味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

『中村天風哲学と南洲翁遺訓』

2009-08-31 11:23:11 | 南洲翁遺訓

タイトル----『中村天風哲学と南洲翁遺訓』--1   第124号 21.08.31(月)

 はじめに

 中村天風(中村天風または天風師と書く)と西郷隆盛(西郷隆盛または南洲翁と書く)、この英雄・哲人の二人の内、どちらが、世の人々に知られているであろうか。

 歴史的な人物伝等作家諸氏が書いたのを見聞すれば、西郷隆盛が圧倒的に多いと言う。それは西郷隆盛が活躍した時代が古いということもあり、さらに、日本の国が黎明期を迎えた明治の一時期、それぞれの勢力が力学的衝突を繰り返した、いわゆる群雄割拠した時代であったということも、一因であろうと思う。

 西郷隆盛は我々凡人が、およそ想像も出来ない程の筆舌に尽くし難い、艱難辛苦を経験し、人生を踏破したといってもいいであろう。筆者は、三十年の長きにわたり、西郷隆盛の文献を読み漁り、かつ南洲翁の遺訓とされる『南洲翁遺訓』を常時携行すると共に、独特の勉強法で学んで来た。

 西郷隆盛の人物像を学びはじめてから経過すること凡そ十年、ある月刊誌に中村天風の一代記を紹介する書籍のことが掲載されていた。それを購入し、読んで行く内、こんな人が世の中に本当にいるのだろうかと強い衝撃を受けると同時に、関心を持ち書籍で学んで来た。中村天風も波乱万丈の数奇な運命に翻弄され、身体を酷使した時期があった。そのような無理をしたため、当時では難病とされた粟粒結核を患い、その病を治すため名医を訪ねアメリカはじめ外国をさまよい歩いた。だが、名医と言われる方々と面会したにも関わらず、適切なアドバイスも貰えず、病が治癒しないため絶望感を抱き日本へ帰国する途中、インドの聖者・カリアッパ師との運命的な出会いをした。その後、ヒマラヤの山地で聖者カリアッパ師からヨガ哲学を学び、宇宙の哲理を学んで行くうち絶望感に打ちひしがれた病気も快復していった。天風師は、会得したヨガ哲学を基調とした人生の哲学的教えを、今度は天風師自らが不幸な人々を救うという、偉大な事業へと昇華させて行くのである。

 人間の一生には人それぞれ幸不幸ある訳だが、西郷隆盛と中村天風二人の人生体験は、普通の人々の難儀苦労とは比較にならない程の艱難辛苦と言っていいだろう。

 この書で紹介する二人の英雄・哲人に共通する思想と行動様式は、天理を会得し、過酷な人生経験から学び得た、人世(ひとよ)に生きる人間として、何が大事で、何を修得し、それをどう人生に活かして行かねばならないかを、懇切丁寧に教え諭し、人々に精神的肉体的に安らぎを与えてくれたという点で極めて酷似していることである。

 平成二十一年の今日、新聞テレビ報道によれば、一部政治家が、官僚が、企業の経営者が、良識をかなぐり捨て、栄華を貪るという非常識ともとれるような、人々に対する背信行為が日々紹介されている。事件性としては終了した感があるが、公益財団法人「日本漢字能力検定協会」の「公益法人」の範疇を逸脱していた当事者の運営方法にも、多大な疑義が発見され、理事長親子が退任を余儀なくされたのも象徴的な事件であった。その時、その事象について、漢字一文字で表すとすればどういう文字になりますか、という記者の質問に、理事長はすぐ思いつかないと首を傾げた。が、筆者は、「濁」という文字を贈呈したいと思ったのである。因みに、「濁るとは、物事が純粋・潔白でなくなる。清らかさ・正しさが失われる。」(『広辞苑』第六版)と解説している。------続きます。


いつしか自ら愛する心起り、恐懼戒心の意弛み--『南洲翁遺訓』

2009-08-22 13:48:13 | 南洲翁遺訓

タイトル----いつしか自ら愛する心起り、恐懼戒心の意弛み----『南洲翁遺訓』 第104号 21.08.22(土)

 事業を創起する人其の事大抵十に七八迄は能く成し得れども、残り二つを終り迄成し得る人の希れなるは、始は能く己れを慎み、事をも敬する故、功も立ち名も顕わるるなり。功立ち名顕るるに随い、いつしか自ら愛する心起り、恐懼戒心の意弛み、驕衿の気漸く長じ、其の成し得たる事業を屓み、苟も我が事を仕遂んとてまずき仕事に陥いり、終に敗るるものにて、皆な自ら招く也。故に己に克ちて、睹ず聞かざる所に戒心するもの也。(『南洲翁遺訓』第二十一章・後半部分)

通訳「事業をはじめる人が、その事業の七、八割までは無難に進むものであるが、残りの二、三割を終わりまで成し遂げる人の少ないのは、それは始のうちは、己を慎み、事をも慎重にするから成功もし、名も認められることになる。ところが有名になるにつれて、何時の間にか自分を愛する欲心に負け、そして抑制がきかなくなり、恐れ慎む心が緩み驕る心と自信過剰とが重なり、仕事もまずい結果となり、遂に失敗に至るのである。これらのことはみな自らが招いたものである。それ故に常に己に克って、人が見ていない所、聞いていない時でも、自ら慎む心をもってあたらなければならない。

 誠にもって当たり前のことである。ところが当たり前のことが出来ないのが人間なのである。それは何故か。そこに「私心」が介在するからである。

 大企業の倒産、中小企業の倒産は枚挙に暇がない。これは通常の事を論じているのである。上は社長の横暴・驕りに始まり、下は労働組合の合法的ではあっても、一般論として不当要求とも取れる事象もあるからだ。そこを調和よく出来ないか、ということが潤滑油の適正な挿し方でもあろう。

 国家的には、平成二十一年八月三十日執行の総選挙に向けて、各党入り乱れて、我が党にと、呼び込みが喧(かまびす)しい。今回は政権交代をテ-マに自民党対民主党の一騎打ちの感さえある。題して、官僚主導による政治と国民主体の政治の何れを選択するかと言う歴史的選挙であると私は解釈している。

 政権を握っている麻生総理は、逃げて逃げて逃げまくって、やっと解散した、というのが常識的な見方であろう。これほど国民の意見を無視した総理はいまい。それは忍耐強い、という面から見たら評価に値する。あと一週間後に向けて「責任力」を声高に吹聴している。その度胸たるや、大したものである。図体は大きいが小心な森元総理とは雲泥の差でもある。8月27日発行週刊文春によると、森事務所に来た朝日新聞の記者に、腹たち紛れに「熱い湯」をぶっかけた由、思わずふきだしてしまった。森元総理に対して国民も「熱い湯をぶっかけたい」と思っているであろうに、と。

 今日は電話世論調査が二件あった。自民党か民主党かと。先の週刊文春によると民主291議席で、「自民は来年参議院で消滅」とある。これを読み、溜飲が下がった。当たり前のことである。

 過去、半世紀以上、国民に知らせず、国民を欺き、国民の税金を公益法人へ垂れ流し、かつ860兆円の借金を作っていて、民主党がバラマキだ、と麻生総理は絶叫している。頭はホントか、と疑いたくなる。民主党が絶対良いなどと国民は思っていないのだ。膨大な金をしたい放題垂れ流して、いまだに謝罪もしないことへの怒りだと私は思う。友人・知人は自民党ひいきが多い。その方々でさえ同様の見解なのである。これまで国民を愚弄していて、まだよろしくお願いします、とはどういう精神の持ち主なのであろうか。

 昨日の読売新聞では、「日本の安全」を見定めて一票を投じたい」と呼びかけている。読売の思想的座標軸を基点とすれば、当然のことである。これも渡辺氏の意向もあるのだろう。外交・防衛が大事であることは、国民は先刻承知なのである。その意味において民主党がいいなどと思っている国民は極く少数の筈だ。その民主党が国民の意向に反することをすれば、たちまち民主党も吹き飛ばされる筈である。先ずは無駄遣いと、天下りと、世襲議員の廃止をしてからでないと国民は自民党の意見に与しないであろう。

 驕る平家は久しからず、そして『南洲翁遺訓』が訓戒するように「驕衿の気」をなくし、国民無視でない、国民の意向に沿った政治をしなければならない、と西郷南洲翁も訓えているのである。
 

 


倦むことなかれ。『論語』

2009-08-09 11:20:56 | 論語

タイトル--倦むことなかれ。『論語』 第70号 21.08.09(日)

 「無倦」---『論語』

 倦むことなかれ――。この言葉は『論語』子路第十三の最初に出てくる言葉である。通し番号では303番である。

 子路政を問う。子曰く、「之に先んじ、之に労す。」益を請う。曰く、「倦むことなかれ。」

 子路が政治のやり方をお尋ねした。孔子が言うには、「善政が行われると行われないとの根本は、我が身にあるのである。人民を働かせようと思うならば、先ず自身先立ちて勤労するなど善を行ってみせることだ。そういうお手本を示せば、人々は勤労に励むし、命令しても怨むことはない。そして勤労に対して慰労することも大事である。」子路は外にもいい方法があったら教えて欲しいと、続けて尋ねた。「途中で飽きずに、倦むことなくやり続けることである。」

 人生の妙諦であるこの言葉は、人が生きて行く上において、全てに通じると言っていいだろう。とにかく諦めてはならないという事である。

 父の事業倒産のあおりで、高校進学も働きながら夜間部へいかざるを得なくなった。昼は働きながら夜間部へ、そして深夜の電報配達を14年間して来た。寝ずに働いた。24時間勤務を長年続けた。お陰で労働が苦痛でなくなった。精神力が出て来た。

 文章が書けなかった。書きたいと思っても、書けなかった。悶々としながら、本を読んだ。意味が分からなくても読み続けた。特に「南洲翁遺訓」他古典は難解だった。それでも読み、かつ筆写した。諦めずに30年以上の自分との闘いであった。

 大して上手くはないと思うが、どうにか自分が思うことが、書けるようになった。今、小学に入学した気分である。勉強が、学問が、楽しくて楽しくてならない今日この頃である。こんな私がどうにか書けるようになったのだから、やり続けたら、皆出来る筈である。要は、やるかやらないか、実践することである。

 近々、総選挙があるが、上に立つ人々は、勤労を自ら実践し、お手本を示してきただろうか。酔っ払い会見で大臣を辞めざるを得なくなった中川大臣が質問者に対して、「どこだ」と居丈高に聞いた。謙虚さの微塵もない、無様な会見だった。それでいて、選挙の時は「国民のために--」と頭を下げて連呼し、当選したら即、威張りくさる。

 総選挙で政権が交替されるらしい。官僚たちは、今の内に天下りを、と大幅に関係する法人等へ天下った、と朝日新聞が報じた。今朝の時事放談で、知った。麻生総理はそういう事実を知っている筈である。今朝の新聞に大きく、イケメンで、強気の総理の顔が大きく掲載されていた。曰く、国民を幸せにする責任力を力説している。ならば、官僚の駆け込み天下りを止めることは出来なかったのか。それが「火事場泥棒」の集団に見えた。なんと浅ましい根性であることか。

 『論語』が教える勤労も、人との対応の要件である謙虚さも、倦むことなく実践しなければなるまい。

 「倦むことなかれ」とは、そういうことでもある。