味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

本当の学問をやれば、運命を自分で動かすことができるのだ

2017-05-31 16:45:24 | ブログ
第3075号 29.06.01(木)

本当の学問をやれば、運命を自分で動かすことができるのだ。

 昨日に続きます。

 ここで先生の「学」について補足しておきたい。
 先生の学問は基本的には東洋哲学であったが、それで固まっていたわけではない。もちろん、単なる陽明学でもない。先生は、朱子学、老荘、漢詩はもちろん、東洋の歴史・文学・易学・漢方医学に至るまで東洋学全般に通じていた。和歌・俳句も相当なものである。さらに、英語とドイツ語に堪能で、西欧の思想・哲学・文学にも造詣が深かった。一高在学中にフィヒテの「ドイツ国民に告ぐ」を全訳したほどで、英・独文献を広く渉猟していたことは、先の「亡の説」を見ても明らかであろう。
 先生自身「自分の専門は何だかわからない」とよく言っていたが、とにかく、その学の広さと深さには、私どもの想像を絶したものがあった。先生の講義は、それらが渾然一体となって有機的に話されるので、受講者をたちまち魅了してしまうのである。
 先生は、よく「考察の三原則」が必要だと説いていた。問題が複雑で難しいものほど、この原則が必要だという。
 第一は、目先にとらわれず長い目で見る。
 第二は、物事の一面だけ見ないで、できるだけ多面的・全面的に観察する。
 第三は、枝葉末節にこだわることなく根本的に考察する。
 先生は、常にこういう観点に立って問題を解明していくので、その講義は普通一般の訓詁の学とはほど遠いものである。中国古典を講じても、先哲の遺訓を説いても、その精神を現在の情況に当て嵌めて講義する----これぞ「活学」の所以である---ので、聞く者にとっては、たいへん為になる。
 先生は、特に「人物」に重きをおいているから、『士気』『三国志』『論語』『孟子』を講義しても、登場人物を的確に論評しながら解説してくださる---これが為になるうえに、たいへんおもしろい。その実際は、この本に収録した「諸葛孔明」を見ても、おわかりいただけるであろう。
 先生の根幹は、もちろん思想家であるが、「知行合一」の「行」の面を見れば、社会改良家でもあった。戦後は、それが全国師友協会による全国遊説行脚となり、そこで教えた基本的なことは「一隅を照らせ」ということであった。先生は、また、こうも言っている。
「本当の活学、本当の学問をやっていると運も開けてくる。運命は自分で動かすことができるのだ」と。

 先生は、いつも悠揚迫らず端然としており、それは酒席においても変わらない。しかし、一盃一盃と杯を交わしているうちにもえも言われぬ独特の風韻を醸し出すのが常であった。ようやく陶酔の境に入ると、色紙に筆を走らせることも時にあった。
   良夜相酔  杯酒相楽
   酔心相語  明月清風
と格調高い書体で書いてくださったのは数年前のことであった。

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『人としての生き方』(第29回)

   勇を好みて学を好まざれば、其の蔽や乱。

勇ましいだけで、どういう時に勇を奮うべきか。本当の勇気とはどういうものなのか。そこに弁えがなければ世の中を乱すだけです。

   剛を好みて学を好まざれば、其の蔽や狂。

 強直なだけで、そこに節度や反省を伴ったものでなければ、単に力を振り回すだけの危険なものとなる。これは学問をする時によく心しておかねばならないことです。

 『論語』公冶長篇には次のようにあります。

   子路、聞くこと有りて、未だ之を行うこと能わざれば、唯聞く有らんことを恐る。

 孔子が最も愛したと思われる弟子は子路でありました。孔子を敬慕し教えを受けた子路は、前に聞いた教えを実行に移せない時には、新しい教えを聞くことを恐れたといいます。この純真さは非常に学ぶべきだと思いますね。 
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「死に代えた『南洲翁遺訓』」(第23回)

 菅が政治に参与する五年前には、西郷が身も心も捧げた主君島津斉彬の急逝にあい、殉死を決意するのですが、月照に諌められて、斉彬の意思を継いで国事に尽くすことを決心します。このあと西郷は月照と薩摩潟に相抱いて入水しますが、奇跡的に蘇生し、菊池源吾と名を変えて大島に流されます。この島で西郷は桜田門外の変を聞き、気が狂ったかと、島の妻・愛子がびっくりしたほど、刀を降り回し外に飛び出して狂気しました。そして鹿児島の大久保らにその後の運動を指示しています。
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歴代首相に「宰相学」を伝授

2017-05-30 18:30:19 | ブログ
第3074号 29.05.31(水)

歴代首相に「宰相学」を伝授。 

 『男子志を立つべし』に掲載されている、歴代首相に「宰相学」を伝授を引いてご紹介致します。

 昭和七年、満州事変後の趨勢を憂えた先生は「権力争奪の忿争を超越し、国運の維新に尽瘁するため」、「国維会」を結成した。会長に近衛文麿、発起人・同志に吉田茂、松本学、荒木貞夫、広田弘毅の諸氏が加わった。当時の読売新聞は「我が国の政治は白面の青年学徒安岡正篤氏に依って牛耳られている。現内閣の半数の閣僚は安岡氏の指導理念による国維会の会員である」と書いたが、このことからも、当時の先生の活躍ぶりがうかがえるであろう。
 戦時中、先生は国家主義思想家といわれた。しかし、コチコチの右翼だったわけではない。日独伊三国軍事同盟には反対したし、東条首相を暗に批判する「山鹿流政治論」を読売新聞に掲載して政府筋の物議をかもしたこともあった。
 先生についてのエピソードで最も良く知られているのは、終戦の時に、政府の要請により天皇の終戦の詔書に筆を入れたことであろう。詔書を読んだ先生は「堪へ難キヲ堪へ、忍ビ難キを忍ビ」の後に「以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」と書き加えたという。
 戦後は戦犯として追放になったが、それにもかかわらず、蒋介石総統が安岡先生を非常に尊敬していた、と伝えられている。二十六年に追放解除後は特に懇意になり、あるとき、蒋総統から『孟子』を懇望された。先生がそれを贈ると、蒋総統は晩年、毎日その『孟子』を読んでいたといわれる。
 戦後、先生の活動の中心となったのは「全国師友協会」(昭和二十四年設立)である。「師友」という会名は、吉田松陰の「士気七則」から採られた。すなわち「徳を成し材を達するには、師の恩、友の益多きに居る。故に君子は交遊を慎む(人間、独り善がりではいけない。善い師、善い友を持って謙虚に学ばねばならない)」というもので、安岡先生らしい命名である。
これによって、先生は再び政財界リーダーの啓発・教化に乗り出したわけである。これを客観的に見れば、政財界リーダーが戦後の混乱に処するに当たって、中国古典に基づく「安岡帝王学」は不変の価値を持っていたと言えるであろう。それは現在でも同様である。
 政界関係では、戦後、歴代首相のほぼすべてに「宰相学」を伝授したが、このことは一般にあまり知られていない。吉田首相は、戦前からの関係もあって、十歳も年下の先生を”老師”と仰いだし、福田・大平首相も安岡先生を師と仰いだ。岸・池田・佐藤の各首相と先生との関係も密接であった。そのほか、自民党のニューリーダーといわれる人たちも定期講座で先生から帝王学を学んでいた。
 一方、経済界では、先生を囲んで学ぶ会は数多あり、そのメンバー名をいちいち記すわけにはいかないが、いずれもトップ層の錚々たるメンバーが揃っていたことは確かである。それも、昭和五十八年十二月、先生のご逝去(享年八十六)によってすべて解散した。ただ、関西師友協会はじめ各地師友会は、先生の遺志をつぎ、変わらず活動を続けている。

 この項で紹介している終戦の詔書に手を入れたということは、月刊誌『致知』を永年購読していたこともあり、それらで史実を知ることが出来たのでした。大変有難いことでした。

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『人としての生き方』(第28回)

   信を好みて学を好まざれば、其の蔽や賊。

 ヤクザ社会でも仁義ということをいわれます。他の人に迷惑を掛けても仁義を守るといいますが、賊というのは訓読みではそこなうと読みます。いわゆる条理を弁えず前後の見境も考えずに行うというのは損ないとなる、賊というものです。

   直を好みて学を好まざれば、其の蔽や絞。

 正直というものは大切なことだけれども、それが洗練されたものでないと馬鹿正直となる。絞というのは融通の利かない頑固ということです。偏狭な正義感を頑迷に主張すれば他に迷惑を掛けることになります。
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「死に代えた『南洲翁遺訓』」(第22回)

 こういう見方ができるのは、かつて菅が同僚たちに、「将来、家老になるのは俺だろう」といったときのあの志、気位を、このころもずっと持ち続けていたことを示すものでしょう。絶えずトップの地位に自分をおいておくという気位でならば、このくらいのことはいえるかもしれません。
  「将来、家老になるのは俺だ」という気位を忘れなかった菅は、その後、十年程たった三十四歳のとき、郡奉行となり、異例の藩政顧問に抜擢されました。他の重臣たちはほとんど関心をもたなかった菅を、強く忠発に推輓したのは山口三郎兵衛でした。山口には人物を見抜く慧眼があったのです。山口は菅の一藩を担う気位を買い、人並みでない性向などは見捨ててもよかったのです。この山口は東京で西郷と面談していますが、そのとき西郷は、山口を高く評価しています。以後、庄内の藩政は年少の藩主忠篤を助ける後見の忠発と、家老松平親懐と、忠発の側用人山口と藩主忠篤の側用人の菅との四人で、内外多難な時代の舵をとっていくことになるのです。

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「活学」をやれば運勢も開ける。---2

2017-05-30 09:35:14 | ブログ
第3073号 29.05.30(火)

「活学」をやれば運勢も開ける。---2

 昨日に続きます。
 ところが現在では、これが企業やその他組織のリーダーを含めて、人の上に立つ者すべての行動指針として応用されていることは、ご存じのとおりである。しかし、その場合の「帝王学」の多くは、中国古典に範をとった点で似てはいるが、「安岡帝王学」とは別のものである。安岡帝王学の基礎には、眼光紙背に徹する鋭い観察力によって抽出した「人間学の原理原則」があり、これが多くのリーダーを引きつけるチャーム・ポイントとなっている。
 故・伊藤肇氏は、その著『現代の帝王学』(プレジデント社刊)でこう書いている。
「『帝王学』とは、人の上に立つ者がどうしても身につけていなければならない学問、つまり『エリートの人間学』であり、その基本は三つの柱から成り立っている、と師の安岡正篤から教えられた。三つの柱とは、『原理原則を教えてもらう師を持つこと』『直言してくれる側近を持つこと』『よき幕賓を持つこと』である」(編集部注・幕賓とは、帝王に直言してくれる在野の人物。客分。顧問)
 伊藤氏の著書も手伝って、安岡先生の名前は一般企業人にもかなり知られるようになった。しかし肝腎の「安岡帝王学」の内容については、未だしといったところである。その意味で、この本に収めた「三国志にみる栄枯盛衰の理法」は数多い先生の講演の一つであるが、安岡学の広くて奥深い面白さを味わわせてくれる格好のテキストである。これを味読すれば、安岡学が近づき難いようなものでは決してなく、また核心を衝きつつ簡略な話の運びが、非常に今日的であることに気づかれるであろう。

 円心会で修行した薬剤師・金野師範が薬学部に入学した時、この本を一時貸してあげました。彼は全部読んだのか知れませんが、大変難しかったといって、御返し頂いたのが10年以上前のことであります。この本は、古典を取りあげている関係で、言葉そのものが日常的に使われないため、そして安岡先生の語彙が難解であるからであろうと思います。
 でもそういう難解さを承知の上で、読み書き写しという作業をしていけば、これほどよい教材はないと思います。
 年齢に関係なく、筆写をされませんか。これほど良い遊びはないと思っています。余生幾許もない私ですが、それらを毎日続けています。
それは指標とする荘内の先生方の頭脳・人格美に魅せられているからなのです。

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『人としての生き方』(第27回)

   知を好みて学を好まざれば、其の蔽や蕩。

 知識を得ることは良いことだけれども、それを本当に練らないと、とりとめのない知識となって単なる物知りに終わってしまう。これでは何の役にも立ちません。やはり、学んだことを実際に行動に移してゆく。実行の中でその学びを練り込んでゆく。その実行の為の判断の仕方、これが見識なんです。何が正しいか、何が正しくないかということ。これが無いと平気で悪に手を染めてしまうんです。
 ただ、正しい事を実際にやろうとすると、「世話になったあの人に迷惑を掛けるかもしれない・・」、「これをやったら皆の和を壊すかもしれない・・」ということで、自身の身辺を考えると、なかなか実行し難いわけです。だが、本当に大切な事であったならば、それらを承知の上で断行する勇気が必要なんです。この勇気を伴った見識を胆識といいます。
 わたくしが青年運動をやっておりました時に、共産党員と街頭演説をやり合いました。共産党員が言うには、「こんな焼け野原の日本に帰って来ないで、ソ連の為に働いたほうが世界の為になるのではないか」と。「あなたはそんなことを言うけれども、あなたの親兄弟が敵方に捕まっておったら、そんなことが言えるのか。家族は皆待っているんだ。たとえ食べる物が半分になっても、自分の親兄弟を呼びたいと思うのではないか。だからこそ我々は引き上げ運動をやっているんだ」と言いましたら、「レーニンがこう言った」、「マルクスがこう言った」と言うので、「そんなことよりあなた自身がどう思っているんだ」と言ったことがありました。
 知識は沢山持っているけれども、それが自分の行動に表れない。実行の基本となる見識になっていないというのはこういうことであります。

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「死に代えた『南洲翁遺訓』」(第21回)

 また菅のことにもどります。
 ある日、菅が中世古甚四郎を訪ねると、ちょうど古川と二人で『論語』を考究しているところでした。通されてそばに控えていた菅は、二人のやりとりを聞いていて、
 「私は文言の解釈はできないが、大意をつかむことはできると思う」
というので、中世古、彼は菅より十二歳年上で後に致道館助教を経て典学にもなった学者ですが、それではと、『論語』泰伯第八篇の
 「子曰く、如し周公の才の美あるも、驕かつ吝ならしめば、その余は観るに足らざるのみ」
を示して、
 「この孔子の言葉は何を教えていると思うか」と聞くと、菅は、
「国王として、大臣、官僚を侮る気持ちがあれば、彼等は国王のために全力を尽くさないだろう。物惜しみをして与えるものも与えないよう では、人民はついてこないだろう。そんな国王なら、いくら才能があっても、大した治績をあげることはできないと思う」
といったそうです。これは荻生徂徠の解釈にも合致していたので、読書してまだ日が浅いのにこの見方ができるとは---と、二人は顔を見合わせて驚いたそうです。

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「活学」をやれば運勢も開ける

2017-05-29 09:28:10 | ブログ
第3072号 29.05.29(月)

「活学」をやれば運勢も開ける。『男子志を持つべし』

 安岡正篤著『男子志を持つべし』の巻頭を引いてご紹介致します。当時、住友生命会長・新井正明氏の紹介です。font>

 今日、「帝王学」が大はやりであるが、故・安岡正篤先生こそ、まさに「帝王学の権威」であった。先生は、中国古典の勉学を通じて、「国のリーダーはどうあらねばならないか」ということを、あらゆる角度から考えぬいた人である。
 ご存じのように、中国では伝統的に「政治」を再重要視し、かつては、あらゆる学問が政治を良くするためのものであった、と言っても過言ではない。したがって、今日、古典とされる書物の大部分がその目的のために読まれ、研究されてきたのである。しかし、わが国にはそうした伝統があまりないので、特に明治以降、中国古典の研究は、とかく象牙の塔に籠もりがちであった。しかも、研究の中心は、字句の解釈や註釈を主とする、いわゆる訓詁学である。訓詁学はもちろん重要であるが、学問の主目的は、訓詁学の成果を踏まえ、古典から「現在または未来に処する方法」を抽き出すことである。そうすることによってはじめて、学問は現代に生きるのである。
 安岡先生の学問が、まさにそれであった。先生はよく「活学」ということを言われていたが、先生の学問の目的から方法論、日常の行動に至るまで、すべてが「活学」であったと言えよう。その意味で、先生は「学問の王道」をいった人であった。
 では、安岡学の最高目的は何か、というと、それは「より良き政治に資すること」である。そのためには、政治の局に当たる人に「人物」を得なければならないとして、安岡学の中心は「人物研究」に置かれた。一国のリーダー(宰相)を含む組織の長の「あるべき姿・その心得」を研究する、いわゆる「帝王学」である。観点を変え、もっと広い意味にとれば、それは「人間学」と言ってもよい。これが、安岡学の中心テーマであり、最大特徴でもある。
 先生は、主として中国・日本の歴史における治乱興亡を、中心人物ビヘイビアを深く観ることによって、そこからいろいろな原理原則を抽き出そうとしたのである。それは、マクロには治乱興亡の原理原則から、ミクロにはリーダー個人の行動の原理原則に至る幅広いもので、為政者たる者は、必ず心得ておかなければならないものである。つまり、これが本来の「帝王学」であり、それは社会のごく一部の人たちにとって有用なものであった。

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『人としての生き方』(第26回)

   六、学は已むべからず

 『論語』陽貨篇には、学問を怠ることによる六つの弊害があります。これは、孔子のもとで成長を遂げた子路に対する訓戒として孔子が教えたものです。

   由や、女六言六蔽を聞けるか。
   対(こた)えて曰わく、未だし。
   居れ、吾女に語(つ)げん。


 由というのは子路の名前です。「子路よ、六つの言葉の六つの弊害について聞いたことがあるか」と。「いいえ、聞いてはおりません」と子路が答えます。
 すると孔子は「そこに座れ、今から話して聞かせよう」と言って、次の六つの徳目(仁・知・信・直・勇・剛)の弊害について聞かせます。


仁を好みて学を好まざれば、其の蔽や愚。

 非常に愛情があっても、学によってその識見を広めないと「其の蔽や愚なり」愚者の愛、盲目の愛となる。ちょうど親が子供を可愛がるだけで、本当の愛のあり方を知らずに、子供がお菓子を欲しがれば、望むままに与えて歯を駄目にしてしまったり、お腹をこわすというようなことになる。情に溺れるとダメだということです。
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「死に代えた『南洲翁遺訓』」(第20回)

 また「黄泉の下に見える」とは、死後の国で西郷と見えたいという心でしょうが、菅は西郷を尊んで、明からさまに名をいわず、この年になっても、生涯西郷を師と崇め私淑していたことが分ります。菅の偉大な所以です。

     家老の器

 彼が二十二歳のとき忠発の世子(跡取り)忠恕の読書の相手にあげられ、二十四歳のときには近習となり、前の松平や中世古甚四郎、古川儀兵衛たちと、役目がら学問の道に入りました。これも山口、松平の、菅の素朴な性向を学問によって大成させようという温かい考えであったと言われています。
 彼はここでも生来のマグマを発揮して猛烈に読書に励んだそうです。
 余談ですが、西郷もこの年ごろ、郷中の青年たちと朱子の『近思録』の輪読をやったり、伊東猛右エ門に陽明学を学び、また無参和尚のもとに参禅しています。

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国粋主義の反省と日本精神

2017-05-28 09:54:50 | ブログ
第3071号 29.05.28(日)

国粋主義の反省と日本精神---3 

 日本の国土からして非常に紫外線の強い、地熱の高い、ラジューム放射能などの強いところである。それだから杉、檜などが発生し、良い酒ができ、また良い刀ができるのです。植物の数、禽獣魚介の数、実に豊富である。これくらい豊富なところは世界にない。そのうえ、国民精神も儒きたらば儒、仏きたらば仏、キリストきたらばキリスト教、その他何でも、一切自由に謙虚にこれを受けて、そして、これを実に健やかに咀嚼し消化し吸収し、しかして排泄するのである。これこそ偉大なる日本精神です。
 その最も高貴な顕現を皇道に見るのであります。ところが古来、日本に困ったことは、国学者は漢学者を排斥し、キリスト教はまた神道を排斥し、というふうに始終排斥し合っている。特に異民族の文化に反感を持つ、いわゆる日本主義者、日本精神論者が(今日なお未だありがちだが)何ぞといえば相排斥することをもって能事としている。非常によろしくないことであります。それでは日本精神は発達しない。卑近な例をとって、我々が漢籍ばかり読んでいると、どういうものか干からびてしまう。国典ばかり読んでいると、どういうものかだらける。いや、理由はちゃんと明白ですが、それは預りましょう。横文字はどうか。横文字ばかり読んでいてはどうも調子が合わない。漢学者、国学者にしてよく西洋の哲学にも触れ、西洋の哲学・文芸を研究して、また、東洋の学術を修めることに注意を怠らない人、それの自由にできる人ほど、その学問、思想、人物が活きるのです。
 一体、漢学者、国学者というものは、無暗やたらに攘夷論を振り廻して、学問的、文化的に異民族を排斥しておったのであるから、漢学者、国学者はカチカチになってしまって、時代精神に副わなくなった。明治以来から考えましても、いったい明治の初めに、明治天皇の特別の思召しによって、聖堂の跡に大学本校を設けて、ここに和漢の学を広めることにし、もって古聖・先賢の学を講じて、大いに国士を養成するはずであった。ところが、この人々が、明治天皇の聖旨に反対して、始終喧嘩ばかりしている。相排斥ばかりしているから、これが潰れてしまって、西洋の学問・技術を研究するために置かれた大学本校の南の方の南校、東の方の東校、これが大学として残ったため、欧化思想を非常に激成したのであります。
 今日の欧化思想をかくして反省して見ますと、漢学者、国学者などの罪が大いにある。これは実に浅ましい。思想、学問上において正しく相争うのは宜しいが、感情上の嫉視排擠から、ことに、異民族に対してこれを無反省に、驕慢に行うにいたっては、その害、実に測るべからざるものがある。今日、憂うべきことの一つの大事は、心なき人々が、妄りに日本主義、王道、皇道を振り回して、他国に驕ることであります。これは決して日本精神、皇道を世界に光被するゆえんでない。そもそも言挙げをするということが、イデオロギー闘争をやるということが、日本国民に性に対してあまり合わない。それよりも不言実行の士、謙虚、求道の風を帯びるということが日本人の欲するところであり、しかしてこれ実に人類の欲するところです。

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『人としての生き方』(第25回)

 子路は一筋に孔子を敬慕しました。道に師の悪口を言う者がいると、有無を言わせず横っ面を張り飛ばし、しまいには子路の姿を遠くから見ただけで人々は口を噤むようになったといいます。勿論、孔子は度々注意をしましたが一向に改まらず、一年が経って、「子路の奴がわしの弟子になってからというもの、わしの悪口が全然聞こえなくなったわい」と孔子は苦笑しながら言います。
 『論語』というと、難しい理由をこねた堅苦しいもののように思われるかもしれませんが、そうではなくて、実に和やかな師弟の交わりを感じさせる書物です。

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「死に代えた『南洲翁遺訓』」(第19回)

 『臥牛先生遺教』の冒頭に、赤沢が受けた教えをのせています。
 「夫子(菅)のご晩年、(赤沢)源也、間に侍坐せし時、我は身を終うるまで、人に非難攻撃せられつつ、棺の蓋をかちかちと打ちつけられてそれにて善しと、御遺言の如く仰せられき」
これは菅自身の信条を赤沢への教訓としたもので、続けて、
 「然るに齢七十を越え八十の今日に至れば、非難の声は稀になり、折々はほめらるる事を耳にするは、精気消亡せるの致す所か、将た耄耋  (もうてつ)の身になお名誉を求る(死に欲)の俗情あるがためなるか、黄泉の下に見えなば、何と仰せられん  や、今はただ友生の箴規を頼むのみ」
とありますが、これは老齢になった菅の、衰えを知らない変身への願望です。「精気」というのは〔マグマ〕です。このマグマが善に向かって驀進し、ときには悪に敢然と立ち向かう、少年時代から晩年にいたるまでの一貫した性向であったのです。

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今朝もテロ等準備罪について、賛成、反対に分れ議論する風景が紹介されました。思うに、悪いことをしなければ、どんな法律が施行されても、私は平気です。現在もいろいろ法律があるわけですが、何とワルの多いことか、金塊等の密輸についても厳しい措置を講じて欲しいものです。
 悪名高い治安維持法の再来という向きもありますが、この現代社会において、そういうことがあろう筈はないと信じます。北朝鮮と同等の政策を推進している政党も猛反対していますが、まずは自由の政策推進を先行すべきだと思います。

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