味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

仁は人なり。親を親しむを大なりと為す。

2019-02-27 16:43:05 | ブログ
第3701号 31.02.28(木)

仁は人なり。親を親しむを大なりと為す。義は宜なり。賢は尊ぶを大なりと為す。親を親しむの殺(さい)、賢を尊ぶの等は、禮の生ずる所なり。『中庸』257

 仁とは、人間を人間として親愛することである。自分の親しいものを親愛することが最も大切である。義とは物事の適切さを得ることである。賢者を尊敬することが最も大切である。この自分の親しいものを親愛することをもととして、親愛を広く人々に及ぼし、賢者を賢者として尊敬することをもととして、尊敬を広く人々に及ぼして行く上で、一定の順序・厚薄のしなわけが定まる。ここから礼がおこってくるのである。


 【コメント】中庸の大変良い言葉だと思います。未熟な自分に仁の思想が徹底するよう修養に努めたいものです。こういう素晴らしい教えがあるのに、人と人がいがみ合いの基に成るあおり運転をしたり、いきなり他人の家に忍び入り家人を殺害したりと物騒なことをする人がいるのが不可解です。

 お互いが信頼関係でつながり、二度とない人生を有意義に過ごせるとしたら何と素晴らしいことでしょう。こういう関係が出来れば、精神的な問題ですので、金銭的な利害関係はないのです。何が幸せと言って『南洲翁遺訓』との出会い位、有難く素晴らしいものはないと思っています。

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『善の研究』第162回

 実在は自分にて一の体系をなした者である。我々をして確実なる実在と信ぜしむる者はこの性質に由るのである。これに反し体系を成さぬ事柄はたとえば夢の如くこれを実在とは信ぜぬのである。
 右の如く真に一にして多なる実在は自動不息でなければならぬ。静止の状態とは他と対立せぬ独存の状態であって、即ち多を排斥したる一の状態である。しかしこの状態にて実在は成立することはできない。もし統一に由って或一つの状態が成立したとすれば、直にここに他の反対の状態が成立しておらねばならぬ。一の統一が立てば直にこれを破る不統一が成立する。

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『菜根譚』177

 一念の慈祥は、以て両間の和気を醞驤すべく、寸心の潔白は、以て百代の清芬を昭垂すべし。

 〔訳〕わずかな慈悲の心が、天地の間のおだやかな和気を醸し出すことができるし、また、潔白な心が、百代の後までも清く芳しい名を明らかに伝えることができる。

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君子は先づ徳を慎む。

2019-02-27 09:09:23 | ブログ
第3700号 31.02.27(水)

君子は先づ徳を慎む。徳有れば此に人有り。人有れば此に土有り。土有れば此に財有り。財有れば此に用有り。『大学』90

 君子は最先に自分の徳を絜矩の道によって行うことを慎むのである。君子が徳を行えば、その政治を助ける賢人が得られる。賢人が助ければ領土が得られる。領土が得られれば、産物・貨物が集まる。産物・貨物が集れば事業が起こる。

 【コメント】私共も君子同様、人様に公平に親切に対応すれば、いろいろな協力が得られるということはよくあることだと思います。ですから、人様に対しては出来るだけ親切にしてあげたらと思います。

 27日、午前9時過ぎです。先ほどのテレビ報道であおり運転同様の場面が紹介されました。交差点で信号が赤になったところで、車が一旦停車したその際、後続の車が割り込んで交差点に入りました。

 一旦停車した運転手は、危険も予想され警笛を鳴らしました。ところが割り込んで侵入した無法車両の運転手らが降りてきて、警笛を鳴らした車両のドアを叩いて強迫したとのことです。

 こういう無法運転手らは捜査をして恐喝で逮捕した方がいいと思います。自分らの非は棚に上げて危険回避の措置を取ろうとした人を脅すとは人間のダニに該当する部類だと思います。

 こういう輩は、その内に天の制裁を受けると思うのですが、出来るだけ相手になさらない方がよろしいかと思います。そうであっても、そういう人々を恨まない方がいいと思います。性癖ですから仕方がないのです。

 願うものなら、そういう人々も『南洲翁遺訓』を読み続けたらいくらかましな人生が展開されると思うのですが、詮無きことでしょうか。

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『善の研究』第161回

 統一力と統一せらるる者と分離した時には実在とならない。たとえば人が石を積みかさねたように、石と人とは別物である。かかる時に石の積みかさねは人工的であって、独立の一実在とはならない。
 そこで実在の根本的方式は一なると共に多、多なると共に一、平等の中に差別を具し、差別の中に平等を具するのである。而してこの二方面を離すことのできないものであるから、つまり一つの者の自家発展ということができる。独立自全の真実在はいつでもこの方式を具えている、しからざる者は皆我々の抽象的概念である。

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『菜根譚』176

 欺詐的の人に遇わば、誠心を以てこれを感動し、暴戻的の人に遇わば、和気を以てこれを薫蒸し、傾邪私曲的の人に遇わば、名義気節を以てこれを激礪す。天下、我が陶冶の中に入らざることなし。

 〔訳〕口上手なくわせ者に会ったならば、真心をもって感動するようにし、力自慢の乱暴者に会ったならば、温和な心をもって感化するようにし、心のねじけた小悪党に会ったならば、正義と意気の人の道をもって励まし導くようにする。この世の中には、教化できない者はないようになる。

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人道は政を敏め、地道は樹を敏む。

2019-02-26 10:29:13 | ブログ
第3699号 31.02.26(火)

人道は政を敏(つと)め、地道は樹を敏む。夫れ政なる者は、蒲盧なり。故に政を為(おさ)むるは人に在り。人を取るは身を以てし、身を脩むるには道を以てし、道を脩むるには仁を以てす。『中庸』257

 この世の人間のつとめは、政治を善くするように努力するにあることは、大地のつとめが、作物を善くうえ育てるように力を注ぐのと同じである。政治というものは、人力を大いに加えなければ、収穫をあげられない黒い荒地のようなものである。
善い政治を行なう根本は、有徳の人物を登用してその力をかりるようにするにある。有徳の人物を採用するには、君主がその身を正しく修めているのがもとである。その身を正しく修めるのには、道を行なわなければならぬ。道を行うには、仁を志し仁を広めなければならぬ。


 【コメント】この言葉を覚えたのが40年前のことでした。素晴らしい言葉に酔いしれた時を思い出しています。漢籍のこういう言葉に出逢うきっかけは、『南洲翁遺訓』との出会いの御蔭でした。 
 
 人間いろいろなことと出会うと思いますが、広島カープの野球を見る時間があるならば、漢籍にも興味を向けませんか、とお勧めしたいものです。
 『論語』をはじめとする漢籍は二千年の長きにわたり読み継がれているとの由です。それは人間に与えてくれる真摯性、勤勉性、勤労性等々人間社会に極めて善い教え・習性等々を与えてくれるからです。
 それらを体現されている集団が荘内南洲会の先生方なのです。
 
 『南洲翁遺訓』と出会い、荘内に旅すること15回、私の人生は荘内の先生方のご指導の賜物なのです。私が主宰する空手道教室では『南洲翁遺訓』を中心に、荘内の先生方の生き様をご紹介しているのです。
 子供たちの学校の教科書には『南洲翁遺訓』のこと、荘内のこと等々が記載されています。

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『善の研究』第160回

 たとえば白と黒とのように凡ての点において共通であって、ただ一点において異なっている者が互に最も反対となる、これに反し徳と三角というように明了の反対なき者はまた明了なる統一もない。最も有力なる実在は種々の矛盾を最も能く調和統一した者である。
 統一する者と統一せらるる者とを別々に考えるのは抽象的思惟に由るので、具体的実在にてはこの二つの者を離すことはできない。一本の樹とは枝葉根幹の種々異なりたる作用ををなす部分を統一した上に存在するるが、樹は単に枝葉根幹の集合ではない、樹全体の統一力が無かったならば枝葉根幹も無意義である。樹はその部分の対立と統一との上に存するのである。

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國を有つ者は、以て慎まざる可からざる。

2019-02-25 09:25:15 | ブログ
第3698号 31.02.25(月)

國を有(たも)つ者は、以て慎まざる可からざる。辟すれば則ち天下の僇と為る。『大学』83

 国を保有する君主には、人民がひとしく安楽の望みをかけているのであるから、君主は絜矩の道を慎んで守らなければならぬ。もしも絜矩の道に外れ公平を失うことがあるならば、国もわが身を亡ぼしてこの世にもっとも甚だしい恥さらしとなる。

 【コメント】「人民がひとしく安楽の望みをかけている」のであるから、君主は絜矩の道を慎んで守らなければならぬとありますが、尤もなことであります。
 一方、今朝のテレビ報道でもありましたが、68歳の老人男性がが34歳の近くの主婦にあおり運転をするなどし、また自分の土地も隣の土地もゴミ屋敷同然の荒れ放題となっている事実が紹介されました。
 このような不逞の老人は、あらゆる措置を集めて法の名において、徹底的に取り締まってほしいものです。年が若く社会慣れが乏しいのかとも思いましたが、どうも老人の精神的疾患のようにもとれました。警察当局は厳しく対応して欲しいものです。

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『善の研究』第159回

 実在の成立には、右にいったようにその根底において統一というものが必要であると共に、相互の反対むしろ矛盾ということが必要である。ヘラクライトスが争は万物の父といったように、実在は矛盾に由って成立するのである。赤き物は赤からざる色に対し、働く者はこれをうける者に対して成立するのである。この矛盾が消滅すると共に実在も消え失せてしまう。元来この矛盾と統一とは同一の事柄を両方面より見たものにすぎない、統一があるから矛盾があり、矛盾があるから統一がある。

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『菜根譚』172

 事なきの時は、心昏冥なり易し。宜しく寂々にして、照らすに惺惺を以てすべし。事あるの時は、心奔逸し易し。宜しく惺惺にして、主とするに寂々を以てすべし。

 〔訳〕身辺無事のときには、えてして心がぼんやりしがちなものである。そのようなときには、心を静かに落ち着けて、澄んで明らかな本心で照らして行けばよい。また、身辺多忙のときには、えてして心がはやりがちなものである。そのようなときには、本心を澄まし明らかにして、落ち着くことを中心として行けばよい。

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嘉楽なるかな君子、

2019-02-24 09:48:56 | ブログ
第3697号 31.02.24(日)

詩に曰く、嘉楽なるかな君子、憲憲たる令徳は、民に宜しく人に宜しく、祿を天より受く。保佑けて之を申(かさ)ぬ、と。故に大徳ある者は命を受く。『中庸』243

 詩には「まことに楽しいかな君子よ。御身のかがやかしい善徳は、人民から慕われほめられて、さいわいを天から受けなさる。いま、保がたすけて御身に命じ、さらに天からかさねて命じられている」とうたっている。このように、偉大なる徳をそなえたものは、必ずや天命を受けるのである。

 【コメント】我々凡人も日常的に修養し、偉大なる徳をそなえるよう奮励したいものです。高速道路であおり運転をするような人も、その勇気を偉大なる徳に置き換えてみられたら如何でしょう。

 信頼関係で構築した人間の約束は、他の動物に見られない美しい精神の像が人々に計り知れない恩恵を与えてくれるのです。

 今朝は九時からNHKで、子供の育て方についていろいろ有識者が議論されました。子供を一人前に育てるについて体罰は一切いけないという趣旨の話しあいでした。それはそれで結構なことだと思います。

 私の空手道教室には、特別支援学級で学んでいる子供たちもおけいこに来てくれるのです。第二道場に来る人は20年間の長きにわたり稽古をしているのです。

 その方には言葉だけでは通じないのです。ですから、一言一言言い聞かせ、大腿部などをパッチンと叩いて体に染み込ませるのです。お蔭で突きのポーズは5.6段の師範同様の突きをしてくれるのです。終局的に、当該人間を如何に成長させ、社会参加出来るよう導くかということだと思います。

 今朝議論した方の子供さんが、普通の人が理解出来ないような状態であっても、言葉だけで導こうとするでしょうか。そうした場合、ご両親が生きている間は全く成長はないのです。それでは当該人間が可愛そうではないかと思います。先ずは真っ当に育てて上げることが大事なのです。私はそのように指導しているのです。

 叩くのはいけませんが、その人を救うという重大な使命感を同居させるべきだと敢て提言したいと思います。

 昨夜は自宅での空手道教室でした。一人の子供が指導に対して真面目にしないものですから、厳しく対応しました。何回も何回も厳しくしつけて行くうちに、必ず理解してくれるのです。口先だけで体罰はいけないといっても、永遠に矯正できないと思います。