味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

天の生ずる所、地の養ふ所

2018-09-29 14:59:37 | ブログ
第3554号 30.09.30(日)

天の生ずる所、地の養ふ所、人より大為るは無し。父母全くして之を生む、子全くして之を帰す、孝と謂ふ可し。其の身を辱しめざるは、全くすと謂ふ可し。故に君子は頃歩(きほ)も敢て孝を忘れざるなりと。『礼記』722

 『天の生じた物、地の養った物、その中で人間ほど大切な物はない。それゆえ、父母が完全な形で生んでくれた身を、子は、いつか完全な形で地に返してこそ、孝ということができる。五体を損なうことなく、身体を汚すことのないのが、完全な形で返すというものである。だから君子は半歩あるくにも決して孝を忘れないのである。』

 【コメント】今日は台風24号来襲の為、これで失礼いたします。

孝に三有り。

2018-09-28 16:54:57 | ブログ
第3553号 30.09.29(土)

孝に三有り、小孝は力を用ひ、中孝は勞を用ひ、大孝は匱(とぼ・ひつ)しからず。慈愛を思ひて労を忘るるは、力を用ふと謂ふ可し。仁を尊び義に安んずるは勞を用ふと謂う可し。博く施して物を備ふるは、匱しからずと謂ふ可し。父母之を愛すれば、喜びて忘れず、父母之を悪めば、懼れて怨むこと無し。父母過有れば、諌めて逆はず。父母既に没すれば、必ず仁者の粟を求めて以て之を祀る。此を之れ禮の終と謂ふ。『礼記』721

 孝に三等がある。小孝は努力を要し、中孝は心労を要するが、大孝は豊かで楽しい心境である。小孝は、父母の慈愛を忘れず、これに報いようとして苦労をいとわないものであるから、努力を要する孝と言うべきである。中孝は、単に父母に対するのみならず一般世間において仁を尊び義に安んずるという信条を守り、これによって父母の喜びをも得ようとするものであるから、大いに心労を要する孝と言うべきである。そして大孝は、おのれの恩徳を広く人びとに施し、おのずから集まる多くの種ぐさの物をもって、生きている父母を養い。亡くなった父母の霊を祀ることのできる孝行であるから、豊かで楽しい心境と言うのである。なおまた、父母がわれを愛してくれれば、これを喜んで忘れず、たとい憎まれても、これを警戒はしても恨むには至らず、父母に過ちがあれば、諌めはするが逆らうことはしない。そして父母が既に亡くなってからは、必ず善人から得た穀物を用いて父母を祭る。これを孝の終わりを全うすると言うのである。

 【コメント】解説を読んでみて、これは変えてはならない人間の踏み行うべき人の道であると思います。ところが現今は自分の幸せだけを優先し、親の事は後回しにする人がいるように思えてならないのです。
 普通、親は先に旅立つものであっても、生きている間は大事にしなければならないと思います。

 特に権利意識が強くなったのも、全国の労働組合で統一要求をすることが挙げられると思います。要求するときは、会社側にそれらを与える財産能力がなくてはならない筈です。

 ところが労働組合の中央本部からオルグに来る連中は、相手が困ろうと何も構わない、我々は要求をし続ければししのだとオルグをしたものです。

 貧乏家庭で育った私は、その論理にはどうしても與したくなかったものです。ドラ息子が母親に金をせびるのと同次元だからです。

 私は自分の家を守るため、精一杯のことをしてきました。寝る間も無い位働いてきたのでした。日本舞踊を長年おけいこしたのも、趣味を生かしながら、それを教えることに繫げたのでした。

 79歳を迎えた今日、一番良かったと思うことは『南洲翁遺訓』との出会いでした。そのお蔭で英邁な荘内の先生方を存じ上げたことでした。

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征韓論に反対した大西郷

 是非とも、朝鮮国と交誼を厚くする初志を貫徹するようにしなくてはいけないと述べている。
 論旨、正々堂々として、根底に道義あり、しかも、この至難な使節の大役を一身を挺して自ら引受けたのである。  「御採用相成り御伺いの上」とあるのは、この主張通り、八月十七日、使節派遣が閣議で決定し、八月十九日、天皇に奏上して、御内定を得ていることをさすのである。

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『善の研究』第34回

 しかし余は知識の究竟的目的は実践的であるように、意志の本に理性が潜んでいるといえると思う。この事件後に意志の処に論じようと思うが、かかる体系の区別も絶対的とはいえないのである。また同じ知識的作用であっても、聯想とか記憶とかいうのは単に個人的意識内の関係統一であるが、思惟だけは超個人的で一般的であるといえる。しかしかかる区別も我々の経験の範囲に強いて個人的と限るより起るので、純粋経験の前にはかえって個人なる者のないことに考え到らぬのである(意志は意識統一の小なる要求で、理性はその深遠なる要求である)。

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『菜根譚』34

 利欲は未だ尽くは心を害せざれども、意見は乃ち心を害するの蟊賊(ぼうぞく)なり。声色は未だ必ずしも道を障(ささ)えざれども、聡明は乃ち道を障うるの藩屏なり。

 〔訳〕利欲の心は、まだことごとくは本心を害するものではないが、それよりもかえって我意我見の方が、本心をむしばむ害虫である。また、愛欲の心は、まだ必ずしも道に入る邪魔となるとは限らないが、それよりもかえって小賢しく聡明ぶる方が、道に入るのを妨げる障害物である。

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曾子曰く、身は父母の遺體なり。

2018-09-27 14:42:29 | ブログ
第3552号 30.09.28(金)

曾子曰く、身は父母の遺體なり。父母の遺體を行ふ、敢て敬せざらんや。居処、荘(おごそか)ならざるは孝に非ざるなり、君に事へて忠ならざるは孝に非ざるなり、官に涖みて敬せざるは孝に非ざるなり、朋友に信ならざるは孝に非ざるなり、戦陣に勇無きは孝に非ざるなり。五つの者遂げざれば、烖(わざわい)親に及ぶ、敢て敬せざらんや。亨孰羶薌、嘗めて之を薦むるは、孝に非ざるなり、養ふなり。君子の所謂孝とは、國人稱顔して然りとして曰く、幸なるかな子有ること此の如しと。所謂孝あるのみ。衆の本教を孝と曰ひ、其の行を養ふと曰ふ。養は能くす可きなり、敬は難しと為す。敬は能くす可きなり、安んずるを難しと為す。安んずるは能くす可きなり。卒るを難しと為す。父母既に没すれば、其の身を慎み行ひて、父母の悪名を遺さず、能く終ると謂う可し。仁は此を仁する者なり、禮は此を履む者なり、義は此を宜しくする者なり、信は此を信にする者なり、強は此を強むる者なり。楽しみは此に順ふより生じ、刑は此に反くより作る。『礼記』719

 曾子が、次のように言った。人の身体は父母の形見である。父母の形見を取り扱うのに、どうして慎重にしないでよかろうか。まず常づねの起居を荘重にしないのは、孝でなく、君に仕えて忠実でないのは、孝でなく、官職に就いて言行を慎まないのは、孝でなく、友好関係において信義を重んじないのは、孝でなく、戦陣に臨んで勇敢でないのは、孝でない。これらの五事において正しく実行することができなければ、その結果として罪や災いを父母の身にまで及ぼすであろう。どうして慎重にしないでよかろうか。それゆえ、好く考えた肉や穀物、生の血や脂などを、みずから味見した上で霊前に供えるのが、孝なのではない。飲食を供えると言うに過ぎない。君子の孝と称するのは、国の人びとみな褒め羨んで孝子と認め、「あの父母は仕合わせであるよ、あのように良い子を持った」と言うようであってこそ、孝と称することができるのである。こうしたわけで、人すべてに取って教訓の根本となるものが孝であり、それの形に見える実行が養いである。ただ養うことはできても、心から父母を敬重して養うことは難しい。敬重はしても充分に安心してもらうことは難しい。安心してもらうことはできても、父母の没後まで終わりを全うすることは難しい。すなわち、父母が既に亡くなってからも、身の行いを好く慎み、父母の名を少しも汚すことなく一生を終えることができてこそ、孝道の終わりを全うしたと言うことができるのである。そもそも仁とはまず父母を愛することであり、礼とはまず孝を実行することであり、義とはまず孝を正しく弁えることであり、信とはまず父母に誠意を尽くすことであり、強とは孝に努めることである。そして人の身の安楽は好く孝道に従うことから生まれ、また罪を犯して刑を受けるというのも、孝道に背くことから始まるのである。

 【コメント】「人すべてに取って教訓の根本となるものが孝であり、それの実行が養いである」とあります。そういう精神を現わすために身の行いを好く慎み、さらに父母を愛する仁の精神を構築することも大事だと思います。

 そういうことを実践し、二度とない人生を幸せだったと言える人生でありたいものです。その為には謙虚、丁寧、勤勉、誠実でありたいものです。

 今日は先般、交通事件を起こして摘発された女の子が釈放されました。飲酒をして速度違反をしてひき逃げしたことは厳罰に値することだと思います。

 幼稚園児がしそうな踊りをして、それをテレビが過剰報道し、多額な金を手にすれば自分たちが偉くなったと錯覚をするのも無理もないことです。
 その昔、堺屋太一さんと識者の方が、性質の悪い大人がいるものだと対談しているのを読んだことがあります。
 
 長い人生での幸せは、細々とであっても、世の人々と穏やかに語らい、仕事をまじめにして日々を楽しく暮らすことではないかと思います。

 昨夜は第二道場での空手道教室を行いました。『南洲翁遺訓』発表女王・マサダカナコさんに『南洲翁遺訓』第21章を発表して貰いました。すばらしさに、いつも心打たれています。

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曾子曰く、孝、三有り。

2018-09-26 16:16:30 | ブログ
第3551号 30.09.27日(木)

曾子曰く、孝、三有り。大孝は親を尊ぶ。其の次は辱(はずかし)めず、其の下は能く養ふと。公明儀、曾子に問ひて曰く、夫子は以て孝と為す可きかと。曾子曰く、是れ何の言ぞや。君子の所謂孝は、意に先(さきだ)ちて志を承け、父母を道に諭すものなり。参は直養ふ者なり。安(いづく)んぞ能く孝を為さんやと。『礼記』718

 曾子が言った。「孝に三種がある。大孝は親を尊び、中は親を辱めず、下は親を養うことのできる人である」と。そこで公明儀が問うた、「先生は孝子と申しあげてよろしいでしょうか。」曾子は答えた、「きみは何という事を言うのだ。君子が孝と呼ぶのは、親の意志に先だってそれに適うようにし、父母に道を示して誤まらぬように努めることのできる人、それが孝である。わたしなどはただ親の身を養うに過ぎない。どうして孝子と呼ばれようか。」

 【コメント】大変大事なことであります。でも何かと忙しい世の中、親を尊ぶことは大事でありますが、先ずは本人が仕事を真面目にして、親を辱めないことは勿論、家族ともども仲よくし、非違行為をするなど人様に迷惑をかけないようにしなければならないと思います。それと生涯学び続ける学問を見出すことが大事だと思います。
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征韓論に反対した大西郷 第11回

 「朝鮮御交際の儀」という書き出しから、礼儀正しく、兵火を避け、平和談判を以て、事を解決しようとする意図がうかがわれる。「護兵の儀は決して宜しからず」と断固たる意志を示し、派兵することによって戦争に発展することになったら、善隣友好を趣意とする外交方針に反することになる。今までは、事務レベルでの打診程度の折衝であったから、此の節は、政府の責任者が全権大使となり公然と交渉することが至当である。
 我が国が、条理により誠意を以て修交を申し出ても、先方が理不尽にも武力を以て拒絶する其の意底が明確になるまでは、ぎりぎりまで人事を尽くして平和交渉を進めるのが道である。それを、暴挙に出るかも知れないという疑念をもって、軍隊を連行して使節を派遣するのは非礼である。

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『善の研究』第33回

 然らば如何なる思想が真であり如何なる思想が偽りであるかというに、我々はいつでも意識体系の中で最も有力なる者、即ち最大最深なる体系を客観的実在と信じ、これに合った場合を真理、これと衝突した場合を偽と考えるのである。この考より見れば、知覚にも正しいとか誤るとかいうことがある。即ち或体系よりして見て、よくその目的に合うた時が正しく、これに反した時が誤ったのである。勿論これらの体系の中には種々の意味があるので、知覚の背後における体系は多く実践的であるが、思惟の体系は純知識的であるというような区別もできるであろう。

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『菜根譚』30

 事窮まり勢ちぢまるの人は、当にその初心を原(たず)ぬべし。功成り行満つるの士は、その末路を観んことを要す。

 〔訳〕仕事に行きづまり形勢が全くきわまった者は、よろしくそれに志した初心に立ち返って考え直すべきである。反対にすでに功成り名遂げた人は、ゆく末のことを見定めておくことが必要である。

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商の音に明なる者は、事に臨みて屢々断じ、

2018-09-25 17:47:01 | ブログ
第3550号 30.09.26(水)

商の音を明なる者は、事に臨みて屢々断じ、齊の音に明なる者は、利を見て譲る。事に臨みて屢々<断ずるは勇なり。利を見て譲るは義なり。勇有り義有るも、歌に非ざれば孰れ能く此を保たん。『礼記』606

 さて商の音楽に通じた人は、大事に臨んで決断する力に富み、また斉の音楽に通じた人は、利益を前にして人に譲るという気前がある。大事に臨んで決断するのは勇であり、利を見て譲るのは義である。そして勇にしても義にしても、歌うことによって修養するのでなくては、たれも保持してはゆけないであろう。

 【コメント】我々凡人から見たら、勇も義も大切なことだと思います。「そして勇にしても義にしても歌うことによって修養するのでなくては、たれも保持してゆけない」とありますが、参考にする人は存在するであろうと思います。

 個人的な見解ですが、漢籍を読み、かつ書き写し、その教えを踏襲することが最高の教えだと思います。

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征韓論に反対した大西郷

 朝鮮御交際の儀

 昨日に続く---若し彼より交わりを破り、戦を以て拒絶致すべくや、其の意底慥かに相顕れ候処迄は、尽くさせられず候わでは、人事においても残る処これあるべく、自然暴挙も計られず抔(など)との御疑念を以て、非常の備えを設け差し遣わされ候ては、又札を失せられ候様これありたく、其の上其の上暴挙の時機に至り候て、初めて彼の曲事分明に天下に鳴らし、其の罪を問うべき訳に御座候。いまだ十分尽くさざるものを以て、彼の非をのみ責め候ては、其の罪を真に知る所これなく、彼我共疑惑致し候故、討つ人も怒らず、討たるものも服せず候に付き、是非曲直判然と相定め候儀、肝要の事と見据建言いたし候処、御採用相成り、御伺いの上使節私へ仰せ付けられ候筋、御内定相成り居り候次第に御座候。此の段形行申し上げ候。以上。   西郷隆盛

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『善の研究』第32回

 前にもいったように、意識の意味というのは他との関係より生じてくる、換言すればその意識の入り込む体系に由りて定まってくる。同一の意識であっても、その入り込む体系の異なるに由りて種々の意味を生ずるのである。たとえば意味の意識である或心像であっても、他に関係なく唯それだけとして見た時には、何らの意味も持たない単に純粋経験の事実である。これに反し事実の意識なる或知覚も、意識体系の上に他と関係を有する点より見れば意味を有っている、ただ多くの場合にその意味が無意識であるのである。

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『菜根譚』28

 世に処しては必ずしも功をもとめざれ、過ちなきは便ち是れ功なり。人と与にしては徳に感ずることを求めざれ、怨みなきは便ち是れ徳なり。

 〔訳〕世渡りでは、必ずしも功名を立てなくともよい。大過なく過ごせれば、それが即ち功名だ。また、人と交わるときは、わが恩恵に感謝することを求めてはならない。怨まれなかったら、それがすなわち恩恵だ。

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