味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

財に臨んでは苟も得んとすること毋れ。

2015-10-31 11:51:07 | ブログ
第2499号 27.10.31(土)
.
財に臨んでは苟(いやしく)も得んとすること毋(なか)れ。難に臨みては苟も免れんとすること毋れ。
.
 お金を目の前にしたばあい、かりそめにもそれを欲しいなどと思うな。また、困難に出会ったばあいには、かりそめにもそれから逃れようなどと考えるな。307
.
 【コメント】大変良い訓戒だと思います。お金に対する考え方、困難に出会ったばあいの考え方は自然体で臨めばいいと思います。貧乏と困難は今までの私にはつきものでした。それでもタンタンとして臨んできたつもりです。
.
 今朝の暁の学問館には4歳になった『南洲翁遺訓』発表の女王・正田カナコ様もきてくれました。
.
 教材は、
 1.『君が代』にこめられた日本人の思い
 2.思いをこめる
 3.自分の時間をどう使うか
 4.知識・見識・胆識
 5.「カルタゴの平和」と「人間の鎖」
 6.発展繁栄の道
 7.立志立命の道
 8.「家庭教育の心得21」-----等々でした。

.
 4.知識・見識・胆識------一部ご紹介します。
.
 知識は大事である。人格形成の土台となるからだ。だが、知識はたいてい雑識程度に終わる。雑識は人格を統一する力にはならない。その知識がいろいろな体験を積み、人生的修行を重ねることで、見識になっていく。
 見識は物事を判断する基準になる。判断したものを実行する。その勇気、度胸。これが胆識である。いかに知識、見識があっても実行しなければ、実生活も事業も立派にはできない。胆識を養うことは、リーダーの不可欠な要素である。
.
 外国(とつくに)の風招きつつ国柱太しくあれと守り給ひき
.
 明治天皇を詠まれた美智子皇后の御歌である。明治の草創期、押し寄せる外国の文化に日本の国柄を失いかける危機があった。その時、明治天皇が「教育勅語」を発布、日本人が護持すべき精神的基盤を明示し、危機を救った。その胆識を讃えられたのである。

---------------------
『臥牛菅実秀』(第37回)
.
 二人は偶然に時を同じくして江戸に出ていたのであるが、もちろん後年にあのように深い交わりを結ぼうとは、このときは知るよしもなかった。一方は改新的な外様雄藩の一藩士であり、一方は幕府強化の線に立つ譜代親藩の一藩士であって、交わることのない政治路線の上に二人は立っていたのである。ただ隆盛は藩主斉彬の、下級の有為の士を求める方針によって登用された人であり、実秀も松平権右エ門の眼識によって挙げられた人であって、いづれも小禄の藩士として、貧困な家庭に生い育った点では共通するものがあった。
----------------------
『論語』(第432)
.
陳亢伯魚に問うて曰はく、「子も亦異聞あるか。」対えて曰はく、「未だし。嘗て独り立つ。鯉趨って庭を過ぐ。曰はく、『詩を学びたりや。』対えて曰はく、『未だし。』『詩を学ばざれば以て言ふなし。』鯉退いて詩を学べり。他日又独り立つ。鯉趨って庭を過ぐ。曰はく、『礼を学びたりや。』対えて曰はく、『未だし。』『礼を学ばざれば以て立つなし。』鯉退いて礼を学べり。斯の二者を聞けり。」陳亢退いて喜んで曰はく、「一を問ひて三を得たり。詩を聞き礼を聞き又君子の其の子を遠ざくるを聞けり。」
.
 陳亢が孔子の子の伯魚に問うて言うには、「あなたは先生とは父子の間柄で外の門人とは違いますから、何か珍しいお話を承わったことがございますか。」伯魚「未だありません。嘗て父が独りで立っておりました時、鯉(伯魚の名)は趨って庭を通り過ぎました。
 父が『詩三百を学んだか』と申しましたから、『まだ学びません』と対えますと、父は『詩を学ばなければ、事理に通達せず心気が和平でないから、人に対応して能く言うことができない』と申しましたから、鯉は退いて詩を学びました。
 他日又父が独り立っておりました時、鯉は趨って庭を通り過ぎました。父が『礼を学んだか』と申しましたから、『まだ学びません』と対えますと、父は『礼を学ばなければ、事物の程よい所が明らかでなく徳性が固く定まらないから、能く身を立てることができない』と申しましたから、鯉は退いて礼を学びました。
 この二つを聞いただけです。」陳亢は伯魚の対えを聞いて退いて喜んで曰うには、「一事を問うて三事を聞くことができた。詩を学ぶべきことを聞き、礼を学ぶべきことを聞き、又君子がその子を特別待遇をしないということを聞いた。」
-----------------
『農士道』(第314回)
.
尤も国家社会は農民のみのものではない。木にも根もあれば枝葉もあって、全き生長が出来るように、農工商、各々其の處を得、其の分を乱らざる限りに於ては、何も農村農民が、自大排他主義者-----独りよがりの御山の大将----になって得々となるといふのではないが、然し自らの本質を自覚し、其の当然の価値と使命とに対する正しき矜持は有たねばならぬと思ふ。
--------------------
 10月31日、おわりです。只今1時50分です。

虚にして往き、実にして帰る。

2015-10-30 10:04:50 | ブログ
第2498号 27.10.30(金)
.
虚にして往き、実にして帰る。『荘子』
.
 行くときはなんの修養もなく出かけるが、帰りには得るところがあり、充実した気持ちになって帰ってくる。
 特別に教えも聞かず、議論も聞かないのに、弟子たちはただ先生のたたずまいから大きな教えをうけているのである。349

.
 【コメント】昨年末の荘内への旅行で、10回以上になりました。訪問した度に〈虚にして往き、実にして帰る〉という心境でございます。特に、最初訪問した時は、入口に置いてある白表紙・『教えの國・荘内』でした。
.
 頁をめくって吸い込まれるように拝読したのを、昨日のように鮮明に記憶しています。あれから20年が経過しました。元々本は買っていました。勉強はしないくせに、いい恰好だけしていたものです。
.
 それに火をつけてくれたのが、荘内南洲会の先生方との出会いでした。尤も大学教授が読みそうなそんな文献を買っては筆写していたのですが。大宅壮一著『炎は流れる』もその一冊でした。50年間私の書棚から私を眺めてくれています。
.
 翻って文献に魅せられることも大事ですが、人物に魅せられることの方が、より意義があると思います。昨晩のおけいこでも、子供たちが理解しやすいようにと、小野寺先生はじめ、他、荘内南洲会の先生方の人物像をお話しました。
.
 昨日、高木先生からお手紙を頂いたのでその事もご紹介させて戴きました。「荘内に行きたいですか」と問えば、子供たちは直ぐ手をあげてくれます。
.
 先般、子供たちが読みやすいようにと配慮し、『南洲翁遺訓』の子供用を作成しましたが、指宿の大師範から、漢字に振り仮名をつけたらという提案がありましたので、早速そのようにしました。おかしい時は、荘内南洲会の先生方、ご指導ご指摘賜りますようお願い致します。
.
 『南洲翁遺訓』第25章 「誓いのことば」(現物にはふりがなをつけてあります。)

 ※人を相手にしないで、常に天を相手にするような、大きな気持ちになるよう心がけます。
 ※人とのつきあいには、自分のさいこうの誠(親切心)を尽くします。
 ※決して人のあやまちに、文句(咎めるようなこと)をいわないようにします。
 ※自分の真心がたりているか、反省し、さらに尽くします。
.
 『南洲翁遺訓』は難解ですが、子供のころから徹底的に教えなければならないと考えます。それは、教育ママに育てられた優秀な警察官・消防署員・学校の先生・公務員が連日、非違行為で検挙・逮捕されている事実は国家の損失だからです。私みたいな視点に立って『南洲翁遺訓』を教え、広めようという団体があるでしょうか。売名行為と思われるような団体はあるやに聞いています。
.
 但し、原文は、一言一句手をいれません。赤沢源也先生に叱られるからです。
.
 御稽古終盤に、上の「誓いのことば」を絶叫しました。

------------------
『臥牛菅実秀』(第36回)
.
   (二)
.
 嘉永六年(一八五三)実秀は一カ年の暇を賜って鶴ケ岡に帰っていた。
 船が浦賀に来たという早飛脚が鶴ケ岡について、人々を愕かせたのは、この年の六月十四日のことであった。時代は鎖国という祖法を墨守することを許されない段階に急転していたのである。
 この年の九月、実秀は改めて世子忠恕の近習を命じられ、翌嘉永七年(一八五四)四月に、また江戸に上っていった。
 西郷隆盛が薩摩(鹿児島県)藩主島津斉彬の中小姓に上げられて初めて江戸に出たのも、同じ年の三月のことであった。このとき西郷は二十八才、実秀は三才下の二十五才であった。

-------------------
『論語』(第431)
.
 斉の景公馬千駟(せんし)あり。死するの日、民徳として称するなし。伯夷叔斉(はくいしゅくせい)首陽の下に餓(う)う。民今に至るまで之を称す。(誠に富を以てせず、亦祇(まさ)に以て異なりと)其れ斯を之れ謂ふか。
.
 斉の景公は馬四千匹をもっていたというほどの富貴を極めたが、其死後人民が誰一人徳有りとしてほめる者がなかった。伯夷叔斉は首陽山のほとりで餓死するという悲惨な最期を遂げたが、人民は今日まで其徳をたたえる。孔子が此の事実を指摘して言うには、『詩に「人がほめるのは富の故ではなくて、人に異なる徳の故だ。」とあるのは、ここの所でござる。』
.
 東北でも、政治家で宰相をした偉いとされた人がいたやに言われますが、私は、菅原先生の方が遥かに偉いと思っています。

----------------
『農士道』(第313回)
.
 さはいえ、夷地の人民に全然学問芸術を教えないわけには行かぬ。現在のままの夷地には迷信が多く、又中正を失して礼に合わないやうな風習も少なくない。この點は陋といはれても止むを得ないであらうけれども、こは未だ教育しないためであって、人間本来の淳樸なる質は、都門の軽薄児のやうに損ぜられてはゐない。若し誠の君子が此処にゐて之を薫陶したならば、屹度立派に教化されて行くであらう。然し私は其人ではないから、これを記して後人を俟つものである。」
-------------------
 10月30日、おわりです。

容貌を動かして、斯に暴慢を遠ざかる。

2015-10-29 09:51:36 | ブログ
第2497号 27.10.29(木)
.
容貌を動かして、斯に暴慢を遠ざかる。『論語』(泰伯)
.
 その挙措動作を荘重にふるまうがよい。そうすれば、乱暴者も心おごる者も、おのずから、わたしに近づくことはできない。(曾子のことば)45
.
 【コメント】上の曾子の言葉は、一般論としては正解だと思います。だが、乱暴者といえども、優しく対応すれば、心からなついてくることもあります。半世紀前のことですが、ヤクザの組織に入っていた一つ下の方に、優しくしましたら、泣いて抱き付いてきました。でも心おごる人は、どうしようもないようです。本人の努力にまつ以外にないと思います。
----------------------
『臥牛菅実秀』(第35回)
.
 後年の実秀の学風は、すでにこのころから、その芽をあらわしていたようである。実秀は皮相的で形式的で、血の通わない、いわゆる章句の学をきらい、大意をつかんで、その中に含む真味を深く噛みしめることを尊んだ。これを『風味する』といい『玩味する』といって重視した。書を読んで味得、体得せずはなんかせんである。
実秀は漢籍に親しむかたわら、信長・秀吉・家康の天下統一の時代に活躍した人々の物語を好んで読んでいた。そして天下統一に生命をかけた人たちの活躍の中から多くのものを吸収していつた。実秀にとって物知りを人に誇るための読書学問は無縁のことであった。あくまでも体得の学問であり、活学でなければならなかった。武将の活躍を読んでも、自分をその中に投げこみ『自分ならどうするか、自分であったらどうなったか』と絶えず自分に切実に問いかける読書であった。
 この読書は戊辰戦争前後の活躍に大いに役立ったと実秀は述懐している。

---------------------
『論語』(第430)
.
 孔子曰はく、「『善を見て及ばざるが如くし、不善を見ては湯を探るが如くす。』吾其の人を見る。吾其の語を聞く。『隠居して以て其の志を求め、義を行って以て其の道を達す。』吾其の語を聞く。未だ其の人を見ず。」
.
 孔子が言うには、「善を見ては、あたかも逃げる者をおいかけて追いつかず、見失いはせぬかと恐れるような気持ちになり、不善を見ては、あたかも熱湯の中に手を触れないようにと、己が悪に陥いることを恐れる」。わしは今、このような人のあるのを見て、又昔このような言葉のあることを聞いた。
 「天下に道のない時は野に隠れていながらも、其の志をいつか行うぞと期しつつ徳を修め、天下に道のある時は表面に立ち、正義を行って経国済民の志を成就する。そういう言葉を昔聞いたことあるが、そういう大人物はまだ見たことはありません。」

-----------
『農士道』(第312回)
.
 然るに都に於ては、其後次第に道徳を軽んじて、専ら法律制度のみに走り、官憲は罪人の捜索のみに熱中し、人民は亦狡匿して、何とか詐っては法網を免れることのみに熱中し、淳樸の俗は薬にしたくもない。が、この夷地の民は未だ磨かざる璞(はく)であり、けづらざる木であって、粗硬ではあるけれども、今後の教育によっては、どうにでも立派に薫化し行くことの出来る素質を有ってゐるものであって、どうして之を一概に陋なりといふことが出来ようか。これが孔子が九夷に居らんと欲した所以であろう。
------------------
 10月29日、おわりです。

刑已に至りて天を呼ぶこと無れ。

2015-10-28 09:51:42 | ブログ
第2496号 27.10.28(水)
.
刑已(すで)に至りて天を呼ぶこと無(なか)れ。『荀子』
.
 刑罰が決まってから、はじめて天に憐れみを乞うような未練がましいことをするものではない。はじめから、刑にかからないように身を慎むがよろしい。(曾子のことば)394
.
 【コメント】曾子先生の善い言葉だと思います。深夜の電報配達を14年間していたお蔭で、パトカーにつけられ、スピード違反で何回も警察に連行されたものです。本当の目的は労働組合の情報が欲しかったのであろうと思っています。共産党ではないから大した情報はなかったと思います。
.
 後からは多くの警察官と親友みたいになったものです。二割くらいはホオに傷をつけているような人もいましたが、多くは肌のよい方が多いと思いました。
.
 国家の治安を守ることと平和な日本国の永遠の存続のために、命がけで職務に忠実に従事しているのだと敬意を表したものです。それに比べたら、三公社の職員はいい加減にやっている人もたくさんいました。そして中央本部から教宣のためにくるオルグは大したことはなかったと思います。
.
 これが国民世論が後押ししてくれる教宣の内容ならば、三公社は民営化されていないのです。電電にしても郵政にしても、胸に名札をつけるという会社側提案にしても相当抵抗したものです。
.
 ところで数年前、阿曾事務長様が宮城県に住んでいる方に『礼節のすすめ』をお送りしたことがございました。その方は来年五月に引っ越しをするということです。
.
 そして今一つ、昨日の『農士道』を『臥牛菅実秀』と書いていました。指宿の監査役の大師範から厳しく注意されました。今先、修正致しました。

----------------------
『臥牛菅実秀』(第34回)
.
 「驕り亢(たか)ぶって人を侮る気持ちがあっては、有為の人物は決してその人のために心を尽くさないであろう。物を吝んで与うべきものを与えないようでは、民衆は力を尽さないだろう。有為の人は心を尽さず、民衆は力を尽くさないなら、たといその人にいくらすぐれた才能があって重要な職責に立ったとしても、たいしたことは出来ないと思う。
. 
 二人は目を見合わせて驚いた。
「読書を始めてまだ日が浅いのに、こうとは思わなかった。しかもお前のいうことは徠翁(荻生徂徠)の説と合致している。さっきは大言を吐く奴だと思ったが、聞いてみればもっともなことだ。」
 
-----------------
『論語』(第429)
.
 孔子曰はく、君子に九思あり。視ることは明を思ひ、聴くことは聡を思ひ、色は温を思ひ、貌は恭思ひ、言は忠を思ひ、事は敬を思ひ、疑はしきは問ひを思ひ、忿りには難を思ひ、得るを見ては義を思ふ。
.
 孔子がいうには、「君子には九ケ条の思慮すべき項目があります。視るについては、蔽われることなく明らかにみたいと思い、聴くことは塞がれること無く耳さとく聴きたいと思ひ、顔つきはいつも温和でありたいと思い、容貌は恭倹でありたいと思い、言葉は忠実で行動と一致したものでありたいと思い、仕事は慎重で手違いのないようにと思い、疑わしいことは問うて明らかにしようと思い、忿るときは患難を招くことを思って抑え、利得がありそうだったらこれを取って道義にかなうだろうかと思います。」
------------------
『農士道』(第311回)
.
 それから階段をつけたり、室のしきりをしたりして、琴や書物を整理し、講師の準備も大体出来たので、学問したいといふものが次第に集って来るやうになって来た。こんな風で丁度都にいた時のやうに沢山の人々が来るやうになったので、私も亦自分が今夷の地にゐるというやうなことは忘れて了ってゐる。因ってこの家に「何陋」と名づけて、孔子の言のいつわりでなかったことを信じてゐる。
.
 中央の都の学問芸術が盛んになったのは、代々の聖人がこれを傳へたからであって、夷の地には之がないから、之を陋といふのも一応尤もではある。

--------------------
 10月28日、おわりです。

盛衰は朝募に等しく、世道は浮萍の若し。

2015-10-27 10:20:55 | ブログ
第2495号 27.10.27(火)
.
盛衰(せいすい)は朝暮(ちょうぼ)に等しく、世道は浮萍(ふひょう・へい)の若し。『古詩源』 
.
 人の盛衰は、あたかも朝がくれば暮れがあり、暮れがあれば朝があるように、変遷交替するものである。また、人の生涯は、波に浮かべる藻草(もぐさ)のような頼りないものである。502
.
 【コメント】連日、ブログ書きにも翻弄されているみたいですが、本人はとっても楽しゅうございます。今朝は二時半にめざめて、小野寺先生から賜りましたご芳翰を拝読いたしました。拝読する度に心が洗われる思いです。
.
 思うに、出来るものなら書籍にしても、10年後20年後繙いた時、瑞々しさがあり、そして自分で書くときも、いつまでも人々の心を打つものでありたいものです。
.
 昨日もブログ書き終了後、『書経』『詩経』『小学』『礼記』等々片っ端から繙きました。なるほど時空を超えて読み継がれている筈だと思うことでした。
.
 私ごときが提案するのもおこがましいのですが、ノーベル文学賞を貰いそこなった日本の文学者さんの作品も拝読したつもりですが、あまり心に響かないのです。難解な漢字を使用しても腹の底まで響くようなものを書いて戴きたいものだとご提案致します。
.
 発表した時は、〈波に浮かべる藻草〉のようであっても、年月を経てから人々の心を揺り動かす作品が書けないものかと小学一年生が考えるようなことを思いめぐらしています。
.
 『菜根譚』にしても、『風と共に去りぬ』もそういう過程を経て歴史的文献となったのだと云う事です。
----------------------
『臥牛菅実秀』(第33回)
.
世子忠恕のお相手として初めて漢籍を読むことになった実秀は、槍術を生涯の目標として打ちこんできた少年から一転して、読書に沈潜する青年となった。そしてその読書は一旦やりだせば徹底したもので、決して中途半端にしてはおかなかった。
 ある日、実秀が中世古甚四郎を訪ねていくと、ちょうど中世古は古川儀兵衛と『論語』を考究しているところであった。通されてそばに控えていた実秀は独り言のようにいった。
「私は文辞の解釈はできないから、それさえ教えてもらえば、大意をつかむことは出来よう。」
 それを耳にした中世古は面白いと思って、
   如し周公の才の美あるも、驕かつ吝ならしめば、その余は観るに足らざるのみ。
   如有周公之才之美。使驕且吝。其余不足観也已。(泰伯第八)
の一章の文辞を解釈して
「それではひとつ大意をつかんでもらおう。」
しばらく考えていた実秀はいった。

-----------------------
『論語』(第428)
.
 孔子曰はく、生まれながらにして之を知る者は上なり。学んで之を知る者は次なり。困しんで之を学ぶは又其の次なり。困しんで学ばず、民斯を下となす。
.
 孔子が言うには、「人の性質には四種類があります。生れながらに道理を知る者があれば、最上級の人物であります。人から学んで後道理を知る者はその次の人物である。始めは学ぶことを知らないで、道理に通じないことを困(くる)しんで発憤して学ぶものは又その次の人物である。くるしんでも学ばず、何も覚るところがなくて平気でいる者は人の中の最下等の者である。/font>
-------------------
『農士道』(第310回)
.
 私が始めて此処に来た時は、入るべき家が無かったので、ばらやぶの中に掘立小屋を作ってゐたが、どうも鬱陶しくていけない。そこで東の峯に遷って岩穴の中にゐたが、今度は陰気でじめじめして困った。然し龍場の人々は、老人も子供もみんな毎日訪ねて来て呉れて、余が少しもこの地を陋としないのを見ると、彼等も喜び、従って私も亦これらの人々と親しむやうになった。私がやぶの石の處を開いて圃(はたけ)を作ると、人々は私がかういふことを楽しむのを見て、今度は偕に木を伐って余の家を建てて呉れた。そこで私は之に檜の皮や竹を以て屋根をつくり、又圃なは種々の蔬菜や薬草を播いた。
-------------------
 10月27日、おわりです。更新不能をすることがございますので、小刻みに更新致しました。