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味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

剣は一人の敵、学ぶに足らず。

2014-12-31 10:09:30 | ブログ
第2195号 26.12.31(水)
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剣は一人の敵、学ぶに足らず。『史記』(項羽紀)
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 剣術は一人の相手となるに止まる技術であるから学ぶに足らぬ。むしろ万人の敵を学ぶべし。640
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 【コメント】今朝のBSテレビで『史記』について放映してくれました。永年漢籍を拝読してきたお蔭で、登場人物がわかり、楽しいでしたが時間がないので途中でやめました。劉備などの小説は中学生の頃読んだ記憶があります。
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 冒頭書いた「剣」は、私どもが修行している「拳」にも通用することです。だから門下生に「空手道修行」によって身体を鍛え、他人様に親切にし、学問に没頭せよと話しています。しかし、今の私みたいに終日楽しんで学問をするようになるには、相当時間がかかると思います。
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 私自身、自分を客観視し、よくもこんな人間になったものだと思っています。一流の人は死ぬまで学び続けるということを聞いたことがありますが、最下位・五流の私でも学びつづけているのです。
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 たまたま西郷隆盛の言葉とされる『南洲翁遺訓』との出会いのお蔭で荘内の人々知ることができました。その風土・荘内の学風、人物を見習い人生に挑んで欲しいのです。昨夜21歳のボクサーが勝利しましたが、人生を長期的に展望するならば、漢籍を学ぶに如かずと思っています。
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 私の所に修行に来る門下生にいろいろ教えて上げたいと思っているのです。私の域に来るまでには年輪が必要だからです。先に亡くなった菅原文太氏が「戦争はしてはならない」と演説していたのが放映されましたが、戦争をしたいという人は、ごく特定の人を除いていないだろうと思います。
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 人々が住んでいる所は、その國に住んでいる人々のものであると思います。戦争をしてはなりませんが、防衛は必要なのです。

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『大学味講』(第33回)
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 (2) 八条目の実践過程においては、「格物」「致知」が最初の項目になるのであるから、まず之について探求することと致しましょう。
 「格物」「致知」とは、わかりやすくいえば、その事物について研究した正しい知を得て、それを行うことでありますが、このことについては大学の本文にも解説がありませんので、ここで少しく詳しく講究することと致したぃと存じます。

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『論語』(第133)
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 子曰はく、祝駝の侫ありて而して宋朝の美あらずんば、難いかな、今の世に免れんこと。
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 孔子がいうには、祝駝のように弁舌によって事を処理する能力があり、宋朝のような美貌だけが幅を利かせたら、当世のような衰乱のときには、危難を免れることは困難である。
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『農士道』(第17回)
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 而して第三の其の國の傳統文化の保持培養といふ點に就ては、今後の日本農村の使命より見て特に探究すべき點でもあるので一言したいと思ふ。一體何れの國に於ても、都市は発達すればするほど国際化せんとする傾向あるに對して、農村は其國の傳統文化を永く保持培養する機能を有つものである。
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 従って明治大正時代の如く、日本が欧米文化の模倣移入時代ならば、文化的に見て、農村の存在ということは大した意義もなかったであろうが、今日の如く日本が東洋の指導的地位を確保し、愈々其の事に當らねばならぬ時に至っては、日本的傳統の保持者としての日本農村の使命は甚だ重いことを痛感せねばならぬ。

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短歌
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年も暮れ 明日新しき 年になる
 今年に増して 学ぶ決意で 7023 
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 荘内南洲会の先生方、この一年、何かとお導き賜りまして、誠に有り難う存じました。平成22年に発生した『南洲翁遺訓』改竄事件については、12月11日、鹿児島市議会、県議会で、不届きな首謀者を糾弾する質疑応答がなされました。
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 その為に奔走し、体調を崩し黄泉路に旅立った荘内南洲会前理事長・小野寺先生も事の経緯をみていることと思います。当時はご自宅からも何回もお電話を戴きました。
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 人が何をしようと自由ですが、歴史的に定着した事実を名誉欲のために社会を混乱させるのは断じて容認できません。多分、厳しい天の成敗がなされることでしょう。
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 荘内南洲会の先生方に比べ、学問の世界においても未熟なものをさらけ出して恥じをかいていますが、誠心誠意事に臨んでいるということを御理解頂ければと存じます。
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 来る年も今年同様、お導きたまわりたく存じ、平成26年最後のブログでのご挨拶とさせて頂きます。この一年、誠に有り難う存じました。

仁は人の心なり。義は人の路なり。

2014-12-30 16:02:28 | ブログ
第2194号 26.12.30(火)
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仁は人の心なり。義は人の路(みち)なり。『孟子』 
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 仁は人の心の自然であり、義は人の踏み行くべき正当な道だ。にもかかわらず、この路を捨てて踏み行なおうとせず、この心を放ち失って求めることを知らないのは哀しいことだ。128
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 【コメント】年末で一人で五人分くらいの仕事をしています。先ずは『南洲翁遺訓』改竄事件の文書発送。道場の清掃、等々。でも仕事があるから、病気をしないのだなと思って喜んでいます。
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 このあと、文書発送40通の仕事があります。
 先ほど荘内南洲会理事長・水野先生から電話を戴きました。荘内南洲会の先生方、この一年大変お世話になりました。来年も今年同様よろしくお願い致します。
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 ひと月前亡くなった岩坪範士が「味園さんと三日付き合えば、私は死んでしまう」と言ったことがありました。とにかくこの私は寝ないからです。だから、大坪範士は二日前、寝る時は携帯の電源は切っていました。その方がおりこうです。只今午後四時半、高速洗浄器で駐車場を洗ったり、餅つきをしたりしたものですから、腰が痛くなりました。

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『大学味講』(第32回)
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 (一) 格物、致知
 (1) この八条目について、一応その項目ごとに解説を致しましょう。実はこの八条目の中の最初の「格物」「致知」については、古来いろいろの説があり、その顕著なものについていえば、朱子学では「格物」を「物に格(いた)る」と訓むが、陽明学では「格」を「正」と解して「物を格(ただ)す」と訓むというようなのがそれであります。

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『論語』(第132)
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 子曰はく、「孟之反伐らず、奔りて殿す。将に門に入らんとす。其の馬に策(むち)うちて曰はく、「敢えて後れたるにあらず。馬進まざるなり。」と」
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 孔子がいうには、『孟子反は功に誇らぬ人だ。負け戦のしんがりを見事につとめたが、城門に入ろうとするとき馬に一鞭あてて、「わざわざしんがりをしたわけではない。馬が疲れて前へ出なかったのだ」と言った。まことにおくゆかしいことである。』
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『農士道』(第16回)
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 第二に、農村には此の物的資源の供給の外に更に人的資源供給の大使命がある。よく「農村は人口の貯水池なり」といはるるが、農村は単に量に於て然るのみならず、更に質の方面より見れば、質実なる農道的気象の裏に育成せられたる剛健清新なる人材----然り、国家国民の生命に溌剌たる活力Vitalityを注入して、其の命を常に維れ新たならしむるに足る清新なる人材の供給が是れである。此の點に就いては本書を通じて力説する處であるが、今次の如き内外非常時局に於ては此の事が特に強く背かれ、今後国内の維新、東亜の建設に直面するに於ては、更に痛感することであると思ふ。
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短歌
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敗戦後 日本政府が 粛然と
 告諭・告示を すべきでありと 7022 運命17

猩猩は能く言いえども、禽獣を離れず。

2014-12-29 15:54:27 | ブログ
第2193号 26.12.29(月)
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猩猩は能く言(もの)いえども、禽獣を離れず。『礼記』
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 猩猩はいくらしゃべっても、つまるところ獣の範囲を出ない。人にして礼がなければ、いくら巧みに喋っても、禽獣の心
と同一である。267

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『大学味講』(第31回)
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  古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先づ其の国を治む。其の国を治めんと欲する者は、先づ其の家を斉ふ。其の家を斉へんと欲する者は、先づ其の身を修む。其の身を修めんと欲する者は、先づ其の心を正しうす。其の心を正しうせんと欲する者は、先づ其の意を誠にす。其の意を誠にせんと欲する者は、先づ其の知を致す。知を致すは物に格(いた)るに在り。
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物格りて而(しか)る后(のち)に知至る。知至りて而る后に意誠なり。意誠にして而る后に心正し。心正しうして而る后に身修まる。身修まりて而る后に家斉ふ。家斉ひて而る后に国治まる。国治まりて而る后に天下平らかなり。

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原文の内容を要約すれば、次の八つになります。即ち
  格物(物に格る。もしくは、物を格(ただ)す
  致知(知を致す)
  誠意(意を誠にす)
  正心(心を正しゅうす)
  修身(実を修む)
  斉家(家を斉う)
  治国(国を治む)
  平天下(天下を平らかにす)
でありまして、これを「八条目」というのであります。
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『論語』(第131)
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 子游、武城の宰となる。子曰はく、「女は人を得たるか。」曰はく、「澹台滅明といふ者あり。行くに径に由らず。公事に非ざれば未だ曾てえんの室に至らざるなり。」
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孔子の弟子の子游が、魯の武城という邑の代官になった。政を行うには人材を得ることが大切であるから、孔子が「汝は立派な人物を見出したか。」と問われた。子游が「擔台滅明という者があります。必ず大道を歩いて小さな近道などは通りません。公事でなければ私の室へ来たことはありません。」といって、擔台滅明り行いが正しく心に守る所のある立派な人物であることをほめた。
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『農士道』(第15回)
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 然らば「農」の参賛的使命は何か。私は概約して左の三點を挙げたいと思ふ。
 一、物的資源の生産
 二、人的資源の育成
 三、傳統文化の保持培養
 第一の物的資源の生産については、平常時に於ても勿論然うであるが、今次の如き非常時に於て特に其の然るを見得るのである。欧州大戦に於ては大概の国家は極端なる食料制限を行ひ、独逸の如き各部戦線に於て何れも敵地に進出して、戦に於ては勝利を得つつも、城下の盟の屈辱を受けねばならなかった最大原因は、食料の欠乏にあったと謂われるではないか。今次の日支事変に於て、吾が國の食料の潤沢なことは、各國の何れも驚嘆する處であるといふが、恐らく此の戦争が何年續こうと軍民共に食料に對したは不足を来さしめぬ日本農村農民の参賛的能力は實に大なりというべく、この事は常時非常時の別なく永久に持続することは、農民の一大使命である。頁5
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短歌
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憲は貧なり、病に非ざるなり。

2014-12-28 15:47:14 | ブログ
第2192号 26.12.28(日)
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憲は貧なり、病に非ざるなり。『荘子』
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 原憲は貧乏なのであって、病気をしているのではない。
 孔子の門人の原憲が極貧の生活をしていたとき、同門の子貢が豪勢ないでたちで訪ねてきた。原憲のひどい姿を見て、あなたはどこかからだの具合が悪いのか、と聞いた。
 これに対して原憲は、財産のない者を貧といい、学問を修めながらその学問を生かし得ない者を病むというと聞いている。わたしは貧乏はしているが、病んではいない、と答えたという。374

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 【コメント】昨日は今年最後のおけいこでした。多くの子どもたちのお蔭で病気もせず、指導が出来ることを感謝しています。
 子どもたちの稽古の音がうるさいとして隣の住人が怒鳴り込んできたと書きました。後期高齢者の私が若い人と喧嘩をする訳にいかないと思い、とにかく低姿勢で対応してきました。
 元空手を一緒にしていた元県警の森山さんに相談に行ったら、言うべきははっきり言って、うるさい時はパトカーを呼んでくださいと指導されました。夕方の8時までは「受認義務」があるので、そんなに言えない筈だと。ましてや二年前に引っ越してきた時、隣は空手道場だと知っていた筈だと。昨夜は何もありませんでした。私を普通の老人だと思って殴りかかってきたら投げ飛ばされるでしょう。一発、中段突きを入れれば内臓破裂する筈です。私はお腹は幾ら打たれても、ミゾオチもどうもないのです。そういうことは決していたしません。空手道は修養のためですから。

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『大学味講』(第30回)  第二章 八 條 目 
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 第一節  八 條 目
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 大学は修己治人(己を修め、人を治める)の道を説いたものであります。その一切活動の根元ともいうべきものが、明明徳、親民、止至善の三綱領によって示される人格活動であります。
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 草木は、根(本)から幹となり、枝葉となって生長していくように、私どもの人間活動も、家を斉え、國を治め、天下を平らかにするというように、多面的に展開していくものでありますが、その部門を大学では次の八つに分けて、これを「八条目」といっておるのであります。
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 いうまでもなく、「八条目」の「条」は枝であり、「目」は網の目でありまして、本から分かれたものの意味であります。
 ですから、「八条目」は「三綱領」の応用(もしくは活用)でありまして、人間活動の八部門とでも申すべきものであります。
 そこでまず原文を読んでみることと致しましょう。

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『論語』(第130)
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 子、子夏に謂って曰はく、「女(なんぢ)、君子の儒となれ、小人の儒となるなかれ。」
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 孔子が子夏に向って曰われるには、「汝は学問するならば、自身の人格の完成を求める君子のような学者となれ。他人に知られることを求める小人のような学者となるな。」
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安岡正篤人間学講話『運命を創る』より
 この書は20年前に購入し、数回通読してきました。昨夜、読んでみてブログで紹介したくなりました。『農士道』は今日は休みます。今から健康ランドに行軍にいってきます。 
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人間学・人生学の書
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 「学問したい」と考えぬ者はないでしょう。しかるに、その多くの人々は、学問することは学校に入るか、学校でやっているのと同じことをせねば学問でないように考えています。大きな間違いです。学問にも修業の学問と学校の学問とあります。学校の学問は、今日のような方法では一向修養の役には立ちません。
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 人間学・人生学としての立場から和漢の学問を分類しますと、たとえば四部の学というものがあります。それは経・史・子・集という四部の書に基づいています。
「経」というのは、あらゆる人々に普遍的に、老いも若きも、富めるも貧しきも、順逆逆境にも、いかなる場合にもこれから離れることのできない、人生に最も原理的な指導力のある書をいうのです。
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 それに次いで、人生に独特の観察と感化力とを持つ秀でた一家の言を「子」といいます。「子」になってくると、誤用すれば中毒を起こすような副作用もありますから、用い方が大切です。「経」にはこの副作用が少ない。
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 第三に「史」というものは、我々がいかに生くべきかの原理「経」を根本として、我らいかに生き来ったかという生活の記録であり、畢竟いかに生き来ったかということのうちよりいかに生くべきかの理法を明らかにするものであります。ですから、結局、経というものは原理で、史というものはその実証であります。そこで経を読む者は必ず史を読まなければならない。史を読む者は経に照らさなければならない。これを人間自体でいうと、経は性命のようなもので、史は体験のようなものであります。それ故、経は史だという説もあります。
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 これに対して「集」というのは、我らいかに生くべきかという原理、我らいかに生き来ったかという体験、その思索や情操が、ある人格を通じて把握表現されたものであります。したがって、それには作家の詩歌・文章が含まれております。経を尋ね、史を探ねた者が、人格を通じてその所得を詩歌文章に顕わしております。そういうものを「集」という。
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 そうして観ると、我々はどういうふうに学問したらよいかというと、三つのやり方が考えられる。すなわち原理をたずねる「経」(子)学、生の尊い記録である「史学」と、自分に共鳴できる優れた一個の人格を通じて成された「集」(子)の學、私淑する人物の研究です。この三つの方面から方針を立てて勉強していくのも善い道です。
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 そこで自然、どうしても古今の書を読まなければならないことになります。ここに歴史的所産である古典に、より多く親しむことが必要であります。(只今29日午前4時です。)ところがそうなってくると、欲をいえばきりがないもので、いかに天下人材稀なりといえども英雄・偉人はさすがに多い。が、とりあえず気のつくに任せて皆さんに読まれてよいと思う書をお勧めすると、国典では是非御歴代の詔勅、それから『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』等は味読せねばなりません。
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 日本人の親しんだ漢籍では、『小学』『孝経』から手をつけるのがよろしい。その次に四書を読む。『大学』『中庸』『論語』『孟子』。それから『孟子』に対して『荀子』。『論語』と併せて『孔子家語』を読むもよろしい。五経の中では『礼記』。五経は皆読みたいが、ことに『礼記』を読みなさい。それから『左伝』『書経』『詩経』『易経』。これは根気よく読み味わうことです。解っても解からなくても、何回も読むうちには自然に解ってくる。その後で『老子』『荘子』を参考するもよろしい。頁111
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短歌
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生きている うちにやりましょ 学びましょう
 二度無き人生 学ぶたのしさ 7021 博庵語録

一狐裘三十年。

2014-12-27 13:34:16 | ブログ
第2191号 26.12.27(土)
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一狐裘(こきゅう)三十年。『礼記』
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 斉の宰相晏平仲は、一枚の狐の毛皮を三十年間用いたほどの倹約家であった。269
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 【コメント】貧乏な家庭に育った私も、半世紀前のシャツなどを愛用しています。消費文化は経済に寄与するわけですが、世界中の人がそういうことをしたらどうなるでしょう。天からのシッペ返しがくるということです。
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 今朝の学問館は先に鹿児島市議会、県議会で取り上げられた『南洲翁遺訓』改竄事件の経過報告書を私が読み上げて確認しました。先ほど「西郷南洲翁と菅臥牛翁の徳の交わりを広める会・参謀本部長と荘内南洲会理事長・水野先生、広める会・池田副会長様へ宅急便でお送りしました。
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 小学一年・正田宗一郎君へ『論語』、お父上様に『菜根譚』を贈呈しました。宗一郎君の妹・佳那子嬢・三歳が『南洲翁遺訓』第一章を元気よく一人で発表しました。宗一郎君に荘内の学風を学べとしきりに話しています。お父上様も相槌をうってくれています。
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 文部科学省が進める外国語もいいのですが、まずは日本の国を愛する国民教育が先だと私は考えています。

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『大学味講』(第29回)
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 (六) この「先後する所を知る」ということについては、恐らくは誰にでも苦い経験があると思いますが、例えば、ある問題について、その相談をするのに、Aを先にするか、Bを先にするかという、先後の順序を誤ったために、まとまることもまとまらずに、こわれてしまうということもあるものでありますが、それは家庭においても、経験するであろうことで、誠に重要なことであります。  
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    「先後する所を知れば、則ち道に近し」
 古人も、この一句をつかむためには、幾たびもの失敗も経験し、辛酸もなめて、しかる後にここに至ったものでありましょう。日常の事物を処理するに当って、どれを先にしてどれを後にするか、について、私どもはもっともっと真剣に対処すべきではないでしょうか。
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『論語』(第129)
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 冉求曰はく、「子の道を説ばざるにあらず。力足らざるなり。」子曰はく、「力足らざる者は中道にして廃す。今女(なんじ)は画(かぎ)れり。」
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 冉求が「先生の説かれる道は結構だと心に喜ばない訳ではありませんが、私には力が足りなくてついて行けません」と、断りの気持ちを述べた。孔子が激励して言うには、「本当に力が足りない者ならば、途中で力が尽きてしまうだろう。お前は、自分はだめだと、自分の力に見限りをつけている。もっとしっかりしなさい、と。」
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『農士道』(第14回)
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 少しく冗述の嫌もあるが、職業に於ける参賛と位育の関係はかくの如きものである。然らば「農」といふ職業の使命は如何。勿論一身一家の生計の為といふ位育的使命を全うせねばならぬは当然のことであるが、従来農業の使命に對する指導が餘りにも此の方面のみに偏して、国家人類に對する参賛的方面に對してのそれは、軽視し勝ちな嫌無しとしなかったではあるまいか。
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 私は前述の如き見地より、此の際大いに「農」の参賛的使命を顕彰し、其の大使命の自覚の下に、雄渾高邁なる志気と熱意とを以て、其の生活に精進するの秋であると信ずる。

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短歌
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安岡師 腹中書あり 人間に
 なれと漢籍 繰り返し読め 7020 運命創る81