味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

拙著『礼節のすすめ』の紹介--5.

2010-08-28 13:05:31 | ブログ

タイトル---拙著『礼節のすすめ』の紹介---5.第571号 22.08.28(土)

 ブログ第570号に続きます。

 原敬はこのなかで、勝てば官軍、負ければ賊軍と名言したのです。そして、ただ政見が異なっただけであると喝破したのでした。政見が異なるというのは、新生日本国の維れを新たにする勢力の対立であり、朝敵でも賊軍でもないと名言したのでした。

 一年後の大正七年、原敬は東北出身では初の総理大臣に就任しました。その前は大阪毎日新聞に席を置き、健筆を揮った時代もありました。新聞社から政界に転じたのが四十四歳の時でした。政治家としての業績のひとつに、対米外交を重視し、軍部へのシビリアンコントロール構想を打ち出したことがあげられます。

 原敬はグローバルな感覚を持った政治家であると同時に、今日見られない清貧をよしとする生活態度に甘んじました。多くの政治家が爵位をほしがるなか、「私は平民でいい」と一生を貫いたほどです。原敬のそういった姿勢は武士道の精神そのものでありました。

 政治家の鑑であった原敬が政友会近畿大会に出席するため東京駅で神戸行きの列車に乗車しようとしたとき、暴漢に襲われ凶刀に斃れました。享年六十五歳、惜しみても余りある劇的な人生の終焉でありました。

 日本国の列島を改造しようとした拝金思想を持った政治家に比べ、先見性、国際性等々多くの事業は忘却することの出来ない人々の喝采を博した偉業であると評価されました。そして清貧な生活態度と、倫理観あふるる政治家の人間像は、人々が永遠に語り継ぐにたる政治家の理想像でもありました。

………

 こうして拙著を紹介しながら、今日このような政治家がいないことに大変な寂寥感を抱いているのは私だけではないと思います。総裁予備選挙とも言われる民主党代表選挙に向け、双方ガップリ右四つに組んだ感がありますが、国民のために誰が身体擲って奔走してくれるのか、それぞれ功罪ありといえども、これから先のことなのです。総理大臣の椅子に長く座りたいという権力志向の人間は、今の日本の国にはいらないと思います。


拙著『礼節のすすめ』の紹介---4.

2010-08-27 11:39:17 | ブログ

タイトル----拙著『礼節のすすめ』の紹介----4.第570号 22.08.27(金)

 ブログ第569号に続きます。

 次に、礼節の政治家として忘れられないのは、会津出身の伊東正義です。彼は竹下内閣がリクルート事件で倒れた時、総理大臣候補に選ばれ、外務大臣、臨時首相代理を努め、信念の人・硬骨漢と言われました。 

 結果的に伊東は健康上の理由で辞退したため、会津の人々は残念がりました。伊東のルーツは会津藩士でした。下級武士ではあったが、学問に秀でた血筋です。伊東正義は高級官僚の出身であり、農林事務次官から政界に転向し、その信念ある一挙手一投足に国民が注視したものです。戊辰役後辛酸を嘗めた特異な歴史を持つ会津出身だけに、郷土の人々も含め心有る人々は惜しみても余りある情を禁じ得ませんでした。

 当時、伊東の家屋をテレビで紹介したことがあったが、西郷隆盛の漢詩にある「貧居傑士を生じ---」を連想させる清貧をものともしない侍の邸宅に思えました。南洲翁が詠んだ傑士に値する人間であったと言うことでしょう。まさしく政治家の鑑ここにあり、というに相応しい人物でした。

 そして、政治家像を存分に発揮した人に盛岡出身の原敬がいます。彼は先見性、外交能力等々を含め、倫理観旺盛で本格的政党内閣を創った人です。真に礼節を基調とし、模範的政治家像を歴史に残した宰相でありました。

 大正六年、原敬は政友会総裁の任にありました。同年九月八日、原敬が祭主となって南部藩戊辰戦争殉難者五十年祭が盛岡市報恩寺で行われ、八百人近い人々が境内を埋め尽くしました。そして、原敬が祭文を読み上げました。

       祭文

 同志相謀り、旧南部藩戊辰戦役殉難者五十年祭、本日をもって挙行せらる。顧みるに昔日もまた今日のごとく国民誰が朝廷に弓を引く者あらんや。戊辰戦争は即ち政見の異同のみ。当時、勝てば官軍、負ければ賊との俗謡あり。その真相を語るものなり。今や国民聖明の沢に浴し、この事実は天下に明らかなり、諸子をもって瞑すべし。余たまたま郷にあり、この祭典に列する栄を担う。すなわち赤誠を披瀝して、諸士の霊に告ぐ。

  大正六年九月八日          旧藩の一人        原 敬

 …………

 ブログは勉強のつもりで、出来れば人様のお役にも立つようにと考え書いています。多くの人がそうであろうと思います。

 ところが、世の中には珍しい人種がいて、偽名でガタガタ イチャモンをつけて来る人間がいます。そういう者には相手にしない方が賢明であろうと思います。インターネットは何処からでも書き込み出来ます。

 私もそういう人種に遭遇したことがありました。その御仁がどういう人か知るために著書を取り寄せ読んでみました。頭はよさそうですが、人とのコミニュケーションが上手くなく、一人で跳んでる人だと分析しました。住所・氏名はわかっていますが、そういう人間と会話する時間が勿体無いので、以後、相手にしないようにしました。

 名前も名乗らず、隠れたところからクレームをつけるのは、辻斬りイゾウと同類です。そういう者には絶対に相手にしない方がよろしいかと思います。どうしても五月蝿い場合は、警察へ届けた方がいいかと思います。


拙著『礼節のすすめ』の紹介---3.

2010-08-26 13:11:14 | ブログ

タイトル----拙著『礼節のすすめ』の紹介---3.第569号 22.08.26(木)

 ブログ第568号に続きます。

 稲葉修の父親は村上藩の御典医でした。母親も村上藩槍指南番の娘で、村上城落城に遭遇し大変な苦労を強いられました。稲葉修は手のつけられないヤンチャ坊主で、中学時代にストライキをやったり、校長をぶん殴ったりもしました。村上の大祭の時、校長に学校を休みにしてくれとお願いしたが、聞き入れられなかったため、生徒たちを扇動して同盟休講をしたりという諸々があって退学処分になりました。

 この時、稲葉を扇動した教師がいるということで反校長派の教師五人の首が切られました。そのため稲葉は学校新聞の号外を出し、生徒を村上城跡に集め、校長の家に殴りこみをかけると気勢を上げ、目茶苦茶に殴りました。校長派の教師たちも散々にやられました。

 兄弟たちは秀才ぞろいであっただけに父親は落胆したが、母親は、「修は偉い。忠臣蔵の大石内蔵助のようだ」と褒めたといいます。母親に褒められて発奮し、旧制山形高校に入学した稲葉ですが、今度は集団カンニング事件を起こし、一年で退学処分となりました。さすがの母親も、「お前は侍の子かえ」と、この時ばかりは涙を浮かべて叱ったといいます。

 そして三浪し、中央大学法学部に進学しました。ここで猛然と勉強し、法学部の教授になりました。その後衆議院に挑戦し、三度目に当選を果たしました。

 稲葉がことあるごとに口にしたのは、しつけです。文部大臣をしていた時、「教育の本当の目的は一に体力、二に人柄、三、四がなくて五に頭を鍛えることだ」と言ったとのこと。学力偏重、有名大学が日本の教育をおかしくし、それが拝金主義につながるのであると説くのでありました。

 そして贅沢は敵だ、とも言いました。また長幼の序の大切さを主張し、確固たる主義主張を秘め、毅然たる態度を取らなければならないと説きました。そういう稲葉修という政治家がいたということを村上の人々は誇りにしているといいます。

 このように為政者は、後々お手本となるべくその職を全うすることが大事であり、拝金思想の黴菌を撒き散らすような行動は礼節に背く行為であり、厳に慎むべきではなかろうか。

……

 今の世に、こういう政治家がいるでしょうか。自民党から民主党に行ったり、民主党から自民党に行ったり、これはどうなっているの、と首を傾げざるを得ない、政治節操のない議員が殖えているような気がしてならないのです。

 福岡では、議員の政務調査費で目的外支出をしたと新聞で報じていますが、その堂々たる度胸に国民はどう感じているかということを真剣に考えて欲しいものです。


拙著『礼節のすすめ』の紹介---2.

2010-08-25 10:37:08 | ブログ

タイトル----拙著『礼節のすすめ』の紹介---2. 第568号 22.08.25(水)

 時代は大きく代わり、国家の運営は、それぞれの地区から議員が選出され民主主義という美名のもとに政治が執行されています。

 平成19年の世相を表す「今年の漢字」に「偽」が選ばれたが、政治家・官僚・企業経営者等々、誰を信頼していいのか分からないくらい、「礼と節」を喪失した時代でもあったと言えましょう。

 平成20年の『文芸春秋』新年号は「総力特集・暴走官僚エリートたちが日本を食い荒らす」と題して、ジャーナリストたちが健筆を揮っています。国民を人質に取る事勿れ、税金ムダ遣いの実態、年金サボタージュの非道、公務員の仰天手当、伏魔殿・天下り法人等々、まさしく仰天するような内容が報告されています。

 平成19年12月21日朝、テレビでC型肝炎に関する薬害問題、生活保護打切り問題等々も喧伝されましたが、テレビに出演していたあるジャーナリストが、「官僚たちは、国民のことは歯牙にもかけていない」というような発言をしました。独立行政法人の集約化等一連の動きを見ても然りです。報道を見て失望した国民が数多いることでしょう。

 このような時代であるからこそ、「礼と節」という言葉を提起したいと考えたのです。そして、真に国家国民のことを念頭に仕事をする為政者を選出することも我々国民に課せられた責任であります。

 私が好きであった政治家に、新潟県村上市が生んだ元法務大臣・稲葉修がいます。弁舌爽やかでないズーズー弁であったが、肺腑から出ずる言論は、まさしく正論そのものでした。稲葉修元代議士の発言等々を聞き、その正論に溜飲が下がる思いがしたのを、今でもはっきり記憶しています。

 稲葉修は道路建設とか橋を架けたりすることが得意でなかったため、選挙には弱く、何度か落選もしています。同じ越後人である田中角栄について、「日本の拝金主義が顕著になったのは、田中君が総理大臣になったころからである。総理大臣といえば、一種の日本の父親のような存在ともいえる。その父親が極端な拝金思想を持っていれば、子供である日本国民も、拝金主義になってしまうのは当然だ」と語り、政治家は滅私の心が必要だと説いたのでした。

 そして法務大臣の時、田中金脈を追及するロッキード事件では、事件の徹底究明を検察に指示、田中政治の終焉をもたらしました。ロッキード事件の真相については議論の分かれるところがあるが、ただ拝金思想だけは露骨であったとの見方が強くあります。

……ブログ第564号(22.08.21)で、私は次のように書きました。

 佐藤優さんの著書によると、官僚の国家観を述べています。「官僚は国民を無知蒙昧な有象無象と見なしている。」

 今回拙著より紹介しました、〈平成20年の『文芸春秋』新年特別号は「総力特集・暴走官僚エリートたちが日本を食い荒らす」と題して、ジャーナリストたちが健筆を揮っています。〉はその通りなんですね。

 官僚の功罪については、「功」の方が多いと思うのですが、真面目な弱者の救済も考えて欲しいものだと思うのです。


拙著『礼節のすすめ』の紹介。

2010-08-24 17:17:35 | ブログ

タイトル----拙著『礼節のすすめ』の紹介。第567号 22.08.24(火)

 拙著『礼節のすすめ』よりご紹介させて戴きます。

 十、礼節の政治家たち――稲葉修元法務大臣、伊東正義元外務大臣、原敬元総理大臣、石橋湛山元総理大臣―――

 政を為すは人に在り、人を取るは身をもってし、身を脩むるは道をもってし、道を脩むるは仁をもってす。

 よい政治を行うのは、有能にして徳のある人物にして初めて出来ることである。そういう人物を確保するには、責任者が修養を積み、その身を正しく修めていなければならない。その身を修めるには、君子の道を手本としなければならない。道を行うには、人々を親愛する仁を手本とすることが大事である。

 政治家・官僚・経営者と言われる人々は、その辺を十分認識し、修養と研鑽により励まなければならない、と『中庸』は訓えています。

 今回、「礼節のすすめ」と題して書くに当たって、皇太子妃雅子さんの妹の礼子さんと節子さんは双子で、礼節という言葉から命名したということを紹介しようと思いました。

 皇太子妃の実家・小和田家のルーツは越後村上藩であるといいます。村上藩士は文武両道に優れ、清貧な中にも厳格な士風でありました。

 そういう風土で育って来た先祖の血を受け、昔ながらの美風が形骸化していることに寂寥感を抱いたのであろう雅子さんの父・小和田恒氏は、双子の娘に礼節という言葉から「礼子」、「節子」と命名したと思料されます。この「礼節」という言葉は今日、死語と化した感が否めないが、人々が生きて行く過程においては大変大事な言葉であり意義があります。

 私は『南洲翁遺訓』と出合ったお陰で荘内南洲会の方々の学問に取り組む意欲・情熱に圧倒されています。

 江戸時代から近代日本生成の過程では、不幸な歴史が数多ありましたが、国内外の古今の歴史を検証するとき、血で血を洗うがごとき争そい事は、枚挙に暇がありません。

 特に明治維新期の西南戦争を始めとする国内の争い事は黎明期の不幸な一頁でもありました。荘内と薩摩の争いにしても然りです。戦国時代および江戸時代からの因習を打破し、欧米に遜色のない近代国家を建設する礎として国内の力を統一するための力学的衝突であったとすれば一応理解出来ます。だが、今日のように電気通信が発達していれば、情報の連絡もスムースに行き、行き違いによる不毛な争いも多くは解消されたであろうにと思うと、時代的な運命を禁じ得ません。