第2648号 28.03.31(木)
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天子より以て庶人に至るまで、壱是に皆身を脩むるを以て本と為す。『大学』
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上は天子から、下は一般庶民にいたるまで、もっぱら身を修めることが根本である。146
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【コメント】標題の『大学』の言葉は大事な、そして素晴らしい言葉だと思います。連日、『西郷隆盛』を拝読しています。作家・林房雄氏はよくぞ書いたものだと感歎することしきりです。
そして、『西郷隆盛』を読み、『臥牛菅実秀』『農士道』『啓発録』をご紹介しながら、黒船が来襲した當時を思い起こしています。
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西郷南洲翁と橋本左内が今後の国情を憂えて奔走する様は、平成の今と少し似た処があるのではないでしょうか。先に苦い経験をした日本は、再び戦争をしてはならないと思います。しかし、降って来る火の粉は消し止めないと大火災が起こります。
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国家が崩壊してからではどうにもならないのです。平和・安全・人権だけを唱えていても國を守ることは出来ないのです。橋本左内の『啓発録』もお読み頂きたいと思います。
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『臥牛菅実秀』(第184回)
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(四)
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東京で移封阻止の活躍を開始した実秀は、鶴岡に居る松平親懐に手紙を送った。
移封阻止の運動に加勢させるために戸田務敏(通称治作)を上京させるということであったが、中止になったのは『残念千万』と書いたあとで、
『老中(忠発)よりは冥加至極の御直書などを頂き、小生だけのことは及ばずながら努力するつもりであるが、何分、自分一人だけでは、ろくなことは出来申さず、かつ大事件なので、もし不成功となれば、老公の御目利違い(人選を誤ったこと)ともなることゆえ、よくよく御考え願いたい。』と、もっと加勢の人を上京させるように望み、そして
『小生は御存知の通りの我儘者で、物好きを極め、口には我れ勝手なことをいい、とるところもないが、しかし心の我儘だけは致し申さず、三尺の体を四尺に到さんと思い----』
と書いた。
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実秀は三尺の体を四尺にする思いで、新政府の要路の人々に移封中止を請願して廻ったのである。その請顔の要旨は、
『新たに領地として与えられた会津は今回の戦争によって甚しく荒廃し、兵火に焼かれて一家は離散し、身の寄せどころもない哀れな人々も多い。これらの流民に家を与え衣食を支給して、政府の民政局管下(新政府が接収した徳川家の領地)の人々と同じように皇恩に欲させることは、小藩の微力を以てしては、とうていなしえない。』
ということであった。
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『農士道』(第460回)
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近来秋季に於て種々の名称を以て呼ばるる農業祭典が行はれるやうになって来たが、熟々考えて見ると矢張り「秋祭り」という呼び名が、最も日本農村祭典としてはぴったりするやうである。(之を東洋思想の深い哲学的な語を以ていえば矢張り「社稷祭」となすべきである。)此の村々の「秋祭り」に深い農道信仰的な意義----日本社稷道的な意義を明かに與へて行ったならば、年々の祭典が更に生きて来ることと思う。
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猶純然たる農道祭典として、今日猶各地に行はれてゐるものに「社日様」の祭りがある。
社日とは、春秋の彼岸の中日の前後に於て、最も之に近い「戊」(つちのえ)(士の兄(え))の日をいふので、これを以て士のを祭る日とし、春は祈年祭、秋は嘗祭(への感謝祭)の意味の祭典を行うものである。
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『啓発録』「志を立つ」第1回
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志とは心のゆく所にして、我がこころの向ひ趣き候処をいふ。侍に生れて忠孝の心なき者はなし。忠孝の心これ有り候て、我が君は御大事にて我が親は大切なる者と申す事、聊かにても合点ゆき候へば、必ず我が身を愛重して、何とぞ我こそ弓馬文学の道に達し、古代の聖賢君子・英雄豪傑の如く相成り、君の御為を働き、天下国家の御利益にも相成り候大業を起し、親の名までも揚げて、酔生夢死の者にはなるまじと、直ちに思ひ付き候者にて、これ即ち志の発する所なり。
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天子より以て庶人に至るまで、壱是に皆身を脩むるを以て本と為す。『大学』
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上は天子から、下は一般庶民にいたるまで、もっぱら身を修めることが根本である。146
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【コメント】標題の『大学』の言葉は大事な、そして素晴らしい言葉だと思います。連日、『西郷隆盛』を拝読しています。作家・林房雄氏はよくぞ書いたものだと感歎することしきりです。
そして、『西郷隆盛』を読み、『臥牛菅実秀』『農士道』『啓発録』をご紹介しながら、黒船が来襲した當時を思い起こしています。
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西郷南洲翁と橋本左内が今後の国情を憂えて奔走する様は、平成の今と少し似た処があるのではないでしょうか。先に苦い経験をした日本は、再び戦争をしてはならないと思います。しかし、降って来る火の粉は消し止めないと大火災が起こります。
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国家が崩壊してからではどうにもならないのです。平和・安全・人権だけを唱えていても國を守ることは出来ないのです。橋本左内の『啓発録』もお読み頂きたいと思います。
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『臥牛菅実秀』(第184回)
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(四)
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東京で移封阻止の活躍を開始した実秀は、鶴岡に居る松平親懐に手紙を送った。
移封阻止の運動に加勢させるために戸田務敏(通称治作)を上京させるということであったが、中止になったのは『残念千万』と書いたあとで、
『老中(忠発)よりは冥加至極の御直書などを頂き、小生だけのことは及ばずながら努力するつもりであるが、何分、自分一人だけでは、ろくなことは出来申さず、かつ大事件なので、もし不成功となれば、老公の御目利違い(人選を誤ったこと)ともなることゆえ、よくよく御考え願いたい。』と、もっと加勢の人を上京させるように望み、そして
『小生は御存知の通りの我儘者で、物好きを極め、口には我れ勝手なことをいい、とるところもないが、しかし心の我儘だけは致し申さず、三尺の体を四尺に到さんと思い----』
と書いた。
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実秀は三尺の体を四尺にする思いで、新政府の要路の人々に移封中止を請願して廻ったのである。その請顔の要旨は、
『新たに領地として与えられた会津は今回の戦争によって甚しく荒廃し、兵火に焼かれて一家は離散し、身の寄せどころもない哀れな人々も多い。これらの流民に家を与え衣食を支給して、政府の民政局管下(新政府が接収した徳川家の領地)の人々と同じように皇恩に欲させることは、小藩の微力を以てしては、とうていなしえない。』
ということであった。
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『農士道』(第460回)
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近来秋季に於て種々の名称を以て呼ばるる農業祭典が行はれるやうになって来たが、熟々考えて見ると矢張り「秋祭り」という呼び名が、最も日本農村祭典としてはぴったりするやうである。(之を東洋思想の深い哲学的な語を以ていえば矢張り「社稷祭」となすべきである。)此の村々の「秋祭り」に深い農道信仰的な意義----日本社稷道的な意義を明かに與へて行ったならば、年々の祭典が更に生きて来ることと思う。
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猶純然たる農道祭典として、今日猶各地に行はれてゐるものに「社日様」の祭りがある。
社日とは、春秋の彼岸の中日の前後に於て、最も之に近い「戊」(つちのえ)(士の兄(え))の日をいふので、これを以て士のを祭る日とし、春は祈年祭、秋は嘗祭(への感謝祭)の意味の祭典を行うものである。
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『啓発録』「志を立つ」第1回
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志とは心のゆく所にして、我がこころの向ひ趣き候処をいふ。侍に生れて忠孝の心なき者はなし。忠孝の心これ有り候て、我が君は御大事にて我が親は大切なる者と申す事、聊かにても合点ゆき候へば、必ず我が身を愛重して、何とぞ我こそ弓馬文学の道に達し、古代の聖賢君子・英雄豪傑の如く相成り、君の御為を働き、天下国家の御利益にも相成り候大業を起し、親の名までも揚げて、酔生夢死の者にはなるまじと、直ちに思ひ付き候者にて、これ即ち志の発する所なり。
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