第2208号 27.01.13(火)
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丹の蔵する所の者は赤し。『孔子家語』
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赤土の中に納められたものは赤くなる。人は交わる友によって善とも悪ともなるたとえ。670
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【コメント】道徳的でない人と交わると、たしかに感化される傾向にあると思います。成人になれば、その人の生き方がまともであるか、不良性があるは分かる筈です。だから、会話をしたりして品行よろしくないと思ったら、相手に名誉を与え自ら離れて行くことを選択する方が賢明だと思います。
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およろしければ、漢籍古語辞典等を購入し、一日一語ずつ書き写してみたらいかがでしょう。私の道場に集う保護者にはそれを勧めています。一見くだらないと思える学びの方法ですが、後期高齢者に位置づけられている私は連日そのようにして楽しんでいます。
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まかり間違ってもギャンブルはしない方がいいでしょう。私の父が囲碁・五目並べ・花札等、人相手のギャンブル好きであったからです。
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願はくば「仕事」がギャンブルだと思って、自らが主体的に取り組めばいいでしょう。近くにはパチンコ屋さんがありますが、そこには、若くてきれいなお姉さん方が目を引きつらせて車で入って行きます。
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読書をした方がいいのになぁーと思っても人様のことですから。
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『大学味講』(第46回)
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(四) この「思惟過程」と「実践課程」とを図式的に書いてみると次のようになるでありましょう。
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平天下----下天平 治国---国治 斉家---家斉 修身---身修 正心----心正 誠意----意誠 致知----知至
格物----物格 (左側が思惟過程、右側が実践課程)
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こうしてみると、私どもが従来「格物、致知、誠意、正心、斉家、治国、平天下」と棒読みにして、そしてそれに何とか理屈をつけて、わかった顔をしてきたのであるが、その配字が逆になって「格物」が「物格」となり、「修身」が「身修」となっていることにさえ気ずかずにきていたのではなかったでしょうか。
がしかし、実は「格物」と「物格」もしくは「斉家」と「家斉」----「家を斉へんと欲す」と「家(が)斉ふ」とでは、その間には実践上の幾歳月を要する大懸隔のあることに、愕然として猛省すべきものがあるのではないでしょうか。
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『論語』(第146)
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子曰はく、中庸の徳たる、其れ至れるかな。民鮮なきこと久し。
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徳は何人も同様に得ているものであるが、過不及なく平正で常に変わらない中庸の徳というものは誠に申し分のない至極の徳である。しかるに世が末になって、人の行う所知る所があるいは過ぎたり、あるいは及ばなかったりして、中庸の徳の鮮ないことはもう久しい。
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『農士道』(第30回)
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東洋哲学の根底をなす易の思想に於ては、此の前者の分化発現の作用を陽といひ、後者の統一収蔵の作用を陰というが、此の易学の思想を以て文質関係を説明すれば、生命それ自体が太極。その太極が動いて陰陽となり、陽の作用の極致が「文」であり、陰の作用の極致が「質」であるといふことになるのである。
かくて眞に文室関係を知らうと思へば、矢張り一度は易理を學ばねばなにぬであらうが、今之を解り易く図解すれば上圖(省略)の如くなるであろうか。
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丹の蔵する所の者は赤し。『孔子家語』
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赤土の中に納められたものは赤くなる。人は交わる友によって善とも悪ともなるたとえ。670
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【コメント】道徳的でない人と交わると、たしかに感化される傾向にあると思います。成人になれば、その人の生き方がまともであるか、不良性があるは分かる筈です。だから、会話をしたりして品行よろしくないと思ったら、相手に名誉を与え自ら離れて行くことを選択する方が賢明だと思います。
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およろしければ、漢籍古語辞典等を購入し、一日一語ずつ書き写してみたらいかがでしょう。私の道場に集う保護者にはそれを勧めています。一見くだらないと思える学びの方法ですが、後期高齢者に位置づけられている私は連日そのようにして楽しんでいます。
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まかり間違ってもギャンブルはしない方がいいでしょう。私の父が囲碁・五目並べ・花札等、人相手のギャンブル好きであったからです。
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願はくば「仕事」がギャンブルだと思って、自らが主体的に取り組めばいいでしょう。近くにはパチンコ屋さんがありますが、そこには、若くてきれいなお姉さん方が目を引きつらせて車で入って行きます。
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読書をした方がいいのになぁーと思っても人様のことですから。
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『大学味講』(第46回)
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(四) この「思惟過程」と「実践課程」とを図式的に書いてみると次のようになるでありましょう。
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平天下----下天平 治国---国治 斉家---家斉 修身---身修 正心----心正 誠意----意誠 致知----知至
格物----物格 (左側が思惟過程、右側が実践課程)
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こうしてみると、私どもが従来「格物、致知、誠意、正心、斉家、治国、平天下」と棒読みにして、そしてそれに何とか理屈をつけて、わかった顔をしてきたのであるが、その配字が逆になって「格物」が「物格」となり、「修身」が「身修」となっていることにさえ気ずかずにきていたのではなかったでしょうか。
がしかし、実は「格物」と「物格」もしくは「斉家」と「家斉」----「家を斉へんと欲す」と「家(が)斉ふ」とでは、その間には実践上の幾歳月を要する大懸隔のあることに、愕然として猛省すべきものがあるのではないでしょうか。
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『論語』(第146)
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子曰はく、中庸の徳たる、其れ至れるかな。民鮮なきこと久し。
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徳は何人も同様に得ているものであるが、過不及なく平正で常に変わらない中庸の徳というものは誠に申し分のない至極の徳である。しかるに世が末になって、人の行う所知る所があるいは過ぎたり、あるいは及ばなかったりして、中庸の徳の鮮ないことはもう久しい。
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『農士道』(第30回)
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東洋哲学の根底をなす易の思想に於ては、此の前者の分化発現の作用を陽といひ、後者の統一収蔵の作用を陰というが、此の易学の思想を以て文質関係を説明すれば、生命それ自体が太極。その太極が動いて陰陽となり、陽の作用の極致が「文」であり、陰の作用の極致が「質」であるといふことになるのである。
かくて眞に文室関係を知らうと思へば、矢張り一度は易理を學ばねばなにぬであらうが、今之を解り易く図解すれば上圖(省略)の如くなるであろうか。
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