片を全身に受け、右足を切断しました。事件の勃発は昭和十四年八月十一日のことでした。

 生命保険会社と言えば、お客さん獲得のため、見ず知らずの家を一軒一軒訪ね、業界用語で「飛び込み」という保険セ-ルスをしなければならない商売です。新井元名誉会長は不自由な片足にも拘わらず、同僚の自転車の荷台に乗り、飛び込みをしたとのこと。役職についてからも飛び込みを続けたという事を知り、職務に忠実な人間の心意気に感動の念を禁じ得ませんでした。そして『孟子』を年に五回読み通したという事を知った時も、蒙を啓かれた思いでした。〉(拙著『礼節のすすめ』)

 その後お会いして一流人の素晴らしさに心を打たれたのであった。伺うお話の中で、「忠恕と勇気」、「倦むことなかれ」という言葉を何回かお聞きしたのであった。

 稚拙な通訳で書いたように「やがて私心は消え公平になり、道理も弁え、仁の徳は完成されて行」ったのが新井元名誉会長の如きお方なのであろうと、お導き戴いた昔日が彷彿としてくるのである。

 人は、どいう書物と出会うか、どういう人物と出会うかが大変大事であるとは安岡正篤先生も著書に書いている。学びたいという意思があるならば、誰憚ることがあろう、勇気を持って前進することだろう、と思うのである。だがそこには、人の道としての「礼と節」の謙虚さがなければならないと思う次第である。


『成功の実現』のエキスの紹介---7

2009-11-16 17:19:18 | ブログ

タイトル----『成功の実現』のエキスの紹介----7 第255号 21.11.16(月)

 私が中村天風師を学んだのが平成5年頃でした。仲間の岩坪師範から『成功の実現』『盛大な人生』を贈呈して戴き、読んでからテ-プに録音していました。それから15年位、読まないし、テ-プを聴くということもしませんでした。約15年間の空白を置いて、読み出したのです。あ、やっぱり天風師はいい、と確信するようになりました。天風師がいたら、怒られるかも知れませんが。それは健康維持について、「その場で、ただで(無量で)、短時間に」出来るからです。そのお陰かどうか分からないが、現在の処、元気そのものであります。

 そして天風師が良いところは、庄内精神と同じであると思う部分があるからです。彼は西郷南洲翁と同じで清貧をヨシとしたところがあったようです。特に医者であるお兄さんが、10年間位の間で大きなビルを建設したとのこと。ところが、天風師に言わせると良くない方法で儲けたために48歳で亡くなったということを話しています。「天罰てきめん」という表現で書いているのです。ですから、気に入った方は書店で書籍を購入し、学んで欲しいと思います。

 天風師は、流石に頭山立雲先生の弟子なのだなぁと思っています。私は、その教えの中で、自分に合った実践方法で学ぶことにしているし、門下生にもそのように話しているのです。

 『成功の実現』 207頁~

 祈るとか頼むと言うのは、安心した状態で生きていない証拠だ。宗教を信じる人は、この悩みを御力をもって救いたまえと言うが、神を冒涜していることにならないか。宇宙にたった一つしかない真理を自分だけに悪用しよう、利用しようというのが、信仰だっていうのは大変な違いだ。

 心が積極的でないと感応性能が弱くなってしまう。人間の心が積極的になると、肉体から心が煩わされなくなる。肉体のいろいろの変化に心が引きづられない。

 文明の生理科学でいくと、心は脳髄にある。正しい自己意識を自分から失わないで勇気凛々として生きることが大事である。そうすると如何なる場合があっても、めめしい恐怖なんか出てこない。

 気が働かなければ、この生命というものは、生きていかれない。気が抜けたら何も言わなくなる。気が取締役であり、総裁であり、会長である。そして実力を持っている。

 頁291のところを引いて紹介します。

 私の小さいときからの友達に内田信也(元鉄道大臣)という男がいて、この男が大正末期の船成金の勃興時代に八千万円から儲けたんですよ。その当時の八千万円っていったら、今の何兆でしょうね。それで彼、満足しているかと思ったら、満足してないんですよ。自分の目的はどうしても、二億儲けたいのだから、今の八千万円を二億から差し引いてみたら、一億二千万円足らないって言うんだ。私はこの男をみて、うす馬鹿だなと思ったよ。

 そらもう、世界的な金持ちになってるのに、それを感謝しないで、まだ一億二千万円足らない、一億二千万円足らない-----と。だから、彼はそれを儲けた場合に、儲けた喜びは感じなかったでしょう。そして何でも、二年ばかりたってまたパニックで、今度はガラガラ-ッとがた落ちになくならしまいやがって、反対に借金が一億五千万円からできちゃった。(『成功の実現』頁292)----そういう点、考えてごらんなさい。とにかく心が人生のことがらに使われちまうとそうなるんだ。

 一人の哲人が人生に処する術を解明した教えであるが、人それぞれの捉えかたは異なると思いますが、参考になる部分があると思います。

 こうして見ると、『日本主義』に描かれている庄内精神・主義ほど、強く、美しく、燦然と輝いているものはないと言えるでしょう。私は能力はありませんが、『南洲翁遺訓』を学び、かつ青少年にそれを教えている人間として、その道に違背しないということだけは、言えると思います。各師範もです。