味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

賢にして財おおければ、則ち其の志を損す。

2014-04-30 16:55:15 | ブログ

タイトル----賢にして財多ければ、則ち其の志を損す。第1952号 26.04.30(水)

.

 賢にして財多ければ、則ち其の志を損(そん)し、愚にして財多ければ、則ち其の過ちを益(ま)す。『小学』

.

 子孫のために、多くの財産を遺した場合、子孫が賢かったならば、かえってその志を損なうことになるし、また、愚か者であれば、かえって過ちを増すことになる。(疏広のことば)

.

 どのみち、子孫に財産を遺すことは、子孫のためにならないものである。

.

【コメント】

.

 上の言葉は、名言といえるものであると思います。

 『南洲翁遺訓』第五章にも「--------児孫の為に美田を買わず。」とあります。

.

 身内が可愛いのは当然ですが、お互い協力はしても、甘えさせてはならないと思います。本田技研の創業者も、そっくりそのまま会社を譲るようなことはしなかったと聞き及んでいます。強く逞しく生き抜いてくれよ、という愛のメッセージなのでしょう。

.

 昨日も学校の先生方のことを書きましたが、子どもたちを強く正しく逞しく育てて欲しいものです。現今、ホッペタでもピシャリ殴ろうものなら、体罰をしたとして、処分の対象になるでしょう。それは学校の先生方が半世紀に亘り、平和運動等々をしたのに起因しているのです。

.

 昨年末、23日頃読売の記事によると、4960名くらいの先生が、精神科に入院したと紹介されていたやに記憶しています。それまで四万人とお聞きしていましたので、計43000人の先生方が入院しているのでしょうか。先輩の先生方が蒔いた種のお蔭で、後輩の先生方が保護者にいじめられる、これほど皮肉で悲惨なな現象はないでありましょう。

.

 そして國の財源の関係で8%給与カットがされたのを取り戻さなければならないと息巻いている先生方がいるという。国のために、奉仕していると思って、子どもの為、世の為尽そうという気にならないのでしょうか。こういう先生方に教えてあげます。あなた方の末路は悲哀のどん底に沈むということを。

.

 数か月前、私は聖職として先生になったのだから、労働組合に入らないと言ったら、委員長に殴られた先生のことを書きました。退職した当時委員長の男は、見るも無残なヨイヨイになっているとのこと。それは当然なのです。天の報いなのです。幸せな人生でありたいと思ったら、中村天風を学んでください。

.

 

 今日のブログで1952号になりました。今日まで一貫して、漢籍のことを書いて参りました。それは、人間としての生き方を教えてくれているからです。戦争や、争いをしてはなりませんが、強く正しく生きなければならないからです。

.

 私のブログには今時の先生は興味がないでしょう。先生方で漢籍に興味のある方は少ないでしょう。漢文を教える先生がなっていないのですから。

 私は、このブログが必ず、何時かは脚光を浴びる時期が来ると信じて書き続けているのです。これから10年書き続けたら、37000号くらいになります。

.

 --------------------------------

.

 『天保おすわり事件』(第8回)

.

   

.

 お貸し下げの低利資金で、二割乃至二割五分の高利の借金は全部返してしまった。その上に、毎年、郷賄の名義でお百姓の負擔ときまってゐた五千兩の費用は、全部藩庫の支瓣と改められた。御領内八郷には備荒貯蓄が設けられた。その上に、藩の財政が豊かになったからといって、今まで拝借してゐた金子一萬三千八百余兩と、米八萬三千三百餘俵は、全部貸下されの御沙汰を蒙ったのである。二十萬人のお百姓が、

「こんな有難い御殿様がまたとあらうか。此お殿様の為めならば、水火の中へでも喜んで飛び込もう-----」と思ひこんだのも無理はない。 (頁五)

.

 ----------------------------

.

 短歌の紹介

.

従道は荘内実情偵察後

             政府に叛心なきを明かせと 6753 『臥牛 菅実秀』

内務省募集の巡査屈強な

             者応募せと勧めるも無し 6754 『臥牛 菅実秀』


上に道揆なく、下に法守なし。

2014-04-29 15:36:26 | ブログ

タイトル---上に道揆なく、下に法守なし。第1951号 26.0429(火)

.

 (かみ)に道揆(どうき)なく、下(しも)に法守(ほうしゅ)なし。『孟子』(離婁上)

.

 上の人は、道揆、すなわち義理をもって事をはかることが少なく、下の人は国法を守る考えがない。そんなことで國が治まるはずがない。

.

 【コメント】

.

 今の日本の国の惨状を告白しているような文言にあいました。そうではないでしょうか。

.

 他人様には自らが頭を下げて挨拶し、そして良い言葉を遣う。そして率先垂範して仕事をする。日々にうまくいかない事が生じても愚痴を言わない。節約をする、清貧に甘んじて自らが清貧と戦う。人には親切にする。出来るだけ身体を動かす、と同時に良書に親しみ、筆写する、こういう日々を私は半世紀貫いています。これに反したと思われる時は、理子先生、私を厳しく叱ってください。

 .

 そういう真面目な生き方であれば、お互いそういう人を増やし、世の正常化、活性化に努めたいものです。

.

 その昔、ある偉い方とされる人の文言も入れ、多くの人に私が取材を受けた雑誌を贈呈したことがありました。そうしたら、関係者みたいな人から、売名的なことは慎んだ方がいいと忠告を受けたことがありました。その男は、売名的なことをしているくせに、です。

.

 思うに、儲け主義でなく、世の為人の為に一肌脱ごうという人がいたら応援すべきなのです。そうしないと世の中よくならないのです。特定の人の、団体の言う通りしなさいというのは、新興宗教と同じなのです。忠告をそそのかした男は早々他界しましたが。

.

 夜間高校に行く頃から、私の壮絶な生き方は始まりました。昨夜は一年生の礼弥君が稽古にきました。おばあちゃんから、「内の礼弥をよろしくお願いします」と頼まれているから、悪い時はビシビシ行きますからと話したら、「ハイ」と答えてくれました。『南洲翁遺訓』の精神と、『名君忠徳公』の生き方を教え、一人前の人間に成長すべく指導したいと考えています。

.

 今朝のテレビ報道で、大相撲の最近の横綱は、三代続きでモンゴル出身がその地位をしめているということが語られました。ご承知のとおりです。モンゴルの草原で走り回る子どもたちは足腰が強くなるのは確かだと思います。

.

 でも私に言わせると、学校の先生方の平和教育・運動も起因していると思えてならないのです。先生方が平和教育をするという動機は極めて良心的で純粋なのです。でも、やり方が稚拙なのです。子どもの教育は、優しさしと厳しさを同居させなければならないのです。現に私はそのようにしてきているのですから。

.

 私の所で修行している特別支援学級で学んでいる子どもを二週間前、いう事を聞かないため指導中に大腿部をビシッビシッと叩きました。そしたら、反抗しました。

.

 今度は三日前の土曜日、自宅の炊事場の方に行き暴れたので、ホッペタをビシャリと強めに叩きました。自分でも悪かったと思ったのでしょう、その時は反抗する態度はみられませんでした。

 ことほど左様に、状況をみながら、教えてあげなければならないのです。どうにかして真人間にするために、誠心誠意しなければならないのです。そういう指導に対して、学校の先生をしていた男は越権行為だというのでした。

.

 私はこのやり方を半世紀続けているのです。でも指導者であるからと言って威張ってはならないのです。私は、子どもたちに対しても「ハイ」というお返事をしています。

 こういうやり方は、賢明な人には理解できるでしょうが、学校で、平和、平和と叫んでいるような先生には理解出来ないでしょう。

.

 國と國との関係にしても、挑発的なことをしてはならないと思います。でも、自分の国は自分たちで守るという気概がなければならないでしょう。

.

 平和、平和という人に聴いてみたいです。貴方は、貴方の子どもが拉致されようとしたとき、何もしないのですか、と。私に言わせたら、そういう人たちが世の中を引っ掻き回しているのだと思います。

 日本空手道少林流円心会は創立当初から、全くぶれず、五条訓に書いているとおりの姿勢を貫いています。

.

 ----------------------------------

.

 『天保おすわり事件』(第7回)

.

 かうして、鋭意、負債の償却と財政の立て直しに専念された結果、治績は隆々としてあがり、藩政の改革に御着手遊ばされてから七年目の天明元年には、早くも潘債の大部分を償却して、一千四百兩の剰余金をさへ得られたばかりか、翌二年の五月には、更に二千兩の軍用金を藩庫に収納し得たのである。

 公は、ついでに白井彌太夫、ならびに本間光丘等の建言をお容れになり、農政の大改革に御着手、先づ四分の低利資金をお百姓に御貸與、これによりて、二割五分乃至二割の高利の負債を償却せしめ、これまで毎年代官の領内巡視の際、郷賄としてお百姓に負擔させて居た五千兩の費用を、全部藩の支瓣と改められ、ひたすら民力の涵養をはかられた上に、藩の財政の基礎が定まると、曩(さき)に貸與された低利資金全部と、八萬三千餘俵の米穀を、お貸下されの名義で、全部お百姓に御下賜になったのである。(頁五)

.

 -----------------------------

.

 短歌の紹介

.

士族兵募り便法巡査にし

             武器を与えて戦わせると 6751 『臥牛 菅実秀』

政府いう東北士族は薩軍を

             征伐戊辰仇打てと宣伝 6752 『臥牛 菅実秀』


礼を学ばさ゜れば、以て立つことなし。

2014-04-28 17:38:35 | ブログ

タイトル----礼を学ばざれば、以て立つことなし。第1950号 26.04.28(月)

.

 礼を学ばざれば、以て立つことなし。『論語』

.

 礼は世に立つ根幹である。だから、この礼というものを学ばずしては、人間として世に立つことができない。

.

【コメント】

.

 『論語』が訓戒するとおり、〈礼は世に立つ根幹である〉というように、まさしくその通りでございます。学びの道は、学んでも学んでも、奥深いものでございます。学問修行を通じて上の言葉の神髄を構築できれば、これ以上の喜びはないでありましょう。

.

 (只今、4月28日、午後1時15分です。)このブログを書きながら、第28次 西郷先生の遺徳を訪ねる旅、荘内南洲会旅行団の皆様が道場においでくださった時の映像を拝見しながら、書いています。

 理子先生は二列目中央にいたのですね。母上様は貴方の左側?、右側?。バスが発車する時、一緒の窓からお顔を出した方が母上様だったのですね。このDVDが欲しい時はメールください。お送りします。

.

 ------------------------------

.

 『天保おすわり事件』(第6回)

.

 忠徳公は、まづ人材を傘下にあつめて、強固施政の實体をつくる事に成功された。國家老水野内蔵之助重幸を中心に、碩學白井彌太夫重行を代官の卑職から擢んで、之を大目付に任じ、特に文政に参與せしむると同時に、治國太平の第一歩が、財政の整理にある事を痛感されて、酒田の町人本間四郎三郎光丘に親書を賜はり、之を士分に取り立て、先づ勝手方御用掛を命じ、ついで郡代次席に登用、事實上の大蔵大臣として、思ふ存分に腕をふるはしめられたのである。

 .

 士は己を知るもののために死すと古人は言った。光丘が君侯の殊遇に感激し、身命をささげて財政の大改革に精進した當時の記録は、何人も涙なしには讀過し得ないであろう。

 公は、光丘の進言をまたれるまでもなく、率先して大倹約を御實行になった。御新婚の第一日から、一汁一采御躬みづから範を四民にお示しになると同時に、嚴に藩士を戒めて、極力精神の作與と物資の節約とを励行せしめられたのである。

.

 ------------------------

.

 短歌の紹介

.

開墾士屈強なる者誰一人

             巡査に応募する者はなし 6749 『臥牛 菅実秀』

巡査募集鹿児島軍を弾圧す

             兵力事情伏在があり 6750 『臥牛 菅実秀』


恭しくして安し。

2014-04-27 18:37:42 | ブログ

タイトル----恭しくして安し。第1949号 26.04.27(日)

.

 恭しくして安し。『論語』(述而)

.

 孔子は、うやうやしく、慎み深い。けれども、そのために、身に窮屈なところはなかった。

.

【コメント】

.

 私から見た荘内南洲会前理事長・小野寺時雄先生も、上の『論語』にあるようなご人格の先生でした。そういう先生であるだけに私も、小野寺先生との対応は出すぎることがあってはならないと最大限弁えてきたつもりです。

.

 ところが仲間の空手道弟子の高校教諭だった男が、指宿での交流会の会場で卑猥な歌を唄ったのでした。7年位前のことです。舞台中央で酔いに任せて唄い、そして時間だと旅行会社の人がお願いをしたにも関わらず、それはお前の責任ではないかと言ったのでした。

 その模様を詳しく御聞きした私は、荘内南洲会の先生方に申し訳ない気持ちで、どうしたものが、沈んでしまったのです。私が元気がないものですから、前事務長が、荘内南洲会の我々が何か失礼なことをしましたか、と私に聴いたのでした。

.

 いや、逆なのですよ。円心会のある男が大変な失礼なことをしてしまいまして、と陳謝した次第でした。私は苦悩のあまり、四階から飛び降りてお詫びしたものかと迷ったのでした。

.

 そして翌日、道場で他の師範たちから、あの男は誰が言っても聞かないので、この際厳しく説諭してください、とお願いをされたのでした。そこで、厳しく厳しく徹底的に諌めた次第でした。

.

 これが東北と九州の先生方の集いであるのなら、何を唄おうが何をしようが構わないのです。

 ところが君子揃いの荘内南洲会の先生方の前で振る舞うことではないのです。私自身漢籍等々を繙くと同時に、日本舞踊の厳しいお師匠様にも30年間仕えてきましたので、立ち居振る舞いには十分神経をつかってきました。

.

 現在の円心会の師範たちは、幼少時から私が厳しく指導してきた方々ですので、その辺は十分弁えてくれています。今日、民主的とか、同権という思想と言葉が氾濫し、分けの分らない人が増えてきているようです。だから私は道場で、幼児たちを厳しくしつけているのです。 空手技術を教えると同時に、人間としての礼節を教えなければならないと自覚し厳しく指導しています。

.

 数年前、高校の教諭だった男に、そういうやり方でいいと思うか、聴いてみました。ところが、空手だけを教えればいいのだ、それ以外は越権行為だ、という言葉が返ってきたのです。

..

 そこで、厳しく指導した子どもの保護者に、どちらがいいかと聞いてみまし。異口同音に厳しく指導してくださいという言葉が返ってきたのでした。学校の先生なんて、ただ勉強を教えるだけであとは何も分かっていないのです。人間の本当の幸せは考えていないのです。だから、人様の子どもを育てる立場にありながら、くだらない労働運動をしているのです。

.

 ------------------------------

.

 『天保おすわり事件』(第5回)

.

 

        

.

 忠徳公は寶暦五年十月二十日、江戸神田橋の藩邸でお生れになり、明和四年、十三歳で御襲封、十八歳の時、はじめて御入国になったが、當時は、史家のいはゆる田沼時代で、實に江戸文化の爛熟期であった。

 いづれの時代にありても、文化の爛熟は、必ず人心の頽廃と正比例するもので、二百年來うちつづく昇平の餘澤に、士民の風俗は著しく驕奢に流れ、華麗安逸を喜び享楽耽溺の氣分は天下を風靡して、殆んど底止する處を知らざる有様であった。

 古來、醇朴富裕を以てきこえた莊内潘も、また此の怖るべき濁流の外に超然たる事はできなかった。衣食住その他、日常の生活が向上すれば、自然、内外の失費も嵩む道理で、財政が苦しくなれば、止むを得ず、諸國の富豪から高利の金を借りて、一時の急を凌ぐとふ有様で江戸の藩邸の如き、門前債鬼の群をなす事も珍らしからず、時としては、御奥の群を御化粧料にさへ差支へたといふ嘘のような悲喜劇さへ傳へられてをる。

 忠徳公は、その窮乏のどん底時代に荘内に君臨されたのである。

 公はまづ和銅、天平以降、千有餘年にわたりて、つちかはれた尊き傳統の上に、此の地と此の民を引きもどして、そこに君臣一体の理想的政治を行ふべく、朝に聖賢の道をたづね、夕は野に遺賢を求めて、萬機を公論に決する王者の道に邁進されたのである。

 名君の名君たる所以は、よく人を知り、よくその人に任ずる事である。

.

 -----------------------------

 短歌の紹介

.

荘内の警察暴挙なきとして

              政府内命応ずことせず 6747 『臥牛 菅実秀』 

陸軍省謀反なきなら内務省

              募集巡査に応募させよと 6748 『臥牛 菅実秀』


充に厥の徳を迪えば。

2014-04-26 15:28:26 | ブログ

タイトル----充に厥の徳を迪えば。第1948号 26.0426(土)

 (まこと)に厥(そ)の徳を迪(おこな)へば、謨明(ぼめい)は弼(たす)け諧(とも)にせん。『書経』

.

 舜・兎・皋陶(こうよう)のまつりごとのさまは次のようであった。皋陶はいう、帝が信にその徳をおこなえば、民は帝を助けてともに善を行うでしょう。兎はそれをうけていうには、その通りです。

.

 それにはどのように行うのですか。皋陶が重ねて説いていう、ああ帝が自分自身の行いを慎み、遠くの人にまでおよぶ思いやりを修めて、順序をもって九(あまた)の族に手厚く親しむようにすれば、民は帝の業を励んで助け、近くの民は喜び、遠方の民はなついてくるでしょう。兎は皋陶のこの良き言葉を拝して、その通りです、といった。

.

【コメント】

.

 これは『書経』の冒頭の部分です。今朝の学問館で配布したプリントです。

.

 『名君忠徳公』を44回(平成24年4月21日完)に分けてブログで紹介しました。引き続き、『天保おすわり事件』をご紹介することにしました。今日で第4回です。

 『書経』を筆写しだして、名君・忠徳公はご幼少から漢籍を学び、こういう処世術を知悉していたのではないか、と思えてならないのです。尤も、そこには洗練された「性」というものがなければならないのですが。

 現今の労働組合の、金よこせ、仕事は減らせという人種とは、根本的に異なるのです。こういう人種は、のちのち大変なことになるのです。その答えは、天風師の著書を読めばわかります。

.

 『書経』は過去の暁の学問館でも一通り学修しました。今朝、相方にプリントして差しあげてこれを御存じですか、と聞いてみたのです。いえ知りません、と平気で答えました。

 あ、貴方と学問館で学んだのですよ、と言ったら驚いていました。ことほど左様に、特に漢籍の言葉等は一回読んだだけでは頭に完全にインプットすることは難しいのです。

.

 だから私は、後期高齢者群に位置している固まった頭に、インプットしようと思って筆写し始めたのです。平成14年に鹿児島商業高校で教育講演をした頃、立命館大学名誉教授であった白川静先生は、僕は高校生と暗記の競争をしたらまけない、と書物に書いてありました。当時85歳位でした。

.

 こういう暗記という作業は年齢には関係ないのです。要はやる意思があるか、覚えようと思う気があるかないか、なのです。だからお年を召した方々はグランドゴルフをやるよりかいいと思いますが、如何ですか。

 呆けて、オシッコタラタラ、ベンをタラタラして、生きているのか死んでいるのかわからない状態であの世に行くのは、何と哀れだと思いませんか。過去の栄光も何もなくして、です。

 だから、生きて生き抜いて、従容として旅立とうとお思いになりませんか。現に、私の詩吟道の師匠であった竹下一雄先生はそのようにして旅立ったのです。91歳の人生でした。

.

 〈味園さん、生死何ぞ疑わん。天の附与なるを! あいがとごわしたな〉という言葉を発して。拙著『礼節のすすめ』に詳述してあります。

.

 ----------------------------

.             

 『天保おすわり事件』(第4回)

.

 忠次公は、例の「酒井の陣太鼓」で、芝居道にまで、知勇兼備のほまれを残されたほどの大器量人であり、夫人は家康将軍の叔母君にあたり、一族間の聲望は、むしろ宗家を凌ぐものあったが、生来、名利に恬淡たる忠次公は、滅私奉公、宗家を扶けて、徳川家萬代の礎石を完成するために、全力を盡されたのである。

.

 従って、徳川家と酒井家とは、表向きは君臣だが、内實は、きってもきれぬ血族で、両家の間には、主従の関係を超越した特別なる親しみ-----心と心との固い結合があった事は想像するに難くない。

.

 徳川幕府が、米沢の上杉家を押さえるために、親藩松平氏を會津の若松に封じたと同じ意味で、元和八年、特に忠次公の御孫忠勝公を信濃の松代から遷して荘内に封じ、秋田の佐竹氏に備えしめたのも偶然ではない。

 荘内の酒井家は、その忠勝公を藩祖に、代々名君を出し、治績頗る見るへきものがあった。中にも六代目の忠徳公は、名君中の名君といはれ、當時、奥羽の三名君として喧傳された白河の松平楽翁、米沢の上杉鷹山、津軽の津軽信明の諸侯に比べて遥かにその上位に立つべき大人物におはした。

.

 ---------------------------

.

 短歌の紹介

.

総監の川路利良(山形)警察に

  (荘内)開墾士らを逮捕内命 6746 『臥牛 菅実秀』