味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

又、時に或は宣言して云ふ、

2019-12-31 13:39:51 | ブログ
第4002号 02.01.01(水)

又、時に或は宣言して云ふ、臣下、事を見れば、祇だ来り道ふ可し。何ぞ言ふ所に因りて、即ち我が用ふるを望まん、と。此れ乃ち諌めを拒ぐの辭にして、誠に忠を納るるの意に非ず。何を以てか之を言ふ。主の嚴顔を犯し、可を献じ否を替つるは、主の美を成し、主の過を匤す所以なり。『貞観政要』446

また時には宣言して仰せられ、『臣下が奏上すべき事があれば、ただ来て言うべきである。何も言った言葉によって用いられることを望んではならぬ』と。これは諌めを拒否するお言葉であり、まことに忠言を受け納れるお心ではございません。どうしてそのように言うかと申しますと、主君の厳しいお顔色をかまわずに、善をすすめ悪をやめさせる意見を申しあげるのは、主君の善を成し過ちを正すものであります。447

 【コメント】お諌めをするのは人それぞれですが、そこは穏やかに言葉を丁寧にしなければならないと思います。

 礼和2年が明けまた。迚も天気の良い元日です。家内と娘は近くの谷山神社詣でをしました。歩行困難の私は行きませんでした。

 車の運転は、目で確認し、安全を確認しハンドルを操作しますが、その前に大きな声を出しています。歩行者ナシ、信号ヨシ、スピードヨシ、対向車ヨシ、交差点安全ヨシ、高齢者安全ヨシ、というふうに。

 皆さん、明けましておめでとうございます。本年も何卒よろしくお願い致します。素晴らしい一年になるよう頑張ります。

 人様と仲良くしたいものです。あおり運転は絶対いけません。あおり運転をする人は、拷問をしてもいいと思っています。

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又、重ねて謁せんことを思へども、

2019-12-30 17:15:14 | ブログ
第4001号 01.12.31(火)

又、重ねて謁せんことを思へども、其の道因し無し。且つ言ふ所理に當たれども、未だ必ずしも寵秩を加えへず。意或は乖忤すれば、將に恥辱の之に随ふ有らんとす。能く節を盡くす莫きは、寔に此に由る。左右近侍は、堦ちに朝夕すと雖も、事或は顔を犯すは、咸顧望を懐く。況んや疎遠にして接せざるは、將た何ぞ其の忠款を極めんや。『貞観政要』445

また、重ねてお目通りをしたいと思っても、その方法がございません。その上に申し上げたことが理にあったとしても、おほめになって官位を昇進してくださるとは限りません。申し上げたことが、天子の御心にそむくことができますときは、必ず恥辱を加えられます。臣下が忠節を尽くすことができないわけは、まことにこういう理由からでございます。たとい天子のおそば近くにお仕えし、朝夕宮殿に奉仕している者でも、天子がいやな顔色をなされても、かまわずにお諌めするような場合には、皆、はばかり遠慮をしてしまいます。まして、平素疎遠で天子に接近していない者は、いったいどうして、まごころを尽くしてお諌めすることができましょうや。446

 【コメント】人様に日々のたたずまいに対して、お諌めする場合は、おだやかに心をこめてお話した方がよろしいかと思います。

 その言葉づかいがおだやかであれば、諌められる人も気持ちよく受け取ってくださると思います。要は言葉遣いだと思います。

 一番教えてあげたいのは「あおり運転」をする人々です。あおり運転をする人は、自分だけは正しい、間違いはない、手落ちはないと思っているのだと思うのです。

 人間は時として間違いはあるものです。ですから、行動を始めると同時に自分を顧みることも大事だと思います。とくにあおり運転をするような人はです。

 私は一日おきくらいに「鹿児島ふれあいスポーツランド」に行っているのですが、その往復で軽車両の暴走が目立ちます。
 
 軽車両は普通車に追い越して快感があるのでしょうが、これらはよくないと思います。この道路での交通パトはあまり見受けられませんが、どしどし取り締まって欲しいものです。

 全国の若い諸君を対象に専門の取締り班として採用し、チームを造らせたらと何時も思っています。そうすれば若い人々も仕事として出来るし、事故も軽減してくると思うのです。内閣府も検討して欲しいものです。

 連日、全国では交通事故が増加傾向にあると思います。これは犯罪そのものだと思います。

 そして、全国的に窃盗事件、暴行事件、等々非違行為が蔓延しています。どうか、どうか、取り締まって欲しいと思います。

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『善の研究』第393回

 意識の統一力であって兼ねて実在の統一力である人格は先ず我々の個人において実現させられる。我々の意識の根底には分析のできない個人性というものがある。意識活動は凡て皆個人性の発動である。各人の知識、感情、意志は尽くその人に特有なる性質を具えている。意識現象ばかりでなく、各人の容貌、言語、挙動の上にもこの個人性が現われている。肖像画の現わそうとするのは実にこの個人性である。

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臣、数年以来、明旨を奉ずる毎に

2019-12-29 14:01:12 | ブログ
第4000号 01.12.30(月)

臣、数年以来、明旨を奉ずる毎に、深く群下の敢て言を盡くす莫きを恠しむ。臣竊かに之を思ふに、抑も由って来るもの有り。比者、人或は上書し、事、得失有れば、惟だ短なる所を述ぶるを見、未だ其の長ずる所を稱する有らず。又、天居自ら高く、龍鱗、犯し難し。造次に在りて、言を盡くす可からず。時に陳ぶる所有れども、意を盡くす能はず。『貞観政要』445

私は数年以来、賢明なる詔を承るたびに、群臣たちが仰せに対して諌めを申し上げるものが少しもないことを非常に不思議に思っております。私が慎んで思いまするに、それには理由がございます。このごろ、上書する人があって、その内容に善い点と悪い点があったとき、ただ、その短所を指摘されるだけで、その長所をおほめになることがございません。また、天子のおられる宮殿は非常に高く、天子の御威光は犯し難いものがございます。とっさの場合には、言いたいことを尽くすことはできません。時には意見を陳べる機会があっても、十分に意を尽くすことはできません。445

 【コメント】人間社会ではいろいろなことがありますが、人様の喜びに繋がることでなく、人様のご負担になることは出来るだけ控えた方がいいかと思います。

 テレビで紹介しているレンタル、付き合って上げるというのを見て、いろいろな仕事があるものだな、と思いました。そのボランティアの人の対応を拝見し、とても清々しく感じられました。世の中にはワルもいますが、良心的な人もいるのだと思いました。

 そしてバイク好きの人達が走る前に集結した集団を見て吃驚としました。走れば金も要るし、事故もあるかもしれません。集団で走り廻れば、それは楽しいことでしょう。でも万一の事故には充分配意して欲しいと思います。

 思うに学問こそがいいのにと思った次第です。自宅での勉強だとガソリンもいらなければ、事故にも遭いません。

 その学問も人様に誇るためにするのではありません。自らの人間を高めるためにするのです。でないと折角詳しくなっても人々に嫌われることになります。

 学問をして詳しくなり、それが喜びとなりいろいろな事柄に取組む原動力となれば、健康と長生きに資すると考えます。その知恵が人様を助けることにもつながると思います。できるものなら何事も建設的に応用・活用してほしいものです。

 私は体がフラフラしているのですが、車の運転はいいと思います。車の運転は、手でハンドルをあやつり、そして足先でアクセルを踏む、ブレーキを履めばいいので、体のふらふらには直接負担はないので、大丈夫だと思っているのです。指宿の大先生、これでいいでしょうか。

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『善の研究』第392回

  第十二章 善行為の目的(善の内容)


 人格その者を目的とする善行為を説明するについて、先ず善行為とは如何なる動機より発する行為でなければならぬかを示したが、これより如何なる目的をもった行為であるかを論じて見よう。善行為というのも単に意識内面の事にあらず、この事実界に或客観的結果を生ずるのを目的とする動作であるから、我々は今この目的の具体的内容を明にせねばならぬ。前に論じたのはいわば善の形式で、今論ぜんとするのは善の内容である。
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往来行路も咸く之を知れり。

2019-12-28 16:01:52 | ブログ
第3999号 01.12.29(日)

往来行路も咸(ことごと)く之を知れり。故に埋輪懐疏(かいそ)の士をして、徒らに諤諤(がくがく)の心を懐き、牽裾折檻の臣をして、未だ懍懍(りんりん)の氣を申(の)べざらしむ。邦の興喪は、實に斯の道に由る。人の上たる者、勉めざる可けんや。444

このことは道行く人たちでさえも、皆知っております。要路の姦臣を除くべしと言って車輪を埋めて行かなかったような士に、ただ直言したい心をいだかせ、天子の裾を引き、宮殿の檻を折って諌めた臣に、あやぶみ恐れる気持ちをのべられなくしております。国の興ると滅びるとは、実にこの道によるものであります。人君たる者は、努力しなければなりません。444

 【コメント】組織が栄えるのは、それぞれが世の人々が納得するように努力しなければなりません。その努力が難儀であっても、本人が楽しまなければなりません。そこに体力運動も入っている筈ですので尚更いい筈です。

 人間の一生は山あり谷ありです。どのような事があろうとも、決してあきらめることなく満足して笑えるようになるまで、やり続けたいものです。

 人様から協力を依頼されたら手伝いをしてあげたいものです。

 昨夜は本部最後の空手道教室をしました。最初に宇都伸一様一族が頴娃までお墓詣りに行った帰りだとして訪問してくださいました。お土産も頂きました。宇都恵美さん、本当に有り難うございました。

 そしてミットを持って総一、光一、歩美さんに蹴ってもらいました。総一君は久々だったので、鬱憤を晴らすごとく、それはそれは凄い蹴りでした。知美さんは未経験なのでやりませんでした。

 お休みは傳田兄弟、荻迫君の二人でした。最後のおけいこは全体でのおけいこを指導しました。終盤に山田幹哉師範に型をして貰いました。今までで最高に充実した素晴らしい師範演武でした。気魄、気合い、力、スピード、重さ、重厚さ、硬軟おりまぜての最高の出来だったと見ました。本人の山田幹哉師範は如何、評したことでしょう。

 そしてみんなのミットケリも最高でした。1.森永君、2.外山君、3.優李君、4.智哉君、5.賢斗君、6.伊織君らの態度は人々の範足り得るものだと思います。

 全国的に若い人らの窃盗事件、あおり運転、暴行事件等々枚挙に暇がありませんが、そういう類の真似をしてはなりませんと力説しました。

 どこの道場も上手くなりたい、強くなりたいが念頭なのですが、それでは駄目なのです。長い人生を人格者として立派に生き抜くことなのです。それは『南洲翁遺訓』の如くであればいいのです。

 それにしてもワルが何と多いことか、これらはやがて天罰がくるのです。総理の安倍氏は嘘ばっかり言っていると識者が言っていますが、出来るものなら真面目のお手本を示して貰いたいものです。

 角栄を採り上げている人がいますが、角栄が人格者で人々の範であるのなら、真紀子も壻も人気がある筈なのです。

 人格のお手本は、前田 勉師範、山田幹哉師範だと確信しています。こういう人を人格者というのだと思います。

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『善の研究』第391回

 我が見る世界を離れて我はない。天地同根万物一体である。印度の古賢はこれを「それは汝である」といい、パウロは「もはや余生けるにあらず基督余に在りて生けるなり」といい、孔子は「心の欲する所に従うてのりをこえず」といわれたのである。193

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頃、海内虞無く、遠夷懾服せしより、

2019-12-27 17:31:26 | ブログ
第3998号 01.12.28(土)

(このごろ)、海内(かいだい)(うれひ)無く、遠夷懾服せしより、志意盈満し、事、厥の初に異なれり。高く邪を疾むを談ずれども、旨に順(したが)ふの説を聞くを喜び、空しく忠讜(ちゅうとう)を論ずれども、耳に逆ふの言を悦ばず。私嬖の徑漸く開け、至公の道日に塞がる。『貞観政要』443

ところが近年は国内が泰平で、遠い異民族も恐れて服従してからは陛下のお心が満足して得意になられ何事も初めの頃と違いました。高く邪悪を憎むと談じながら、おぼしめしにさからわない説を聞くことを喜び、いたずらに忠直な論をほめながらも、耳にさからう忠言を聞くことを喜ばれません。その結果お気に入りの者が進み出る道が次第に開け、公正な人が進む道が日ごとにふさがります。444

 【コメント】人間の世界ではいろいろなことがありますが、意地悪をしたり悪口を言う人でも、殺そうとまではしないので、殊更におびえる事はないと思います。

 ですから、自分は出来るだけ平常心で対応した方がいいと思います。一つ二つなぐられても、死ぬことはないので、何事も経験だと思って前向きに臨みたいものです。

 とにかく人をいじめるとか、暴力的な人間は長生きはしないのです。そういう人間は、人間社会から疎外されて延び延びと生きてはいけないのです。やがて落ちぶれて朽ち果てるのです。

 大根占電話局での前任がそういう人生を辿りました。元気がよく、喧嘩好きで、傍若無人な人間でした。それが晩年は大病にも似た病で倒れたのでした。私は、「あ、昔の行いが悪く、天罰が来ているのだな」と思ったものでした。

 ですから、人様をいじめることなく、親切の上にも親切を尽し、大事にしてあげることが大事なのです。そしてできる事は協力して上げることが大事なのです。私は必要以上に人を大事にしていると思っています。そのお蔭で80歳の今日も元気だと思っています。

 それと自宅が貧乏であり、何事にも身体ごとぶつかって来たのでした。学問にしてもそうです。漢籍も訳が分からなくても、恋人の本を離す事はないのです。これほどいい教えはないし確信しています。

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『善の研究』第390回

 プラトーは有名な『シムポジューム』において「愛は欠けたる者が元の全き状態に還らんとする情である」といっている。
 しかし更に一歩を進めて考えて見ると、真の善行というのは客観を主観に従えるのでもなく、また主観が客観に從うのでもない。主客相没し物我相忘れ天地唯一実在の活動あるのみなるに至って、甫めて善行の極致に達するのである。物が我を動かしたのでもよし、我が物を動かしたのでもよい。雪舟が自然を描いたものでもよし、自然が雪舟を通して自己を描いたものでもよい。元来物と我の区別のあるのではない、客観世界は自己の反影といい得るように自己は客観世界の反影である。

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