味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

世渡りのコツは、人に一歩譲りましょう。『菜根譚』

2010-04-26 15:48:37 | ブログ

タイトル----世渡りのコツは、人に一歩譲りましょう。第441号 22.04.26(月)

 長い人生を生きて行く場合に大事なことは、出来れば他人と争そいごとを起こさない方がいいと思います。そしてまた訳のわからない人間と、トラブルを起こすことほど愚かなことはないでしょう。

 私が電電公社を退職したのが、55歳の時でした。5年早く辞めたのです。電気通信工事真っ盛りの頃でした。請負工事の監督として総監督をしていたのです。次から次に工事が発生すめため、10人の監督に公平になるよう工事の進捗・安全・品質等々について当該工事を担当して貰わねばならないのです。 

 新しく工事が発生したとき、今度はこの工事を担当してくださいと言うと、受ける前から文句を言うのです。こんなに忙しいのにこれ以上面倒を見れない、と。私から見たら、そんなに負担には見えないのですが、出来れば仕事が少ない方がいいとずるい気持ちになり、最初から拒絶するわけです。そういうことで後輩の監督と喧嘩まがいの論争をしたものです。貴方は何処から給料を貰っているのか、と机を叩いたこともありました。それは、労働組合がよけいな仕事をしない、運動をしたのが影響もしているのでした。

 このままだと本当に喧嘩をしなければならなくなる、と思い退職したのでした。その頃既に紹介する『菜根譚』は読んでいました。

〈世に処するに一歩を譲るを高しとなす。歩を退くるは即ち歩を進むるの張本なり。人を待つに一分を寛くするはこれ福(さいわい)なり。人を利するは実に己を利するの根基なり。〉(岩波文庫・今井宇三郎訳注『菜根譚』・菜根譚、前17)

 通訳「世渡りをするには、先を争うとき人と競争をせず一歩を譲る心がけを持つことが尊い。自分から一歩を退くことが、とりもなおさず後に一歩を進める伏線になる。人を遇するには、厳しすきないように、一分は寛大にする心がけを持つことがよい。でも、甘やかしてはならない。この人のためにすることが、実は自分のための土台となる。」(前掲書)参照。

 会社を退職したのは、分けのわからない人間と言い争いをするよりか、一歩も二歩も譲ろうと決心したからでした。いきなり退職したものですから、家内は私に泣いて抗議をしたものです。能力は大してなくても、かねがね真面目にしていたものですから、請負会社から働いて欲しいとの要請を受け、エコモという会社に再就職したのでした。結果的には、世の中を広く知ることが出来てよかったと思っています。それと前後して漢籍を購入し猛勉強を始めたのでした。大した成果はないのですが、早期の退職、漢籍との出会いは私の人生を大きく大きく広げてくれたのです。

 71歳の誕生日を迎えて、若い師範たちと競争しながら、空手道と学問の競争をしている昨今です。私は織田信長の「死のうは一定」という考え方が好きなものですから、何事も体当たりで行くのです。つい先日、山本兼一著『命もいらず名もいらず』を読み、山岡鉄舟の生き方の凄さに圧倒されました。人間やれば出来るのです。でも、鉄舟と私とは天と地ほどの差はありますが。

 時代も異なり、現代の人間は口は達者になりましたが、体力はひ弱になっています。精神もひ弱になり、楽をする方に流れています。西郷南洲翁の漢詩に「貧居傑士を生じ----」というのがあります。私は空手道場に来る青年たちにも、恵まれた貴方がただから、精神的に「貧居」のつもりで物事にとりくみなさい、と檄を飛ばしているのです。

 生れた人間は必ず生を閉じるのです。生を閉じるその前までは生きている訳だから、トコトン生きてパタッと死にたいものだと思っています。思いっきり仕事をして、世の為人の為尽くしながら少し相手に譲り、そして自分の思いを遂げたいものだと思うのです。

 相手に名誉を与え、かつ譲歩させると同時に一歩譲り、自分の世界を闊歩する、こういう生き方がいいと思いませんか。人生は二度ないのです。頑張りましょう。


政治家の皆様へ、世界に冠たる国体を維持してください。

2010-04-25 19:09:00 | ブログ

タイトル----政治家の皆様へ、世界に冠たる国体を維持してください。第440号 22.04.25(日)

 政治の閉塞感からであろうと思います。パフォ-マンスとか、スタンドプレ-とか揶揄されながらも、政党が乱立する昨今です。心ある人々が、多様な意見を主張することは大変良いことだと思います。主義主張をしたならば、一環してやり通して欲しいものです。でも主張する背景に、国家国民のためという大前提がなければならないと思うのです。利害が先行しコロコロ変身するのは国民を愚弄していると取られかねません。

 ここでは、呂新吾著『呻吟語』の一部を紹介します。この書籍は20年前に購入し読んだり筆写したりしたものです。著者は荘内南洲会理事長・小野寺先生も謦咳に接したと言われる碩学・安岡正篤先生です。

百姓の凍餒(とうだい)之れを国窮という。妻子の困乏之れを家窮という。気血の虚弱之れを身窮という。学問の空疏之を心窮という。〉(談道)

 意訳-----民百姓(国民)が凍え餓えるのはこれは国が窮するのである。いわゆる政策が悪いからである。妻子が貧乏生活をするのはこれは家が窮するのである。活力が虚弱なのは、これは身体が窮するのである。学問が空疏なのは、これは心が窮するのである。(訳一部修正)

〈天徳王道は是れ両事ならず、内聖外王は是れ両人ならず。〉(談道)

 意訳----「天徳と王道とは二つのことではない。内面的には聖賢の道を治めて己れを深め、外面的・社会的には王道を行う、これは二つの事ではなく一人の仕事である。これを誤ると前文のような四窮が生じてくるわけです。この場合の王道の王は社会・民衆の救済を意味します。」

 つまり、現在の国民の貧民状態が顕在化しているのは、根源は政治の貧困ということではないでしょうか。当該職に従事する人は、誠心誠意事に処して貰いたいものです。

 一方国民は、どのようにあらねばないか、ということです。

貧しきは羞ずるに足らず。羞ずべきは是れ貧しくて志なきなり。賎しきは悪(にく)むに足らず。悪むべきは是れ賎しくて能なきなり。老いは嘆くに足らず。嘆くべきは是れ老いて虚しく生きるなり。死するは悲しむに足らず。悲しむべきは、是れ死して聞こえるなきなり。〉

 意訳----「貧乏だからといって別に恥かしいことではない。恥ずべきは貧乏に負けて志をなくすことである。地位や身分が賎しいからといって、これを悪く思うことはない。憎むべきは努力して才能も磨かず、能がないことだ。老いは嘆くべきではない。嘆くべきは老いて虚しく生きることである。死ぬことも悲しむべきではない。悲しむべきは死んだのち、名も遺さず忘れさられることだ。」

 歴史的に読みつがれている名著だけに、蒙を啓かせてくれる名文だと思います。多いに自己の領分とすべく研鑽したいものです。

 時代の進展とともに、世の中はめまぐるしく代わり、兎に角いそがしい日々であります。人民すべてが、同等に富の恩恵に預かるということはないでありましょう。多忙であるといっても、世の事象に翻弄されない確固たる自分を構築することが肝要だと思います。自分づくりを致しましょう。

 そして、政治家の方々にお願いしたいのは、選挙の審判によって過半数を有したからといって、極端な国体の変更をしてはならないと思うのです。先の選挙で政権が交代したからといって、投票した全ての人々が急激な国体の変更を望んだのではないということです。

 日本の文化は永年に亘り人々の叡智によって構築され、享受してきたものです。それを変更するならば、そういう問題を提起し国民に信を問うべきです。小沢幹事長の「だから国民の皆様が政権を与えてくれたのでしょう」という言い分は間違いだと思います。

 問題を明確に国民にしらしめて、そして総選挙で信を問う、というやり方でないと大変不幸な事態が到来すると思います。外国人参政権の問題、夫婦別姓の問題等々、数の論理で強行するようなことがあってはならないと思うのです。


書籍の紹介『商人の知恵袋』

2010-04-23 20:04:07 | ブログ

タイトル----書籍の紹介『商人の知恵袋』 第438号 22.04.23(金)

 『商人の知恵袋』を購入したのが昭和61年でした。24年前のことです。この書籍を読むのに没頭していた時期がありました。先般出版した拙著『礼節のすすめ』でも少しく紹介しました。著者の青野豊作氏紹介の「文庫版への序文」を紹介します。時代が変遷しても人間の営みは不変であります。如何に活用し、現代に活かすかが課題であろうと思います。

〈もう一度原点に帰ることによって、激動の時代を生き抜く知恵と勇気を手にしたいということなのだろうか。あるいは現代の熾烈きわまる商戦を勝ち抜く手法を探していくうちに、あたかも水が低い所へと流れていくように自然に辿りついたということなのだろうか。

 近年、古典の見直し機運が高まるなかで、旧い商家に伝わる家訓や江戸時代の商人たちが書き残した家訓を研究する人たちがふえているほか、企業の社員研修の場でもテキストとして用いられるようになった。もっとも、そのお陰で時折、古書街に出る商いの古典の価格が目の玉がとび出るようなものになってしまったのだから、かねてから家訓と商訓の再評価を訴えてきた私としてはただ苦笑するほかない。しかしそれはさておいて、商訓研究ブ-ムともいうべき昨今の世相の中で、私は改めて次のことを考え直していただきたいと思っている。

 ご存じのように、商売の世界は年々きびしくなるばかりで、どの分野、業種といわず生き残ることさえむずかしくなっている。そして、その熾烈きわまる生存競争、商戦の中で、努力の甲斐なく敗れ去っていく人たちが多い。他方、同じ商戦の中にあって勝利をつかみ、大をなしていく人たちも多いのだが、このような彼我のちがいはどこからくるものだろうか。

 私のみるところ、彼我のちがいはほんのささいなところにあるように思われる。まず勝利をつかみ、大をなしていく人たちの場合、商売の原理・原則を正確にとらえ、迷いのない生き方をしているという点で共通している。一方、敗退をよぎなくされた人たちは商売の原理・原則を忘れた姿勢に終始したがために生き残ることさえかなわなかった、という共通点を有している。

 これは何を意味しているのであろうか。このことを考え直してほしいと思うのである。さて、日本商人の原点であった江戸期の商人たちの場合はどうであったろうか。私はただ脱帽するほかに知らない。

 世界で最初に定価販売を実践し、薄利多売をシステム化し、さらに世界で最初に月賦販売の手法を編出しているのである。当然のことながら、商売上手という点では目をみはるものがあった。しかし次のことにより注目したい。つねに商売の原理・原則をぴしゃと押さえて迷わず、どんなに苦しい時代にも活力にみちた商売をしているのであり、いかに原理・原則をつかむことが大切であるかを身をもって示している。

 本書『商人(あきんど)の知恵袋』は、そうした江戸期の商人らが子孫の繁栄を願って書き残した家訓・商訓さらに商人心得書を今日的な視点で読み直したものである。--略---

 毎日の商戦の中で、活用されることを心から願っている。〉

                    昭和五十九年            青野豊作

 この書は、ひとり商売に限らず、人が生きて行く上において必要不可欠の哲学を教えていると思うのです。現在、「本屋大賞」として脚光を浴びている書籍ももとより良いとは思いますが、長い人生への良薬が何れにあるか、と見た場合、天地の差があるように思えてならないのです。選択するのは当人です。良薬を求めましょう。それは自分のためなのです。

 長い人生のように思われる日々ですが、お笑いなどにうつつを抜かしている暇はないのです。


無為にして物成る、是れ天道なり。『礼記』

2010-04-16 16:48:24 | ブログ

タイトル----無為にして物成る、是れ天道なり。『礼記』 第431号 22.04.16(金)

〈無為にして物成る、是れ天道なり。巳(すで)に成りて明(あきらか)なり。〉(新釈漢文大系・竹内照夫著『礼記』明治書院)(参照)。

 通訳「物事に対して特別に策を練るとか、強制的行為もしないのに物ごとは自然と、かつ整然と成立する、というのも天道であります。そして物事が極く自然に神秘な力によって育成・成就すれば、実に明白に人の目に映ることになるというのも天道であります。」(前掲書)参照。

………… 

 南洲翁遺訓と出会って30年に垂んしていますが、荘内南洲会会館を初めて訪問した時のことです。一通り小野寺先生のご高説を拝聴し、それぞれ会館内を見学しました。私は、玄関のすぐ傍に置いていた白拍子の冊子を手に取ってみました。そして菅原先生の著書『教えの国荘内』に釘付けになったのを今でも記憶しています。その書を立ち読みしていたため、旅の仲間との記念撮影に入っていないのです。団体の写真には入っていないのですが、私にして見れば、『教えの国荘内』と出会った方が遥かに意義があったと、今でもそのように思っています。その書を購入したのは私だけであったということでした。

 その冊子を購入し帰ってから何回も何回も拝読しました。そして小野寺先生からのご贈呈分も含め40冊くらいを友人・知人に贈呈した次第でした。当該書は今でも座右の書として置き、学ばせて戴いているところなのです。

 『南洲翁遺訓』の第一刷を全国に頒布しましてから一世紀が過ぎ、西郷南洲翁の人徳については多くの人々が認めるところでございます。爾来、荘内では西郷先生、菅臥牛先生の遺訓を学ぶと同時に、この思想広まれよ、と熱心に活動を致しております。

 思うに永年のこういった積み重ねが、荘内南洲会の人々の生き様として体質的なものとなり、人々をお導きしていると思うのです。それは構えるのではなく、自然に、いわゆる「無為にして物成る」ということだと思っています。その証が、絶えることのない荘内南洲会の人間学講座であります。そして、西郷先生の遺徳を訪ねる旅だと思うのです。

 私は拙著『礼節のすすめ』に、「荘内南洲会を詠ず」と題して和歌・今様・漢詩を書きました。浅学菲才の身で忸怩たる思いで書いたのです。今様に書いた「文・行・忠・信  無為の徳」は、季刊オピニオン雑誌『日本主義』に描かれている「徳義をもって興す 戊辰の敗戦を生き抜いた智と力」で紹介されている風土庄内の人々が、永年に亘り人間学を修得してきた諸々が体質的に醸しだす「無為にして物成」った証左だと確信したからでした。

 私共の学修期間の年輪は、まだまだ浅うございます。荘内南洲会の方々に比較し雲泥の差はありますが、奥義は分からずとも、真摯に学び、実社会にいかに活用するか、ということだと思うのです。昨夜も、若手師範を迎えて一献酌み交わしながら、『南洲翁遺訓』等の精神をいかに行動として実践するかについて議論した次第でした。

 元々『南洲翁遺訓』に関心がなかった若手師範たちが愈々『南洲翁遺訓』に興味を抱き、それぞれの道で、その精神文化を応用・活用してくれることによって、『南洲翁遺訓』の刊行の意義の一端になるであろうと思考し、共に、更に学修して参りたいと思う次第でございます。


庄内と薩摩とを結ぶ「徳の交わり」--『日本主義』

2010-04-14 16:29:50 | ブログ

タイトル----庄内と薩摩とを結ぶ「徳の交わり」--『日本主義』 第429号 22.04.14(水)

 季刊オピニオン雑誌(2009/冬 NO.8)『日本主義』に掲載されました庄内藩の秘密についてはブログ第239号、242号、243号、248号、264号等々で紹介致しました。今回は「徳の交わり」についての記事を紹介します。

「世間では南洲翁の功業だけに目を奪われて、その因って来たる根本を見ないことを憂うるものである。華をのみもてあそんで、その根を問わぬのは世俗の情であるが、人の根本である徳が盛んにして、栄華である功業がこれに従って外に発するものである。」(『南洲翁遺訓』序文より)

 ◆西郷隆盛と菅実秀

 鹿児島市と鶴岡市は、兄弟都市です。「兄弟都市盟約」を結んだいきさつは、「西郷隆盛と菅実秀の交わり」であるとされています。その「徳の交わり」の碑文が鹿児島にあります。(現在、荘内南洲会会館にもあります。)

 西郷隆盛(南洲)と菅実秀(臥牛)が対話しているこの座像は、ここ西郷屋敷において両翁が親睦を深め「徳の交わり」を誓い合ったことを記念して製作したものである。臥牛翁は庄内藩の有力な家老であった。庄内藩は戊辰戦争で官軍に激しく抵抗した為、厳しい処分を覚悟していたが、南洲翁の温かい取り計らいにより、処分は極めて寛大なものとなった。この南洲翁の人徳に感服した臥牛翁は、明治8年、自ら7名の旧藩士と共に来鹿し、南洲翁の教えを受けた。後に臥牛翁はこれらの人々の手記を集め、『南洲翁遺訓』を刊行し全国に頒布した。南洲翁の偉大さが全国に知れ渡ったのは、実に臥牛翁の人徳がその一端を担ったものと言える。ここに両翁の遺徳を偲び、幾多の教訓と敬愛の精神を後世に伝えるため、有志とあいはかり、浄財をつのり、対話の座像を建立した。

       碑文『徳の交わり』    平成3年11月吉日   武西郷屋敷銅像建立委員会

 菅家について---菅は、もともと肥後の国(熊本県)の出身で、菅原道真の9番目の子供の子孫とも伝えられています。

 ◆戊辰戦争と庄内藩

 戊辰戦争とは明治元年の干支が戊辰であるため、戊辰戦争と呼ぶわけで、この年1月に、鳥羽伏見の戦い・徳川慶喜征討令が出て、3月に西郷と勝海舟の高輪会談があり、江戸総攻撃の中止となります。そして4月に江戸城明け渡しがあり、5月には上野の彰義隊が敗れます。

 戊辰戦争で西軍(新政府軍)と徹底的に戦ったのは、長岡藩、会津藩、庄内藩の三藩でした。

 ◆西郷と庄内藩士の交流

 庄内藩は、明治元年9月26日に降伏謝罪しますが、その時の庄内藩に対する官軍の処分は実に寛大であったといいます。官軍参謀として、越後の長岡藩には土佐の岩村精一郎、仙台藩や会津藩には長州の世良修蔵等が処分に当りましたが、勝った勢いでの略奪行為は悲惨を極めた状況であったそうです。しかし庄内藩に関しては、薩摩藩出身の黒田清隆が参謀となり、寛大な処置を行ったのです。

 まず、降伏謝罪した藩主酒井忠篤に対して禅龍寺に謹慎するように示達し、城を受け取り、兵器・弾薬を取り上げるのみで藩主を辱めるようなことをせず、ただ名のみ軍門に降るという形をとり、また家臣達も自宅謹慎という処分で済みました。その他の諸事万端すべて寛大で、勝者のおごりも示さなかったので、庄内藩では昨日まで敵と恨んでいたことも忘れるように敬服しました。

 ----明治3年(1870年)8月、酒井忠篤公は使者を鹿児島に遣わし、親書を島津公及び南洲翁に送り、今後の親交を懇請します。これが維新以後の薩摩と庄内の表立った交わりの最初になります。

 次に続きます。