味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

真率会。

2016-04-30 10:15:24 | ブログ
第2678号 28.04.30(土)
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真率会。『宋名臣言行録』
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 「真率会」は、虚飾をしない会のこと。宋の司馬光、范純仁などの約したもの。いずれも清貧にして客を好み、脱粟一飯、酒数行を楽しみとした。洛中の人々はそれを誇りにして勝事とした。632
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 【コメント】現在の日本人は、生活文化の向上の影響で贅沢と思える日々の中で生きているように思えてなりません。昭和初期に生れ、貧乏家庭に育った私から見たらです。
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 裕福であることは素晴らしいことですが、そればかりを追求して行きますと、堕落への道に滑り落ちないとも限りません。ですから私は、現在ご紹介している菅原兵治先生の思想・教えを学んだ方がいいように思います。
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 菅原先生は『農士道』で生きる哲学を教えていると見ています。骨格は学修、感謝、努力、継続、真摯、勤労、勤勉、倹約等々だと思います。だから、経験の乏しい人が迷ったら、手をさし述べて上げることも大事であろうと思います。
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 基本的に人間には悪が好きな人はいないと思います。ただ知らずに手を染めることがあるような気が致します。野球賭博で逮捕された25歳の選手にしても同様です。
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 そして一時的成功に酔いしれる人も同様です。そういった意味では中村天風著『運命を拓く』は大変参考になると思います。共に共に幸せな人生でありたいものです。
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 連日読んでいる『西郷隆盛』は15巻目に入りました。刀を持っての斬り合いはよろしくありませんが、清貧に甘んじて、国家ののために奔走する真剣さは今日見習うべきだと思うのです。

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『臥牛菅実秀』(第214回)
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 賢人と思い教を受くる以上は、深く信じて疑わぬものなり。 菅 実秀
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   六.  邂   逅
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    (一)
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 外国の圧迫を辛うじてくぐりぬけて維新を断行した日本にとって、最も強く要望されたものは、『富国強兵』であった。他のアジア諸国がそうであったように、一歩誤まれば欧米列強の植民地になってしまうおそれが多分にあった当時の日本として、いち早く外国勢力に対立し得る統一国家を確立いなければならず『万国対峙』といい『万国陵駕』というスローガンが強く叫ばれた時代であった。
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 旧領に復帰することを許された荘内藩(前年の二年九月、藩名を改めることを命ぜられ、大泉藩と改称し、酒井忠宝が藩知事となった)は、この時代の急務にそって明治三年九月、新たに常備兵六小隊(一小隊五十人)を編成し諸部隊の基幹部隊とした。この常備兵に選抜された青年たちは、敗戦の失意から立ち上がって、猛烈な訓練を開始したのである。

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『農士道』(第490回)
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 かういう義利の関係を佛教に於て見るも、真の救いは-----之を最も通俗的にいへば「御利益」「功徳」と謂うてもよかろうが、-----その真の救いは、真の帰依、真の信仰に即して始めて得られるものである。真の帰依無き所に其の救いは無い。親鸞聖人いふ。
「各々十余国の境をこえて、身命をかへりみずして尋ねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり。しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をも知りたらんと、心にくくおぼしめしおはしましてはんべらんは大きなるあやまりなり。もししからば、南部北嶺にもゆゆしき学匠たちおほくおはせられさふらふなれば、かのひとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。親鸞におきてはただ念仏して弥陀に救けられまいらすべしと、よき人のおほせをかうぶりて信ずるほかに別の仔細なきなり。----歎異抄---」

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『日本共産徒党と中韓』より
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 手元に筆坂秀世氏の上の本がありましたので、一部、ご紹介します。
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〈日本共産党は、戦前、戦時中と非合法政党として弾圧を受けてきた。また、侵略戦争反対や天皇制打倒を掲げていたことは事実である。さらに中国の延安では、戦争後期には野坂参三らが日本兵に向かって脱走を呼びかけ、日本軍が敗北するように運動してきた歴史も持っている。〉頁163

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人皆人に忍びざるの心あり。

2016-04-29 10:46:07 | ブログ
第2677号 28.04.29(金)2677
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人皆人に忍びざるの心あり。『孟子』
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 人間には、だれしも、見るにしのびない、するにしのびない、という思いやりの心がある。この忠恕の心が治国の根本である。103
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 【コメント】〈忠恕の心〉は治国だけでなく、団体の要にある人のあるべき姿として訓戒しているのです。とにかく人様を思いやることは大事だと思います。私は自分のことより、身内のことより人様をという主義です。そして共に健康で、長生きをして欲しいと念じています。
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 昨夜の第二道場の御稽古は大変賑わいました。新しく入会した福元恵士くんもお父上様とおいでくださいました。礼儀正しい素晴らしいお父上様でした。恵士くんがいい筈だと思うことでした。
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 恵士くんは初心者とは思えないハッスルぶりでした。全体で『南洲翁遺訓』を発表する時は、カナコサマを前に坐らせ、一対六人で『南洲翁遺訓』第一章を発表して貰いました。
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 前に出たカナコサマは負けてなるものかという意気ごみで大声で発表してくださいました。恵士くんのお父上さまは初めて見て、吃驚されたことと思います。
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 終盤に一人ずつ型演武をして貰いました。みな上手くなってきました。新入会者の恵士くんとカナコさまの突きの対決をして貰い、どちらの声が大きいか、競わせました。二人共物凄くハッスルして全員の審判は引分でした。
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 私の所で修行していた子供がラサール中学校に合格したとお聞きしました。多分、『南洲翁遺訓』等々の発表による脳の異常開発であろうと思っています。ところがこの子供の母上様は、同じクラスの母親様が挨拶をしてもシランプリをするのだと伺ったことがあります。こういう態度が子供の成長にどう関わってくるか、眺めていたいと思っています。
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 ここで大事なことは、有名校への合格にしても、スポーツの優勝にしても、今初めた一年生であるということです。これが最終局面ではないのです。
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 ですから、決して思い上がることなく、謙虚に謙虚に、控え目に、どっしりとした自分を構築して行くことが肝要なのです。思い上がったら、バドミントン選手が会社を解雇された二の舞になりかねません。
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 そこでお手本になるのが荘内南洲会の理事長・水野先生を中心とした先生方のお姿なのです。

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『臥牛菅実秀』(第213回)
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 また一方では、さきの献金問題にからんで実秀の身辺に黒い噂が流れていた。それは実秀が、藩と政府の中間にあって献金を私にしたとか、政府は献金の残額を切りすてたのと同時に、すでに献納した分も返却したのを懐にしてしまつたという噂であった。一部の不平分子は実秀の動かすことのできない巨巖のような実力と声望を中傷するために、のちのちまでにこれを材料として噂をまきちらしたのであるが、それに対して実秀は『犬の遠吼え』と聞き流していた。
 実秀にとって自分に対するいろんな中傷も、また賞讃も無関係にことであった。その目はもっと先きのものをにらみすえていたのであって『毀誉は人に任す』であった。134

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『農士道』(第489回)
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 これは義か、利か。
 是れ茄子といふ生産物に対する当然盡すべき義を盡したに過ぎぬのである。少しく手を廻して探せば七銭で送り得る道があるに拘わらず、不用意の結果四十銭で送ったといふことは単なる不利に止る問題ではなくして、實に生産物に対する不親切、不孝、不忠実といふ「義」を完うし得ざりし不義の結果の罪なのである。四十銭の金をかけて送ったものを七銭で送り得るようにしたということは、生産物に対する当然の義を盡したに過ぎないものである。而して従来の社会機構が農業といふ仕事に対して、余りにも非合理的不利を與へてゐるとするならば、敢然起って之を改むることも亦当然の義を盡すものなのである。之等の事を考ふれば、義利の本末関係は、おのづと解し得られることと思ふ。

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『征韓論政変の真相』をご恵贈賜りました。
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 「西郷南洲顕彰会の伝統及び西郷南洲翁と菅臥牛翁の徳の交わりを広める会」の最高顧問である伊牟田先生から、上のご著書をご贈呈賜りました。一部ご紹介致します。
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〈-----史伝作家の海音寺潮五郎は、「----明治六年に二人の友情は破れますが、破れるべきものはずっと大久保の内部にあったと、私は見ています。」と述べている。「----そして大久保は計画的に西郷を政府から追い出した」と。
 そして明治四年十一月、岩倉遣外使節団は出発に当たり、西郷留守内閣に人事、組織、制度など改革をやらないようにと約定したが、西郷留守内閣が大改革をやったことに、大久保が難詰したことにあったに違いないとされ、次のように述べられている。
 「西郷内閣が、足掛け三年、混乱し、苦悶している国民を前にして行った大改革に、西郷が大久保から受けたのは感謝ではなくして、反感であり、憎悪であり、憤激非難の声であった。
----明治十年九月二十四日の城山における西郷の痛ましき自決も、その翌年五月十四日の紀尾井町における大久保の遭難も、この時をもって決定せられたのであった」と。〉
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 ここで私見をひとつ。
 紀尾井町の事件は、人一倍の皇国の英雄であった西郷隆盛と大久保との感情の行き違いが原因なのでしょうか。

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皇天は親なし、惟だ徳を是れ輔く。

2016-04-28 10:17:39 | ブログ
第2676号 28.04.28(木)
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皇天は親なし、惟だ徳を是れ輔く。『書経』
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 天はとくに人を選んで親しむことをしない。道徳の人でさえあれば、だれであれ区別なくこれを助けるものである。(周公のことば)216
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 【コメント】永年漢籍他数多の書籍を繙いてきましたが、その通りだと思います。徳と誠は大事だと思います。
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 熊本地震が発生してから、二週間くらいになります。未だ続く余震のため、家を片付けることの出来ない人も多く、大変お気の毒に思います。そして行方不明の大学生の青年を探すため、自衛隊・警察・消防その他の皆さんの献身的な仕事ぶりに敬意を表したいと思います。
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 ご家族は早く探してと新聞でも報じられていますが、その思いは理解できますが、災害復旧に従事している方々へも感謝の念をもって戴きたいものです。
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 『西郷隆盛』より。14巻27頁
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 西郷隆盛が雄弁に喋った後、-----「朝廷への尊敬と天皇への忠誠心は外国人には理解できないほど深く日本人の胸底に根をおろしている。」とあります。先ほど、春の園遊会の模様がテレビ報道されました。どなたもお幸せそうなお顔でした。大変いいことだと思います。 
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 神戸大学の教授がテレビ報道で、火山灰が五センチつもれば日本列島は大変なことになるとお話していました。今こそ菅原兵治先生の『農士道』を学ぶべきだと思うのですが、中澤先生如何ですか、そうお思いになりませんか。

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『臥牛菅実秀』(第212回)
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 この明治三年五月に実秀は功労によって中老となり禄千石を与えられ、そして老公忠発から特に忠篤、忠宝の訓育を托された。新らしい時代の指導者となる人を鍛え上げる任務が、その肩にかかったのである。
 八月になって政府は、実秀に待詔院下局出仕を命じた。これは各藩から才能の士を採用し、さらにその中から厳選して参議や諸遼に登用する制度であったが、しかし、これは実秀に藩政改革を担当させたいという理由で辞退するこにした。
 実秀としては待詔院出仕に大いに期するところがあったのであろうが、周囲の妬みといっては言い過ぎかも知れないが、とにかく何か感情的なもののために辞退せざるをえなかったらしい。

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『農士道』(第488回)
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 之に就いて思い起こしたのは、農士学校創立当時の茄子の販売の事である。最初の年に茄子を沢山作って収穫したので、之を東京市場に出荷して見た。売上げ仕切りを見ると一籠四十何銭だったと記憶している。勿論生産其のものについても義を盡したとはいひ得ぬ點も多分に存したのであったが、菅谷の驛から東京までの電車の運賃が四十幾銭、籠代が十幾銭といふと結局二十銭近くの損失になる。そこで憤慨したのが学生である。
「これほど真剣に働いて作った茄子が、運賃にもならぬとは、社会の経済機構に缺陥がある。先づそれを改めずんば農村の救済は不可能ではないか。」
といきまく。そうしている中に一人の学生が、隣村に蔬菜の出荷組合のあることを聞きつけて之に加入し、其の名義を以て出荷すると一籠七銭で送ることが出来、其上空籠が一銭で返送されて来る。結局五十銭以上もかかっていた荷造運賃が八銭で済むといふことになつた譯である。

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書を読みて聖賢を見ざれば、鉛槧の傭となる。

2016-04-27 10:39:59 | ブログ
第2675号 28.04.27(水)
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書を読みて聖賢を見ざれば、鉛槧の傭となる。『菜根譚』
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 たとえどんな立派な本を読んでも、聖人賢者の精神をとらえなければ、印刷屋の使用人となったようなものだ。565
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 【コメント】私の書棚には立派といってもよい書籍が一杯整理されていますが、読んでいる私は印刷屋の使用人以下であり、子供たちに『南洲翁遺訓』と空手道を教えることしかできません。それでもいいと思っています。鑑は荘内南洲会の先生方です。
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 昨日は先の土曜日に見学にきた男の子が入会調書を持ってきました。遠からず鳳の雛になるかも知れません。
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 現在読んでいる『西郷隆盛』は、坂本龍馬が寺田屋で襲撃される場面でした。その報を聞いた西郷隆盛が激昂する所です。

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『臥牛菅実秀』(第211回)
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 これが真実だとすれば、実秀は当初から、こうした政治的含みのもとに献金を承諾して上で、残額切り棄てに持ち込んだものかとも思われる。
 このようにして実秀は一年有半にわたる戦よりも苦しい武器なき戦のすえに、ついに老公の寄託に応えることができたのであった。
 実秀のここまでにいたる間の苦しい戦の跡を、のちにつぎのように語っている。
「なめくじが蛇のあたりをはいまわり、その痕を残しながら、段々と巻きつめていくと、蛇ははい出すこともできず、どのくらい苦しいものか、次第に体を縮め、取り巻かれた輪の中で棒立ちとなり、ついにハタとたおれて、そのまま死んでしまうと聞いていたが、移封問題や、それにつづいた献金問題を担当していたときは、まったく、この棒立ちになった蛇のようなものであった。しかし、棒立ちになるほど窮すると、かえって気持ちが定まり、はじめて意気も振い立ってくるものである。」
 さきの『月を看て感有り』の詩と、強く響き合う言葉である。

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『農士道』(第487回)
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 義を盡す-------詳しくいへば、道義的行為をなすといふことは、決して物に対して科学的研究もせず、技術的錬磨も積まず、人に対して快談笑唔も出来ず、熱憤赫怒も出来ぬ變屈者や間抜け者になることではない。自らは「義」を履んでいると思っていても、為す事行う事すべて不利に陥るといふが如きことあるに至らば、其の義と信じて行うている事が果して正しき義なりや否やを十分再検討する必要があるであろう。春になっても、発芽も生長もせぬような木の根は、已に生命無き枯木である。吾々の義は断じて枯義や死義に堕してはならぬ。殊に生産の業に精進する者に取っての義は生々溌剌たる生ける義-----鬱然として枝葉を繁茂せしむる力を有する活義活徳であらねばならぬ。
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斉に宝あるか。

2016-04-26 10:35:01 | ブログ
第2674号 28.04.26(火)
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斉に宝あるか。『十八史略』
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 魏の恵王が斉の威王にきいた。あなたの国には宝があるか、と。その時威王は、私の国の宝はふつうの宝ではない。それは立派な臣であると答えたという。590
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 【コメント】私の道場には、将来を嘱望される鳳の雛といってもいい宝たちがおけいこにきてくださいます。極め付きは、未だ教えていない『南洲翁遺訓』を自ら暗記してくださることです。勿論その他も。
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 多くの漢籍に出逢った私は、それらをプリントして差し上げます。鳳の雛たちはそれらを片っ端から覚えてくださるのです。その雛たちは、道場に這入ったら、私の側にきてキチンと正座して体面します。特に4歳になったカナコ嬢が目の前にきた時は、ドキリとします。対面した映像をカナコ嬢が死ぬまで記憶していると思うからです。
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 その姿を見て、この子供たちの将来はどう輝くだろうかと思いを巡らすのです。私自身がいい加減な対応をしたら、子供たちは何時までも覚えているのです。このように素晴らしい幼児に育てたご両親の養育法を学びたい思いです。
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 日本舞踊花柳流の門を叩いた私は、電電に勤務していた頃、出張先で、花柳流のおけいこ場に飛び込みのおけいこをしてきました。素晴らしいお師匠さまたちと出会ってきました。
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 いわゆる芸事(修行)が人間を創り、人目につかない内面の威厳・美しさを構築してくれるからです。その人間美に魅せられたものです。荘内南洲会の先生方にしても然りです。
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 昨夜は『南洲翁遺訓』改竄事件発生に際して、その沈静化に努力してくださった鹿児島市議会議員が再立候補して惜しくも思いを叶えなった先生から電話がございました。いろいろご支援ご協力を賜り有り難うございました、関係者の皆様にお礼の気持ちを伝えてくださいとのことでした。

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『臥牛菅実秀』(第210回)
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   政府は、
   先般、金七十万両献納を命ぜられ追々上納せるも、詮議の筋有りて、残金献納に及ばず。
という指令を下したのである。
 政府が、このような指令を出した理由として、荘内藩の解体を強く主張していた大村益次郎が、兵部太輔になってまもない明治二年七月に、同じ長州藩士の刺客に襲われ、それがもとで十一月に死亡したことも、影響があったかも知れないが、もう一つの理由について、大隈重信が、ある荘内人に話したことが『荘内』(昭和十年代に国分剛二の主宰によって発行された郷土史研究の月刊誌)第四号に掲載されている。
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   -----我輩(大隈)から、献金の内命を菅に伝えると、菅は『それは大いに困る』といって、なかなか承知しなかったが、我輩は『マアマ   アそれだけは承知するがよい、どうしても金が出来ない時には、出さねばよいではないか』といって、とうとう菅を承諾させたが、果し   て其の金は半分足らずしか出さなかったように記憶している。菅は智者だから、その辺の動きは、なかなか勝れていた。-----

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『農士道』(第486回)
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  但、此処に又一つの疑問を有つ人がある。それは、
 「俺はどうも馬鹿正直で、駆け引きが下手なので、何時も損をする。商売は律義だけではいけませんね----駆け引きが分からぬでは----。」
という声である。然し少しく熟考すれば、此の駆け引きといふことが、実は尊い道徳(義)なのである。その事は恰も兵法戦術を全然知らぬ武将が、唯客気一点張りで盲進するようなもので、決して真に盡すべき義を十分に盡したとはいひ得ぬものである。世の所謂「正直者」「律義者」が何時も損をするといふのは、實はさういふ人々には、稲の栽培法を十分心得ずに稲を作って徒長倒伏せしむると同じ事で、實は義に似て
其の實未だ義ならざる點があるのである。

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