味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

子曰く、君子は足を人に失はず、

2018-10-31 16:35:39 | ブログ
第3584号 30.11.01(木)

子曰く、君子は足を人に失はず、色を人に失はず、口を人に失はず。是の故に、君子の貌(かたち)は畏るるに足り、色は憚(はばかる)るに足り、言は信ずるに足る。甫刑に曰く、敬忌して擇言の躬に在ること有るなしと。『礼記』810

 孔子が言った。---君子は足の動かし方ひとつでも、人に笑われることがなく、顔色ひとつでも人に疑いを抱かせることがなく、口から出す言葉ひとつでも人を欺くことがない。それゆえ君子は、その態度が厳めしくて人に侮られず、顔つきがまじめで人に乗ぜられず、言葉にうそがなくて人に信用される。書経の甫刑の文に、「慎み戒めて物言うがゆえに、人はわが言葉に真偽を選ぶことなし」とある。

 【コメント】「慎み戒めて物言うがゆえに、人はわが言葉に真偽を選ぶことなし」とありますが、精神的にはゆったりとして対応したいものです。

 只今11月1日、午前9時半です。昨夜の渋谷の町は若者たちのハロウイン参加の熱で大変だったようです。それでも逮捕者が9人でたとのこと、無軌道なことをするのは徹底的に取り締まっていいと思います。

 暴れて遊んで、食い物の袋などはその辺に投げ捨てて行くというのは、真面な大人のすることではありません。私が連日学んでいる漢籍の言葉のひとつでも体に叩きんで欲しいものです。これらは長い人生で必ず自分に跳ね返ってくるのです。

 平和と自由は歓迎すべきことですが、そこには人間としてのマナーが求められる筈です。

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『善の研究』第61回

 我々は普通に運動表象をば、一方において我々の心像であると共に一方において外界の運動を起す原因となると考えているが、純粋経験の立脚地より見れば、運動表象に由りて身体の運動を起すというも、或予期的運動表象に直に運動感覚を伴うというにすぎない。この点においては凡て予期せられた外界の変化が実現せられるのと同一である。実際、原子的意識の状態では自己の身体の運動とは同一であったであろうと思う、ただ経験の進むにつれてこの二者が分化したのである。即ち種々なる約束の下に起る者が外界の変化と見られ、予期的表象にすぐに従う者が自己の運動と考えられるようになったのである。

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『菜根譚』59

 富貴名誉の、道徳より来たるものは、山林中の花の如し。自からこれ舒徐繁衍す。功業より来たるものは、盆檻中の花の如し。便ち遷徒廃興あり。若し権力を以て得るみまは、瓶鉢中の花の如し。その根植えざれば、その萎むこと立ちて待つべし。

 〔訳〕富貴や名誉も、徳望によって得たものは、たとえば自然の野山に咲く花のようで、ひとりでに枝葉が伸び広がり十分に茂ってゆくものである。これに対して、事業の功績によって得たものは、たとえば人口の鉢植えや花壇の花のようで、移しかえたり、捨てたりまた植えたりされるものである。もし権力によって得たものであれば、たとえば花瓶に差した切り花のようで、その根がないのだから、しぼむのはたちどころの間である。

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子云く、小人も皆能く其の親を養ふ、

2018-10-31 09:40:41 | ブログ
第3583号 30.10.31(水)

子云く、小人も皆能く其の親を養ふ、君子敬せずんば、何を以て瓣(わか)たんや。『礼記』799

 孔子が言った、「世の常の人でもみな親は養うことができる。君子ならば養うというにとどまらず敬うことを加えねばならぬ。そうでなければ何によって君子と小人との区別を付けようぞ」。

 【コメント】自由にして奔放さが散見される今日の時代では、親を真面に養うどころか、自分が遊ぶことが優先されているやに思われてなりません。思うに親を大切にしない人、敬うことが出来ない人は自分もそういう運命におかれると思います。

 権利意識のみが先行されている現代は、儲かること、遊ぶことが優先されているようです。それは労働組合が教宣する権利意識の助長による影響大なるものがあると思います。

 そういった組織は、三公社をはじめ郵政など、国民世論によって解体されたのでした。農耕民族を起源とする日本国民はまめに働く習性がもともと備わっているのです。そのまめな体質をなくしたらも自分自身が困るのです。

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『善の研究』第60回

  我々はいつでも個人的要求を中心として考えるから、知識において所動的であるように感ぜられるのであるが、若しこの意識的中心を変じてこれをいわゆる理性的要求に置くならば、我々は知識においても能動的となるのである。スピノーザのいったように知は力である。我々は常に過去の運動表象の喚起に由りて自由に身体を動かし得ると信じている。しかし我々の身体も物体である。この点より見ては他の物体と変わりはない。視覚にて外物の変化を知るのも、筋覚にて自己の身体の運動を感ずるのも同一である、外界といえば両者共に外界である。しかるに何故に他物とは違って、自己の身体だけは自己が自由に支配することができると考え得るのであろうか。

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『菜根譚』57

 人心に一部の真文章あれども、都(すべ)て残編断簡に封錮(ふうこ)し了(おわ)らる。一部の真鼓吹(しんこすい)あれども、都て妖歌艶舞(ようかえんぶ)に湮没(いんぼつ)し了らる。学ぶ者は須らく外物を掃除して、直ちに本来をもとむべく、纔に個の真受用あり。

 〔訳〕人間の心には、一冊のりっぱな書物が備わっているのに、古書の散り残りや切れ切れに、全く閉じ込められてしまっている。また、一組のりっぱな音楽が備わっているのに、あやしげな歌やあでやかな踊りに、全く沈み絶えさせられてしまっている。そこで、道を学ぶ者は、すべて外物の誘惑を払いのけて、ひたむきに真のすがたの書物や音楽を求めるがよい。それでこそ、それらの真の使いみちがわかる。
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 お隣の韓国での裁判で、徴用工氏らが要求した損害賠償について、韓国大法廷で認められることが決定しました。これらは以前に合意済みであるとのことです。

 一旦合意したことを時代を経た今日、独善的に自分の国に都合のいいように解釈し解決するというのは、賢明な手法とは言えません。

 これらは国際司法裁判所に上告して争うべきだと考えます。

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子云く、命に従ひて忿らず、

2018-10-29 16:20:30 | ブログ
第3582号 30.10.30(火)

子云く、命に従ひて忿(いか)らず、微諫して倦まず、勞して怨まず、孝と謂う可し。詩に云ふ、孝子匱(とぼし)しからずと。『礼記』797

 孔子が言った、「父母の命には服従して怒ることなく、父母の過ちは柔らかに諌めて繰り返し、父母のために苦労して恨まないのを、孝という。詩に『孝子は乏しくない』とある」。

 【コメント】これは一人父母だけでなく、怒ったり過ちを指摘する時はおだやかに言いたいものです。人間は時として過ちはあるものです。どんな俊才でも過ちはあるのです。

 人が過ちを犯した時、怒ったりしないで黙ってニヤリと笑って受け流す方が、間違いを犯した人への効き目はあるのです。

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『善の研究』第59回

 即ち一は作為し一は見出すといってよかろう、真理は我々の作為すべき者ではなく、かえってこれに従うて思惟すべき者であるというのである。しかし我々が真理といっている者は果して全く主観を離れて存する者であろうか。純粋経験の立脚地より見れば、主観を離れた客観という者はない。真理とは我々の経験的事実を統一した者である、最も有力にして統轄的なる表象の体系が客観的真理である。真理を知るとかこれに従うとかいうのは、自己の経験を統一する謂(いい)である。小なる統一より大なる統一にすすむのである。而して我々の真正な自己はこの統一作用その者であるとすれば、真理を知るというのは大なる自己に従うのである、大なる自己の実現である(ヘーゲルのいったように、凡ての学問の目的は、精神が天地間の万物において己自身を知るにあるのである)。知識の深遠となるに従い自己の活動が大きくなる、これまで非自己であった者も自己の体系の中に入ってくろようになる。

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『菜根譚』56

 書を読みて聖賢を見ざれば、鉛槧(えんざん)の傭となる。官に居て子民を愛せざれば、衣冠の盗となる。学を講じて躬行を尚ばざれば、口頭の禅となる。業を立てて種徳を思わざれば、眼前の花となる。

 〔訳〕古人の書物を読んでも、字句の解釈だけで聖賢の心に触れなければ、それでは文字の奴隷となるにすぎない。また、官位にあっても、俸給を貪るだけで人民を思い愛さなければ、それでは禄ぬす人となるにすぎない。また、学問を講じても、高遠なりくつを説くだけで実践躬行することを尊重しなければ、それでは口先だけの禅となるにすぎない。また、事業をおこしても、自分の利益だけを計って後々のために徳を植え育てておくことを考えなければ、それでは目先だけの花となるにすぎない。
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 アメリカでユダヤ人を殺害する事件が起きました。長い歴史の過程では、それぞれの民族の利害が起きたでしょうが、時代が進んだ今日、その思想はよくないと思います。
 やられたらやり返すというのが人間の習性ですが、賢明な立場にたってそういう愚はなくしたいものです。

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 人間社会ではいろいろありますが、『南洲翁遺訓』を繙きたいものです。
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子云く、善は則ち君を稱し、

2018-10-29 09:44:36 | ブログ
第3581号 30.10.29(月)

子云く、善は則ち君を稱し、過は則ち己を稱すれば、則ち民忠に作(おこ)る。君陳に曰く、爾、嘉謀嘉猷(かぼうかゆう)有れば、入りて爾の君に内に告げ、女(なんぢ)乃ち之に外に順(したが)ひて曰(い)へ、、此の謀此の猷は、惟れ我が君の徳なりと。於乎(ああ)是れ良(まこと)に顕なるかなと。『礼記』796

 孔子が言った、「善事には『これは君公のお陰である』と言い、過失には『これは臣たる私の過ち』と言うようであれば、その国の人民には誠実の心が強まるであろう。君陳という記録に、『もしなんじに良策があれば、入りてひそかに君公に申し上げ、さて外に出て、公命に従ってその策を行い、この政策は君公のお徳によるもの、ありがたいおぼしめしである、とみなに告げよ。然らばなんじの如き者こそ、まことに忠良にして、名を輝かすに足る賢臣であろうぞ』とある」。
 
 【コメント】この礼記の言葉は、人々が生きて行く上において、身に付けなけれはならない大事な訓戒だと思います。只今29日、午前11時過ぎ、テレビを点けながらこのブログを書いていますが、昨夜の東京・渋谷交差点でのハロウィーンの日に因んで、それぞれ仮想をして、主に若い人々が珍事を楽しんでいる情景が映し出されました。

 ところが深夜でもあり、飲酒していることなどて、他人に迷惑を掛けていることは暴徒とも言えるのですが、人々を無視してはしゃいでいる姿は賢明な大人ではないと思われました。
 
 警察庁は、このような騒ぎは徹底的に取り締まって欲しいものです。逮捕者が10人位というのは少ないと思います。

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『善の研究』第58回

 かく意志において全然客観を主観に従えるといえないように、知識において主観を客観に従えるとはいわれぬ。自己の思想が客観的真理となった時、即ちそが実在の法則であって実在はこれに由りて動くことを知った時、我は我思想を実現し得たということができぬであろうか。思惟も一種の統覚作用であって、知識的要求に基づく内面的意志である。我々が思惟の目的を達し得たのは一種の意志実現ではなかろうか。ただ両者の異なるのは、一は自己の理想に従うて客観的事実を変更し、一は客観的事実に従うて自己の理想を変更するにあるのである。

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『菜根譚』55

 奢る者は冨みて而も足らず、何ぞ倹なる者の貧にして而も余りあるに如かん。能ある者は労して而も怨みを府(あつ)む、何ぞ拙なる者の逸にして而も真を全うするに如かん。

 〔訳〕豪奢な人は、いくら富裕であっても、ぜいたくするので、いつも不足がちである。ところが、倹約を守る人は、いくら貧乏であっても、つつましいので、いつも余裕がある。つつましい方が、どれほどよいかわからない。また、才能のある人は、一所懸命に苦労して、しかも人々の怨みを集めることになる。ところが、知恵のない者は、野望を抱くこともないので、いつでも気楽にしていて、天性の自然を保っている。知恵のない者の方が、どれだけよいかわからない。

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子云く、善は則ち人を稱し、

2018-10-28 09:24:18 | ブログ
第3580号 30.10.28(日)

子云く、善は則ち人を稱し、過は則ち己を稱すれば、則ち民争はず。善は則ち人を稱し、過は則ち己を稱すれば、則ち怨益亡(うらみますますな)し。詩に云ふ、爾(なんぢ)の卜(ぼく)爾の筮(ぜい)、履に咎言(きうげん)無しと。『礼記』795

 孔子が言った、「もし人びとが、善事には『それはあの人がした』と言い、過失には『それはわたしの過ち』と言うようであれば、世に争いはなくなり、互いに恨むこともなくなってゆく。詩に、『亀卜にも易占にも、お告げには不吉の言葉がない』とある」。

 【コメント】賢明な世渡りをするためには、お互い議論をすることはいいことですが、対応する相手にも名誉を与えながら進めて行くことは大事だと思います。

 特に戦後、個人の権利が強くなってから、義務をないがしろにしてまで権利のみを主張する傾向にあるようです。私は長年、労働組合の役員をしてきましたが、自らを律して低姿勢で会社側と対応してきました。
 ところが高校出たての青年たちは、仕事よりも権利を主張する御仁もいたものです。胸に着用する名札についても、強行に反対をした青年たちもいました。
 職場では上司に盾つく者が、家庭では子供に素直になれといっても所詮詮無きことなのですが、それがわからないのです。私は空手道教室で子供たちに、敬語に近い言葉で話すようにしています。

 昨夜は、私の眼の手術のこともあり、お休みということにしていましたが、3人おいでくださいました。折角おいでくださいましたので、型が上手くなるようにと指導を徹底しました。
 森永君は、私が元気で空手道指導が出来るか確認したかったとのことでした。森永君に特別に教えたチントウの型を演じて貰いました。

 子供たちに、長い人生に挑むに向けて、女性の人に抱き付かないこと、物を盗まないこと、人に危害を加えるなどして、警察に逮捕されない生き方をしてくださいとお話しました。

 先般、NHKの42歳の報道責任の任にある人が、エスカレータで女性の人に悪戯をしたとして警察に逮捕されたとのことですが、今日の新聞には掲載されていないようです。

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『善の研究』第57回

 我々が現実と離れた髙き目的を実行しようと思う場合には種々の手段を考え、これに因りて一歩一歩と進まねばならぬ、而してかく手段を考えるのは即ち客観に調和を求めるのである、これに従うのである、若し到底その手段を見出すことができぬならば、目的その者を変更するより外はなかろう。これに反し目的が極めて現実に近かった時には、飲食起臥の習慣的行為の如く、欲求は直に実行となるのである。かかる場合には主観より働くのではなく、かえって客観より働くとも見られるのである。

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『菜根譚』54

 心地乾浄にして、方(はじ)めて書を読み古(いにしえ)を学ぶべし。然らざれば、一の善行を見ては、竊(ぬす)みて以て私を済(な)し、一の善言を聞いては、仮りて以て短を覆う。これまた寇に兵を藉(か)し、盗に粮(ろう)を齎すなり。

 〔訳〕心を洗い清めさっぱりとして、そこで初めて書物を読み古聖賢の道を学ぶべきである。もしそうでないと、一つの善行を見ると、それを口実にして利己的なことを計り、一つの善言を聞くと、それを借りてわが欠点をとりつくろう口実にする。これでは、敵兵に武器を貸し、盗人に食糧を与えるような利敵行為となる。

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 高木先生、先日は嬉しいコメントを賜りまして誠に有難うございました。昨晩は、病み上がりの老体に鞭打って子供たちを指導しました。倒れるまで『南洲翁遺訓』の朗唱と空手道は続けたいと思います。
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