味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

仁者は難きを先にして獲るを後にす。

2017-11-30 10:36:10 | ブログ
第3257号 29.11.30(木)

仁者は難きを先にして獲るを後にす。為にする有りて作すは、皆獲るを先にするなり。古の人は惟仁を為すを知るのみ。今の人は皆獲るを先にす。『近思録』117

 仁者はむずかしいことを先にして、効果はあとまわしにする。何か目的があって事を行うのは、すべて効果を先に考えているのである。昔の人は仁の実践して知らなかったが、今の人はすべて効果を先に考えている。 

 【コメント】世に生きる人すべてが、出来れば仁者といわれるようになりたいものだと思いますが、それは詮無きこと、でも公的な組織の理事と云われる人はかくありたいものです。

 昨日、横綱・日馬富士が弟弟子に暴力を振ったとかで、引退しました。日馬富士の弁によると、過去、酒癖が悪いとか暴力を振うとか非違行為をしたことはないと弁明しました。

 私はそういう人物だ、と見ていたただけに少しは安堵しました。それにしても、貴乃花の対応は全く理解できません。自分の行動は間違いないと思っても、それは共に生きる人々が判定・評価するのです。

 昨日ある薬局の社長が、あの男は発達障害の人間だ、と断定しました。世の人々はそれなりに厳しく見ているのだ、と思いました。そういう発達障害の人間が、協会のありようを大きく改革したいと思っているらしいが、天は、世間はそれを了としないでしょう。

 こういう人間は厳しい天の制裁がないと自分の非がわからないのです。眼が覚めないのです。本人か家族に大被害が見舞うかもしれません。相撲協会が被害者に聞き取りをしたいと申しても、それを拒否するということは、事態の善処策を考慮に入れていないということだ、と発達障害と断定した人は厳しく論難しました。

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『不動心』(第121回)

 野心家と賢人の「幸福の質」の違い

 野心家は他人の活動の中に自分の幸福を、快楽を求める者は自分の感覚の中にそれを見出そうとする。しかし、思慮深い人間は、自分の行動の中に幸福を見出そうとする。

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『臥牛先生遺教抄』(第79回)

 学校生徒を教導するに、極めて親切に一人にても悪しき者を出してはすまぬと心掛けよ。若しも悪しき者出でたる時は、己の誠足らぬと思い先ず己を責むべし。勉めて気長くして或いは諭し或いは叱り、色々にして教うべし。又勉強なるものと否らざる者とを混同して取扱わざるものなり。
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鳥羽・伏見の戦い--(第4回)

 一本道を縦隊列で進むという、戦に臨むには拙劣な隊形だった幕軍は、いきなりの開戦で大混乱に陥った。見回組や会津・桑名兵の勇猛果敢な白兵戦も奮わず、容赦なく降り注ぐ薩摩軍の砲弾に死傷者が続出する。民家から火の手も上がり、炎の中の乱戦となった。
 また伏見方面でも鳥羽の砲声が合図になって戦端が開かれた。奉行所からは会津兵や土方歳三率いる新撰組が突撃、討幕軍を圧する気迫を見せる。だが、新兵器を使いこなした討幕軍の銃、砲火に後退を余儀なくされた。
 下鳥羽での夜襲も甲斐なく、結局幕軍は戦況不利のまま共に淀方面へ退却したのである。

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學ぶ者は須らく是れ實を務むべく、

2017-11-28 16:46:57 | ブログ
第3256号 29.11.29(水)

學ぶ者は須らく是れ實を務むべく、名に近づくを要せずして、方(まさ)に是なり。名に近づくに意有らば、則ち偽りと為す。大本已に失はるれば、更に何事をか學ばん。名の為にすると利の為にするとは、清濁同じからずと雖も、然れども其の利心は則ち一なり。『近思録』116

 勉学するものは、実際のしごとに努力すべきで、名声に近づいてはならない。名に近づくことに心が傾けば、何をするにしても、それは偽りになる。根本が失われていて、いったい何を学ぼうとするのか。名声のためにすることと、利益のためにすることとは、清濁の違いがあるにしても、利を追求する心は同じである。117

 【コメント】人間ややもすると楽にして名声を得、そして金を儲けたいと思いがちです。誰が何をしようが勝手ですが、多くの漢籍が教えるところによれば、人の道に反するやり方は天の制裁を受けるとあります。これは正論だと思います。78年生きてきて、あの事例もそうだと思い当ることがあります。

 世間を賑わせている相撲協会の日馬富士問題は、本人が引退をすることで決着するようです。暴力を起こすことは絶対あってはなりませんが、そうせざるを得なくなるような言動を発することも問題視しなければなりません。

 そして親方の信念という言葉です。昨日も触れましたが、信念には「社会性、正当性、真摯性」等々、人々の共感がなければなりません。やくざの世界だって「信念」に基づいて事を起しているのです。

 相撲協会の理事という役職にあって協会の質問には答えないというのは意固地であり偏見です。都知事みたいに調子に乗り過ぎていたのではないでしょうか。

 人間どこまでも謙虚でなければなりません。協会の問い合わせに対しては、穏やかに対峙し、世の人々がうなづける処方で対処すべきだと考えます。

 昨日の新聞報道によれば、希望の党の細野氏が國の最高ポストを経験した人は除外するといったことに対して、それは上からの指示だったと書いています。

 そして今朝のテレビ報道では、ユーチューバーと云われる連中が、お店で大量に注文し食べ残したお皿をネットに載せて広告料を稼ぐのだとされています。こういう事実も反社会的行為だと思います。

 長い人生では必ず天の制裁を受けるのです。ですから私は、空手道教室にくる子供たちにも徹底した道徳精神を教えているのです。

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『不動心』(第120回)

 割り当てられた時間に満足すること

 自分の体重が百キロにほど遠いからといって、あなたは悲しむだろうか。それなのに寿命がこれだけの期間しかないといって腹を立てるのはどうしてか。あなたに許された物質の量に満足するなら、時間の量についても満足するがいい。

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『臥牛先生遺教抄』(第78回)

 松濤公、副島先生に月山筍をお土産に進ぜられし時、折角ながら不肖化物なりと言われしを、夫子聞き給い、是れ西郷先生に異なる所なり。西郷先生ならばそうは言われまじ。予東京にお供して薩州の諸子と向島に遊びし時、伊地知正治、足は不自由、眼は近視なれば、先生腰かけより煙草盆に至るまで、一々ご介抱なされしを見て、その細心に敬服せり。予かつて磯釣りに鯛を獲て友に贈りしが、暑気の折とて腐敗を気遣い、会いし時何ありしやと問えば臭気ありしと答う。直は直なれども、人に対する礼を知らぬと思えり。茶の湯の法、風味問わるれば結構と答え、器物示さるれば名器なりと称するものと聞く。味わい有るにあらずや。
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鳥羽・伏見の戦い--第3回

 三日、薩摩軍の一隊は小枝橋・赤池付近に布陣、朝廷の許可がないとして鳥羽街道を北上してきた幕軍を阻んだ。幕軍は通行の許しを持っていたが一向に埒が明かず、睨み合いの末午後五時頃強硬に進軍しようとした。薩摩藩の思う壺である。薩摩軍はとにかく戦いの口火が切りたかったのだ。後に西郷が、「鳥羽の一発の砲声は、百万の味方を得たよりも嬉しい」と語った言葉がすべてを表している。椎原小彌太の合図で薩摩軍の大砲が火を吹いた。
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敬義は何の別がある、

2017-11-28 10:09:04 | ブログ
第3255号 29.11.28(火)

問ふ、敬義は何の別かある、と。曰く、敬は只是れ己を持する道にして、義は便ち是有り非有るを知る。理に順(したが)ひて行ふ、是を義と為す。若し只一箇の敬を守るのみにして、集義を知らずんば、却って是れ都(すべ)て事無きなり。『近思録』115

 「敬と義とはどこが違うのでしょうか。」「敬は、自分の心を保持する道であて、義は、事物に是非のあることを知るものである。道理に従って行うこと、それが義である。もし敬だけを守って、集義に気づかぬなら、それは全く事がないことになる。115

 【コメント】自分の心を保持しつつ、道理に従って処世を全うすることは大変大事なことであると思います。その為には『南洲翁遺訓』と漢籍を日々に繙き、自らを修養することが要諦だと思います。

 何も分からない私はそれらを日々に繙き生きる糧にしています。そして世の人々と協調しあいながら、共に生きることが大切だと思います。

 テレビをつければ日馬富士の暴行問題が終日報道されています。被害を受けたとされる力士の親方は、問題を警察に提出したのは「信念」からであったという。信念とは自分勝手なことをすることではないのです。

 そこに世の人々の共感と誠実さ、謙虚さがなければならないのです。同時に正当性がなければならない筈です。警察に届けることも大事だとは思いますが、役員であるならば、協会へ先に通報すべきであったとは、多くの人々が論ずるところです。
 可愛い弟子の為であるとは申せ、過去の栄光に傷がつくようなことはなさらない方が賢明なやり方であるように思います。

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『不動心』(第119回)

 楽しい気分にひたりたいときには

 楽しい気分にひたりたいときには、友人の長所のことを考えよ。こいつはすばらしい才能を持っている、あいつには謙虚の美徳が備わっている、そして別のあの男は太っ腹で気前がいいやつだ-----などという具合に。
 さまざまな美徳が、周囲の人間の性格に余すところなく現れているのを見るほど、確実に失意の心をいやす方法はない。だからいつでも友人の美徳を目の前に思い浮かべておくこと。

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『臥牛先生遺教抄』(第77回)

 万事人に問い謀るに自分の都合のみを思いて、先方の迷惑を察せざるはよからぬ事なり。譬えば先方の家内に病人ありて心配せる時、又は何か取り込みありて気苦労し居る所へ、自分の事のみ問いかけ、遠慮をも知らずに長座するようにてはならぬものなり。
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歴史群像シリーズ「西郷隆盛」--幕府軍決戦の臨むも緒戦で潰滅す---鳥羽・伏見の戦い--第2回

 これで慶喜に傾くかに見えた流れは逆行しはじめた。慶喜は混乱を避けすでに大阪城へ退いていたが、この報に接した莫軍は激昂、もはや薩摩への怒りは押さえ切れぬほどに萌え上ってしまったのである。
 慶応四年(明治元年・一八六八)一月一日、薩摩憎しの空気に煽られ、遂に慶喜は「討薩の表」を示し、これを朝廷に奉るために出兵を決意した。二日、総勢約一万五〇〇〇の幕軍は大阪を発し、そのうち会津の一隊が宇治を上って伏見の味方に合流、本隊は淀に入った。
 一方討幕軍は、伏見奉行所北面に対して西に土佐、東に薩摩、その中央に長州の兵を配備し、東福寺には毛利内匠率いる長州軍の主力を控えさせた。鳥羽街道には東寺に伊地知正治率いる薩摩軍の主力が置かれた。総勢は三〇〇〇ともいう。

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古は文を為るを学びしや、と。

2017-11-26 17:57:16 | ブログ
3254号 29.11.27(月)

曰く、古は文を為(つく)るを學びしや否や、と。曰く、人は六経を見れば、便(すなわ)ち以て聖人も亦文を作ると謂ふ。聖人亦胸中に蘊(つ)む所を攄発し、自ら文を成すを知らざるのみ。謂ふ所の徳有る者は必ず言有るものなり、と。『近思録』111

 「昔は作文の稽古をしたのでしょうか。」「人は六経を見ると、聖人も文を綴ったと思うのだが、聖人が胸中に蓄えたものを述べ、それが自然に文章になったことに気づかない。『徳あるものは、必ずりっぱなことを言う。』ということである。」112

 【コメント】現代の考え方とは相いれない部分もあるような気も致します。それでも、ただ真面目に学び続けることが大事ではないかと思います。

 どんなに名を馳せている人でも、最初から万全であったということはないでしょう。だから、せっせと飽くことなく努力することが大事だと思います。

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『不動心』(第118回)

 この人生においてかけがえのないものはただ一つ

 人生を生き抜き死んで名を忘れられてしまった者にしても、それはそれでどうということもない。この人生においてかけがえのないものはただ一つ、それは正しく考え正しくふるまい、虚偽や不正に対しても慈愛の心を失うことなく日々を生き抜いていくことなのである。

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『臥牛先生遺教抄』(第76回)

 何事も難き事は我真先に引き受け、易き事は人をしてなさしむべし。たとえば旨酒嘉肴の席に出ずる時、心なく人より先に手を出す者は徳に入り難し。
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歴史群像シリーズ「西郷隆盛」--幕府軍決戦に臨むも緒戦で潰滅す--鳥羽・伏見の戦い

 幕軍ついに薩軍と対戦を決意

 慶応二年(一八六六)薩長同盟が成立、その核である西郷隆盛・大久保利通は「武力による討幕」を目論む。だが翌年十月徳川慶喜の大政奉還で、討幕派は開戦の機を逸した。
 二か月後の王政復古のクーデターでは会津・桑名両軍を御所から追い、小御所会議で慶喜の「辞官・納地」を決定させたが、あまりにも無理押しな討幕派の策はうまく進展しなかった。それどころか山内容堂ら公議政体派の動きが功を奏し、慶喜の新政権参画という気配まで現れたのである。
 こうした状況下、江戸で薩摩藩邸焼討ち事件が起こった。かねてより西郷の策謀で江戸市中を騒がせていた浪士の巣=薩摩藩邸を、堪り兼ねた幕府方が襲撃したのである。

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荘内での吟詠大会の興奮未だ覚めやらずという気分です。とにかく素晴らしい荘内への旅でした。お世話になりました関係者の皆様、本当に有り難うございました。

 『南洲翁遺訓』素読会を一緒にしてくださった中澤先生から携帯への電話がございましたので、夕刻私の方から電話をしてみました。

 ところが東恵美子先生と秋田へ行っての帰りだと伺いました。西郷隆盛、そして『南洲翁遺訓』の普及に真摯にお勤めして下さるお二人に頭の下がる思いです。是非頑張ってくださいませ。西郷先生もお喜びになられていることと存じます。

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道に趨かんと欲せば、儒者の學を舎くは可ならず。

2017-11-26 10:28:33 | ブログ
第3253号 29.11.26(日)

古の学ぶ者は一にして、今の学ぶ者は三なり。異端は輿(あづか)らず。一を文章の學と曰ひ、二を訓詁の學と曰ひ、三を儒者の學と曰ふ。道に趨かんと欲せば、儒者の學を舎(お)くは可ならず。『近思録』109

 昔の勉学者は一種類だったが、今は三種類ある。ただし異端はこの数に入らない。三種類とは、文章の学に従うもの、訓詁の学に従うもの、儒者の学に従うものをいう。理想の道に進もうとするなら、儒者の学以外にない。

 【コメント】24日夕刻荘内から帰り、今普通の生活状態に戻った心境です。でも荘内での詩吟大会の盛大さの模様が、脳裡に刻みつき興奮の念未ださめずという所です。

 そして24日午前中の致道館での漢籍・『書経』の拝読の心境は大変な心の財産になりました。荘内南洲会の阿曾先生に特にお願いしてご案内した貰いました。大変ご迷惑をおかけしました。素晴らしい荘内での一時でした。有り難う存じました。また高木先生にも送り迎えをして頂き感謝しています。

 22日の晩、中澤今日子先生、東美恵子先生との『南洲翁遺訓』素読会も大変素晴らしい時間でした。

 昨晩は本部道場での空手道教室でした。昨日まですっかり疲れていましたが、子供たちと空手道をしながら、この老人は元気だなと我ながら自分を見直しました。

 子供たちに荘内での大会のことなど説明しました。子供たちも荘内へ行きたいという意思表示をしました。

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『不動心』(第117回)

 太陽が雨の仕事を肩代わりするのか

 太陽が雨の仕事を受け持とうとするだろうか。医術の神アスクレピオスが、農耕の神デメテルの仕事を受け持とうとするだろうか。星についてはどうだろう。それぞれに異なった星が、一つの目標に向かって協力してはいないだろうか。  

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『臥牛先生遺教抄』(第75回)

 予は大筋を以て諸子に教うるも、兎角細かなる事を聞き求むるなり。細かになれば大体に心通い難くして終に大体を失うに至る。大体に志し居れば自然小事にも通うものなり。
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歴史群像シリーズ「西郷隆盛」--薩英戦争--第3回

 死傷者は英国側が上回る

 七月二日は、現在我々が使用している太陽暦では八月十五日にあたる。台風でも接近していたのであろうか。激しい嵐が吹き荒れ両軍を悩ませた。特に海上に浮かぶイギリス艦隊にとってこの嵐ははなはだ不利で、艦は揺れ、アームストロング砲も十分な威力を発揮しなかった。
 それでも、旧式の薩摩藩の大砲を圧倒し、次々と砲台を沈黙させ、集成館・城下を炎上させた。
 だが、この間イギリス艦隊が払った犠牲も大きく、ユーライアラスは集中攻撃を受け、艦長ジョスリン、副長ウィルモットらが戦死。レースホースも祇園洲砲台の目前で座礁し、一時危険な状態になったが、祇園洲砲台の大砲がすべて破壊されていたため無事に離脱できた。そして夜半、艦隊は再び桜島沖に投錨した。
 三日午後三時、イギリス艦隊は抜錨し、再び各砲台と砲撃を交えながら南下していった。途中、沖小島砲台と交戦したときにコースを変更、これが幸いし薩摩藩が電気水雷を仕掛けていた桜島と沖小島の海域を通過せず、あやうく難を免れた。そして、夜半七ツ島に停泊し、応急修理を行って、四日鹿児島湾から退去した。
 二日間にわたる戦闘で、薩摩側のすべての砲台は大破し、イギリス側も薩摩側を上回る六三名もの死傷者をだしたが、この戦闘で互いの力を認識し、薩摩藩が賠償金を支払い、生麦事件の犯人捜査をおこなうという約束をすることで、両者は手を結んだ。
 そして、次第に親密の度を深め、幕末維新期の政局に大きな影響を及ぼすことになった。
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