第3075号 29.06.01(木)
本当の学問をやれば、運命を自分で動かすことができるのだ。
昨日に続きます。
ここで先生の「学」について補足しておきたい。
先生の学問は基本的には東洋哲学であったが、それで固まっていたわけではない。もちろん、単なる陽明学でもない。先生は、朱子学、老荘、漢詩はもちろん、東洋の歴史・文学・易学・漢方医学に至るまで東洋学全般に通じていた。和歌・俳句も相当なものである。さらに、英語とドイツ語に堪能で、西欧の思想・哲学・文学にも造詣が深かった。一高在学中にフィヒテの「ドイツ国民に告ぐ」を全訳したほどで、英・独文献を広く渉猟していたことは、先の「亡の説」を見ても明らかであろう。
先生自身「自分の専門は何だかわからない」とよく言っていたが、とにかく、その学の広さと深さには、私どもの想像を絶したものがあった。先生の講義は、それらが渾然一体となって有機的に話されるので、受講者をたちまち魅了してしまうのである。
先生は、よく「考察の三原則」が必要だと説いていた。問題が複雑で難しいものほど、この原則が必要だという。
第一は、目先にとらわれず長い目で見る。
第二は、物事の一面だけ見ないで、できるだけ多面的・全面的に観察する。
第三は、枝葉末節にこだわることなく根本的に考察する。
先生は、常にこういう観点に立って問題を解明していくので、その講義は普通一般の訓詁の学とはほど遠いものである。中国古典を講じても、先哲の遺訓を説いても、その精神を現在の情況に当て嵌めて講義する----これぞ「活学」の所以である---ので、聞く者にとっては、たいへん為になる。
先生は、特に「人物」に重きをおいているから、『士気』『三国志』『論語』『孟子』を講義しても、登場人物を的確に論評しながら解説してくださる---これが為になるうえに、たいへんおもしろい。その実際は、この本に収録した「諸葛孔明」を見ても、おわかりいただけるであろう。
先生の根幹は、もちろん思想家であるが、「知行合一」の「行」の面を見れば、社会改良家でもあった。戦後は、それが全国師友協会による全国遊説行脚となり、そこで教えた基本的なことは「一隅を照らせ」ということであった。先生は、また、こうも言っている。
「本当の活学、本当の学問をやっていると運も開けてくる。運命は自分で動かすことができるのだ」と。
先生は、いつも悠揚迫らず端然としており、それは酒席においても変わらない。しかし、一盃一盃と杯を交わしているうちにもえも言われぬ独特の風韻を醸し出すのが常であった。ようやく陶酔の境に入ると、色紙に筆を走らせることも時にあった。
良夜相酔 杯酒相楽
酔心相語 明月清風
と格調高い書体で書いてくださったのは数年前のことであった。
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『人としての生き方』(第29回)
勇を好みて学を好まざれば、其の蔽や乱。
勇ましいだけで、どういう時に勇を奮うべきか。本当の勇気とはどういうものなのか。そこに弁えがなければ世の中を乱すだけです。
剛を好みて学を好まざれば、其の蔽や狂。
強直なだけで、そこに節度や反省を伴ったものでなければ、単に力を振り回すだけの危険なものとなる。これは学問をする時によく心しておかねばならないことです。
『論語』公冶長篇には次のようにあります。
子路、聞くこと有りて、未だ之を行うこと能わざれば、唯聞く有らんことを恐る。
孔子が最も愛したと思われる弟子は子路でありました。孔子を敬慕し教えを受けた子路は、前に聞いた教えを実行に移せない時には、新しい教えを聞くことを恐れたといいます。この純真さは非常に学ぶべきだと思いますね。
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「死に代えた『南洲翁遺訓』」(第23回)
菅が政治に参与する五年前には、西郷が身も心も捧げた主君島津斉彬の急逝にあい、殉死を決意するのですが、月照に諌められて、斉彬の意思を継いで国事に尽くすことを決心します。このあと西郷は月照と薩摩潟に相抱いて入水しますが、奇跡的に蘇生し、菊池源吾と名を変えて大島に流されます。この島で西郷は桜田門外の変を聞き、気が狂ったかと、島の妻・愛子がびっくりしたほど、刀を降り回し外に飛び出して狂気しました。そして鹿児島の大久保らにその後の運動を指示しています。
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本当の学問をやれば、運命を自分で動かすことができるのだ。
昨日に続きます。
ここで先生の「学」について補足しておきたい。
先生の学問は基本的には東洋哲学であったが、それで固まっていたわけではない。もちろん、単なる陽明学でもない。先生は、朱子学、老荘、漢詩はもちろん、東洋の歴史・文学・易学・漢方医学に至るまで東洋学全般に通じていた。和歌・俳句も相当なものである。さらに、英語とドイツ語に堪能で、西欧の思想・哲学・文学にも造詣が深かった。一高在学中にフィヒテの「ドイツ国民に告ぐ」を全訳したほどで、英・独文献を広く渉猟していたことは、先の「亡の説」を見ても明らかであろう。
先生自身「自分の専門は何だかわからない」とよく言っていたが、とにかく、その学の広さと深さには、私どもの想像を絶したものがあった。先生の講義は、それらが渾然一体となって有機的に話されるので、受講者をたちまち魅了してしまうのである。
先生は、よく「考察の三原則」が必要だと説いていた。問題が複雑で難しいものほど、この原則が必要だという。
第一は、目先にとらわれず長い目で見る。
第二は、物事の一面だけ見ないで、できるだけ多面的・全面的に観察する。
第三は、枝葉末節にこだわることなく根本的に考察する。
先生は、常にこういう観点に立って問題を解明していくので、その講義は普通一般の訓詁の学とはほど遠いものである。中国古典を講じても、先哲の遺訓を説いても、その精神を現在の情況に当て嵌めて講義する----これぞ「活学」の所以である---ので、聞く者にとっては、たいへん為になる。
先生は、特に「人物」に重きをおいているから、『士気』『三国志』『論語』『孟子』を講義しても、登場人物を的確に論評しながら解説してくださる---これが為になるうえに、たいへんおもしろい。その実際は、この本に収録した「諸葛孔明」を見ても、おわかりいただけるであろう。
先生の根幹は、もちろん思想家であるが、「知行合一」の「行」の面を見れば、社会改良家でもあった。戦後は、それが全国師友協会による全国遊説行脚となり、そこで教えた基本的なことは「一隅を照らせ」ということであった。先生は、また、こうも言っている。
「本当の活学、本当の学問をやっていると運も開けてくる。運命は自分で動かすことができるのだ」と。
先生は、いつも悠揚迫らず端然としており、それは酒席においても変わらない。しかし、一盃一盃と杯を交わしているうちにもえも言われぬ独特の風韻を醸し出すのが常であった。ようやく陶酔の境に入ると、色紙に筆を走らせることも時にあった。
良夜相酔 杯酒相楽
酔心相語 明月清風
と格調高い書体で書いてくださったのは数年前のことであった。
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『人としての生き方』(第29回)
勇を好みて学を好まざれば、其の蔽や乱。
勇ましいだけで、どういう時に勇を奮うべきか。本当の勇気とはどういうものなのか。そこに弁えがなければ世の中を乱すだけです。
剛を好みて学を好まざれば、其の蔽や狂。
強直なだけで、そこに節度や反省を伴ったものでなければ、単に力を振り回すだけの危険なものとなる。これは学問をする時によく心しておかねばならないことです。
『論語』公冶長篇には次のようにあります。
子路、聞くこと有りて、未だ之を行うこと能わざれば、唯聞く有らんことを恐る。
孔子が最も愛したと思われる弟子は子路でありました。孔子を敬慕し教えを受けた子路は、前に聞いた教えを実行に移せない時には、新しい教えを聞くことを恐れたといいます。この純真さは非常に学ぶべきだと思いますね。
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「死に代えた『南洲翁遺訓』」(第23回)
菅が政治に参与する五年前には、西郷が身も心も捧げた主君島津斉彬の急逝にあい、殉死を決意するのですが、月照に諌められて、斉彬の意思を継いで国事に尽くすことを決心します。このあと西郷は月照と薩摩潟に相抱いて入水しますが、奇跡的に蘇生し、菊池源吾と名を変えて大島に流されます。この島で西郷は桜田門外の変を聞き、気が狂ったかと、島の妻・愛子がびっくりしたほど、刀を降り回し外に飛び出して狂気しました。そして鹿児島の大久保らにその後の運動を指示しています。
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