味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

天下を守ること難きや易きや、と。

2019-04-29 17:09:12 | ブログ
第3756号 31.04.30(火)

太宗、侍臣に謂ひて曰く、天下を守ること難きや易きや、と。侍中魏徴(ぎちょう)對えて曰く、甚だ難し、と。太宗曰く、賢能に任じ諌諍(かんそう)を受くれば則ち可ならん。何ぞ難しと為すと謂わん、と。徴曰く、古よりの帝王を観るに、憂危(いうき)の閒に在るときは、則ち賢に任じ諌を受く。安楽に至るに及びては、必ず寛怠(かんたい)を懐く。安楽を恃みて寛怠を欲すれば、事を言ふ者、惟だ兢懼(きょうく)せしむ。日に陵し月に替し、以て危亡に至る。聖人の安きに居りて危きを思ふ所以は、正に此が為なり。安くして而も能く懼る。豈に難しと為さざらんや、と。『貞観政要』53

 太宗が左右の侍臣たちに、天下を守ることの難易を問うた。侍中の魏徴は、非常に困難であると答えた。それについて太宗は、「賢者能者を信頼して政務に任じさせ、臣下の厳しい忠告を聞き納れればよろしいではないか。どうして困難というのであるか」と反問した。魏徴が言うには、「古来からの帝王を観察しまするに、国家の憂危の際においては、賢者を任用し、諌めを受け納れます。が、一たび平和になり安楽になりますと、必ず緩み怠る心を持つようになります。君主が平和な安楽な状態に寄りかかって、緩み怠りたいと思っているときには、諌めようとする者も、つい君主の心にさからうのを恐懼して諌めなくさせてしまいます。その結果しだいしだいに悪い状態になり、ついには国家の危亡を招くようになります。昔の聖人が国家の安らかなときにも、いつも危難のときを思って緊張していたのは、正しくこれがためであります。ですから、安らかでありながら大いに警戒しなければなりません。どうして困難でないと言えましょう」と。

 【コメント】「平和になり安楽になると、必ず緩み怠る心を持つようになる」とありますが、今の日本の状況を言っているような気が致します。戦争があってはなりませんが、平和な時でも万一に備える時のように、精神的には厳しい心の対応があって然るべきだと思います。

 私は家庭では厳しい母に育てられ、そして日本舞踊の師匠たちにも厳しい指導を受けました。静坐をしている姿、舞う時の動作、お辞儀の仕方、おけいこ場への出入りなど、さまざまでした。今は有難く思っています。

 昨日も書きましたが、職場では上司も部下もなく、全くデタラメでありました。家庭であっても、兄と弟、姉と妹は違うのです。同一労働同一賃金の会社の雰囲気が世の中を可笑しくしているのです。私が勤めていた会社ではチンピラ集団同様でした。世に言う暴力団よりか日々のマナーは劣っていたと思っていたもです。

 昨日も、いろいろと事件がありました。道路にロウプを張り単車に乗っていた高齢の婦人が転倒し重傷を負うという事件もありました。全国的にはこういう事件が多発しているようです。

 そして悠仁様が学んでおられる中学校に入り、悠仁様の机の処に刃物を置いた事件もありました。

 事件とは直接関係はないのでずか、総理を始め政治家が手本を示して貰いたいものです。

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『善の研究』第208回

 然らば我々が通常自然に対して精神といっている者は何であるか。即ち主観的意識現象とは如何なる者であるか、いわゆる精神現象とはただ実在の統一的方面、即ち活動的方面を抽象的に考えたものである。前にいったように、実在の真景においては主観、客観、精神、物体の区別はない、しかし実在の成立には凡て統一作用が必要である。この統一作用なる者は固より実在を離れて特別に存在するものではないが、我々がこの統一作用を抽象して、統一せらるる客観に対立せしめて考えた時、いわゆる精神現象となるのである。

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微臣早に史職に居るを以て、

2019-04-29 09:42:46 | ブログ
第3755号 31.04.29(月)

微臣早(つと)に史職に居るを以て、誦を成して心に在らざるは莫し。其の質を委し名を策し、功を立て徳を樹て、正詞鯁義(こうぎ)、志、君を匡すに在る者有らば、みな事に随って載録し、用て観誡(かんかい)に備え、撰して十帙(じゅうちつ)十巻、合せて四十篇を成せり。仍りて貞観政要を以て目と為し、謹んで表に随ひて奉進す。天鑒(てんかん)を紆(めぐ)らし、善を撰んで行ひ、引きて之を申(の)べ、類に触れて長ぜんことを望む。『上貞観政要表』22

 私は早くから史官の職におり、すべて暗誦し心に留めております。その史官して臣下の名籍に連なり、功を立て徳を立てたり、公正強硬な議論を主張し、その志が君の過ちを正すことにある者があったならば、みなその事につれて載録し、善を勧め悪を戒めるの資に備え、編集して十帙十巻、計四十篇を完成しました。よってこの書の題目を貞観政要とし、謹んで上奏文と共に奉進いたしました。どうか天子の御照覧をこの書にめぐらし、書中の善を択んでこれを行い、さらにこれを引伸ばし、同類のものに出会えばそれらをすべてに及ぼして無限の可能性に発展されんことを期待いたします。

 【コメント】貞観政要の命名の過程を紹介していますが、「善を勧め悪を戒めるの資に備え」とあります。時代は異なっても、今の世に適合するものは取り容れ、応用活用すべきだと思う次第です。 
 
 多くの漢籍が今なお人々に読まれているのは、そこに人生に生き抜く上に参考になると思われる生き方がある
からだと思います。

 『南洲翁遺訓』と出会って、その後、ご尊敬申し上げる平井政明先生から『論語』をご贈呈戴きました。『論語』を拝読し大変感銘したのでした。それをきっかけに漢籍全般を購入したのが20数年前のことでした。それらを分けが分からないまま、読み、且つ書き写し、そしてテープに録音し聞いてきました。
 
 時代が大きく変わり人々の権利意識は高まりましたが、義務意識は寧ろ低下しているように思われます。特に労働組合の賃上げ要求に便乗したものが目立つと思われます。そういう事を契機に世の中、大変おかしくなったと思っています。

 貧乏家庭に育った私は、夜間高校で学ぶ旁ら電電公社の入社試験に合格したのでした。働きながら生きて来た私は、労働組合の論理にどうしても與できませんでした。

 それは高校出たての、世の中のことは何も分からない若造たちの無軌道無節操に振る舞う姿でした。ですから私は、文武両道をとり入れた空手道を専攻してきたのでした。
 
 今、野党が推薦する政党が伸びないのも、人の生き方に背く、道を無視した運動論的であるからだと思うのです。私が入社した枕崎で委員長をしていた男は、俺らは勝ち取りさえすればいいのだ、会社が潰れようが知ったこっちゃないと言っていたものです。

 兎に角真面目に働き、真面目に生きることが大事なのです。怠けの論理で生き抜くと、天の制裁が待っているのです。

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 子弟に示す

 世俗相反処  世俗相反く処
 英雄却好親  英雄却って好親す
 逢難無肯退  難に逢うとは肯て退くなく
 見利勿全循  利を見ては全く循う勿れ
 齊過沽之己  過を齊しうしては、之を己に沽い
 同功賣是人  功を同じうしては是を人に売れ
 平生偏勉力  平生、偏に勉力して
 終始可行身  終始、身に行うべし

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天下の蒼生の陛下に望む所の者は

2019-04-28 09:35:23 | ブログ
第3754号 31.04.28(日)

故に、天下の蒼生の陛下に望む所の者は、誠に亦厚きを知る。易に曰く、聖人は人心を感ぜしめて、天下和平なり、と。今、聖徳の感ぜしむる所は、深しと謂ふ可きなり。『貞観政要を上(たてまつ)る表』21

 それゆえ、天下の万民たちが、陛下に待望するところは、まことに厚いのであるということがよくわかります。易経に、『聖人のまごころが万民の心を感動させることによって、天下が平和になる』とありますが、今、陛下の聖徳が万民の心を感動させることは、まことに深いものと申すことができます。

 【コメント】先ずは文字の間違いのお詫びを致します。昨日のブログで「鳥海山、致道館に案内し『南洲翁遺訓』を破票したい---」と書きましたが、破票ではなく発表の誤りでした。指宿の大先生が指摘してくださいました。有り難うございました。

 そして本日のブログ冒頭に書きました「----易に曰く、聖人は---」は、27.11.14 ブログ2513で既に紹介していましたが、再度、書かせて戴きました。

 私のブログでは漢籍の言葉をご紹介していますが、これは私自身の呆け防止の一環でもございます。何も分からない私が、恥をさらけ出しながら、小学1年生になったつもりで書いています。そして漢籍にご縁のない方にもご一諸に学びませんかというご案内でもございます。

 漢籍を読むと知らなかった事柄に教えられ、人の道を学べる喜びがあります。昨日も書きましたが、最近特に、アポ電強盗を始め、悪事に手を染めている人が多いように思われます。

 人をだまして多額の金を手にいれても、その罪の償いはしなければならないのです。80年生きて来た私に言わせると、正直・勤勉・真摯・努力・勤労・親切・奉仕等々などに勝るものはないと断言できます。

 昨夜は本部の空手道教室でした。子供たちに健康で長生きをしてください、そして幸せな人生であるように努めてくださいもとお話しました。

 その為には人様を大事にするなど、滅私奉公の精神で人生に臨んでくださいとお願いしました。そして天風先生の書籍などを読んでくださいとお話したのです。

 人を殴るなど悪事をすると中年を過ぎてから、コロコロあの世に行くのです、と。
 
 円心会で空手道修行をした九州地区本部長も数年前、黄泉路に旅立ちました。金銭に恬淡として、女癖も悪くなかったのですが、人を殴り倒すことに爽快感を感じる習癖があったのです。

 そして私と一緒に空手道をしてきた男も早々と亡くなりました。健康体そのものだったのですが、知的には極めて乏しい男だったのです。

 その昔「人斬り以蔵」という人がいたとのことですが、その男と同類であったのです。船員さんは2.3カ月ごとに鹿児島港に入港するのですが、久々に夜を楽しもうとクラブヤバーに行くのです。

 そういう人を待ち受けて、暗闇から顔面にパンチを容れるのです。生々しい光景を何度も聞いたものです。これほど性質の悪い振舞いはありませんが、無学で修養をしたことのない男はそういうことを繰り返したのです。
 今頃はあの世で厳しい制裁を受けているだろうと思います。

 学校で勉強をして頭が良くなることも大事なのですが、その前に、人の道に反しない精神の美しさが大事なのです。終日テレビを眺めていると、悪のすすめ、怠惰のすすめ、贅沢のすすめ、遊びのすすめ、ばかりのような気が致します。

 年端の行かない女の子だちが、テレビ画面に映ると、有名になった、偉くなったような錯覚におちいるのだろうと思います。
 そういうテレビの世界に翻弄されるより、私みたいに、白足袋はいて、お扇子を翳して厳しい師匠さんについて、日舞のおけいこをする方がより有益なのです。

 そして『南洲翁遺訓』を学ぶか、漢籍の世界を散策するのがよろしいかと思います。

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『善の研究』第207回

 それでいわゆる自然現象をば直接経験の本に立ち返って見ると、凡て主観的統一に由って成立する自己の意識現象となる。唯心論者が世界は余の観念なりというのはこの立脚地より見たのである。
 我々が同一の石を見るという時、各人が同一の観念を有っていると信じている。しかしその実は各人の性質経験に由って異なっているのである。故に具体的実在は凡て主観的個人的であって、客観的実在という者はなくなる。客観的実在というのは各人に共通なる抽象的概念にすぎない。110

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『菜根譚』214

 善く書を読む者は、手の舞い足の踏む処に読み到らんことを要して、方めて筌蹄に落ちず。善く物を観る者は、心融け神やわらぐの時に観到らんことを要して、方めて迹象に泥まず。

 〔訳〕よく書物を読む者は、喜ぶのあまり小踊りするようになるまで読んで、そうしてはじめて文字の末に落ちずに、真意をつかむことができる。また、よく事物を見る者は、心がそれに融合し一体となるようになるまで観察して、そうしてはじめて事物の形に捕らわれずに、真相を悟ることができる。

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若し滋味に耽り嗜み、

2019-04-26 15:49:31 | ブログ
第3753号 31.04.27(土)

若し滋味(じみ)に耽(ふけ)り嗜(たしな)み、聲色を玩(もてあそ)び悦べば、欲する所已(すで)に多く、用ふる所も亦大なり。既に政事を妨げ、又、生人を擾(みだ)す。且つ復た一の非理の言を出せば、萬姓之が為に解體す。怨讟(えんとく)既に作(おこ)り、離叛も亦興る。朕、毎に此を思ひ、敢て縦逸(しょういつ)せず。『貞観政要第一』30

 もし、うまい料理ばかりを食べ、音楽や女食を愛好すれば、欲望は限りなく多く、それに要する費用もまた莫大である。それは、政事の妨げとなる上に、また、人民の生活を乱すものである。その上にまた、君主が一つでも道理にはずれた言を出せば、万民は、そのために統一が乱れ、君主を恨みそしる声が起こり、離反や謀反をする者も起こる。我は、常にこういうことを思って、決して自己の欲望のままにかって気ままな行為はしないのである。

 【コメント】人間の一生でよくないのは、欲望のままに勝手気ままな行為をすることだと思います。特に若い時には、社会経験が少ないので、過ちを起こすことが多いと思われます。それとこれくらいはいいのだと安易に事を起してしまうのです。

 ですから、新聞等で社会面を賑わすようなことはすべきではないと考えます。一旦ワルのレッテルが貼られると、それを打ち消すのには、並々ならぬ努力と長年の歳月を要します。

 人生に生きがいを感じ、楽しい人生でありたいと思うなら、出来れば学び続けることだと思います。そして世の人々と仲良くし日々に挑むことだと思います。

 人に自ら挨拶をし、良い言葉を遣い、親切にし、周囲がゴミで汚れていたら、お掃除をするなど優しい自分を提供したいものです。まかりまちがっても人様に罵声を浴びせる、そして暴力を振う、物を偸むなどの行為は絶対にしてはなりません。

 日々の行為は天はしかと観ており、それを評価してくれるとは本当だと思います。

 それにしても、悪事を働く人の何と多いことでしょう。人様の金子を偸んでも、その対価は数倍になって返ってくるのです。

 読書の勧め----森功著『悪だくみ』をお読みになりませんか。「加計学園」の悲願を叶えた総理の欺瞞----と紹介されています。

 只今27日、午前10時45分、テレビでは鶴岡の街が映し出されています。そして「雪の降る町を」の音楽が流れています。全国詩吟道発表大会に参加し、帰りに雪が降る中、荘内南洲会・阿曽先生のご案内で致道館に行ったことを思い出しています。
 その時、『書経』を持参し、凡そ1時間半静坐をし、拝読したのでした。そこで戊辰戦争の評決を黒田清隆がしたのだと伺ったのでした。

 叶うものなら、子供たちをつれて荘内に行き、荘内南洲会会館、鳥海山、致道館に案内し『南洲翁遺訓』を破票したいものだという夢を見ています。

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『善の研究』第206回

 第九章 精  神


 自然は一見我々の精神より独立せる純客観的実在であるかのように見ゆるが、その実は主観を離れた実在ではない。いわゆる自然現象をばその主観的方面即ち統一作用の方より見れば凡て意識現象となる。たとえばここに一個の石がある、この石を我々の主観より独立せる或不可知的実在の力に由りて現じた者とすれば自然となる。しかしこの石なる者を直接経験の事実として直ちにこれを見れば、単に客観的に独立せる実在ではなく、我々の視覚触覚等の結合であって、即ち我々の意識統一に由って成立せる意識現象である。
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 『菜根譚』213
 
 喜びに乗じて諾を軽々しくすべからず。酔いに由りて嗔(いかり)を生ずべからず。快に乗じて事を多くすべからず。倦に因りて終りを鮮くすべからず。

 〔訳〕うれしまぎれに、軽はずみな承諾を与えてはならない。酒の酔いにまかせて、腹を立て怒ってはならない。調子に乗って、余計なことまで手を広げすぎてはならない。飽きていやになったからとて、後始末をいいかげんにしてはならない。

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腹飽きて身斃る。

2019-04-25 10:41:36 | ブログ
第3752号 31.04.26(金)

腹飽きて身斃(たお)る。若し天下を安んぜんとせば、必ず須く先づ其の身を正すべし。未だ身正しくして影曲り、上(かみ)(おさ)まりて下亂るる者は有らず。朕(ちん)(つね)に之を思ふ。其の身を傷(やぶ)る者は、外物に在らず。皆、嗜欲(しよく)に由りて、以て其の禍を成す。『貞観政要第一』29

 満腹したときには、その身が死んでしまう。もし、天下を安泰にしようとすれば、必ずぜひとも先ず君主の行いを正しくしなければならない。今までに、体がまっすぐで影が曲がり、上に立つ者が治まって下民が乱れたことがあったためしはない。我は、常にこういうことを考えている。人がその身を破滅するのは、その原因が外部から来るのではなくして、すべて、その人自身の欲望のために破滅の禍いを招くのである。

 【コメント】自分自身が破滅するのは、当該その人の欲望のためだというのは、頷けることです。ですから、自らを修めるため修養することが如何に大事であるかということです。

 私も含めて人間何もない時は、自分には関係ないと思いがちですが、世の事象は誰が係るか分からないのです。だから何事も謙虚に聞き、世の人々と共通理解をして人生を生き抜きたいものです。

 世の中見ていると悪事をした人が逮捕され、家宅捜査を受けています。何故こうも悪いことをする人が多いのでしょうか。
 ジャパンライフにも今日一斉捜査が入りました。そして日産元会長ゴーン氏は保釈されました。悪いことをしたから追起訴をされたのだと思います。ゴーンにしても自身の欲望のために破滅の道を選んだのだと思います。弘中弁護士はしきりに庇っていますが、悪がのさばり蔓延するのはよくないことです。

 ゴーン氏のように多額の金が自分に還流するように装って事を犯したとすれば、当然厳しい対応が待っている筈です。

 昨夜の第二道場での空手道教室は『南洲翁遺訓』発表女王・カナコ様と諒哉さんと超優秀中学生の三人でおけいこをしました。
 二部では田上青年と和やかに御稽古しました。二人で大笑いしながらのおけいこでした。こういう純粋無垢な青年と空手道のおけいこができて最高に幸せを感じました。
 帰りには交通事故を起こさないよう大声での声かけ運転をしました。とにかく交差点では一旦停車をし、左右の安全確認をしてから動けば事故が起らないのです。

 娘・晴美嬢が東京から帰って来ました。新栄町終点からバッグを引きながら慈眼寺温泉まで行き、お風呂に行くのでそこに迎えに来てくれということでしたので迎えに行きました。

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『善の研究』第205回

 我々の理想および情意が深遠博大となるに従って、いよいよ自然の真意義を理会することができる。これを要するに我々の主観的統一と自然の客観的統一力とはもと同一である。これを客観的に見れば自然の統一力となり、これを主観的に見れば自己の知情意の統一となるのである。
 物力という如き者は全く吾人の主観的統一に関係がないと信ぜられている。勿論これは最も無意義の統一でもあろう、しかしこれとても全然主観的統一を離れたものではない、我々が物体の中に力あり、種々の作用をなすということは、つまり自己の意志作用を客観的に見たのである。
 普通には、我々が自己の理想または情意を以て自然の意義を推断するというのは単に類推であって、確固たる真理でないと考えられている。しかしこは主観客観を独立に考え、精神と自然とを二種の実在となすより起るのである。純粋経験の上からしえば直にこれを同一と見るのが至当である。

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