第3756号 31.04.30(火)
太宗、侍臣に謂ひて曰く、天下を守ること難きや易きや、と。侍中魏徴(ぎちょう)對えて曰く、甚だ難し、と。太宗曰く、賢能に任じ諌諍(かんそう)を受くれば則ち可ならん。何ぞ難しと為すと謂わん、と。徴曰く、古よりの帝王を観るに、憂危(いうき)の閒に在るときは、則ち賢に任じ諌を受く。安楽に至るに及びては、必ず寛怠(かんたい)を懐く。安楽を恃みて寛怠を欲すれば、事を言ふ者、惟だ兢懼(きょうく)せしむ。日に陵し月に替し、以て危亡に至る。聖人の安きに居りて危きを思ふ所以は、正に此が為なり。安くして而も能く懼る。豈に難しと為さざらんや、と。『貞観政要』53
太宗が左右の侍臣たちに、天下を守ることの難易を問うた。侍中の魏徴は、非常に困難であると答えた。それについて太宗は、「賢者能者を信頼して政務に任じさせ、臣下の厳しい忠告を聞き納れればよろしいではないか。どうして困難というのであるか」と反問した。魏徴が言うには、「古来からの帝王を観察しまするに、国家の憂危の際においては、賢者を任用し、諌めを受け納れます。が、一たび平和になり安楽になりますと、必ず緩み怠る心を持つようになります。君主が平和な安楽な状態に寄りかかって、緩み怠りたいと思っているときには、諌めようとする者も、つい君主の心にさからうのを恐懼して諌めなくさせてしまいます。その結果しだいしだいに悪い状態になり、ついには国家の危亡を招くようになります。昔の聖人が国家の安らかなときにも、いつも危難のときを思って緊張していたのは、正しくこれがためであります。ですから、安らかでありながら大いに警戒しなければなりません。どうして困難でないと言えましょう」と。
【コメント】「平和になり安楽になると、必ず緩み怠る心を持つようになる」とありますが、今の日本の状況を言っているような気が致します。戦争があってはなりませんが、平和な時でも万一に備える時のように、精神的には厳しい心の対応があって然るべきだと思います。
私は家庭では厳しい母に育てられ、そして日本舞踊の師匠たちにも厳しい指導を受けました。静坐をしている姿、舞う時の動作、お辞儀の仕方、おけいこ場への出入りなど、さまざまでした。今は有難く思っています。
昨日も書きましたが、職場では上司も部下もなく、全くデタラメでありました。家庭であっても、兄と弟、姉と妹は違うのです。同一労働同一賃金の会社の雰囲気が世の中を可笑しくしているのです。私が勤めていた会社ではチンピラ集団同様でした。世に言う暴力団よりか日々のマナーは劣っていたと思っていたもです。
昨日も、いろいろと事件がありました。道路にロウプを張り単車に乗っていた高齢の婦人が転倒し重傷を負うという事件もありました。全国的にはこういう事件が多発しているようです。
そして悠仁様が学んでおられる中学校に入り、悠仁様の机の処に刃物を置いた事件もありました。
事件とは直接関係はないのでずか、総理を始め政治家が手本を示して貰いたいものです。
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『善の研究』第208回
然らば我々が通常自然に対して精神といっている者は何であるか。即ち主観的意識現象とは如何なる者であるか、いわゆる精神現象とはただ実在の統一的方面、即ち活動的方面を抽象的に考えたものである。前にいったように、実在の真景においては主観、客観、精神、物体の区別はない、しかし実在の成立には凡て統一作用が必要である。この統一作用なる者は固より実在を離れて特別に存在するものではないが、我々がこの統一作用を抽象して、統一せらるる客観に対立せしめて考えた時、いわゆる精神現象となるのである。
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太宗、侍臣に謂ひて曰く、天下を守ること難きや易きや、と。侍中魏徴(ぎちょう)對えて曰く、甚だ難し、と。太宗曰く、賢能に任じ諌諍(かんそう)を受くれば則ち可ならん。何ぞ難しと為すと謂わん、と。徴曰く、古よりの帝王を観るに、憂危(いうき)の閒に在るときは、則ち賢に任じ諌を受く。安楽に至るに及びては、必ず寛怠(かんたい)を懐く。安楽を恃みて寛怠を欲すれば、事を言ふ者、惟だ兢懼(きょうく)せしむ。日に陵し月に替し、以て危亡に至る。聖人の安きに居りて危きを思ふ所以は、正に此が為なり。安くして而も能く懼る。豈に難しと為さざらんや、と。『貞観政要』53
太宗が左右の侍臣たちに、天下を守ることの難易を問うた。侍中の魏徴は、非常に困難であると答えた。それについて太宗は、「賢者能者を信頼して政務に任じさせ、臣下の厳しい忠告を聞き納れればよろしいではないか。どうして困難というのであるか」と反問した。魏徴が言うには、「古来からの帝王を観察しまするに、国家の憂危の際においては、賢者を任用し、諌めを受け納れます。が、一たび平和になり安楽になりますと、必ず緩み怠る心を持つようになります。君主が平和な安楽な状態に寄りかかって、緩み怠りたいと思っているときには、諌めようとする者も、つい君主の心にさからうのを恐懼して諌めなくさせてしまいます。その結果しだいしだいに悪い状態になり、ついには国家の危亡を招くようになります。昔の聖人が国家の安らかなときにも、いつも危難のときを思って緊張していたのは、正しくこれがためであります。ですから、安らかでありながら大いに警戒しなければなりません。どうして困難でないと言えましょう」と。
【コメント】「平和になり安楽になると、必ず緩み怠る心を持つようになる」とありますが、今の日本の状況を言っているような気が致します。戦争があってはなりませんが、平和な時でも万一に備える時のように、精神的には厳しい心の対応があって然るべきだと思います。
私は家庭では厳しい母に育てられ、そして日本舞踊の師匠たちにも厳しい指導を受けました。静坐をしている姿、舞う時の動作、お辞儀の仕方、おけいこ場への出入りなど、さまざまでした。今は有難く思っています。
昨日も書きましたが、職場では上司も部下もなく、全くデタラメでありました。家庭であっても、兄と弟、姉と妹は違うのです。同一労働同一賃金の会社の雰囲気が世の中を可笑しくしているのです。私が勤めていた会社ではチンピラ集団同様でした。世に言う暴力団よりか日々のマナーは劣っていたと思っていたもです。
昨日も、いろいろと事件がありました。道路にロウプを張り単車に乗っていた高齢の婦人が転倒し重傷を負うという事件もありました。全国的にはこういう事件が多発しているようです。
そして悠仁様が学んでおられる中学校に入り、悠仁様の机の処に刃物を置いた事件もありました。
事件とは直接関係はないのでずか、総理を始め政治家が手本を示して貰いたいものです。
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『善の研究』第208回
然らば我々が通常自然に対して精神といっている者は何であるか。即ち主観的意識現象とは如何なる者であるか、いわゆる精神現象とはただ実在の統一的方面、即ち活動的方面を抽象的に考えたものである。前にいったように、実在の真景においては主観、客観、精神、物体の区別はない、しかし実在の成立には凡て統一作用が必要である。この統一作用なる者は固より実在を離れて特別に存在するものではないが、我々がこの統一作用を抽象して、統一せらるる客観に対立せしめて考えた時、いわゆる精神現象となるのである。
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