第3701号 31.02.28(木)
仁は人なり。親を親しむを大なりと為す。義は宜なり。賢は尊ぶを大なりと為す。親を親しむの殺(さい)、賢を尊ぶの等は、禮の生ずる所なり。『中庸』257
仁とは、人間を人間として親愛することである。自分の親しいものを親愛することが最も大切である。義とは物事の適切さを得ることである。賢者を尊敬することが最も大切である。この自分の親しいものを親愛することをもととして、親愛を広く人々に及ぼし、賢者を賢者として尊敬することをもととして、尊敬を広く人々に及ぼして行く上で、一定の順序・厚薄のしなわけが定まる。ここから礼がおこってくるのである。
【コメント】中庸の大変良い言葉だと思います。未熟な自分に仁の思想が徹底するよう修養に努めたいものです。こういう素晴らしい教えがあるのに、人と人がいがみ合いの基に成るあおり運転をしたり、いきなり他人の家に忍び入り家人を殺害したりと物騒なことをする人がいるのが不可解です。
お互いが信頼関係でつながり、二度とない人生を有意義に過ごせるとしたら何と素晴らしいことでしょう。こういう関係が出来れば、精神的な問題ですので、金銭的な利害関係はないのです。何が幸せと言って『南洲翁遺訓』との出会い位、有難く素晴らしいものはないと思っています。
-----------
『善の研究』第162回
実在は自分にて一の体系をなした者である。我々をして確実なる実在と信ぜしむる者はこの性質に由るのである。これに反し体系を成さぬ事柄はたとえば夢の如くこれを実在とは信ぜぬのである。
右の如く真に一にして多なる実在は自動不息でなければならぬ。静止の状態とは他と対立せぬ独存の状態であって、即ち多を排斥したる一の状態である。しかしこの状態にて実在は成立することはできない。もし統一に由って或一つの状態が成立したとすれば、直にここに他の反対の状態が成立しておらねばならぬ。一の統一が立てば直にこれを破る不統一が成立する。
-------------
『菜根譚』177
一念の慈祥は、以て両間の和気を醞驤すべく、寸心の潔白は、以て百代の清芬を昭垂すべし。
〔訳〕わずかな慈悲の心が、天地の間のおだやかな和気を醸し出すことができるし、また、潔白な心が、百代の後までも清く芳しい名を明らかに伝えることができる。
---------------
仁は人なり。親を親しむを大なりと為す。義は宜なり。賢は尊ぶを大なりと為す。親を親しむの殺(さい)、賢を尊ぶの等は、禮の生ずる所なり。『中庸』257
仁とは、人間を人間として親愛することである。自分の親しいものを親愛することが最も大切である。義とは物事の適切さを得ることである。賢者を尊敬することが最も大切である。この自分の親しいものを親愛することをもととして、親愛を広く人々に及ぼし、賢者を賢者として尊敬することをもととして、尊敬を広く人々に及ぼして行く上で、一定の順序・厚薄のしなわけが定まる。ここから礼がおこってくるのである。
【コメント】中庸の大変良い言葉だと思います。未熟な自分に仁の思想が徹底するよう修養に努めたいものです。こういう素晴らしい教えがあるのに、人と人がいがみ合いの基に成るあおり運転をしたり、いきなり他人の家に忍び入り家人を殺害したりと物騒なことをする人がいるのが不可解です。
お互いが信頼関係でつながり、二度とない人生を有意義に過ごせるとしたら何と素晴らしいことでしょう。こういう関係が出来れば、精神的な問題ですので、金銭的な利害関係はないのです。何が幸せと言って『南洲翁遺訓』との出会い位、有難く素晴らしいものはないと思っています。
-----------
『善の研究』第162回
実在は自分にて一の体系をなした者である。我々をして確実なる実在と信ぜしむる者はこの性質に由るのである。これに反し体系を成さぬ事柄はたとえば夢の如くこれを実在とは信ぜぬのである。
右の如く真に一にして多なる実在は自動不息でなければならぬ。静止の状態とは他と対立せぬ独存の状態であって、即ち多を排斥したる一の状態である。しかしこの状態にて実在は成立することはできない。もし統一に由って或一つの状態が成立したとすれば、直にここに他の反対の状態が成立しておらねばならぬ。一の統一が立てば直にこれを破る不統一が成立する。
-------------
『菜根譚』177
一念の慈祥は、以て両間の和気を醞驤すべく、寸心の潔白は、以て百代の清芬を昭垂すべし。
〔訳〕わずかな慈悲の心が、天地の間のおだやかな和気を醸し出すことができるし、また、潔白な心が、百代の後までも清く芳しい名を明らかに伝えることができる。
---------------