タイトル----君子は必ず、その独りを慎んで学問に精励すべし。『大学』 第206号 21.10.20(火)
〈所謂(いわゆる)其の意を誠にするとは、自ら欺くなきなり。〉(宇野哲人著『大学』伝六章・講談社学術文庫)
通解「いわゆるその意を誠にすとは、自分で自分の真心を偽らないことである。我が身を修め、善をなし悪を去ることを信条とし、真実に全力を尽くしてこれをなし、自分の本心を欺いてはならないということである。」(前掲書)参照。
〈悪臭を悪(にく)むが如く、好色を好むが如くす、此れを之れ自ら謙(こころよ)くすと謂う。〉(前掲書)
通解「人が悪臭を嫌い、好い色をすき好むように、善いことを行い悪を排除することが自然に行えるようにするのである。このようになれば、善をなし悪をさりて、充分に自ら満足し、心に快しと思うのである。その真実に全力を尽くしているか、幾分かごまかしをしているかは、自分でわかるので、誠実に実践することが「自ら謙くす」ということである。」(前掲書)
〈故に君子は必ず其の独りを慎むなり。〉
通解「だから、君子は道を学び徳を修めるには、必ず自分自身の目標に誠実に行い、その身を慎み修めるのである。」(前掲書)
『大学』を読み始めたのが、『南洲翁遺訓』と出会ってすぐのことだった。これを読み、筆写するなどして暗記はしたものの、実践するとなると容易なことではなかった。今でも不十分である。だからこそ、今日もなお研鑽しているのである。青少年に『南洲翁遺訓』を教え、多くの古典を紹介はしているが、教えている本人も未熟そのものである。
ただ、いえることは道場に集う子供たちがせっせと書いてくるのは事実である。4歳から中学、高校生までが筆写してくるノ-トに精一杯の賛辞を寄せている。たどだどしく書いているノ-トであっても、一字一句に目を凝らして見るのである。そういうノ-トを見て、私自身が子供たちに教えて貰っている敬虔な気持ちになるのである。それは今時、そういう子供たちは皆無だと思うからである。
メディアの著しい進展に伴い、ゲ-ム機、携帯電話などそれはそれは便利であるため、そういう方へ安易に流れ易いからである。テレビまでもが連日そういうコマ-シャルを流しているのを見て、反教育的だと私一人が力んでも詮無いことである。だが、長い一生で、どちらが人間生活に有効であるかということである。
人と生まれて早く死にたいと思う人はいまい。出来れば健康で、幸せで、長生きしたいと思っている筈である。ところが、社会事象はそういう存在に寄与するどころか、儲けることだけしか眼中にないような気がするのは、私ひとりだけではあるまい。そういう俗悪的社会環境の中にあっても、前途ある青少年に70年間生きてきた人間として、健康的に、楽しく、有意義に生きる術を紹介したいのである。
自分の少年時代を振り返り、よくもこのようなことに言及することになったものだと、不思議でならないが、このことが、健康に資し、明晰化に資するとあれば、誰憚ることがあろう。人間が人間の尊厳を高めるためには、自らが勤勉にし、勤労をよくし、社会性ある人間として日々を過ごすことこそが最高の幸せと思うようになったからである。
磐石なる人生を送ろうと思うならば、『南洲翁遺訓』に学ぶに如かずである。なぜなら、西郷南洲翁は古典全般を渉猟したと思えるからである。なお、『南洲翁遺訓』を刊行した菅臥牛翁他関係者も同様に古典を学び、道を全うした人々であるからである。その事を小野寺理事長が必死に説いているのである。それは国家の安寧と、人々への「幸福論」の提供なのだと解している。