味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

赤心を推して、人の腹中に置く。

2015-01-23 10:22:16 | ブログ
第2218号 27.01.23(金)
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赤心を推して、人の腹中に置く。『十八史略』
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 自分の真心を押し出して、他人の腹の中にいれる。真心を持って人に接し、信じて疑わない。後漢の光武帝の人柄を評した諸将のことば。604
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 【コメント】『十八史略』の上の言葉は、私ごときものにはできませんが味わうべき言葉だと思います。〈他人の腹中の中にいれ〉なくても、誠心誠意人様の為に尽くせばいいのではないでしょうか。私はそのように考え行動しています。
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 昨夜は第二道場でおけいこを致しました。小一年1の正田宗一郎君と三歳児・かなこちゃんの『南洲翁遺訓』に挑む情熱には圧倒されます。『南洲翁遺訓』冒頭にある「抑も西郷南洲翁は筑紫の一隅に生れ」の半分を2人で声高らかに発表しました。
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 この文言は西郷南洲翁の人格を評した言葉ですが、併せて荘内人士の精神を吐露した言葉でもあるのです。私の詩吟道のお師匠様であった竹下一雄先生は、「味園さん、南洲翁遺訓は西郷さんの言葉であると言うが、荘内精神じゃったっど」と何時も私に話していたものです。
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 宗一郎君の傍で応援してくださるご両親様の英邁さに心から感謝申し上げます。ゲーム機もいいでしょうが、『南洲翁遺訓』の随所に出てくる言葉・用語を頭に叩き込むことは大変な財産になると信じます。
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 荘内南洲会の先生方、この文言は誰の立案でしょうか。とにかく素晴らしいの一言です。こんな素晴らしい『南洲翁遺訓』があるのですから、ご霊前でお経を唱えるような感じで、ご自宅で毎晩全員で拝誦してみたら如何でしょう。
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 多くの人々は眼の前にのみ拘泥しているきらいがあるようです。もう少し長期的視野に立脚して子育て及び人間育成論に臨んだら如何でしょう。

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『大学味講』(第56回)
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 〇東洋学的のものといいますと?
 ”儒教でも、仏教でも、物心一如とか、自他一体とかいって、すべて物事を一体的に見て、その根本となるものを確立し、把握することに努めるものであります。その代表的のものとして、「大学」の次の一節をあげることが出来るでありましょう。
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「天子より庶人に至るまで、壱是に皆身を修むるを以て本となす。その本乱れて末治まるものはあらず。」というのがそれであります。天子というのは、現在の日本でいえば、総理大臣ですが、総理大臣から庶民に至るまで、皆一様にその立場立場にしたがって、>「身を修むる」ことが、斉家、治国、平天下の一切活動の「本」であるというのであります。東洋的政教原論といわれる「大学」の一書を一貫する原理は、この一語に尽きるといっても過言でなく、随って私どもの「我づくり」の学的根拠はここに在ると申してもよいでありましょう”

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 私が「大学」と出会ったのは30年まえですが、10回以上通読し後、テープに録音して何回も聞いてきました。ところが講談社の『大学』と『大学味講』とでは大変な相違があります。小野寺時雄先生が、菅原先生は日本一の学者だといった言葉を思い出しています。
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 私の所で学んでいる子どもたちは、私同様、『大学味講』を座右の書にしてくださるものと確信しています。
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『論語』(第156)
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 子喪ある者の側らに食すれば、未だ嘗て飽かず。子是の日に於て哭すれば則ち歌はず。
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 孔子は、喪中の人と同席の場合には、腹一杯にめしあがられなかった。又孔子は、葬式や法事に行って泣いて来られた日には、歌など歌うことはなかった。
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『農士道』(第40回)
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 次に人間の性格に就いて之を見るも、矢張り四つの範疇より之を考え得る。即ち腹の中に誠を十分蔵しながらも軽々しく之を口にせぬといふ朴訥型が「質」で、之に對して十の思ふてゐることを、十二にも十三にも花を咲かせて上手にお喋べりするといふ巧言型が「文」である。
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 巧言はまだよい。然し腹にないことを唯口先きのみで蝶々としゃべって得々としてゐる侫侫に至っては、もう生命の本質より逸脱せる「浮文」であり、之に對して物言ふことは一切ならぬ。朝夕隣人と顔を見合はしても口を聴かぬといふに至っては瀆武の頑固に堕するものである。

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