味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

『禅とは何か』の書籍の言葉--2.

2010-05-30 20:02:04 | ブログ

タイトル----『禅とは何か』の書籍の言葉--2 第475号 22.05.30(日)

 前回、第472号の続きです。この本は蔵書の中で一番愛読した本です。P42-10行から。

〈この一回ぽっきりの人生を束縛するものはあまりにも多い。この人生から手かせ足かせを除くにはどうしたらよいか。その具体的な方法について『菜根譚』はつぎのように説く。

 人生は少しだけ減らすことを考えれば、その分だけ世俗から抜け出すことができる。たとえば、もし友人との付き合いを少しだけ減らせば、その分だけ煩わしいいざこざから逃れられるし、発言するのを少しだけ減らせば、その分だけ過失がなくなる。また、思案するのを少しだけ減らせば、その分だけ精神は消耗しないし、利口ぶるのを少しだけ減らせばその分だけ本性を全うすることができるのである。それなのに、日毎に少し減らすことを努めないで、かえって日毎に少し増すことを努めている者は、全くその一生を、自分から手かせ足かせで束縛しているようなものである。(今井宇三郎注、岩波文庫本による)〉

 この書を何回読んだことであろうか。しらずしらずの内にこの教えが身についたのであろうか。会社勤めをしていた頃の仲間との交際、会社の記念日の懇親会等々、私は一切出なくなりました。その時間に、勉強をした方が遥かに有益で意義があると思い、習性となったようです。特に逢いたいという友人には電話をし、意思の疎通をしているのです。

〈人生において何事も少しだけ減らす、少しだけ退くということが如何に大切であるかがわかる。少しでも金をもうけたい、少しでも他人よりえらくなりたい、少しでも美人を妻としたいなど、われわれの物欲は少しでも増すこと、殖えることにむかうため、その一生をがんじがらめに縛ってしまうのだ。 

 臨済宗中興の祖といわれる白隠慧鶴(はくいんえかく)の著である『遠羅天釜』(おらてがま)も『菜根譚』と同じように説く。

 けだし五無漏の法り、眼妄りに見ず、耳妄りに聞かず、舌妄りに言はず、身妄りに触れず、意妄りに思慮せざる時は、混然たる本元の一気、湛然として目前に充つ。

 五無漏の「無漏」とは「漏」のないこと。「漏」とは人間の身体から漏れるものはすべてきたないので、仏教で煩悩のことを漏というのである。無漏とはすなわち煩悩のないこと、悟りのことをいう。見たり、聞いたり、しゃべったり、触ったり、無駄なことを考えたりするなということである。われわれはあまりにもこれと反対の生活をしすぎている。この白隠の五無漏の法を守るならば本元の一気が満ち満ちてくるのだ。これは白隠の内観のやり方なのである。白隠にしろ、『菜根譚』にしろ、自分を束縛するものは、すべて少しでも欲しい、という物欲にねざしていることを説くのだ。自分を束縛するものは何か。それは自分の心である。自分の心が手かせ足かせとなって、自分自身を苦しめてゆくのだ。

 それでは自分を束縛しているものを解放するにはどうしたらよいか。それは自分の心をからっぽにするのだ。自分の心を仏にするのだ。解脱というのは束縛から解き放されることである。好きだ嫌いだ、幸福だ不幸だ、美味しい不味い、などという一切の妄想をたたき破って天空に輝く日月のようになることだ。われわれ凡人はそんなことはできない、というかもしれないが、たえず不断に精神を鍛錬工夫すればかならずできることである。現代の世の中では自己を鍛えるとか、精神を朝鍛夕錬するということはほとんどなく、自分に甘え、親に甘え、学閥に甘え、社会に甘えるもやしのような人間があまりにも多い。無心になるとか、無念無想になるとはどういうことか。『菜根譚』はそれに明快な答えをだしていう。

 近頃の人は、専心、無念無想になることを求めるが(かえってそのために雑念を生じて、)結局、無念無想になれないでいる。ただ、前念をとどめてくよくよすることもなく、後念を迎えてびくびくすることもなく、ただ目の前に起こっている物事を、次々に片付けて行くことが出来れば、自然にだんだんと無念無想の境にはいっていくことができよう。

 無念無想になることを求めようとすればするほど妄想はおこるものである。一度坐禅をしてみればよい。妄想がつぎからつぎへとおこってきてどうしょうもない。過去にした失敗をくよくよするのは無駄なこと、また未来のことをあれこれ心配するのは無用なこと、やることはただ今のことだけだ。一回ぽっきりの人生のただ今のことをつぎつぎに処理してゆくこと、これが無念無想にほかならない。〉P45

 ここで私の体験を付け加えてみます。この書を読んで以降、数多の書籍と邂逅しました。そこで中村天風師の言葉を覚え、諳んじることにしたのです。ところが、精神の澱みがなくなり、得も言えぬ涼風が全てを洗い流し、清清しい気分となり、気魄が充満してくるようになりました。あなたも、やってみませんか。私は続けます。

 今日一日、怒らず、怖れず、悲しまず、正直、親切、愉快に、  力と勇気と信念とをもって、自己の人生に対する責務を果たし、  恒に平和と愛とを失わざる立派な人間として生きることを、  厳かに誓います。『成功の実現』

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『禅とは何か』で紹介されている書籍と言葉。

2010-05-29 13:28:44 | ブログ

タイトル----『禅とは何か』で紹介されている書籍と言葉。第472号 22.05.29(土)

 『禅とは何か』は第466号(22.05.22)に紹介しました。26年前に出会ったこの本は私に大いなる示唆を与えてくれました。紹介されている本を読み、かつ筆写し生きる糧になったと思います。

 無念夢想とは(P40)

 中国、明代の修養書である『菜根譚』につぎのようなことばがみえる。

 欲にしたがふもこれ苦、欲を絶つのもこれ苦なり。

 物欲にがんじがらめに縛られ、捕われるも苦しみであり、それでは物欲を断ち切れば楽であるかといえば、物欲を断ち切るのもまた苦しみであるのだ。このうるさい世間の真只中で生きるのがわずらわしいといって、山林にすめば、静かで安らかであるかというとそうではない。

 昔の歌に、 波の音聞くがいやさに山住居 こわいろかわる松風の音

 というのがあるそうだが、海辺にいると波の音がうるさい。それでは山に住めばよいかというとそうではない。松風の音がさわがしくてしかたがないのだ。どこまでいってもきりがない。人間所詮苦しみに縛られて生きねばならぬ。

『観音経』の枷鎖難(かさなん)といわれる経文に「或いは囚われて枷鎖に禁ぜられ、手足ちゅうかいせられんに、彼の観音の力を念ずれば、釈念として解脱することを得ん」と説かれている。

「枷」は首枷、「鎖」はくさり、「ちゅう」は手かせ、「かい」は足かせである。全部自分を縛るものである。束縛するもの、自由をうばうものである。実際に枷鎖ちゅうかいをはめられたならば人間は動くことも、逃げることも出来ない。それと同じようにわれわれを束縛するものは一杯ある。金であり、地位であり、子供であり、その他ありとあらゆるものがわれわれの心を縛るのだ。『菜根譚』はいう。

 纏脱(てんだつ)はただ自心に在るのみ。

 「纏」とは束縛、「脱」とは解放である。外物に束縛されるのも、解放されるのも、ただ自己の心一つにあることをいっている。自分が自分を縛ったり、解放することができるのだ。悟ってしまえばたとえ金はなくとも、地位は低くても、それはそのまま極楽浄土になる。どんな高位高官であっても、金や権力で縛られていては、それは平安な生活とはいえないのだ。真に自由を得ることができれば、どんなに汚れた俗界にあっても、それは理想の仏界となる。

 それに反して自分が自分を束縛しているかぎり、たとえ出家の身であっても、俗人とかわりなくなる。悟りきった僧侶でも、ふと魔性につかまるととんでもないことをする。江戸時代、宗洞宗の大本山永平寺の貫主となるのに二千両の金子が必要であったといわれるが、出家の身であっても地位と名誉の欲望はまったく俗人とかわりがない。

 色と欲は生きているしるしともいわれるように、生きているかぎりはあるのだ。しかし色と欲にも程度というものがある。権力もそうだ。深入りは破滅への道となるのだ。同じく『菜根譚』はいう。

 花は半開を見、酒は微酔を飲む、此の中に大いに佳趣あり。

 花は半開の五分咲きを見るのがよく、酒を飲む場合には、ほろ酔い加減に飲むものだ。このなかにこそ何ともいえない趣があるものだ。花は満開を見たい、酒は泥酔するまで飲むというのはそれこそいいものではない。酒飲みが酒席において宴たけなわの少し前に席をはずすのは、酒の道をよくわきまえた人といえる。酒の道を極めるのも十年や二十年でできるものではないのだ。

  ………

 人間にとっての願いは、健康で長生きをしたい、ということではないだろうか。そして次に、できれば金と名誉等々がくると思うのである。71歳になったばかりの私が長生きのことを言うと笑われるので健康のことについて触れてみたいのです。有難いことに今まで病気で入院することなく、元気で過ごしてきました。

 最近、大変便利な電子ノ-ト見たいなものが喧伝されています。その為、前日から並び購入するのだという。そこまで急がなくても、今までなかったのだから、大騒動する必要はない、と思うのだが、如何でしょう。老人は中味がわからないからだ、と言えばそれまでです。もう少し、じっくり腰をすえて、自然に順応した生き方をする方が賢明ではないかと思うのです。

 そういう慌てる人々が、30年後、40年後、人々に誇る元気を有しているであろうか。ボツボツマイペ-スで生きてきた私から見たら不思議でならないのです。批判しているのではないのです。誇大広告に乗せらない方が賢明ではないだろうか、ということを言いたいだけなのです。熟考したいものです。

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鎌田茂雄著『禅とは何か』の紹介。

2010-05-22 15:01:26 | ブログ

タイトル----鎌田茂雄著『禅とは何か』の紹介。第466号 22.05.22(土)

 この文庫本は、諸橋轍次著『古典の叡知』と同時期に購入しました。昭和59年7月のことでした。26年前です。この本には99冊の古典の書が紹介されていました。当時はパソコン書きでなく、手書きで書いたので、あるいは重複があったかも知れません。この本に紹介されているのを注文しましたら、60冊位が手に入りました。訳が分からないまま、一心に読みふけったのを記憶しています。この本が一番ボロボロに傷んでしまいました。それだけ持ち歩き、読みふけったということです。

 文庫本で廉価でもありましたので、50冊ほどを関係者に贈呈しました。大変喜ばれました。が、私みたいに今でも座右に置いている人はいないだろうと思います。先ずは「まえがき」を紹介します。

    まえがき

 広漠たる中国の大地に根ざして独自な展開をとげた仏教の一つに禅がある。インドの知性的な仏教が、中国の伝統思想である老荘や、中国人の実際的な生活に即した思考法と見事に融合して結実したのが禅である。中国で成立した禅の思想は、陽明学を始めとして中国思想に大きな影響を与え、さらに日本に伝来して、日本文化を形成する大きな要素となったのである。さらに現在では、外国の人々の中にも“禅とは何か”と関心を抱く者すらある。

 禅とは奇言奇行をろうするもので、一般の人には分かりにくいものというイメ―ジがある。禅という語感には、何か神秘的なひびきすら感じとるものもいる。難しいもの、分かりにくいもの、ただ坐禅をするものと思われている。

 たしかに“禅とはなにか”と質問すると、仏教学者は禅の語義の解釈から始まって禅宗の成立などを説くし、同じ質問を禅憎にすれば、先ず坐りなさい、と云われ、さらに禅の第一義を提唱(講義)してくれるにちがいない。場合によっては警策(きょうさく・坐禅の時、ねむけなどをさますための棒)でたたかれるかも知れない。

 本書は在家の人、多忙な仕事に追われている人、人生について何か考えたいと思っている人、禅についての入門的なことを知りたい人などに、禅の思想や、禅者の生き方、現代に生かされる禅、などについて、分かり易く説いたものである。どの章からでも興味と関心を持ったところから読んで頂ければ幸いである。

 禅の第一義を説くのは真箇の禅者でなければならない。本書の著者は中国仏教史を専攻する一学徒であり、中国の禅について少しく関心を抱いているものにすぎない。よってその内容もたんなる学究者の禅の見方である。ただ私は陸軍予科士官学校を退学した青年時代(第一章参照)に、鎌倉の円覚寺で過ごしたことがあるので、禅宗の雰囲気位は、何となく身についたような気がする。

 現代のわれわれの生活はあまりにも多忙であり、馬車馬のように仕事をし、最後は死に向かって突進しているような気がしてならない。こんなときに、静かに自分自身の身体と心を見つめてみたいと思う。禅はたんに心の悩みの解決をはかるだけでなく、より身体の問題でもある。正しい身体の在り方、静かで深い呼吸法、豊かで広い心の持ち方を学ぶのが禅でなければならない。一言でいえば生活を正すことである。毎日の生活を規律正しく送り、健康な身体と健全な心をもって生きてゆくことが現在ほど必要な時はない。

 本書は著者が、今まで書いた雑誌や、小冊子の中の、禅についての記述や、講演の覚え書きなどを整理したものであり、前後重複するところや、説明不十分なところがあるかも知れないが、その折々の私の考え方の一里塚であるので、あえて統一することなく、そのままにしておいた点もある。本書がこのような形で世に出たのは、講談社学術局長山本康雄氏、ならびに編集・校正の労をとられた池永陽一氏のおかげであり、ここに厚く御礼申しあげたいと思う。

 昭和54年6月10日         世田谷・梅岑洞にて   鎌田茂雄

 ………

 この所、電子辞書などの爆発的普及により、この種文献の売れ行きが悪いとのことを聞きます。各出版社では異例の声明を出したほどです。 

 永年、文献を買い求めて来て学び続けて来た私に言わせると、図書の方がはるかにいいと思います。読みたければ何時でも手ることも出来るし、心の充実感もあると思うのです。何れを採用するかは各人の好みもありますが、文献を購入し、座右の真の友とされた方がより意義があるように思います。

 

 

  

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諸橋轍次著『古典の叡知』、冒頭の紹介--4.

2010-05-14 15:45:14 | ブログ

タイトル----諸橋轍次著『古典の叡知』、冒頭の紹介--4。第459号 22.05.14(金)

 第453号に引き続いて紹介します。

   二、これを誠にするは人の道

 今まで述べましたことは天の道、「誠は天の道なり」ということの説明のつもりでありますが、これに加えて「これを誠にするは人の道なり」ということばについて考えましょう。誠というものが天の道で世の中にあるならば、それを誠のようにしてやるのが人間の道だというのであります。

 ブドウの種があります。ブドウの種にはもちろんそれが実となり成長する組織がある。けれども、それを適当な場所に入れ適当な手を加えていかねばそれは実とはならない。それを土の中に入れ、それに水を加えて太陽の熱をとるようにして、よくやっていくのが人間の道である。そこでわれわれはどういうふうにしていくかということを考えていかねばならないわけであります。

(1) これを誠にする法

 誠ということばはいま申しました真事という意味がありますが、またもう一つ「真言」ほんとうのことばという意味もあります。うそをいわないのが誠の第一歩であります。中国の誠という文字はそう古いことばではありません。『中庸』には出ておりましたが、それ以前には「誠に」という副詞には用いておりますけれども、徳としての誠ということには用いておりません。そこで今われわれが誠ということばによって考えておるようなことばに当たる中国の古いことばは、それは「忠」と「信」であります。「忠」も誠であり、「信」も誠である。それがちょうど今日の誠(せい)ということばにあたる誠であります。

(2) 忠信の字義

 これは文字の説明になりますが、「忠」という字は「中」の「心」であります。人間のほんとうの中の心であります。われわれは中の心でないことも心ならず言うことがある。そうではない。ほんとうの中の心であればそれは本物になるわけですね。また「忠」という字は口と心、それを竪棒|で貫いたものだという説明もあります。われわれの口でいうところと心とを一貫したもの、すなわち言行一致が「忠」だと言うので、いずれにせよ偽りを言うことは忠でないということになる。

「信」というのは、ごらんになればすぐわかるとおりに、人間のことば、ニンベンに言、人のことばであります。人間である限りうそなど言うべきものではない。元来人間のことばというものは、正しくあるべきものだということになっておる。この二つの忠と信から考えてみましても誠に入るためには、まずうそを言わない、人を欺かないということがいちばん必要な最初の工夫であることがわかります。P22

……………

 この他、「明」の説、「健」の説、修養論等々解説されています。ここまでご覧になって参考になると思います。人間は戦いの中において生活しています。能力も含めてです。だから、起源・語源を知ることは大事であると思うのです。出来れば、そういう天の道に即していけば争そい事も減少するでしょう。ところが、それを歪曲して解釈するからややこしくなるのです。卑近な例が「政治は結果が全て」だ、という論理です。

 今日現在の政治で問題視しているのが、普天間の問題と小沢幹事長の金銭問題等々です。総理は野党時代、「秘書が逮捕された時は政治家の責任」だというふうに過去に発言したのが数多く放送されています。それでも知らんぷりです。それはそれでいいのでしょうが、子供たちから見た政治家は「平気で嘘をつく」と捉えられたら、大いなる損失だと思うのです。ことほど左様に結果も大事だが、プロセスも大事であるということです。

 私は空手道場で南洲翁遺訓を門下生に教えている手前、「途中も結果」もないのです。兎に角嘘は、ダメなのです。総理と幹事長の問題が、メデイア合戦だけで済めばいいけど、累積した政治の政策が国家の衰退になろうとする時、今のタイの状態にならないという保証はないのです。私は、新聞広告で知りえた書籍はすぐ購入し読むようにしていますが、これは政党間の問題だけでなく、国民を二分した闘争に発展すると危惧しているのです。それは今すぐでなくても、10年後、国家の動乱が始まるような気がするのです。だから、『古典の叡知』をくどくど紹介した次第であります。

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昨日は薩摩南洲会を開催しました。

2010-05-10 11:37:12 | ブログ

タイトル----昨日は、薩摩南洲会を開催しました。第455号 22.5.10(月)

 昨晩は、五月期、薩摩南洲会を開催しました。『南洲翁遺訓』拝唱は第26章から30章まででした。第26章「己れを愛するは善からぬことの第一也」。第27章「過ちを改むるに、---」。第28章「道を行うには尊卑貴賎の差別なし。」。第29章「道を行う者は、固(もと)より困厄に逢うものなれば、--」。第30章「命ちもいらず、名もいらず、---」のところを拝唱しました。原文に引き続き、著者である荘内南洲会理事長・小野寺先生の意訳、講究等々を拝読し、高邁な解説に頷き、その訓えに感嘆の念を禁じ得ない限りでした。これは全員の感想でした。

 その解説は、永年の荘内学を基調とした、荘内人ならではの訓えだと思うことでした。私共に解説させたら全くのつけやきば的解説で、『南洲翁遺訓』の底流に流れる思想・哲学が台無しになってしまいそうです。でも、著書が訓戒する、そういう高邁な訓えを活字を通じて学べるということは、大変有難いことだと思っている次第です。

 私はかねがね子供たちに、『南洲翁遺訓』の原文を暗記・暗唱させていますが、やがて子供たちが成人になり荘内南洲会会館に真の学びを求めて行く日が必ず来ると信じています。西郷先生に関する著書は数多ありますが、こと『南洲翁遺訓』の真髄を理解しようと思うならば、荘内南洲会会館に行かずして真の理解は得られないであろう、と考えています。

 勉強は、『南洲翁遺訓』の原文・意訳等々と、頭山立雲先生のコメントを全員で素読するのです。特に頭山立雲先生の第27章の解説・コメントは何回読んでも溜飲の下がる解説なのです。

 第27章 過ちを改むるに、自ら過ったとさえ思い付かば、夫(そ)れにて善し、其の事をば棄て顧みず、直ちに一歩踏み出す可し。過ちを悔しく思い、取り繕わんとて心配するは、譬えば茶碗を割り、其の缺(か)けを集め合せ見るも同じにて、詮も無きこと也。(原文)

 【立雲先生曰く】 すべて譬えを引いて、誰れにでもよく合点のゆくように教えられたのは、何という親切心じゃろう。悪いことをしたと思うたら、今度は善いことをするのが、一歩踏み出す所以じゃ。悪いことをして、また悪いことを繰り返すのは、悪い方へ一歩踏み出すのじゃ。一歩踏み出すのにも、善いのと悪いのがある。

 薩長の藩閥政治が悪いというので、そこで政党が起こったのじゃ。だから政党政治は、藩閥のような私曲(しきょく==私心から出た不正。不正な手段で私利を計ること。)をやらないで、公平に善いことをやらなければならぬのじゃ。またそのために政党が起こったのじゃからね。ところがどうじゃろうか、藩閥を罵しって天下を取った政党が、藩閥よりも悪いことをしとるじゃないか。我が過ちを悔い改めるどころか、人を罵って自分は悪いほうへ一歩も百歩も踏みだしとる。素晴らしい踏み出し方じゃのう。藩閥に代わって天下を取るとは言うけれども、少しも「天」は取らずに、「下」だけ取っとるのじゃ。「天」を取ることを忘れているのじゃない、取ろうともしないのじゃ。手に唾して取ってござるのは「下」だけで、上のほうの澄んだ所は顧みもせず、下のほうの濁った所で、我が儘の仕放題をしとるのが、今日の議会政治、政党政治というものじゃ。

「天」にはお手が届かんのか、取っても、邪魔になっても金儲けにはならんと見てとって、捨てたのか。いずれにしても、塵溜めのほうにばかり眼をつけておる。

 天と地とを併せて取る、真の「天下取り」には、一点の私、一塊の欲があってはならぬ。天を取るほどの者は、心が天でなくてはならぬのじゃ。自分が、かつて副島蒼海伯に問うたことがある。「西郷さんが、この議会をご覧になったら、何と言われるじゃろうか」

 蒼海伯は黙って聞いておられたが、「さようさなあ、西郷さんは何とも言われず、ただ、シッ!! と言われるじゃろう」と答えられた。人の声なくして、ただ畜生を追うの声あるのみじゃ。

………

 昨年、総選挙によって政権が交代した訳ですが、国民の多数が「天下り、特別会計の無駄遣い、年金問題」等に関して、何らの施策を打とうとしない自民党への怒りだったと思います。世論の8割がそのように応えているのです。安保、外交は専門的な知識を必要とするため、国民は当面のことで投票した、と言ってもいいでしょう。ところが、交代した民主党は前政権よりも悪い、バラマキ等々をしていると言って国民は失望していると思います。そして総理の秘書の有罪、幹事長の金銭疑惑に国民は怒っているからこそ、支持率の快復がないということなのでしょうか。

 紹介した立運先生のコメントは今の政治の先読みをしていたように思われて、紹介した次第です。国民が幸せになるためには、清廉にして、将来を洞察する政治家を選ばなければならないということだと思います。

 「心が天のような」政治家はいないのでしょうか。

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