味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

危うしとする者はその位を安んずる者なり。

2017-02-28 08:01:21 | ブログ
第2982号 29.02.28(火)
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危うしとする者はその位を安んずる者なり。『易経』
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 問題にぶつかった場合に、これは危険なものだと深く注意心をもつことが、自分の地位を安定させる方法だ。物事を軽々しく考えてはいけない。240
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 【コメント】上の『易経』が訓戒するように、何事につけ慎重でありたいものです。その慎重さ故に人様の意見・考えを否定することはよくないと思います。
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 今日は確定申告の件で税理士さんに指導して貰うことになりました。昨日はお墓詣りに行ってきました。徹底した安全運転に心掛けました。

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『教養のすすめ』「無我の中で達する境地----至誠の人 西郷隆盛」(第22回)
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 西郷の漢学が一流のものだったことは、西郷の漢詩を見るだけでわかります。江戸時代の日本は超一流の漢学者を輩出しました。彼らはいずれもすぐれた漢詩を残していますが西郷の漢詩は、当然のようにこうした漢学者の作品と並べても何の遜色もありません。それだけでも西郷は一流の漢学者と同等の教養があったといえましょう。
 私がとくに好きなのは、次の詩です。


  世上の毀誉 軽きこと塵に似たり
  眼前の百事 偽か真か
  追思す 孤島幽囚の楽しみ
  今人に在らず 古人在り

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『臥牛菅実秀』(第514回)
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 この乾田馬耕法は、明治期の農業発展に大きな影響を与えた福岡県の林遠理が唱導したものである。林は明治十六年に勧農社を創設して指導者を養成し、それらの人を各地に派遣して、乾田馬耕を中心とする新しい農法の普及に当らせた。実秀に招かれた伊佐は、もちろん林遠理の門下であったと思われる。
 酒田市下の日枝神社にこの人の画像の奉納額や、伊佐が奉納した短床梨などが掲げられて、乾田馬耕の荘内の稲作に与えた大きな恩恵を伝えている。

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志立たざれば、舵なき舟、銜なき馬の如し。

2017-02-27 09:30:47 | ブログ
第2981号 29.02.27(月)
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志立たざれば、舵なき舟、銜(つくわ)なき馬の如し。(王守仁 教條示龍場諸生)
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 志の立たない人は、舵のない舟、くつわをはめていない馬のようなもので、ふらふらして進路が定まらない。729  
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 【コメント】人間、いかに志を立ててそ、それに向って果敢に挑戦するかが要諦でありましょう。そのためには、『南洲翁遺訓』はじめ多くの文献を繙き、偉人賢人の足跡を参考にしたいものです。
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『教養のすすめ』「無我の中で達する境地----至誠の人 西郷隆盛」(第21回)
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 しかし人間は遺伝と環境で形成されます。そして環境つまりその育ちや教育の影響のほうが圧倒的に大きいといいます。現在の人間と江戸、明治の人が違うのはその教養と修行です。
 西郷の教養はまず漢学です。
 西郷が徳之島に流されたとき、携帯した三本の行李は三本とも書籍でいっぱいだったそうです。それは、『春秋左氏伝』、『孫子』、『言志四録』、『王陽明伝習録』、『洗心洞箚記』、などでした。『李忠定公奏議』、『陳龍川文抄』など、宋の名臣たちが時の政治を論じた、私などは見たこともない書物も愛読したそうです。すべて経世済民の書でなければ、治世牧民の書で、雑誌小説の類はまったく手にしませんでした。

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『臥牛菅実秀』(第513回)
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 (五)

 ----ここで再び主題を酒田米商会所に移すことにするが、その前に米の国荘内に寄せた実秀の深い情熱についてふれておきたい。
 実秀の五男、石川秀助の語ったところによると、従来、東北、関東にかけて全然行われていなかった乾田馬耕法に着目した実秀は、明治二十一年ころ、九州福岡から乾田馬耕教師、伊佐治八郎を招き、自宅内に特に住居をたてて、ここに住まわせ、まず実秀所有の田を試験田として、この劃期的な農法を実施した。

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悪小なるを以て之れを為すこと勿れ、

2017-02-26 10:22:02 | ブログ
第2980号 29.02.26(日)
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悪小なるを以て之れを為すこと勿れ、善小なるを以て為さざること勿れ。『小学』
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 たとえ小さい悪事でも、悪事はいっさいしてはならない。善事は小さいからといって、これをやらずにおくことはいけない。(照烈---劉備玄徳---がその子を戒めたことば)309
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 【コメント】大事な教えだと思います。こういうのを読むと菅原兵治先生の『農士道』を思い出します。正直一辺倒で気骨あふるる先生の教えは農士道を通じて身に沁みました。
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 こういう性格の人が国を代表する責任者になって貰いたいものだと思います。私が詩吟道で師事した竹下一雄先生も、菅原先生にあい似た勤勉家であり、実直にして真摯なるお方でした。そういう偉い先生に30年間詩吟道の弟子として師事したのでした。
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 昨夜は寒い中子供たちは空手道の御稽古にきてくれました。中澤今日子先生から贈呈された絵葉書と菅秀二先生からは「サイコロの根付け」をご贈呈頂きましたので、子供たちに上げました。中澤先生、菅先生、本当に有り難うございました。子供たちは殊の外喜んでくださいました。
 
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『教養のすすめ』「無我の中で達する境地----至誠の人 西郷隆盛」(第20回)
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 孤島幽囚の密やかな楽しみ
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 勝海舟が、天下に恐ろしいものを二人見たといったもう一人は横井小楠ですが、横井の西郷評として残っているのは一言だけです。

「西郷さんは、何となく、西行法師に似ている」
 西行には、頼朝から賜った銀の猫を門前で遊んでいた子どもに与えて立ち去った、という故事があります。横井小楠は維新前に死んでいますから、、西郷が高位高官になって富貴栄華を楽しもうと思えば何でもできた時代のことは知らないのですが、さすが達人、一目で西郷の本質を見抜いていたのでしょう。達人、達人を知る、ということでしょうが、現代人では想像することも難しい世界です。
 どうしてこういう人間が生まれたのでしょうか。生まれつきすぐれた遺伝子をもっていたかもしれません。弟の西郷従道という人も立派な人だったようです。一生、今の自分があるのは、維新の際の兄の働きのためといって控えめに過ごした人ですが、日清戦争前後の閣僚として示した見識は実に立派なものです。

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『臥牛菅実秀』(第512回)
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 二十五年前、荘内を討つために、英気に溢れてこの荘内沖を軍艦で通過していった副島は、六十五才のいま、その荘内に遊んで、日本海の青波を望み、山容依然たる鳥海山を仰いだとき『世事蒼茫』の感にたえなかったことであろう。
 戊辰戦争のときの副島は、新らしい日本の未来図をどのように描いていたかはわからないが、征韓論、そして西南戦争によって、その未来図はすべて崩壊しさったのだ。それ以来、副島は天下の老書生をもって任じてきた人である。この人にも西郷の死は深い影を投げかけていたというべきであろう。

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夫の天命を楽しみては、復た奚をか疑わん。

2017-02-25 09:25:20 | ブログ
第2979号 29.02.25(土)
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(か)の天命を楽しみては、復(ま)た奚(なに)をか疑わん。『文章軌範』
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 いわゆる天命を楽しんでいれば、どんな境遇になろうと、べつに疑うことはない。(陶靖節「帰去来辞」)519 
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 【コメント】私ごとき者は、この作者みたいな自信はありませんが、ただ日々に、『南洲翁遺訓』の精神に違背していないかどうかと自らを省みています。
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 お隣りの北朝鮮では大変不幸な事件に関与したとして、国際的に問題になっているみたいです。異母兄弟の兄を殺害しなくて親切に加護してあげても別に国の運営に支障はなかろうにと思う次第です。
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 むしろ温かい措置の方が、体制を引き締めるためには奏功すると思うのですが、如何なものでしょう。西郷南洲翁がその立場ならそのようにすると思います。

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『教養のすすめ』「無我の中で達する境地-----至誠の人 西郷隆盛」(第19回)
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 あるとき、大久保が英国に特注して金色燦爛たる立派な軍刀をこしらえました。評判を聞いた西郷はぶらりと訪れ、「おはん、これを一寸おいどんに貸してくれんか」といいます。
 大久保が貸すと、いつまで経っても返しません。催促してみると、「ああ、あれでごわすか」と忘れていたという態で、「あれは書生どもが来て、あまり綺麗じゃというて、欲しそうな顔をするものじゃから、くれてしもうた」とと平気な顔だったといいます。
 これはおそらく意図的だったのでしょう。維新の功臣たちの華美贅沢を快く思っていなかった西郷が、いちばん遠慮のない友人である大久保に対して、自分の行動で諷したのでしょう。(ここのくだりも頭山満氏の本にも記載されています。)

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『臥牛菅実秀』(第511回)
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 そしてこれが副島をして、はるばる荘内を訪れさせる機縁ともなった。副島が荘内に来遊したのは、明治二十四年八月と、翌二十五年三月の二回であった。
 来荘した副島は致道館で詩経を講じ、あるいは宿泊した鶴岡上肴町の新茶屋で、多くの人たちに経書を講じたり、田川温泉に遊んだりした。
 そして酒田を訪ねたときは『酒田瞰海楼詠』と題した七言絶句を作っている。
 この詩は口をつく詩句、すべて珠玉のごとく、十句百句たちどころになるといわれた副島のおびただしい作品群の中でも、大きな時代の変転をふまえた深く重い感慨の流露において、ひときわ光彩を放つ代表作である。
 羽州 西望すれば青波足る
 鳥海の山容 旧に依って多し
 世事蒼茫 人 老いんと欲す
 楼船 嘗つて大兵を載して過ぐ

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夫の天命を楽しみては、復た奚をか疑わん。

2017-02-25 09:25:20 | ブログ
第2979号 29.02.25(土)
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(か)の天命を楽しみては、復(ま)た奚(なに)をか疑わん。『文章軌範』
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 いわゆる天命を楽しんでいれば、どんな境遇になろうと、べつに疑うことはない。(陶靖節「帰去来辞」)519 
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 【コメント】私ごとき者は、この作者みたいな自信はありませんが、ただ日々に、『南洲翁遺訓』の精神に違背していないかどうかと自らを省みています。
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 お隣りの北朝鮮では大変不幸な事件に関与したとして、国際的に問題になっているみたいです。異母兄弟の兄を殺害しなくて親切に加護してあげても別に国の運営に支障はなかろうにと思う次第です。
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 むしろ温かい措置の方が、体制を引き締めるためには奏功すると思うのですが、如何なものでしょう。西郷南洲翁がその立場ならそのようにすると思います。

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『教養のすすめ』「無我の中で達する境地-----至誠の人 西郷隆盛」(第19回)
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 あるとき、大久保が英国に特注して金色燦爛たる立派な軍刀をこしらえました。評判を聞いた西郷はぶらりと訪れ、「おはん、これを一寸おいどんに貸してくれんか」といいます。
 大久保が貸すと、いつまで経っても返しません。催促してみると、「ああ、あれでごわすか」と忘れていたという態で、「あれは書生どもが来て、あまり綺麗じゃというて、欲しそうな顔をするものじゃから、くれてしもうた」とと平気な顔だったといいます。
 これはおそらく意図的だったのでしょう。維新の功臣たちの華美贅沢を快く思っていなかった西郷が、いちばん遠慮のない友人である大久保に対して、自分の行動で諷したのでしょう。(ここのくだりも頭山満氏の本にも記載されています。)

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『臥牛菅実秀』(第511回)
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 そしてこれが副島をして、はるばる荘内を訪れさせる機縁ともなった。副島が荘内に来遊したのは、明治二十四年八月と、翌二十五年三月の二回であった。
 来荘した副島は致道館で詩経を講じ、あるいは宿泊した鶴岡上肴町の新茶屋で、多くの人たちに経書を講じたり、田川温泉に遊んだりした。
 そして酒田を訪ねたときは『酒田瞰海楼詠』と題した七言絶句を作っている。
 この詩は口をつく詩句、すべて珠玉のごとく、十句百句たちどころになるといわれた副島のおびただしい作品群の中でも、大きな時代の変転をふまえた深く重い感慨の流露において、ひときわ光彩を放つ代表作である。
 羽州 西望すれば青波足る
 鳥海の山容 旧に依って多し
 世事蒼茫 人 老いんと欲す
 楼船 嘗つて大兵を載して過ぐ

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