第2224号 27.01.29(木)
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仕うるは貧の為に非ず。而も時ありてか貧の為めにす。『孟子』
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士官するのは、本来は衣食の資を得るためではない。しかし、親を養うためとか、家庭を保持するためとかいうように、ときによっては貧のために仕えることもある。126
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【コメント】例えば公務員になるとか、教員になることも一種の士官と捉えていいでしょう。その教員という士官先で、人々がびっくりするような個人のいびつな論理が罷り通っているということを聞いたことがあります。
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受け持っている子どもたちが勉強が出来るようになるとか、資質がよくなるというのは知ったこっちゃないという先生が増えているのだというのです。御聞きしてあいた口がふさがらないという思いを抱きました。
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そういう先生には、その後どういう裁きがあるでしょう。
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『大学味講』(第62回)
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〇しかし、実際になると、その事についての知識と技術の「才」があれば、それで仕事が出来るのですから、「徳」などとむずかしいことをいわなくても、仕事をやっていけるではないでしょうか。
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”そうでしょうね。しかし今申しました自動車の運転手の場合を見てもわかるように、長い目でみると、よい徳がある人が栄えていくでしょうね。
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そしてまた、人から使われて、部分的の仕事をしている場合は「才」だけでもよいかも知れませんが、二人でも三人でもの部下や同僚をもって、それと共に仕事をしていくようになると、その人の「人がら」---即ち「徳」---というものが大きくひびいてくるものでしてね。だから平社員として使われていた時には、他の人をしのいでも成績をあげてきた「働き者」が、係長とか課長とかという管理職になって、人の上に立つようになっても、その「人がら」が変わらず、ただただ自分の成績をあげることだけを考えて、同僚や部下のことを考えないことでは、その「才」が却ってマイナスとなり、人々から嫌われ者になることがあるものです。
ですから、、「才」だけでも仕事は出来るでしょうが、その「才」が、よい「徳」----よい「人がら」----の上に運用される時に、はじめて最善の力を発揮し、最高の効果をあげることが出来るではないでしょうか。「我づくり」が必要だということは、こういう面からもわかるでしょう”
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『論語』(第162)
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子曰はく、疎食を飯ひ、水を飲み、肱を曲げて之を枕とす。楽しみ亦其の中に在り、不義にして富み且つ貴きは、我に於いて浮雲の如し。
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粗末な飯を食べ、水を飲み、肱を曲げて枕とするような貧乏暮らしでも、道を志す眞の楽しみはおのずからその中に在るものである。不正不義をして得た富貴などは、わしから見れば浮雲の如く定めないのに似ている。どうしてこのようなものに心を動かされることがあろう。
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『農士道』(第46回)
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かくて政治とは畢竟人間が法の番人となって法の運用をなすことであるといふ考えすら生じて来るに至り、其の最も顕著なる事例として議会政治に伴ふ選挙至上主義的なる弊害を見るに至ったのである。
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或る政治理想を実現するには議会に於いて多数を得ねばならぬ。其の為には選挙に於て多数の当選者を得るを必要とする。当選いするためには選挙区民の歓心を買はねばならぬ。
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百人一首
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秋の田の かりほの庵(いほ)の 苫を荒(あら)み
わが衣手は 露にぬれつつ 【天智天皇】
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仕うるは貧の為に非ず。而も時ありてか貧の為めにす。『孟子』
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士官するのは、本来は衣食の資を得るためではない。しかし、親を養うためとか、家庭を保持するためとかいうように、ときによっては貧のために仕えることもある。126
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【コメント】例えば公務員になるとか、教員になることも一種の士官と捉えていいでしょう。その教員という士官先で、人々がびっくりするような個人のいびつな論理が罷り通っているということを聞いたことがあります。
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受け持っている子どもたちが勉強が出来るようになるとか、資質がよくなるというのは知ったこっちゃないという先生が増えているのだというのです。御聞きしてあいた口がふさがらないという思いを抱きました。
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そういう先生には、その後どういう裁きがあるでしょう。
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『大学味講』(第62回)
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〇しかし、実際になると、その事についての知識と技術の「才」があれば、それで仕事が出来るのですから、「徳」などとむずかしいことをいわなくても、仕事をやっていけるではないでしょうか。
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”そうでしょうね。しかし今申しました自動車の運転手の場合を見てもわかるように、長い目でみると、よい徳がある人が栄えていくでしょうね。
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そしてまた、人から使われて、部分的の仕事をしている場合は「才」だけでもよいかも知れませんが、二人でも三人でもの部下や同僚をもって、それと共に仕事をしていくようになると、その人の「人がら」---即ち「徳」---というものが大きくひびいてくるものでしてね。だから平社員として使われていた時には、他の人をしのいでも成績をあげてきた「働き者」が、係長とか課長とかという管理職になって、人の上に立つようになっても、その「人がら」が変わらず、ただただ自分の成績をあげることだけを考えて、同僚や部下のことを考えないことでは、その「才」が却ってマイナスとなり、人々から嫌われ者になることがあるものです。
ですから、、「才」だけでも仕事は出来るでしょうが、その「才」が、よい「徳」----よい「人がら」----の上に運用される時に、はじめて最善の力を発揮し、最高の効果をあげることが出来るではないでしょうか。「我づくり」が必要だということは、こういう面からもわかるでしょう”
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『論語』(第162)
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子曰はく、疎食を飯ひ、水を飲み、肱を曲げて之を枕とす。楽しみ亦其の中に在り、不義にして富み且つ貴きは、我に於いて浮雲の如し。
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粗末な飯を食べ、水を飲み、肱を曲げて枕とするような貧乏暮らしでも、道を志す眞の楽しみはおのずからその中に在るものである。不正不義をして得た富貴などは、わしから見れば浮雲の如く定めないのに似ている。どうしてこのようなものに心を動かされることがあろう。
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『農士道』(第46回)
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かくて政治とは畢竟人間が法の番人となって法の運用をなすことであるといふ考えすら生じて来るに至り、其の最も顕著なる事例として議会政治に伴ふ選挙至上主義的なる弊害を見るに至ったのである。
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或る政治理想を実現するには議会に於いて多数を得ねばならぬ。其の為には選挙に於て多数の当選者を得るを必要とする。当選いするためには選挙区民の歓心を買はねばならぬ。
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百人一首
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秋の田の かりほの庵(いほ)の 苫を荒(あら)み
わが衣手は 露にぬれつつ 【天智天皇】