味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

礼節いろは言葉。「は」 拝という、言葉が築く信頼感。

2009-10-27 16:10:53 | 著書『礼節のすすめ』

タイトル----礼節いろは言葉。「は」 拝という言葉が築く信頼感。第218号 21.10.27(火)

 「は」 拝という、言葉が築く信頼感。----人との語らいには「拝」という返事をしよう。

 (このいろは言葉は、拙著『礼節のすすめ』に書いていたのですが、紙数の関係で内容は省略し、テ-マだけに致しました。なお、ブログではルビをつけることが出来ないため、難しい漢字の場合は( )のなかに読みを書くことにしています。)

 人が生きて行くためには、人との信頼関係を保つことが大切です。その信頼関係を築くための要件の一つが相手との会話であります。ビジネスを成功させようと思う時、先ずはお話をしなければ進展しないということは誰でも理解しています。

 そこで、相手に自分を認めて貰いたいと願うなら、相手の言い分も真剣に聞くことが大切だと思うのです。その際、相手に名誉を与えながら、若干譲歩してもらい、お願いも聞いて戴けるよう心がけましょう。

 相手の話を聞くとき、柔和な顔で、「ハイ、ハイ」と頷いたら相手も親しみを感じてくれる筈です。その時、ビジネスの成功と合わせ、仕事を通じての充実感が生まれ、爽やかな気分になれると思います。

 そして更に大事なことは、自分の言葉が、態度が、心の底からの表現であるということです。口先だけの返事はすぐ見破られ、信頼関係が崩壊しかねません。相手に売りつけるのではなく、喜んでお買い求め戴くことが出来れば、信頼の度もより増すと思います。

 『南洲翁遺訓』第七章に「至誠を推し」という言葉があります。それは「この上もなく誠実な気持ちを相手に伝える」ということです。


君子は必ず、その独りを慎んで学問に精励すべし。『大学』

2009-10-20 20:13:20 | 論語

タイトル----君子は必ず、その独りを慎んで学問に精励すべし。『大学』 第206号 21.10.20(火)

〈所謂(いわゆる)其の意を誠にするとは、自ら欺くなきなり。〉(宇野哲人著『大学』伝六章・講談社学術文庫)

 通解「いわゆるその意を誠にすとは、自分で自分の真心を偽らないことである。我が身を修め、善をなし悪を去ることを信条とし、真実に全力を尽くしてこれをなし、自分の本心を欺いてはならないということである。」(前掲書)参照。

〈悪臭を悪(にく)むが如く、好色を好むが如くす、此れを之れ自ら謙(こころよ)くすと謂う。〉(前掲書)

 通解「人が悪臭を嫌い、好い色をすき好むように、善いことを行い悪を排除することが自然に行えるようにするのである。このようになれば、善をなし悪をさりて、充分に自ら満足し、心に快しと思うのである。その真実に全力を尽くしているか、幾分かごまかしをしているかは、自分でわかるので、誠実に実践することが「自ら謙くす」ということである。」(前掲書)

〈故に君子は必ず其の独りを慎むなり。〉

 通解「だから、君子は道を学び徳を修めるには、必ず自分自身の目標に誠実に行い、その身を慎み修めるのである。」(前掲書)

 『大学』を読み始めたのが、『南洲翁遺訓』と出会ってすぐのことだった。これを読み、筆写するなどして暗記はしたものの、実践するとなると容易なことではなかった。今でも不十分である。だからこそ、今日もなお研鑽しているのである。青少年に『南洲翁遺訓』を教え、多くの古典を紹介はしているが、教えている本人も未熟そのものである。

 ただ、いえることは道場に集う子供たちがせっせと書いてくるのは事実である。4歳から中学、高校生までが筆写してくるノ-トに精一杯の賛辞を寄せている。たどだどしく書いているノ-トであっても、一字一句に目を凝らして見るのである。そういうノ-トを見て、私自身が子供たちに教えて貰っている敬虔な気持ちになるのである。それは今時、そういう子供たちは皆無だと思うからである。

 メディアの著しい進展に伴い、ゲ-ム機、携帯電話などそれはそれは便利であるため、そういう方へ安易に流れ易いからである。テレビまでもが連日そういうコマ-シャルを流しているのを見て、反教育的だと私一人が力んでも詮無いことである。だが、長い一生で、どちらが人間生活に有効であるかということである。

 人と生まれて早く死にたいと思う人はいまい。出来れば健康で、幸せで、長生きしたいと思っている筈である。ところが、社会事象はそういう存在に寄与するどころか、儲けることだけしか眼中にないような気がするのは、私ひとりだけではあるまい。そういう俗悪的社会環境の中にあっても、前途ある青少年に70年間生きてきた人間として、健康的に、楽しく、有意義に生きる術を紹介したいのである。

 自分の少年時代を振り返り、よくもこのようなことに言及することになったものだと、不思議でならないが、このことが、健康に資し、明晰化に資するとあれば、誰憚ることがあろう。人間が人間の尊厳を高めるためには、自らが勤勉にし、勤労をよくし、社会性ある人間として日々を過ごすことこそが最高の幸せと思うようになったからである。

 磐石なる人生を送ろうと思うならば、『南洲翁遺訓』に学ぶに如かずである。なぜなら、西郷南洲翁は古典全般を渉猟したと思えるからである。なお、『南洲翁遺訓』を刊行した菅臥牛翁他関係者も同様に古典を学び、道を全うした人々であるからである。その事を小野寺理事長が必死に説いているのである。それは国家の安寧と、人々への「幸福論」の提供なのだと解している。


身体の垢を除くごとく、心をも洗い清めよう。『大学』

2009-10-19 18:06:34 | 論語

タイトル----身体の垢を除くごとく、心を洗い清めよう。『大学』 第204号 21.10.19(月)

 〈洵j(まこと)に日に新たに、日々に新たに、又日に新たなりと。〉(宇野哲人著『大学』講談社学術文庫)

 通訳「敬(つつし)んで徳を新たにし、身体の垢を除き去るごとく日々に徳を新たにし、さらに心をも洗い清め悪習を除きて日ごとに新たにせねばならないとある。この「日に新た」の言葉を三度繰り返して、丁寧親切を極め、少しも油断すべからざるの意を述べてある。」(前掲書)参照。

 精神的・物理的行為としての徳は、人間の天命の受ける優れた能力であって、人間が修めるべきものであると言えよう。人間の歴史が生々発展してきた背景には、想像を絶する遥か昔からの聖人たちの、たゆまぬ努力があり、これらが人々によって継承され、今日の文化として形成されてきたものであるということに他ならない。

 要は、そういった人間社会に有用な訓戒であっても、それを応用・活用しなければ、その意義は何らの効を奏さないであろう。やや難解であっても、それらを日々に生かすことが出来るのは人間だけである。だからこそ“万物の霊長”と言われる所以でもあると思う。

 浅学菲才の私が、このような書と巡りあって二十年を経過した。今でも分からないが、当時は何がなんだか分からないまま筆写し、録音し、そして歩きながら聞くという作業を繰り返してきた。今でもそのようなことを繰り返しているが。その教えを、自己の人生に活かす、このことこそが意義があるのだと私は思う。意味を理解し解説出来ても、それを活かさず、頭の中の学問では折角の人生の、喜び、楽しみ、潤いというものはなく、何の学問かということになる。

 話は変わるが『南洲翁遺訓』の教えもそうである。この教えを現代社会に応用するところに意義があるのである。国の特別会計の杜撰な使途を見て言えることは、その種の仕事に携わる人々が、どのような学問をして来たのか、ということに帰結するのである。その弊害の代表的なものが、偏差値教育に他ならない、と私は思う。

 能力は、幼少にして伸びる人もいれば、年輪を重ねて伸びる人とさまざまである。それを画一的に、ある一時期を以て決するということに、どうしても不可解の念を禁じ得ないのである。それらは一応よしとして、今回取り上げた、古典のエキスを人生に執り入れ活用したいものである。『南洲翁遺訓』にしてもしかりである。

 洵j(まこと)に日に新たに、日々に新たに、又日に新たなりと。


国を治めて天下平らかなり。『大学』

2009-10-14 22:23:51 | 論語

タイトル----国を治めて天下平らかなり。『大学』 第200号 21.10.14(水)

〈物格(いた)って后知至る。知至って后意誠なり。〉(宇野哲人著『大学』講談社学術文庫)

 通訳「物事を窮め尽くし、正しく理解出来るようになって始めて、知が極められ明晰になる。知が極められ明晰になるに従い、意が誠実になる。」(前掲書)参照。

〈意誠にして后心正し。心正しくして后身修まる。〉(前掲書)

 通訳「意が誠実になるに従い、世の事象がわかり、心が正しくなる。心が正しくなってこそ、身が修まってくる。」(前掲書)

〈身修まって后家斉う。家斉いて后国治まる。国治まって后天下平らかなり。〉(前掲書)

 通訳「身が修まるにしたがい家族が和合し斉う。家族が和合し斉ってこそ国家が安らかに治まる。国家が安らかに治まるにつれて、天下が安泰になるのである。」(前掲書)

 『孟子』は「天下の本は国に在り。国の本は家に在り。家の本は身に在り」と論じている。また「誠」とは、自分でいささかの疑いも残すことがないよう明白にすること。「誠」は『中庸』の根本主張でもある。『中庸』は「誠は天の道なり」と教え、「誠は物の終始なり。誠ならざれば、物なし」と論じ、誠を宇宙森羅万象を包含した世界観の根本原理として捉えている。(新釈漢文大系『大学』明治書院)参照。

 この一章は、通常「治国平天下」と呼ばれている。

 要は、この世に生きる各人が幸せに生を全うしようと思うならば、「誠」の精神哲学を構築することが涵養であろう。ところが、人が見ていないからとか、少しぐらいはいいだろうとか自分に都合のいい我田引水的手前勝手な論理で事を処するから厄介なのである。70歳を迎えた私であるが、まさかこういう事を論じることが、私の人生サイクルにあったという事実に私自身驚いている。30数年前から古典との付き合いを始めて、恋をする気持ちにも似た熱烈な心情を古典にぶつけて格闘してきたのであった。

 たかが知れた浅学菲才の老人の論は、曖昧模糊としている部分もあるかも知れないが、多くの青少年に空手道を教える指導者として、文武両道を標榜し実践しているのである。館で修行する門下生は殊の外、優秀に成長して行くのである。高度で難解に論じても実生活に応用・活用出来ないものは意味がないであろう。ところが私の館に集う幼児たちを含めまことに立派に成長していったし、現在も模範的な日々を過ごしているのである。

 学問とは、人の人生に善良に処するものでなければならない、との強い使命感を抱き、身を修めたいという人々がそこに賛同し、切磋琢磨するものでなければならないと思料するものである。それが「治国平天下」の強固な基礎部分ともなるであろうと信じて-----。