味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

詩に曰く、惟れ天の命は,於穆として已まず。

2019-03-31 16:48:20 | ブログ
第3727号 31.04.01(月)

詩に曰く、惟れ天の命は、於穆(ああぼく)として已まず、と。蓋し天の天たる所以を曰ふなり。於乎不顕なるかな、文王の徳の純、と。蓋し文王の文たる所以を曰ふなり。純も亦已まず。『中庸』295

 されば『詩』には「天の文王に下したまへる命令は、ああ、みちみちて永遠に絶えることがない」と歌っている。思うに、この永遠に絶えることがないとは、天がありとあらゆるものがよりすがる、その生存の大本である理由を明らかにしているのである。続いて『詩』には「ああ、輝かしいかな、天命を受けて国開きなされた文王の徳の心こもりて厚いことよ」と歌っている。思うに、この心をもっぱらこめた厚さこそは文王が人の世に生きるものが、ひとしく最もよいこととして仰いでいる文という名を得ている理由を明らかにしているのである。このように、人間のもっぱらにこめる誠は、天とともに永遠に止まずつとめて、永遠に栄えるのである。

 【コメント】ここでも誠の大切さを教えています。私共も誠の精神を込めた人間へと成長すべく日々に研鑚したいものです。

 この冒頭にある「於」は、感嘆のことば、「穆」は、『詩経』清廟篇の毛伝に「穆は美なり」とあり、これが通義になっているが、朱子は、「穆は深遠なり」と解している。穆の字は、もと禾(か)の穂がこぼれるばかりに実っているさまにかたどるのであるから、充実が本義であるとしなければならぬ、とあります。

 私は漢籍の言葉等々を連日ご紹介していますが、こういう言葉の持つ意味を各自が学び身に修め人生に活かして行きたいものです。
 今朝のテレビでは日本人15人位が台湾に行き、そこから日本の高齢者の人々に振り込め詐欺同様の電話をしているのだと報道されています。お年寄りの人々を騙し金を収奪するなんてどういう神経を持った人々なのでしょう。こういう日々に手を染めたらやがて大変なことになるのです。
 とにかく悪に手を染めたらいけないという教育を徹底して貰いたいものです。そのためには、先ず政治家各人がお手本を示して欲しいものです。

 只今10時半です、間もなくすると新元号が決定し菅官房長官が発表することになります。新元号で平和で豊かな社会への道しるべとなって欲しいものです。多くの人は、「安全」「平和」であって欲しいと言っています。私はそこに「躾教育」も追加して欲しいものだと思っています。今日非違行為が罷り通っているのも、躾教育がなされていないからだと思っています。

 昨日は健康スポーツランドに行きましたら、その昔電電公社で一緒に仕事をしていた東 蔦男様と30年ぶりくらいにお会いしました。プールが終って着替えをしようと着替え室に行きましたら、高齢の方のお尻の右側に切り傷がありましたので、この傷はどうされたんですか、とお尋ねをしたら私の方を向いた時、あ・東さんだと思ってお声をかけたのでした。今88歳になったとのことでした。毎日のように健康ランドに来ているとのことでしたが、初めてお会いしたのでした。私は昨日で1435回目でした。

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『善の研究』第181回

 斯くの如き実在発展の過程は我々の意識現象について明かにこれを見ることができる。たとえば意志について見ると、意志とは或理想を現実にせんとするので、現在と理想との対立である。しかしこの意志が実行せられ理想と一致した時、この現在は更に他の理想と対立して新なる意志が出でくる。かくして我々の生きている間は、どこまでも自己を発展し実現しゆくのである。次に生物の生活および発達について見ても、此の如き実在の方式を認むることができる。生物の生活は実に斯の如き不息の活動である。ただ無生物の存在はちょっとこの方式にあてはめて考えるが困難で゜あるように見えるが、このことについては後に自然を論ずる時に話すこととしよう。

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『菜根譚』190

 利を好む者は、道義の外に逸出し、其の害顕れて浅し。名を好む者は、道義の中に竄入し、其の害隠れて深し。

 〔訳〕利欲を好む者は、初めから道義の外にはしり出て不義理を働くので、それは明白でだれの目にもつき、その害はむしろ浅い。これに反して、名声を好む者は、初めから道義の中にもぐりこみ仮面をかぶっているので、それはちょっと見るとわからず、それだけにその害はかえって深い。

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今夫れ山は、一巻石の多きなり。

2019-03-30 15:46:10 | ブログ
第3726号 31.03.31(日)

今夫れ山は、一巻石の多きなり。其の廣大なるに及んでは、草木之に生じ、禽獣之に居り、宝蔵興る。今夫れ水は、一勺の多きなり。其の測られざるに及んでは、黿(げん)・鼉(だ)・鮫・龍・魚・鼈・生じ、貨財殖す。『中庸』291

 その天地の作りなしたあの山も一にぎりの石がたくさん集まっているのであり、その広大であるに至っては、草木がここに生え、鳥獣がここにすみ、また珍しい宝物がここからたくさん出るのである。あの水も一すくいの水が集まっているのであり、そのはかり知れないほど深大であるあるに至っては、黿や鼉や鮫(みずも)や竜や、魚や亀やがここに生まれ出で、ここから貴重な物資がたくさんとれるのである。これは善美をきわめるには、誠を止まずに修めなければならぬということの教訓である。

 【コメント】「善美をきわめるには誠を修める」ことが大事だというのは、人間の一生にとって大事なことです。人々が安易に非違行為に走ることを私は戒めているつもりですが、どうしてなくならないのでしょう。

 東京で仕事から帰宅した女性が何者かに刺殺された事件では、同僚らしき男が逮捕されたとのことです。悪事を働けば必ず逮捕されるということです。何故、無抵抗の女性が刺殺されなければならないのでしょう。
 
 経済優先も大事なことなのですが、教育を通じての人格の形成もより大事だと思います。ですから、その為には『南洲翁遺訓』を徹底的に学ぶということが大切だと思います。
 昨日は空手道教室の最後に『南洲翁遺訓』の冒頭にある「抑西郷南洲翁は---」の所を大声で拝誦しました。空手道教室でおけいこをしているマサダカナコ様・小学一年生はこの文章を暗記しているのです。

 さて明日は元号が決定される訳ですが、どういう元号になるのでしょう。国民が平和の裡に和やかに過ごすという意味で「民和」がいいと思うのですが、如何でしょう。
 今午前10時です。昨日、道場訪問をしてくれた中島さんを父親の先生は、布団などを車に積んで長崎へ向かっていると思います。交通事故を起こさないで帰宅されるようお祈りしています。

 昨日は、中島先生が県議会議員等になって欲しいものだと本人と娘さんへお話しました。それは中島先生が真面目な性格であり、有能であり、人を大事にされる方だからです。

 私は安倍総理が好きなのですが、昭江夫人を承認喚問したいと野党が提起された時、何故国会に呼ばないのか、そういうところが好きではありません。これは国会の私物化の何物でもないと思います。呼びたくなければ、総理の妻という存在を解消すべきだと思います。

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『善の研究』第180回

 而してかくこの二つの物が互に相対立するには、この二つの物が独立の実在ではなくして、統一せられたるものでなければならぬ。即ち一の実在の分化発展でなければならぬ。而してこの両者が統一せられて一の実在として現われた時には、更に一の対立が生ぜねばならぬ。しかしこの時この両者の背後に、また一の統一が働いておらねばならぬ。かくして無限の統一に進むのである。これを逆に一方より見れば、無限なる唯一実在が小より大に、浅より深に、自己を分化発展するのであると考えることができる。此の如き過程が実在発現の方式であって、宇宙現象はこれに由りて成立し進行するのである。p97

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『菜根譚』189

 寧ろ小人の忌毀するところと為るも、小人の媚悦するところと為ることなかれ。寧ろ君子の責修するところと為るも、君子の包容するところと為ることなかれ。

 〔訳〕つまらぬ人間に、憎みそしられてもよいが、こびへつらわれるようであってはならない。立派な人物に、きびしく責められてもよいが、見放されてお情を受けるようであってはならない。

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今夫れ天は、斯たる昭昭の多きなり。

2019-03-30 09:12:17 | ブログ
第3725号 31.03.30(土)

今夫れ天は、斯(し)たる昭昭の多きなり。其の窮まり無きに及んでは、日・月・星辰繋(かか)り、萬物覆はる。今夫れ地は、一撮土の多きなり。其の廣厚なるに及んでは、華・嶽を載せて重しとせず、河・海を振(おさ)めて洩らさず、萬物載せらる。『中庸』291

 ところで善美をつくしている天地も、そのもとにかえって考えれば、あの天は、わずかな光がたくさん集まっているのである。そしてそのかぎりなく崇高・彰明であるに至っては、日や月や星もここに位置して輝き、あらゆる物がこれにおおわれて育つのである。あの大地は、一つまみの土がたくさん集まっているのである。そしてそのかぎりなく広く厚くあるに至っては、華山や嶽山のような大山を載せていても重いとて、ふりおとしもせず、大河や東海のようなあまたの水を収めていても多すぎるとて洩らしもせず、またあらゆる物がここに載せられているのである。

 【コメント】何の取りえもない私共も善美をつくしている天地同様、崇高・彰明のようでありたいものです。人間はかくありたいと思い努力すれば、少しずつでも近づくと思います。

 只今、30日、午前11時過ぎです。今先、円心会道場で空手道修行をしていた中島先生、ご令嬢の瑠果さんが見えました。瑠果さんは長崎大学・薬学部に合格し明日鹿児島を出発するとのことです。
 出発の前にご挨拶をしたいと言って道場訪問をしてくださいました。その来訪を期して空手の舞を演じて貰いました。
 私は正面に坐して、緊張して舞を観察しました。二年を過ぎる期間、見ていませんでしたが、非の打ちどころがなく、100点満点の空手の舞を演じてくださいました。高齢化して身体が思うように動かない私から見て、最高の舞姿でした。

 腰の落とし方、拳の握り方、目の付け所、腰を落としての歩き方、そして舞の中での空手道攻防の技、誠に素晴らしい限りでした。
 オリンピックを控えた今、全国的に女性の方々が、空手形をする人がテレビで放映・紹介されますが、選抜されたこういう女性の方々も瑠果さん演じる舞はできないと思います。

 そこには精神的美しさ、修行で構築された内面の精神美、古典の学問で学んだ人間の美しさ、人間本来の心の美しさがなければならないのです。瑠果さんの舞を見て、十年に近い修行によって構築された美しさに見とれた次第でした。
 長崎大学で二年位してから皆の前で演じることもあろうかと思います。これを歌っている水前寺清子様にも見て戴きたいと思った次第です。
 こういう人間の美しさを表現して、全国的にワルの象徴・アポ電強盗に手を染めている若い人々への美しきメッセージとして貰いたいものだと思った次第です。
 アポ電強盗をすれば手っ取り速く金が手に入ると思います。が、そういう悪事をしたら必ず天の制裁があるのです。私はそういう類の人を数多く見てきました。人間正直ほど素晴らしいものはないのです。
 皆さん、是非、『南洲翁遺訓』を読んでください。漢籍を繙いてください。

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『善の研究』第179回

 第七章 実在の分化発展

 意識を離れて世界ありという考より見れば、万物は個々独立に存在するものということができるかも知らぬが、意識現象が唯一の実在であるという考より見れば、宇宙万象の根底には唯一の統一力あり、万物は同一の実在の発現したものといわねばならぬ。我々の知識が進歩するに従って益々この同一の理あることを確信するようになる。今この唯一の実在より如何にして種々の差別的対立を生ずるかを述べて見よう。
 実は一に統一せられていると共に対立を含んでおらねばならぬ。ここに一の実在があれば必ずこれに対する他の実在がある。

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『菜根譚』188

 磨礪は当に百煉の金の如くすべし、急就の者は𨗉養にあらず。施為は宜しく千釣の弩(ほど)に似たるべし、軽発の者は宏功なし。

 〔訳〕修養を志すなら、なん度も錬り鍛えた金のように、じっくりするがよい。速成では深い修養はえられない。また、事業を行なうなら、強い石弓を発するように、慎重にするがよい。軽々しく発しては大きな成果はえられない。

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天地の道は、壹言にして盡くす可きなり。

2019-03-29 09:18:21 | ブログ
第3724号 31.03.29(金)

天地の道は、壹言にして盡くす可きなり。其の物たる貮(じ)ならざれば、則ち其の物を生ずること測られず。天地の道は、博なり、厚なり、高なり、明なり、悠なり、久なり。『中庸』291

 天地の道は、たった一言で簡明にいい表わすこともできる。それこそは、ただ一つ常に変わることなく作用(はたら)く、それだから天地間の物を発生させ成長させることが、はかり知られずに多いということである。しかも天地の道は、やはりいい表わせないほど広博であり、崇高であり、彰明であり、悠遠であり、永久であって、善美をつくしているのである。

 【コメント】私共この世に生を得ている人間も、天地の道同様、広博、崇高、彰明、悠遠、永久、善美等々の意義を噛みしめたいものです。
 ところが現実的には、短絡的に悪事に走る人が多いとのこと、適うものなら、上に書いた素晴らしい言葉を味わって欲しいと思います。世に天罰という言葉があるように、悪事を働いたら、必ず世に知れ渡り、相応の罰を受けることになるのです。

 今朝は新元号のことについて羽鳥アナ司会のもと、長嶋氏、玉井氏らの意見も出されました。現代の若い人々は西暦よりか、元号がいいとという人が7割位を占めているとのことでした。
 その時、玉井氏曰く、行政は元号よりか西暦にすべきだと発言しました。思うに、行政は伝統を重んじる視点からそのようになっている筈です。一テレビ局の一人間が、何々すべきいう言葉を使用すべきではないと厳重に指摘したいと思います。

 天地の道は絶対唯一の根元であって、それ以外ではあり得ないそのものとして、自ら原因となって常に一定不変の展開をすることをいう。この唯一の本質は、「誠は天の道なり」とある通り、誠であるとと信ずる。換言すれば、人間の誠もこのような作用・展開をすべきものである、とあります。が、この元号問題も、便利・簡易さを使用するという考えは理解できますが、当該国の歴史的運用・事実を重んじることが最善だと思います。
 特に長年、『南洲翁遺訓』と漢籍の世界を従容してきた人間としては、元号が最善だと思っています。

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『善の研究』第178回

 我々のいわゆる客観的世界とと名づけている者も、幾度か言ったように、我々の主観を離れて成立するものではなく、客観的世界の統一力と主観的意識の統一力とは同一である。即ちいわゆる客観的世界も意識も同一の理に由って成立するものである。この故に人は自己の中にある理に由って宇宙成立の原理を理会することができるのである。もし我々の意識の統一と異なった世界があるとするも、此の如き世界は我々と全然没交渉の世界である。苟(いやしく)も我々の知り得る、理会し得る世界は我々の意識と同一の統一力の下に立たねばならぬ。頁95

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『菜根譚』187

 縦欲の病は医すべくして、しかも執理の病は医し難し。事物の障りは除くべくして、しかも義理の障りは除き難し。

 〔訳〕欲にこりかたまった病は直すことができるが、りくつにこりかたまった病は、なかなか直せない。物事についての障害はとり除くことができるが、道理についての障害は、なかなかとり除けない。
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 昨日は第二道場での御稽古は二人でした。早く行ってペマ・ギャルポ著を一時間拝読しました。このブログをお読みの方、およろしかったらこの本をお読み頂きたいと思います。
 その中から引用します。曰く、----

 --人間には、水や食べ物がなければ生きていけないように、信仰や道徳、少なくともそのような価値観が存在することを教えなければ、精神が餓えて貧しくなってしまう。もしそれを否定して、人間は、社会の法律を最低限守っていけば、あとは自分の好きなことをしていけばよいのだとということしか教えられなくなったら、それが行きつくところは欲望だけの人間である。----
-----本当は日本人は、物質を超えた精神的なものさらには信仰に深い関心を持った民族だったはずだ。---

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悠久は物を成す所以なり。

2019-03-28 09:31:39 | ブログ
第3723号 31.03.28(木)

悠久は物を成す所以なり。博厚は地に配し、高明は天に配し、悠久はきはまり無し。此の如き者は、見(あら)はさずして章(あら)はれ、動かずして變じ、為す無くして成る。『中庸』289

 はてしなさと永久とは天地が無限に物を完成させている徳である。して見ると、誠の博く厚いことは、大地の徳と相一致した生動であり、その高く明らかなことは、天の徳と相一致した完成であり、そのはてしなさと永久とは、天地のかぎりなさとともに無上の善として栄えて行くことである。その誠のきわみがこのように天地とともに栄えるに至ったものは、ことさらに誠を外に表そうとしないでも、それが輝き出し、自分からはたらきかけないでも、すべての物ごとに応対することを誤らず、何もしないでも自然に世のなかが治まるのである。

 【コメント】解説を読んでみて「誠」の大切さが身に沁みております。実は私は若い頃から、誠という言葉が大好きでした。

 高校生の頃、枕崎で市議会議員の選挙がありました。その時、私の父とお付き合いしていた近所の園田義人という人が立候補しました。父がその際、責任者になって上げました。園田さんは通称カカシという名前で呼ばれていました。
 私の父は枕崎では選挙のプロと呼ばれていました。選挙事務所の手伝いをする人々が友人・知人に園田カカシに投票して欲しいとしてお願いし、票読みをしたら、当選確実の票が集まったのです。ところが実際の選挙では落選しました。園田義人に投票した人々は、大激怒したのでした。
 投票に行った人たちが「カカシ」を「タカシ」と書いたというのです。その「タカシ」という人は後々市長になった人です。

 園田カカシの応援団の人たちは今後選挙をボイコットするという策に出ました。その団体に名称をつけようということになり、応援団の各人が、それぞれ名前をつつけました。
 その時私が「誠心会」という名称にしたいとして提案し採択されたのでした。そういうことで若い頃から、「誠」という言葉が好きだったのでした。
 これらはかねがねガミガミいう母の言葉から戴いたものだと思っています。人を騙すようなことをするな、ずるいことをするな、人には親切にしなさい、人に頭を下げなさい、良い言葉を遣いなさい、働け働けもっと働けは母の口癖だったのです。
 ですから私は空手道教室で子供たちに、母の教え同様の指導をしているのです。

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『善の研究』第177回

 前にもいったように、個人と個人との意識の連結と、一個人において昨日の意識と今日の意識との連結とは同一である。前者は外より間接に結合せられ、後者は内より直に結合するように見ゆるが、もし外より結合せらるるように見れば、後者も或一種の内面的感覚の符徴によりて結合せらるるので、個人間の意識が言語等の符徴に由って結合せらるるのと同一である。もし内より結合せらるるように見れば、前者においても個人間に元来同一の根底あればこそ直に結合せらるるのである。

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『菜根譚』185

 身を持するは、太(はなは)だ晈潔(こうけつ)なるべからず。一切の汚辱垢穢をも、茹納し得んことを要す。人に与するは、太だ分明なるべからず。一切の善悪賢愚をも、包容し得んことを要す。

 〔訳〕世渡りで身を保って行くには、あまり潔癖すぎてはらない。一切のよごれやけがれをも、すべてのみこむようでありたい。人と交わるには、あまりきちょうめんすぎてはならない。一切の善人悪人、賢者愚者をも、すべて包容することができるようでありたい。

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