タイトル---安岡正篤著『王道の研究』、自序の紹介----4.第858号 23.05.29(日)
第857号に続きます。
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前述の様な所懐から、種々に苦心の結果、余は先ず本書の結構を五篇に分ち、最初に政治汎論を置いて、冒頭、政治そのものの反省を提唱した。従来只管、政治を外よりのみ見て、政治をその内より観ようとしなかったからである。政治をその内より観る時、始めて古人礼楽の論に触れることが出来る。
かくして政治を内面的、動的に把握して、第四章及び第五章の政治本質論と消長因革論とを「述」べた。決して「作」ったのではない。次に「政治と人物」(哲人的政治と民衆政治)、「政治と法令」を論じたのは、近代政治の機械化に対して、生命の回復を企図したのである。そして治乱興亡の理法を明らかにして、最後に、「文化と素朴」との関係を考察し、軽薄な末梢的浮文を警戒した。
第二編に本論とも謂うべき王道論を置いたが、特に其の第二項に説いた「大臣の任用」と「勧学尊師」(太子の教養)と「祭祀の尊重」との三日は王道の肝腎と信ずる。
その第二章に王覇の別を論じ、世に喧しい孟子の放伐論を批判して、別に日本天皇の一章を設け、支那と日本との国体別を明らかにしたのは余の最も深意の存する所である。
第三編には国士道を置き、第四編には処士道を置いた。此れは前著『東洋倫理概論』に「独の生活」の一章を立てた様に、東洋哲学の秘奥を窺うに大切なことと思う。
第五編には、王道を体現して、或は国士道に徹し、或は処士道に帰した二人の典型的人物を挙げた。読者若し此書を『東洋倫理概論』と併せ読まれるならば本懐の至りである。
但、前述の様に執筆の始終を通じて、静閑と典籍とに恵まれぬこと多く、不備不満の点の少ないことは残念であるが、それ等は漸次に補ってゆきたいと思う、敬んで大方の示教を乞う。
昭和七年十月十五日丑の刻 於金雞精舎 著 者 識
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安岡正篤著『王道の研究』の自序を四回に亘って紹介しました。普通、読みなれていない用語がありますが、そこを耐え忍び、是非、お読み戴きたく思います。先生のご著書に触れてから二十年になります。
その都度、暗夜をトボトボ行くがごとく、手前も先も見えない、暗夜行路のごとき日々もありましたが、それでも読み続け、筆写し続けてきたお陰で、今日いい知れぬ豊饒な精神に浸っています。冒頭にも書きましたが私は、安岡先生のご著者は読み続けるし、また関係者にも紹介すると同時に贈呈もして参りたいと思っています。
先般、関西師友協会、郷学の冊子の年間購読を辞退したのは、読まずに屑過去に捨てるのが忍びなく、取りあえず辞退した次第です。ご海容賜りたく存じます。