第2617号 28.02.29(月)
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蓬(よもぎ)も麻中に生ずれば、扶けざるも直し。『荀子』
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よもぎは元来は曲がりくねって生育する。しかしそれさえも、まっすぐの麻の中で育つと、自然にまっすぐに伸びる。
人の育ちも、環境次第である。383
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【コメント】今日で二月も終わり、日に日に暖かくなってくると思い嬉しくなります。上の解説で〈人の育ちも、環境次第である〉とありますが、まさしくその通りだと思います。
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だから私がお預かりしている空手道教室の子供たちにも、よい環境でなければならないと思って心を配っています。
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でも今朝はショッキングなテレビ報道ニュースを見ました。町内会の会費等々を会長が「私的に使い込んだ」というのです。あろうことかこの会長様は、元警察官で現職時代は捜査畑で働いていたとか。空いた口がふさがらないとはこういうことを言うのでしょうか。
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世の中を知らない未成年の方ならいざ知らず、世の中を知り尽くした人が、善良な町内会の人々の心をふみにじることがあってはならないと思います。
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私も四年前、町内会の会長に担ぎ出されたことがありました。その時、前人の会長が使い込みをしていたとかで、いろいろありました。変なことをすると、真面目に仕事をしたことまでも、全て台無しになります。人様から信頼をなくすることほど悲しいことはありません。
中村天風師の著書を拝読すれば、いろいろ解説されています。出来れば参考にして戴きたいと思います。
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『臥牛菅実秀』(第153回)
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政府軍の着ていた新式の毛織の軍服をフランケ(フランケットの略)といったのをもぢって、藁でつくった蓑をワランケといったのである。いもはさつまいもで薩摩兵、ぼたもちはお萩ともいうことから長州の萩にかけた長州兵のことで、ワランケ部隊は装備はおとっていても、敵を『一と噛んじりダー』という軒昂たる意気を歌ったのであった。荘内の農、商兵はこの歌を唄って『宮さん宮さん、御馬の前にヒラヒラするのは、なんじゃいな----』と唄う薩摩郡と戦ったのである。
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実秀の一行は、さらに農兵を募るために山浜通りを廻っていたとき、小波渡村で、敵軍が鼠ケ関(山形県と新潟県の境)を急襲したという報告を持った者と行きあった。驚いた一行は、すぐ城中に急報しようとするのを、実秀は抑えた。
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『教の国 荘内』(第44回)
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次に風味であるが、これは今日の話を以ていへば「教」の実際的考究、実行的吟味である。古聖賢の教を、其の時と處とを異にする現在の、此の處に於て、此の事に従事する自分として、如何に之を眼前の実行に実現して行くかといふのである。中庸に学問の五段階を示して、博学、審問、慎思、明弁、篤行となしているが風味とは、其の慎思、明弁等の段階に當るものと謂ひ得よう。従って同じ講席に列して同じ聴書の講義を聴いても、其の風味の仕方は其人個々によって自ずから異るものがあるわけであって、「教」の実行的価値は此処に到って真に其価値を発揮するものと謂うべきであろう。而して其の風味の結果は自分勝手に一人決めすることなく、慎思の後師の許に至りて之をただし、其の許を得て然る後始めて之を実行に移すといふのである。
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『農士道』(第429回)
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近時各地に饌田の設置を見るに到った事は誠に慶すべきことであるが、其の思想的根底は、實に此の「大年」の思想信仰にあるべきである。故に饌田を国学的の名称を以て呼べば、當に「大年の御田」と称すべきであろう。而して又吾々日本人が田畑から種々の作物がとれると、先ず其の初物-----初穂を神前に供えて然る後食ふということも、亦この「大年」の思想に根ざした懐かしい慣わしである。
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「昭憲皇太后御歌」
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二十七日 おほぞらにそびえて見ゆるたかねにも
登ればのぼる道はありれり
(精神一到すれば、為し遂げられないことはありません)
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蓬(よもぎ)も麻中に生ずれば、扶けざるも直し。『荀子』
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よもぎは元来は曲がりくねって生育する。しかしそれさえも、まっすぐの麻の中で育つと、自然にまっすぐに伸びる。
人の育ちも、環境次第である。383
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【コメント】今日で二月も終わり、日に日に暖かくなってくると思い嬉しくなります。上の解説で〈人の育ちも、環境次第である〉とありますが、まさしくその通りだと思います。
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だから私がお預かりしている空手道教室の子供たちにも、よい環境でなければならないと思って心を配っています。
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でも今朝はショッキングなテレビ報道ニュースを見ました。町内会の会費等々を会長が「私的に使い込んだ」というのです。あろうことかこの会長様は、元警察官で現職時代は捜査畑で働いていたとか。空いた口がふさがらないとはこういうことを言うのでしょうか。
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世の中を知らない未成年の方ならいざ知らず、世の中を知り尽くした人が、善良な町内会の人々の心をふみにじることがあってはならないと思います。
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私も四年前、町内会の会長に担ぎ出されたことがありました。その時、前人の会長が使い込みをしていたとかで、いろいろありました。変なことをすると、真面目に仕事をしたことまでも、全て台無しになります。人様から信頼をなくすることほど悲しいことはありません。
中村天風師の著書を拝読すれば、いろいろ解説されています。出来れば参考にして戴きたいと思います。
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『臥牛菅実秀』(第153回)
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政府軍の着ていた新式の毛織の軍服をフランケ(フランケットの略)といったのをもぢって、藁でつくった蓑をワランケといったのである。いもはさつまいもで薩摩兵、ぼたもちはお萩ともいうことから長州の萩にかけた長州兵のことで、ワランケ部隊は装備はおとっていても、敵を『一と噛んじりダー』という軒昂たる意気を歌ったのであった。荘内の農、商兵はこの歌を唄って『宮さん宮さん、御馬の前にヒラヒラするのは、なんじゃいな----』と唄う薩摩郡と戦ったのである。
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実秀の一行は、さらに農兵を募るために山浜通りを廻っていたとき、小波渡村で、敵軍が鼠ケ関(山形県と新潟県の境)を急襲したという報告を持った者と行きあった。驚いた一行は、すぐ城中に急報しようとするのを、実秀は抑えた。
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『教の国 荘内』(第44回)
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次に風味であるが、これは今日の話を以ていへば「教」の実際的考究、実行的吟味である。古聖賢の教を、其の時と處とを異にする現在の、此の處に於て、此の事に従事する自分として、如何に之を眼前の実行に実現して行くかといふのである。中庸に学問の五段階を示して、博学、審問、慎思、明弁、篤行となしているが風味とは、其の慎思、明弁等の段階に當るものと謂ひ得よう。従って同じ講席に列して同じ聴書の講義を聴いても、其の風味の仕方は其人個々によって自ずから異るものがあるわけであって、「教」の実行的価値は此処に到って真に其価値を発揮するものと謂うべきであろう。而して其の風味の結果は自分勝手に一人決めすることなく、慎思の後師の許に至りて之をただし、其の許を得て然る後始めて之を実行に移すといふのである。
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『農士道』(第429回)
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近時各地に饌田の設置を見るに到った事は誠に慶すべきことであるが、其の思想的根底は、實に此の「大年」の思想信仰にあるべきである。故に饌田を国学的の名称を以て呼べば、當に「大年の御田」と称すべきであろう。而して又吾々日本人が田畑から種々の作物がとれると、先ず其の初物-----初穂を神前に供えて然る後食ふということも、亦この「大年」の思想に根ざした懐かしい慣わしである。
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「昭憲皇太后御歌」
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二十七日 おほぞらにそびえて見ゆるたかねにも
登ればのぼる道はありれり
(精神一到すれば、為し遂げられないことはありません)